緑の部屋の鍵

坂水

第1話

 ……緑の部屋だ。

 盛夏の午後二時という時間は静かだ。ここが休館日の古びた公民館ということを差し引いても。その呟きが浮き上がるほどの静けさ。

 ねえ、と同意を促すように笑いかけ──ぽかんとしたこちらに気付く。

 そして、すみません、と恥じ入ったふうに彼は俯いた。無駄話なんかしてという風情で。

 公民館の一画にある図書室。南壁の半面以上が窓になっているが、昼日中だというのに薄暗い。五月の連休明けに植えたゴーヤのグリーンカーテンが育ちに育ち、室内を暗緑色に沈めているのだ。

 太陽が中天から西へと傾きつつあるこの時、真夏の容赦ない陽射しから奇跡のように隔絶された小部屋。エアコンは止めてあるのに、廊下よりも数度低く感じられる。

 図書室に二人きり。部屋の真ん中で突っ立っている私と、戸口に佇むショウジさんだけ。

 施錠を兼ねた設備点検に行ったきり、なかなか戻ってこない職員──私だ──を捜しに来たのだろう。 

 ぼおとしている私を責めるでもなく、横を通り過ぎて窓辺に歩み寄る。

 かくん、かく──かくん、かく──かくん、かく。

 その足取りは、ゆっくり、すこし、ひきずっている。

 ショウジさんが歩く姿を見ていると水飲み鳥を連想する。大きく傾いてしまう不安、あるいは期待。そこまで思い、我に返った。

 今度はこちらがすみませんと言って駆け寄ろうとすると、ショウジさんはとどめるよう片腕を上げ、そのまま高い位置にある小窓を閉めて、クレセント錠を下ろす。

「僕のほうが、背は高いので」

 背は。

 対比の『は』だ。何と何との対比なのか、明示されないけれど。柔和な笑みが物語る。

「鍵はイトウさんが持っていますよね。扉の施錠、してもらっていいですか?」

 咄嗟、何の言葉も返せなかった私を逆に気遣い──逆にとは傲慢な考えなのだろうが──、彼は〝お願い〟をしてくれた。

 そろって図書室を出て、私はシリンダー錠に鍵を差し込む。一回半回して、五時の方向に戻して引き抜こうとする。老朽化した施設にはありがちだが、この錠にはクセがあった。と、六時まで行き過ぎてしまい、開錠して引き抜く。非可逆なのだ、この鍵は。

 もう一度差し込みながら、先に娯楽室の点検をしてもらえないかと頼めば、わかりましたと律儀に返された。

 公民館の副館長と嘱託職員。

 立場は上なのに、一緒に働いた二年と少し、ショウジさんはずっと礼儀正しく、優しい。今まで出会った異性の誰より。

 かくん、かく──かくん、かく──かくん、かく。

 リノリウムの廊下を行く後ろ背を盗み見る。

 縦縞シャツにスラックス。薄い夏服に包まれた身体をなぞり上げる。

 私は彼に特別な感情を抱いていた。

 恋愛ではない。恋心などという初心うぶな想いは通り越している。

 私は、彼に欲情していた。


 晴れた日の朝は、屋外の止水栓の蓋を開けることから始まる。地面に嵌められた鋳物の蓋を開けると、舵のような形のバルブがある。その周りでダンゴムシが蠢いており、避けながら、バルブを回した。

 ホースヘッドを持ち、プランターに植えられたゴーヤの根元に水を降らせる。

 手の平を広げたような葉にまぎれて、三十センチほどの実が生っている。先週末に収穫したばかりなのに成長が早い。中指ぐらいの赤ちゃんサイズもある。先が尖って、少し曲がっており、友人の子のおちんちんそっくり。

 よくよく見れば、緑に埋もれて大小様々な実がぶら下がっていた。ホースヘッドをリールに戻してしゃがみ込む。

 緑の匂いがむっと迫るほど濃い。葉を掻き分けて、実を掴んだ。あともう少し大きくなる余地が残る、尻には萎れた雌花がくっついた、白っぽさの残るそれ。

 手に取り、見つめる。実は突起に覆われ、ひとつひとつのツノがつやつやと光っている。精工過ぎて逆にプラスチックめいて感じられた。反して、鼻先に寄せれば野性味あふれて青臭い。何度かわさわさ握ってゆるめて思う。

