避難要請
おにぎり専門店は、隠れた人気があると認めている。安価なものから、バリエーションが多すぎるのが客層の不安定を招いているのだろう。いくらだけで二つの商品があり、私が頬張っているのは小さくて安い。そしてもう一つは、誰が買うのだというほどの高級品だ。更にはあの店主、高い方が売れるとなんと悦ぶことか。
妻との通信の後は、三時間ほどひたすらホームで席を守り続けるばかりだ。体が重いのと尻が痛いのは、米を噛んでいれば何とかなった。私はロウの姿をじっと思い浮かべる。無事を願うしかない状況に、心臓は内側から猪に踏みつけられるようにぼこぼこと音を立てる。どうしてか、このまま電車が来て体が動くのか怪しい。過度な乾きも、過度な水気もない大気で、もう考え事はやめて音楽を聴こうとポケットに手を伸ばした時だった。着信を教える、緩慢なテンポの邦楽とバイブレーションが鳴った。また、何かを売り付けようとする機械音かもしれない。電話をかけてきた相手を確認する。確認しなければよかった。通話を開始し、一瞬の静寂を眺める。
「失礼します、チーフ。」
「どうした。梃子でも会社には戻らないと、何度も示してきたが。」
「今はどっちでもいいから。ジーパンばかり映すその端末を上げてください。緊急事態です。観測機のデータを送ります。」
何度も終業後に机の前に座れと催促されたのを、払いのけてきた私だ。今までにない緊急事態だろうが、遠隔で指揮を執れば優秀なチームが助けてくれるさ。その映像は迅速に送られてきた。スポット1の更に外れが見えた。私たちは全ての観測機の巡回場所を暗記してしまっている。そして今の所おかしなことは無い。
いや、さっきから空中を緑色のとても小さい光が舞っていて、いたるところで確認できる。それは、砂塵の荒波ともいえる汚染大気の流れを嘲笑うように、静かにただ真下に落ちていく。一体どこからこんな物質が現れ、エメラルドの如く輝くのだろう。太陽の光がそうさせるのか。
「これだけでは終わりません。今から二分前にこれが起こりました。」
それを私は、非現実的だと思った。それは先ず、裂け目として現れた。むき出しの人工地表に食い込む、ヒビだった。やがて、それは詰まった何かが噴き出すような唐突な轟音を立てた。同時に地面だったほんの一部が切り離され、緩やかに下に落ちていった。その場に残った崖も、数秒の内に食いちぎられる。嘘だ。おかしい。
「ディープフェイクだ。人工衛星をジャックされているのかもしれない。」
「本部赤外線カメラでの、計測がたった今終わったところです。これは現実です。」
あっていいことのはずがない。木星において、地表状態にある全ての座標は二十四時間の内に六回観測される。それが、唐突に崩れるなんて。
「緊急避難の要請が可能ですが、大気汚染によって一部住民は身動きがとれません。」
「それでも今すぐ要請しろ。そして、木星中のありとあらゆる対汚染車両の所有者に、人々を助けてくれと説得してくれ。」
「はい。ただちに発令と中継による呼びかけを行います。その他には。」
「今の所はない。掛け直す時はこの番号にいれる。」
「わかりました。」
普段は挨拶を重んじる彼女が、その一言だけ残して通話を切った。木星上の人類が危機に瀕している。機械を使って割れよりも早く地面を固めることはできない。一平方センチメートルにつき、一時間強はかかるからだ。もしもの為のスーツは、皆必ず持ってはいる。しかし、あれはあまりにも重い。コンクリートの床を、低確率ではあるが、移動するだけで割る可能性がある。実用段階とは言い難い代物だ。移動速度にも優れていない。
救助が間に合う確率は正直かなり高い。いや、あの割れがどれくらい早く侵攻するかによるか。木星に移住する前から、救急、警察、鉄道、大気維持を担う組織は仲間のようにそれぞれに親身であれ。そういう指示があり、多くのパーティーが開かれた。そして木星環境を守る指揮者も実動員も優秀であると確かめ合った。
とりあえず、私は妻を助け出さねばならない。メモPCに向き直り、ベンチを飛び出す。タッチパネルでアプリを操作した瞬間に、警告音が鳴り響く。自分の端末だけではない。各所から不協和音が一斉に、渦を巻き一つの巨大な存在へと変わっていく。この事態は世界が知り得るものになったのだ。渦中にあるのは、木星にて生活する数万人だ。移住には、テストを通過する必要があり、その中には異常事態に冷静でいられるかも含まれている。それでも本当の有事には慌てる人間もいるに違いない。場合によっては、見捨てることもある。
駅員だけが、このプラットホームで焦った様子で人をかき分けていて、乗客たちは話し声以上に喧しくしなかった。やがて五分足らずで、臨時のスポット20行きがホームにやってくる。私の立つ場所はその向こう側で、スポット1方面に救助に向かう車両が二台、三台と風を浴びせてきた。そんな中私は画面を見つめながら、大仰な指使いで端末を動かしていた。その右手の人差し指だけが、異常に熱く感じられた。連絡がつかない。ああ、ロウ。こんな時にどうしたんだ。直接本人からの反応を待つのは諦め、位置情報アプリを開く。今では、どんな惑星にいても電波とコンピューターがあれば位置が分かる。我が家に妻の姿があるか。それとも移動中で呼び出しに気づいていないのか。とにかく想定通りの行動をしていれば良いと祈った。
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