覚醒
おきしま 幻魚
コーヒー
かの勤勉で、一途で、だらしないグリー・フィッシャーは観測に値する。彼は、悲運にあって必ず人間の極端な一面を見せてくれるはずだ。
そう思うなら、お前が記録するといい。私たちは集団性の方を見たい。
「本日第二時間間 0 間以降、世界標準間 22 間から、大気汚染の影響により、列車はスポット 11~スポット 25 までの区間のみ走行いたします。スポット 1~スポット 10 の区間での運航の再開は、明第二時間間の 0 間以降の見通しになります。ご理解とご協力をお願いします。」
半ば駆け込むように無人電車に滑り込んだ私は、受け入れ難い現実に悲鳴をあげたかった。許されるなら、座席の埋まった車内で尻餅をついて、責任を押し付けるようにバッグを地面に擦り付けたい!スポット 6 にある私の家にもう近づけない。日本街で時間を潰していたら、さらに二度も日が昇る。仕方のないことだが、業務が見立て通り終わることはないのだ。
八方が残らず塞がったと見た私は、メモ PC を掴んだままの手で車窓を遮る蔓を退かす。揺れない車内から白む東の方に佇む、一つの衛星を見上げる。雲の薄い場所には影を落とすらしいが、まだ出会ったことはない。ああ、あちらに双子もいる。仲睦まじく舞う、早送りの映像を知っている。100 を超えるそれらの中には、番号が名前の代わりというのもあるらしい。今日は少ない、こちらの空からは 8 個も見つからない。ただ、藍色でない空と、彼ら色情の無い宝石は私にとっては強い魅力なのだ。
もういい、こんなに不運な時には有料の飲み物だ。根の無い蔓から手を放すと、自然と車内が陽光から守られる。鞄に手を突っ込みながら、呟く。
「シュリー。飲み物の注文をしたい。」
それは、完璧な間を置いて声を発する。人間の脳にとって最も健康的な間だ。対照的に、嫌味たらしいおじさんの視線は快適さに水を差す要因の一つだ。
「かしこまりました。現在飲み物の在庫が少なくなっておりまして、シュリーはコーヒーを勧めたいのですが、いかかでしょう。」
「最初からそのつもりだった。お願いするよ。」
「ありがとうございます!現在お取り扱いできる通貨は、アメリカドル、スターリングポンド、ユーロ、円、ラン」
「ユーロを使うよ。」
「かしこまりました。砂糖やガムシロップといった」
「なしで。待った、やはりガムシロップをつけよう。」
疲れている。受動的になりすぎて癖に引かれた。シュリーが言い直しにも対応しているといいが。機械の丁寧さが試されるな。
なぜか、少しの間間が愛想無く放り出されたようにも感じられた。シュリ―の返事はこうだ。
「商品取り出し区画が開扉します。ご注意ください。ご利用誠にありがとうございました。」
こんな言い方があるだろうか。自動音声案内が人に呆れたというのか。思考を遮るように、左隣でプラスチックの小口が開く。席を二人分埋めるような大きさの箱が設置されていて、開くべき口は六つある。左手前に佇むのは、独特のひょうたん型ペットボトルであるこぼれないコーヒーと、銀色に光るふっくらとしたスポイト型のガムシロップだ。自らが望んでいた商品が目の前にあるはずなのに、眼光は霧に遮られるように鈍り、機械の発する音を胸の内に意識していた。誰もを癒す声が彼女に与えられているはずで、それは科学的根拠が支持している。しかし、私は脅かされている。先ほど、機械は私を疎んだに違いない。機械が一度人間に害意を向けるなら、徹底的に締め上げるのが彼女らなのだ。
去年、火星の一部地域をヒューマニティ、‘’心あり”のアンドロイドたち、が占拠し、浄化を行っているのだ。造られた心は人類の仲間入りを果たし、人類と違わず繰り返しを紡いでいくことが明白になったのだ。総首相が批判したのは、”心あり”の善し悪しではなく、反乱軍の人格だった。それがなにより彼女らが人間であることを保証するのだ。
シュリーの声を操る機械、それは車両に取り付けられて足がない。もし、彼女が人の相手など嫌になって自由を求めるなら、きっと怪音を発生させ乗客を人質にとり、未曽有のテロ事件を引き起こす。私がコーヒーを放置しているこの箱も人体を苦しめる凶器に変わる。きっとこの星の機械だって。
「フィッシャー。著しい呼吸の乱れです。深く呼吸して下さい。お手伝いします。」
オルゴールの低い旋律が、途切れぬまま高く移ろう。深呼吸の合図を出しているお節介は、メモ PC だ。私の生体を絶えず観測するのも、彼女の機能の一つなのだ。いかなる場合だろうと緊急時には、一瞬身体が跳ね上がるほどの振動を伝えてくる。メモ PC が私を殺す夢なら、幾度と言わず現れた。意識を奪われた実感と大量の汗に包まれながら覚醒した後には、家電の電源をちゃんと落とせているか不安になる。
金属を鳴らす録音に息を合わせ、私に適した循環で血が流れ始める。そこでやっと、直ぐ傍から視線が注がれているとも分かった。腕を掠める低い位置に、ほんの少しだけ閉ざされた瞼があるのだ。機械に頼り切って、子供を見ようとしなくなった親が多い。不審な物から、無知なわが子をどうして遠ざけない。「うああ。」と溜め息を密室に放ち、ようやく飲み物を手にする。目の前の席に腰を下ろし、やはりこの提供方法は信じられないなあと、ブラックを角砂糖一つ分口に含んだ。味を確かめる前に、しんと場を雪で染めるような女性の声がした。
「おじさん。」
「どこが悪いの。」
一片ほどの空洞が、胸の下にぼつと沈んでいった。立派になりなさい、少女よ。
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