 ……きっと、多分、これぐらい。

 ポケットに入れていた鋏を取り出し、蔓から実をパツンっと切り離す、と。

「お早うございます、昨日はお疲れ様でした」

 慌てはしなかった。不届きな妄想に、今更、罪悪感はない。

 ショウジさんは相変わらずの開襟シャツにスラックス、丸眼鏡を掛け、さらには白い夏帽子を被っていた。

 立ち上がり、お疲れ様でしたと告げる。今日は火曜日で、昨日の月曜は休館日であり、本来ならば休みのはずだった。だが、まとめておかねばならない資料があり、数名の職員が出勤していたのだ。

 先々週の土日にここ東川公民館では夏まつりが開催され、今週末にはその報告会がある。夏まつり報告会は地域の重鎮──市長や市会議員とも懇意の──が集まる、一大イベントだ。事によると夏まつり以上の。しかし、通常業務と並行しての資料作りは難しく、館長許可の下、半休日出勤となったのだった。

「いつもありがとうございます。任せっぱなしですみません」

 なんのことかわからず、ゴーヤを握り締めた。そのゴツゴツとした感触に思い当たる。 

 今年のグリーンカーテンは私とショウジさんで植えた。図書室前の南壁に庇下までの長さの支柱を建て、ネットを張り、大ぶりのプランター五台に苗を四本ずつ。

 昨年までは館長と私でやっていたのだが、今年からはショウジさんに役目が回された。私としては役得だったが、いい迷惑だったろう。なにせ彼は立ったり座ったり、脚立に登ったりする動作が難しい。

 けれど、私が休みの日は水をやってくれたり、雑草を抜いたりしてくれていることを知っている。蔓を横に広げるために、こまめに摘芯してくれていたのも。

 そんな、と首を振れば、帽子の翳の下、憂いを含む笑みが浮かんだ気がした。胸が疼く。

 かくん、かく──かくん、かく──かくん、かく。

 そしてショウジさんは、公民館へと律動的に吸い込まれてゆく。私はゴーヤをさすりながらその後ろ背を堪能した。

 田舎の一地区の公民館、混み合うわけでないが、老人会、母親と未就学児、サークルや講座の参加者が途切れずにやってくる。

「キョウコちゃん、夏まつりはご苦労さん」

 山豊のおじいさんはご隠居の筆頭格であり、東川コミュニティ推進協議会の会長でもあった。コミュニティは市内の校区で定められた住民による協働組織で、主に地区の行事や機関誌の発行を担っている。

 午後一時過ぎ、館長との打ち合わせに来館した山豊さんを事務所の隅にあるソファセットに案内する。数分置きに副会長と書記もやってきて、その度に盆に載せて冷茶を運んだ。

 今日の議題は、機関誌の次々月テーマと、秋に開催される〝ふれあい文化祭〟の展示についてだ。毎度のことではあるが、館長とのアポイントメントはない。

「今年の夏まつりは盛況だったなあ、キョウコちゃんも大変だったろう」

 小一時間経過したところ、話題が夏まつりへと移り、事務机でノートパソコンを操作していた私に話が振られた。

「会場とゴミ置き場、百ぺんぐらい往復してたんじゃないかい」

 当日、私はゴミの分別係として奮闘していた。空缶、ペットボトル、中身の残ったかき氷、どて煮の味噌がべったり付いたトレイ、レジ袋から飛び出したフランクフルトの串。

「テント畳む時も仕切ってくれて助かったよ」

 恐縮ですと小さく頭を下げる。あの日は一刻も早く身体中に染みついた汗とタレと匂いを洗い流したく人一倍働いてしまったのだ。

 私は三十路を超えているいい大人なのだが、彼らからしたら小娘で、ちゃん付で呼ばれる。そこそこ慇懃でよく動く私の受けは悪くなく、好意の証なのだろう。だけれど──いや、だからこそ身構える。続く話の行方が読めていたから。案の定、それに比べてと声があがる。

