ガラス窓の家
脈打つ心臓が地面とぶつかり合い、その振動が私の全身へと巡っている。網膜や鼓膜、脳などありとあらゆる知覚に半透明の蓋が為されくぐもって伝わる。息をする感覚が強まり、肺から圧迫していく。そして、前も上も不思議にねじ曲がり行くべき道を辿れなくなった。そして私にできることは、妻の顔を思い浮かべることだけになった。それもなんとも再現性の低いもので、鼻は不自然に高く聳え、二つの宝石を収める瞼は最初から存在していないようだった。今、この目で本当のロウを見つめても同じだろう。
腕に、胴に身を震わす強風がへばり付く。一歩も動けない私に追い打ちをかけようと汚染が到来したのだ。その場は瘴気を伴い、屋外の人類に永い苦しみを齎す。それも体内に入り込めばの話で、マスクを外さなければ、そうそう寝たきりにならなくて済むはずだ。しかし体がむず痒い。それが私を害すると頭で分かっているからだ。こんなに敏感に感じられるなら、目の前の光景をもっと鮮明にして欲しい。色がどんな具合かすら感じ取れない。このまま疲れ果てて死ぬのだろうか。そう思うと悔しくて仕方がない。結局、木星なんかに来た時、運の底を叩いてしまったというのか。最後は必ずロウを見送ると、十数年前に決意したはずなのに。
なんでこんなにも杜撰な移住計画が始まったんだ。多くの人命を安全に送り出すには、あまりにも準備不足じゃないか。列車だけが移動の手段、汚染対策も完成していない。正気じゃない、それに多くの人間が賛同したことも。私がそれを認めたことも。そもそも私は、木星移住に賛同したのか。ぼやけていた頭蓋骨の中を、一本の矢が通り抜けていく。それが道筋となり、不和を正そうと活発になっていく。私の中にあった使命感と、極端に無かったリーダーとしての自覚。平生なら矛盾していても構わないもののはずだった。しかし、木星に向かうのはそれだけで危機と変わらない。なぜ、私はここに居る。ロウの存在を考えるなら絶対に無い選択肢だ。愛するロウ、あなたなら教えてくれるだろうか。
どうしてか、立ち上がれるような気がする。体を丸め、足先を地面に付ける。嵐に吹かれ、体が揺れたが私はどうしてか高い場所から地平線を見据えることができた。耳元を通り抜ける嫌に高い音も聞こえていた。シャツが私の腹のそばで往復運動を行うことさえ。水気のせいで痛む目も気にせず。歩き出した。目の前に見えるのは何か組みあがった高い物。とにかくあの場所まで。
「奇妙だ。お前は奇妙だ。」
また、虫のものに近いじりじりとノイズが走るような声がする。追いかけてきたのだ。奇妙だ。それが私を罵る攻撃的な言葉か、単純な疑問なのか分からない。きっと、後ろを向いたらそっちは地獄だ。
「なぜここまで来た。お前は死ぬのを恐れない。」
その声は、私のすぐ後ろに張り付いているように聞こえた。恐れない。そんなわけない。死ぬかもしれないからお前から逃げている。早く動こうと必死になって、体が上下する。足を引きずる振動が一層強く全身に響く。だが、その建物は目の前だ。目視もできる。まるで窓を寄せ集めたようで、蔓で固定され、計算され切ったバランスで嵐を耐え忍んでいるのだろう。
「ただ死ぬのではないんだな。」
その怪音が遠ざかった気がした。あの目立つ大きなガラス窓はきっとエントランスだ。硬い地面にこすりつけられる靴を磨けるかもしれないな。あわよくば、妻がそこに居てくれないか。そうして私は取っ手に指を掛けて、こちら側に引いて中の様子を見た。
