白黒の電話室

 いつになればおかえりが言える?妻が一人で待っているんだ。今私が立つスポット11,日本人街と呼ばれている区画の中心にあって存在感を感じさせない駅だ。優しい白と明るいベージュが建物を包む。他のビル前に点々とそびえる観葉樹の方が目立つほどだ。一階のホームを抜けて、騒がしい三階まで階段で登ると、行きかう人達に当てられてふらつく。ガラス窓の外、地上まで雑踏で溢れるのを見て、一つ諦めをつけた。

 足早に長蛇の列の後ろに付く。先頭にあるカウンターで様々な場所が借りられる。プレイルームやパソコンルーム、何もない部屋とかも。そしてその場所にインターネット線や椅子があるか、内装または外装がどんなものかも。今、塵に閉じ込められている彼女の心情はどんなものだろう。メッセージを打たなくてはならない。メモPCを親指でなぞり始める。


ーー気分は大丈夫?

ーー今の所落ち着いてる。不安には変わりないけど

ーー通話のために部屋を貰おうかと思うんだ。かなり人が多いけど、三十分くらいだと思うよ

ーーあなたは部屋を買うわけじゃないでしょ?借りるの

  分かった。待っているわ

ーー冷静な様子で、良かった。三十分の間もメッセージを送っていられるから

ーー私はまだ汚染対策をしてる。いつでも通話は取れるからね

ーー分かった。汚染情報を詳しく眺めているよ

ーーありがとう。本当に心配性ね

ーー私はそれでこそだよ。またすぐに、ロウ。

ーーすぐにね。


 汚れた大気は相変わらず北の方を覆いつくし、彼女に光を見せない。木星にこの開発最初期に移住できることの珍しいことは、確かにそうだが。これから先民間人が、他の地球型惑星を差し置いてここに来ることがあるのだろうか。惑星表面の固体化を行ってから三か月も後になって確認された、とても大きな吹き出物だ。一応コンピューターのシュミレーションには、これの発生を指し示すログがあったらしい。その時は0.5%程度の確率が小さく波打っていたとか。

 木偶の坊なんて放っておいて帰ろうじゃないか。そう、言いたいが。折角、木星表面での人の活動を可能にしたのだ。人類は探求しなければならない。この、ほとんどの研究者たちの精神性は、私にも大いに実感できた。彼らの活動を理解し支えること、それも私のやるべきことのように思えたのだ。大気維持作業員の職を親から紹介されて、おいていけなかった妻と供に青い海に別れを告げた。あの瞬間よりも、ずっと前から。


「いらっしゃいませ。」

流暢な日本語だ。AIの目を通せば、その人が何語を話すかは喉の形で分かるらしい。目の前の女性は、生身を持つと公言されているが、こうなれば嘘も誠も分からないものだ。

「電話線とインターネット線の付いた部屋が借りたい。内装は白で。」

「かしこまりました。椅子など家具類はご必要ですか。」

「大丈夫です。」

「はい。それでは白い内装で、電話線とインターネットが繋がっているお部屋にご案内させていただきます。」

 受付は素早く情報を入力すると、自身のすぐ左のある木目柄の小さなゲートを解放する。腰の高さほどで、前後に開くそれは日本の料理店で厨房に入っていく時の物に酷似している。

「料金はお部屋の中での支払いになります。お帰りになられる際に、出口付近のレジをご利用ください。ごゆっくりどうぞ。」

 彼女らの態度が崩れる所を私は見たことがない。あれだけの激務だ、心ありですら精神的疲弊に音を上げるに違いない。木の板の先、金色で『WELCOME』と印字された焦げ茶色の自動ドアの前に立つ頃には、彼らを人とは思えない自分がまた出来上がっていた。


 黒い格子のタイル目を除いて、紙パックに印刷された牛乳のように白い部屋が即座に現れる。先程の受付が居たエントランスには、私がたった今くぐったドアあり、他にはもう一つしかない。その二つが繋ぐ部屋は当然二つ、ではないのだ。あのドアそしてこのサービスで利用できる部屋部屋には仕掛けがある。それが可能にするのは、十八の部屋を一つの入り口と出口で一本道にすることだ。

 この技術は、何も仮想空間に人を連れ去るような大したものではない。身近な具体例を出すなら、ホテルでも同じことをやっている。あなたには404という部屋が割り当てられ、カードキーを渡される。地球ではよく、エレベーターに乗るなど自らの足で動いて目的地に行き、薄っぺらくて存在を忘れそうなそれをドアノブに翳す。(興味の湧かないホテルでの作業など、よく覚えていたものだ。)まあ、それも今では体験できない。ここにくるように、ただボーイを横切ってドアを開けるだけでいい。そこは正真正銘の404だ。そして自分の部屋で木の板のふりをした玄関を開ければ、やはりそこは地上階だ。

 四方のどこから見ても無機質な部屋だ。そして、奥の壁にくぼみがある。私は端末を携えそこに近づいていた。変わらず白いその空間は私の身長に丁度良い台座で、丁寧にまとめられた端子が壁の中へと伸びている。私はPCを下ろす。青いパステルカラーの緩衝材が少し擦り切れているのが見えた。小さく、複雑な内面をもった棒を、化石と接続する。(化石という評価は私ではなく、彼女が下したのだ。それからは好んでそう呼んだりする。)全ての準備が整ったのを確認して060039をコールする。待機音に設定していた邦楽は、最初の一音だけを木霊させた。


「もしもし。見えるかい。」

 機器の画角を狂いなく調整し、迷いなく待っているのが彼女だ。私と彼女との通話では、家はこの一枚絵しかない。

「大丈夫。見えるよ。」

 何だか小馬鹿にするような、言い終わりにかけて揺らぐような声だった。彼女の部屋着はどれも素朴な単色で、灰色か黒のズボンを合わせていた。グレーの水晶を持っていて、目元は印象を相手に持たせない形をしている。鼻がやや高く、そこが顔で一番目立つ。艶めく唇は、目よりも感情を表現しようと波打ってくれる。この人こそ、最愛の妻だった。

「あなたが一日帰ってこられなくなるのは、本当に珍しいことね。今、なんだか安心できないわ。今日は休日なのに。」

 ロウをよく観察すれば、しきりに腕を組み直している。

「計画性の無い自分を、今改めて恨むよ。そっちの様子はどうだ。」

「今まで経験した中でも、一層強いわ。外から聞こえる音が、とても、重いの。塊が窓にぶつかっているような感じがする。予報にそんなこと書いてなかったはずなのに。」

 ガラスがごつごつと鳴りだす。上擦った言葉、早くなる語調。ロウに外のことを思案する余裕は無い。

「分かった。もう大丈夫だ。食料も覚えている限り残っているはずだよな。」

「ええ、一昨日買ったばかりだから。早く、一緒に食べましょう。」

「もちろん。いつものように向かい合って。そういえば、退勤してからまだコーヒーを飲んだだけで、食べ物を口にしてないな。どうしよう。」

「それなら、軽く食べるといいわ。余裕をもって。」

「ありがとう、そうしよう。そうだ、聞いてくれ。実は列車でコーヒーを買った時なんだけど。」

「あなたの飲んだコーヒーって、ふざけた容器に入ったやつなのね。」

 溢れた笑みを、やっと見ることができた。私は話し続ける。

「そうそう。それでコーヒーを注文するんだけど、ーーーーーー」

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