「東海林さん、あんたは頑張らんと」

 向かいの机でやはり事務仕事をしていた東海林──すなわちショウジさんに話が向けられる。ショウジさんは微笑んで言う。

「僕は気が利かなくて、伊藤さんには勉強させてもらっています」

「東海林さんには気迫というか力が足りんね」

「そんなんだから、言いなりになっちまう」

「男だったら、引っ張ってやらんと」

 精神的な意味なのか、肉体的な意味なのか。彼らは老獪だ、問い詰めたならそういう意味ではなかったと首を横に振る。元々、地銀の支店長だったり、市の要職についていたり、地主だったり、未だ地域の〝偉い人〟なのだ。

 東海林さんは優しいからと館長がやんわり場を取り成す。でも、彼らには通じない。優しいだけじゃまつりは回せんよ、館長が甘やかすで、男なら従わせるぐらいでないと。

 昨今のジェンダー論やフェミニズムは、地域においては宇宙の話も同然だ。内包されていることを、地球にいる限りはわからない。弱い男は責められ、気に入りの女は責めの道具にされる。

 地縁は重要で、彼らだからこそ成し得たことは多い。でもショウジさんはスケジュールを組んだり、音響を設置したり、衛生管理をしたり、多方面において働いていた。なのに。

 ──おまえ本当馬鹿だなあ、

 声が鳴った。私だけに聴こえる声。

 強いストレス下にさらされると時折起こる。苦言は私に向けられているわけではないのに、錯覚する。一時治まっていたのにこの二年ほどしばしば襲われていた。

 ──俺に従ってりゃいいんだよ。これで見えねぇよ。ほら、開けよ──

「優しさは大事です」

 気づけば、声をあげていた。

「昔、強引というか、我が儘というか、怒りっぽい人と一緒にいて。怒鳴ったり、不機嫌になったり、手が出たり……怖かったです」

 急に始まった自分語りに事務所にいた全員の視線が集まる。顔が熱くなるのを感じたが、臆してはならない。中途半端は無駄になる。

「それから人付き合いが苦手になって、引きこもっていた時期があったんですが、運良く誘ってもらえて公民館で働けるようになりました。皆さんお優しく、コミュニティの方は紳士で、地域の人には気安く声を掛けてもらえて、こんなにのびのび仕事ができるなんて」

 だから、と続ける。多少強引だろうと。

「……私は皆さんの優しさに救われているんです」

 一気に言い放って、しばらく。

「そりゃあ、キョウコちゃん頑張ってるから」

 会長が言う。一生懸命な子は応援したくなるわな、東川の人間は人を見る目があるんだよ、と続く言葉にソファの面々は互いに頷く。

 見る目と言えば──会長が話し出す──西山地区の保育園の民営化が決まったろう、西山の会長が押しとった業者は選考から漏れたが、その系列園、食中毒起こして行政処分喰らったらしいぞ。ああ、娘婿の勤める会社だったんだろ。だから東京の会社なんぞを推しとったのか。なんだ知らんかったのかい──

 噂話、もとい、打ち合わせが再開する。けれど、どこか、硬さ、ぎこちなさが残る。

 二時には打ち合わせはお開きとなり、コミュニティの面々は帰った(あるいは河岸を変えたか)。それから必要最低限しか口を開かず仕事を続けた。ショウジさんは市役所で防犯講習会があるとのことで三時過ぎに出掛けた。

 夕方近くになると、来館者が増えてくる。本の返却・貸出や夜講座の準備がメインだ。

 事務所のカウンターで返却本を受け取り、溜まってきていたので図書室へ向かう。人気のない部屋は今日も深い緑に沈んでいた。

 ……緑の部屋には、ショウジさんとは違う、もう一つの思い出がある。

 湿った、淫猥な、そのくせ薄明るい記憶。

 ここで思い出すのは、ショウジさんを汚す気がした。なのに反芻する。なぜ、私は──

 と、わぁっという歓声が別の部屋から響く。

 できたできたと興奮気味な子どもの声に導かれ、公民館の一番奥にあるホールまで進んだ。そおっと扉をわずかに開ける。

 そこには学年が違う小学生が数名いた。かくん、かく──背の高い、細身の姿も。

 いつの間に戻っていたのか。事務所に寄る前に、子ども達に拉致されたのだろう。ショウジさんは子ども──特にはみ出しっ子らに、人気があった。

 彼らが興じているのは、季節外れにも、独楽こま回しだった。高学年の子が、独楽に紐を巻き付け、腕を振りかぶり、腰を落として、引く。正方形の専用板に投げ入れた独楽は紐から離れ、見事、一本足で回り続けた。おっしゃあ、その子は雄叫びをあげる。