歌の無い邦楽が、淡々と流れる。私は随分と長い間そのことに気が付けなかった。その空間には、人一人どころか家財道具に等しい物は何も存在していなかった。ただ、玄関の向かい側で禍々しい悪臭を放つそれに、釘付けになっていた。鉄錆を嫌でも感じ取れてしまう、大きな斧だ。鈍い光を絶えずこちらに与えていて、血などついていないようにも見えるが、嗅覚は異常を確かに感じ取っている。誰かが、誰かか機械かはたまた謎の存在かの犠牲になったのだ。こんな常人には真似できない家を造るのだから、ここの家主が人間である可能性は低いか。
その時、一番気に入っていたサビ終わりのAメロが聞こえてきた。メモPCに通信が届いている。ポケットから取り出す。それは、部下からだった。
「もしもし。」
「チーフどこにいるのですか!」
一瞬の間を置いて、答える。
「もう避難したんだ。妻の命を大事に。」
「いいえ!あなたはスポット13の何も無い位置にいます!あなたの妻もスポット13に!」
こんどの静寂は随分長かった、血走った語調が怖いと思ってしまった。
「とにかく気にすることは無い。電話もこれっきりにしてくれ。」
「待ってください!」
次の言葉待たずに通話を切り、着信拒否のオプションを付け加えた。鋸と金属が擦れ合うようなぎりぎりという罪悪感が沸き起こる。それでも私にはロウしかないんだ。
さっきから、どこかおかしくないか。なぜ、私は孤立する道を迷わず突き進む。そもそも、仲間の協力があればロウの生存率が上がっただろうに。彼らの存在を無視したことは極めて愚かだ。ああ、なんてことだ。彼女が地球の朝焼けを二度と見ないのも、私の所為だ。私の部下は、繋がらない着信をそれでも掛け続けているだろうか。目鼻に皮が張る痛みを覚える。メモPCを操作する指は凍り付き、誤って検索欄に辿り着いてしまった。
『【緊急】木星地表の崩壊とその現状について。現在はス…』
『駅ホームでお待ちください。木星内の全車両、緊急稼働中…』
『木星移住者の顧問弁護士による声明。全ての事の…』
今、こんな情報に価値があるか。アプリの一覧から、位置情報を確認する。そのはずだった。しかし、立ち上げた瞬間、視界が完全に閉ざされる。次に力が抜けるように膝を曲げ、右の肩を銀色の床に打ち付けてしまった。端末も手から落ち、ぼおんという間延びした音を出した。真っ黒だった視界を内側から取り戻す間に、ももや足の裏から消耗しきったのだと云わんばかりの痛みが襲ってきた。
それでも私は、頭のすぐ近くにあった道標を拾い上げた。私を妻の元へ自動的に移動させてくれたら。当然そんな機能はコンピューターにない。それでも、これくらいの距離寝ているだけでも着けないかと問いたくなる。ロウの反応は、ほんの900mしか離れていない。しかし、脚部は波のように襲う痺れと灼熱のお陰で体を支えることなんてできそうにもない。這ってでも行かねばと、上半身を動かそうとしても腹部がいうことを聞かない。少しも筋肉が動こうとしていないようだ。
こんな薄気味悪い何者かの根城で息絶えるなんて絶対に嫌だった。しかも、ロウの傍へあとほんの少しで行きつけるところで。あの人を一人で死なせることを思うととても苦しかった。悔しかった。ロウが今も意識を保っているなら、私を待っているはずだ。辿り着けない、そんな悲劇が現実味を帯びている。
視界が回る。自身がどこを見ているか、また分からない。私は、月のことを考えていた。頬を伝うものがあるからだ。地球と番う、衛星。その距離はほんの少しづつだけ遠ざかっている。永遠に供には居られないのだ。二つの星だって、別れぐらいは交して覚悟を固めるのだろう。すまない。ごめんなさい。ごめんなさい。口にするほど、心臓を縄で締め上げられる。それでも妻の名を。思いを。何処か分からないこの場所に放ち続けた。何かの糸が引き千切れるまで。
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