夜大気
人工衛星からの照射と熱気の供給はどんどん弱まり、木星に夜大気が訪れる。それは、太陽が南中した所で、大したエネルギーを得られないこの惑星だから再現できた闇だ。なので地球人であろうとも、睡眠のリズムを変える必要がないのだ。
ところ狭しと、各駅停車にも人が詰め込まれている。運よくドアのすぐ前に立てなかったら、途中で降りるのは至難の業だっただろう。さて、妻の居る位置として端末が示したのはここスポット13だ。古典的に不吉が付きまとうナンバリングが施されたこの地域は、アンドロイドたちが役目を与えられるのを待つ場所で、アンドロイドの家と呼ばれる。駅舎はどこも新築なので無機質にぴかぴか輝くが、椅子がないのが嫌に思える。人が待つことは、あまり想定されない駅なのだ。すれちがう人型の殆どが、電気信号だけでできた心の持ち主。
こんな場所に妻は突然現れた。大規模なワープだ。今、この世界で何が起こっている。想定なんてできない事態に立て続けて遭遇している。しかも彼女が居るのは、ロボットたちがいる区画を大きく越した、駅から最も遠い位置なのだ。トイレを借りた訳ではない。では何の理由があるというのだ。
とにかく、一度通話を掛け直そう。デスクトップに表示されている妻の写真を、三秒間押し続ける。通話中と表示される画面が開かれると同時に、災害時用に発信されるニュースが目に映った。
ああ、最悪だ。きっとそうなるかもと、考えていたのだ。妻の元へ届けと、邦楽が鳴る。誰もが、どんな舞台でも戦える時代なら、自分自身が戦えと歌う。そうして頭蓋を後ろから叩かれ、何度も成功と失敗を繰り返すことができた。私は過ちを犯した。それを嘲り、笑うのは、酸いを知らないヒューマニティ共だ。
実際、悍ましい嵐がここまで降りてきても、特注のマスクがあれば生存はできる。しかし、汚染は皮膚や生地の目に張り付く。これを除染するのは容易ではない。全身の皮を上からびりびり破いた程度では不十分だ。頭髪についていたら、スキンヘッドになってもらう他ない。しかしスーツなんかで動いていては間に合わない。なので、近くの整備士ロボットにマスクを頼んだのだが、こちらが焦っているのにとろとろ歩く。多分、AIだろう。この時代に仕事をAIに任せているとは。いや、ヒューマニティに使われているのか。ロボットがロボットに仕事をさせるなんて、行きつくところまで行きついた様だ。よく人生を一日例えるが、人類は月を見上げて辞世の句を詠むべきだな。奴らはきっと自分に子宮を埋め込む。それをどうして人では無いと言い切れるか。そうなれば、人は永遠に人とは呼べないのだ。
私はしばらく進んで、使われている様子が無い、分厚い金属で守られた建物の外壁に座り込んでいた。普段からの運動不足に本当に祟られてしまっている。私はどうして分厚い汚染マスクをつけて走ってしまったのだろう。汗が喉元を完全に覆い尽くし、溜まっていくのが分かる。ああ、妻に早く会いたいのだろう。でも、それ以上の意味は無い。そして、こうやって動けなくなった。さっきのAIにも叱られるほどの無能っぷりだ。
穢れた龍が近づいてくるのも分かっている。遠方に、地平にできた壁の如く隙間の無い流れが目視できる。今の内に動く方が、後の体力の温存に繋がる。息が整ったらすぐに立とう。そう考えてはいるが、時間が経つほど、意識が遠くなるような気もした。まるで、黒い実体が覆いかぶさっているようなイメージを脳が創っている。汚染が来る前に、ふらつきそうな頭がきっと良くなると願って、私は腰を上げた。
「なぜだ。」
それは、風が起こした偶発的な音かと思われた。軽い紙状のものが擦れるようであった。しかし、それは明確な問いかけであるとも感じられた。酷く細かく高さが揺れる声だ。故障した電話係が、こういう音を出す場面に立ち会ったことがある。
「なぜだ。」
私はその事実に気づき、度肝を抜かれた。この声は金属の壁の反対側から聞こえてきている。そこに、全くの曇りを感じさせずにだ。この建物は、映画のワンシーンに登場する張りぼてなのか。驚いた私は、十本の指を塗装に這わせ、強く体重を乗せて押すが、手が突き抜けることも壁面が倒れることも無かった。
「なぜだ。」
まただ。私は恐怖し瞳孔が閉じられず、その場にある色が不気味になまめかしく動く生物のように思えた。両手を添えているその箇所から振動が伝わってくる。決して古くないこの壁の内側にいるのは何だ。未知の囁き声を貫通させ、私に対峙しているのは一体何だ。
「なぜだ。」
なぜだ。どんな意味のある言葉なのか分からない。その振動をもう向けられたくない!その場から逃れる為、私は倒れそうなほど頭部を前に出して走った。膝は車輪と変わらぬ程に回り、魂に眠る死力を掘り起こすくらいの雄叫びで空を揺らした。想定することができない何かとの邂逅は、野生動物並みの瞬発力を自身に宿し、代わりに脳の皺を削っただろう。凹凸の無い地表を、その生物はよく駆けた。全く人工物にぶつかることを眼中に据えられないままに。
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