 ショウジさんは独楽に紐を巻き付けては小さな子らに渡していた。早く早くと、巻いては渡して投げ、巻いては渡して投げる。

 ある子の独楽が何度やっても倒れてしまい、泣き出してしまった。歳上の子は自分の遊びに夢中で相手にしない。泣き出した子に袖を引かれ、ショウジさんが困ったように見えたのは傾き始めた陽のせいか。

 腰を落とす動きは負担がかかるのでは──

 私はお正月恒例行事で独楽回しには多少の心得がある。踏み込もうとしたその時。

 ショウジさんは、ぽとん、と紐を巻いた独楽を落とした。それはもう、うどんに玉子を落とすような小さな仕草で。

 だのに、独楽はピルエットを踊る。格子窓から注ぐ西日のスポットライトを浴びながら。

 前置きのないお手本に、子どもらは黙り込み、次に快哉を上げた。

 すげえ、なにいまの。どうやったの、おしえて、せんせい──

「振りかぶる必要はないんだよ。押し出すぐらいで、速く引く方がずっと大事なんだ」

 再度、彼がぽとんと落とすと喝采があがる。

 私は踏み出しかけた姿勢のままでいた。

 子どもたちに囲まれて笑うショウジさんは健やかに見えた。脚が悪いにも関わらず──それこそ偏見なのだろうけど──、明るく、健全で、満ち足りて。

 良かったと思うと同時に、こみ上げてきた。昼間の一幕、緑の部屋でのやりとり、過去の自分。嗚咽が漏れ、口元を押さえた刹那。

 扉の隙間から、ショウジさんと目が合った。

 咄嗟、私が逃げ込んだのは、図書室──緑の部屋だった。

 幸い無人で、翡翠のステンドグラスじみた窓辺まで走り、うずくまって、あぁ、と呻く。顔を覆った指の隙間を熱い滴が流れた。

 慟哭、というものなのだろう。

 どうして、今、この瞬間なのか。日中、私は反論を自分語りに替え、感情を押し沈めた。

 でも今になって浮かび上がらされた。他でもない、ショウジさんその人に。愛しいとか、好きだとか、尊いとか、そんな真っ当な感情が湧き、屈辱や反発や怒りと反応した。

 深呼吸して、気を落ち着かせる。閉め切ってあった窓を開けると、緑の匂い、蝉の声、夕刻を知らせるチャイムの音が流入してきた。幾分落ち着き、図書室を出てトイレに寄り、目元を冷やした。

 事務所に戻るとショウジさんはまだ不在だった。

 デスクワークについてしばらく、足音が聞こえてきた。私にとって特別なそれ。

 かくん、かっく──かっく、かくん──かっく──

 もちろん、私の心中で誇張された擬音だ。でも、いつもとリズムが違う。焦っているみたいに。

 引き戸が勢いよく開き、つんのめって、転びかけたショウジさんが姿を現す。

「大丈夫ですか!」

「大丈夫ですか!」

 私とショウジさんは異口同音に叫んだ。

 駆け寄りながらも、え、と漏らす。ショウジさんは小声できまり悪そうに、言う。

「さっきホールから見掛けて、ちょっと変というか、いえ、すみません、体調悪そうだったので心配になっちゃって、捜していて、僕の見間違えかもなんですが、すみません──」

 すみません、と繰り返すのは一体どれに対してか。あるいは全部。

 私は笑った。あまりにらしくて。ショウジさんは私をぽかんと見上げて、笑わないでくださいと口を尖らせた。その様子が可愛らしくて、さらに笑いを誘う。

 他の職員もやってきて、大丈夫ですかと身の丈の大きなショウジさんを一緒に起こす。

 過去の男は、私を雑に扱い、男を一番に考えろと強要してきた。私は不純で、元を辿れば、自己愛に満ちている。

 でも、今、ショウジさんを好きになって良かったと素直に思った。


 公民館は申し込みがあれば夜も開ける。木曜は午後七時から月二回の合唱サークルの施設利用があり、私は遅番だった。

 夜勤務は好きだった。受付を済ませば、自分の仕事に没頭できる。たまに副業のクラフト制作をしていることもある(我が市では嘱託職員は副業可だ)。ちなみに私は公民館でクラフト講座の講師を請け負っており、試作品といえばおおっぴらにできるのであった。

 不満があるとすれば、ショウジさんの姿を拝めないぐらいだが、今夜は明日の夏祭り報告会のために彼は残業していた。

 事務所で、はす向かいのデスクで二人きり。雰囲気はいささか硬いものだった。

 ──明日、夏まつり報告会が終わったら、打ち上げに行きませんか?

 ショウジさんに誘われたのは今朝で、ゴーヤに水やりをしている時だった。彼は続けて言った。色々お礼もしたいので、二人で、と。

 一も二もなく、私は承諾した。それからずっと緊張している。他意はないと自分に言い聞かせつつも。

 そんな私のぎこちなさが伝わるのか、ショウジさんの挙動もどこか角張っていた。つい姿を追ってしまい、時折目が合ってどちらともなく逸らし、そして我慢しきれず互いに笑ってしまう。夜の雰囲気は硬く、静かで、でも優しく、居心地は悪くなかった。

「すいませーん、音響の設定変えた? 鳴らないんだけど」

 合唱サークルの主催者である糠谷さんが事務所の小窓からぬうと顔を出してくる。

 立ち上がりかけたショウジさんに、シフトは私なのでと席を立つ。ありがとうございます、お願いします──やはり彼は律儀に言うのだった。

 九時を回り、合唱サークルの面々が撤収する。十分ほど経ち、糠谷さんが再び小窓から手招きしてきた。ショウジさんは残業を終えてすでに退勤している。私は通勤鞄からポーチを取り出し、糠谷さんの後を追った。

「運動後の一服は最高ね」

 私たちは調理室にいた。窓を少し開け、換気扇を回し、その下で煙をふかす。明かりは必要最低限、時間は十分以内。

 糠谷さんは私より少し歳上で、普段は会社勤めをしている。四年前クラフト講座を開くにあたり、相談に乗ってくれた、友人といって差し支えのない相手だ。

 合唱サークル終了後、喫煙禁止の施設内で女二人喫煙するのは息抜きであり、抵抗であり、甘味だった。

「DV受けてたって暴露したんだって?」

 DV。その響きにぎょっとして、けれど自分の発言を反芻し、遠くはないかと納得する。

「もうちょっと、まろやかな言い方でしたよ」

 訂正を入れるが、糠谷さんはスルーして、

「爺ちゃんたち、すぐに話逸らしたでしょう」

 くくっと人の悪い笑みを漏らす。彼女の読みは抜群だった。

「まあ、あの場で深掘りされたら困っていたのはこっちですけど」

「ショウジさんをいじめたから?」

「推しにひどい扱いしたなら仕返しするのは当然でしょう」

 やっぱりと糠谷さんは笑みを深めた。

 彼女は鋭い観察眼を持っており、しばしば職員同士の関係についても言い当ててくる。当然、ショウジさんへの好意も嗅ぎ付けられており、開き直ってファンという立ち位置を表明してあった。

「どんなだったの、昔の男」

 網戸から流れ込むぬるい風に押し出されたような、気怠る気な問いだった。

「俺様で外面良くて、大きさと耐久力自慢の」

「なんでそんなのと付き合うの」

「なんでって」

「正直、よくわからないのよね。どうしてDV男と付き合うのか」

 合唱仲間にもちらほらいたけどさ、と彼女は大きく煙を吐き出す。

「……精神安定剤みたいなものですかね」 

 自信に溢れた、自己肯定感の強い人間には必要ないそれ。

 私は東京の有名私立大に受かり、上京した。俳優や脚本家に憧れ、多くの芸能人を輩出している演劇サークルに入ったが、完膚なきまでに打ちのめされた。少し勉強ができて、要領よく生きてきた地方出身者のよくある話だ。

 そんな折り、男と出会った。

 自信を喪失したところに甘く囁かれ、男の愛情が穴埋めとなり、悦ばせるためになんでもした。男の命令をこなすのが男に好かれる早道だと妄信していた。結果、男を肥大させ、自身を萎縮させた。

「初めのうちは優しかったし、羽目を外すのが楽しかったから」

「へえ。どんなことが」

 問われ、反射的に思い出してしまう。薄明るく、よどんだ、でも静謐な空間を。

「一日中、布団かぶってました」

 けほっ、と糠谷さんは小さく咳き込んだ。

「日がな一日セックス? 若者の特権ね」

「……そういう意味もなきにしもあらずなんですけど。本当にずっと被って生活していたんです、布団というか巨大な布を」

「生活?」

「初彼で、恥ずかしくて、明かりを点けるのを拒否したんです。そしたら、布団でも被っとけって言われて、そのうち布団がシーツになって、もっと大きな薄手の布になって」

 舞台の演出に使った淡い緑の紗幕だった。素材はジョーゼット。自尊心を打ち砕かれ、裏方に回った。手先は器用だったものの、今度は人間関係に躓いた。紗幕は修繕を指示され、持ち帰ったままになっていたものだ。

 男と幕を被り、食事をして、テレビを観て、セックスをした。夏も冬もエアコンを効かせて、裸で過ごした。トイレや料理(といってもカップ麺やレンチンのパスタやピラフ)でやむを得ず幕から出るなくてはいけない時は、ひどく心細くなって、慌てて潜り込む。

 あの、乳白がかった翡翠の繭のような空間。

 それまで病気の時以外、洗顔をしない、歯を磨かないなんてなく、初めは戸惑ったが、徐々に慣れた。堕落していった。堕落が許されていた。あの幕の中だけは。許されたなら、私も許し返したくなり、男の望みを叶えた。

 そして私も男を貪った。握って、吸って、入れて、放さない。

 時に私は男の身体を観察した。男が女の身体を品定めするのと同じく、あるいはより厳しく。愛撫しながら、されながらも冷徹に。浅黒の肌、筋肉質の腕、下腹部の締まり具合。ある時、彼の内太股に大小二つの並んだほくろを見つけ、〝こいぬ座〟と名付けた。

 だけど互いの欲求が、いつまでも同じだけ昂ぶるなんて奇跡はない。

 ビールが冷えてなかったとか、テレビを消したとか、ささいなことで男は手をあげ、私が血を流せば薄ら笑いを浮かべた。

「どうやって逃げたの」

「逃げてませんよ」

 そも、逃げるという発想がなかった。眠たげだった目を少し開いた糠谷さんに、

「来なくなっただけです」

 と、種明かしをする。

 男は私の1DKのアパート──薄緑の繭たる小部屋──に入り浸っていた。でもふらり二三日、姿を消すことは度々あった。大方、他の女のところへ行っていたのだろう。そしてある時、帰ってこなかった。それっきり。

 携帯電話は不通、行方を探ろうにも男の交友関係を知らなかった。

 私の恋は宙ぶらりんとなり、ぼんやりと大学に通い、卒業したものの、アルバイトで食い繋いだ。数年後、体調を崩して実家のあるこの市に戻った。就職はしたが、婦人科系の病と人間関係に悩み、辞めること二度。

 療養中、学生の時から作っていたアクセサリや鞄をハンドメイドサイトに出品すると、思いの外、売れた。クラフトイベントに参加した折り、別の公民館で講師をしていた人と知り合い、その縁から東川公民館で働いている。芸は身を助くとはよく言ったもの。今では実家を出て作業場兼自宅で暮らしていた。

 ゆるい風にさらわれ、灰がほろほろ舞う。糠谷さんはそれを長い脚で蹴散らす。

「なおさらよくわからない。ショウジさんに惹かれる理由が」

 全然違うじゃんという言葉に苦笑した。恋に理由を求められても困る。しょうがないので一番わかりやすいところを引っ張り出す。

「男の名前、〝ショウジ〟だったんです」

 だから、つい、目で追った。同じ名でここまで違うのか、と。違いの一つ一つに、その善なる性質に感銘を受けた。

 糠谷さんは片眉を上げ、タバコを携帯灰皿に押しつける。

「まあ、あんまり入れ込み過ぎないようにね」

 ──妻帯者なんだから。

 わかりきったことを言う糠谷さんに、無論ですと応えた。

 その夜は、帰宅後も爪磨きやらヘアパックやら身支度に忙しかった。そして悩んだ末、緑色のジョーゼットワンピースを選び出す。

 打ち上げの場所はショウジさんが決めてくれた。隣市の天ぷらと蕎麦のお店で、テーブルの個室があるという。美味しいお酒も揃っているので、帰りは僕が運転するからどうぞ呑んでください、といたずらっぽく言われた。


 翌朝、グリーンカーテンの異常に気付いた。一面の緑の下部が、黄色く枯れてきている。しなっとして、茶色く裂けた箇所もあった。水やりは朝夕の日課なので水不足とは考えにくい。逆に水のやりすぎだろうか。だが、プランターの土は乾いており、腐らせているふうでもなく、上部の葉は青々と茂っている。

 座り込んでいるところに、こりゃあ栄養不足だね、との声が降ってくる。振り仰げば、キャップを被った小柄な老人が私の手元を覗いていた。

 挨拶を交わし、川津さんは枯れた葉に触れる。プランター植えの場合、たっぷり水やりをすると、一緒に土の養分が流れてしまう。そこで上の新しい部分が、下の古い部分から養分を補給し、結果下部が枯れてしまうとのことだった。

 川津さんは定年退職後に地域の環境活動を始めた人で、公民館だけでなく児童館や保育園などの樹木や花壇の世話をしてくれている。アドバイスをくれたり、肥料や種など手持ちの物品をわけてくれたりする、ありがたい存在だった。夏まつりでは同じくエコステーションに詰めていたこともあり、気安かった。

「午後にでも肥料を持ってくるよ」

 朝の散歩の途中で立ち寄ったのだろう。川津さんの言葉に、丁寧にお礼を告げた。

 白雲湧き立つ空を見上げる。午後からは夏まつり報告会があり、それが終わったなら。

 かくん、かく──かくん、かく──かくん、かく。

 アスファルト揺らめく駐車場からやってくる背の高い人影に、私はいつも通りの挨拶をした。


 報告会は午後二時からだったが、一時四十五分には参加者が揃い、前倒しで始まった。

 公民館館長、東川コミュニティ会長の挨拶に始まり、個別の報告に入る。警備、照明、設営、資材、環境、会計、各出店・イベント・ゲストの感想……思いの外順調に進んだ。

 去年は資料ミスと、設営係と資材係のいざこざがあり、会は紛糾。後日、市民協働部の部長から注意が入った。皆、今年は穏便に済ませたいという思いがある。

 終了予定は四時。三時四十分には、全員に一言ずつ反省と来年への抱負を述べてもらう。

 議事録をとりながら、緊張していた。先だっての老人たちがショウジさんの働きぶりに文句をつけるのではと。けれど、三人とも無難な回答で、マイクは滞りなく回された。

 もう、終わると安堵しかけた時、

「あの、金魚すくいは、来年もやりますか?」

 意外なところから声が上がる。ゴーヤを見てくれた、あの川津さんだった。樹木以外で発言するのは珍しい。そもそも彼は環境係であり、金魚すくいとは関係なかったはずだが。

「特に変える予定はありませんが、何か?」

 進行役の館長に逆に問われ、彼は少し言い澱むが、口を開く。

「孫が、金魚が可哀想と泣いてしまって……」

 天使が通り過ぎた後。場は騒然とした。

「孫が泣いたからやめろって、そりゃ横暴だ」

 金魚すくいの係だった泉さんが声を荒げた。

「孫は金魚すくいを怖がって、もう夏まつりには行かないと言っておるんです。小さな子が怖がる出店とは、どうしたものだろうと」

 川津さんは控えめだが、主張を曲げない。

「孫が可愛いのはわかるが、うちのは楽しみにしとるよ。今年は八匹すくってきて、じいじの家で飼ってと持ってきた」

「でも確かに残酷かも。翌朝、何匹かアスファルトの上で死んでいたのを見たわ」

「個人の趣向まで反映しとれんよ」

「生き物を売り買いするってのはなあ」

 総勢三十名近くが一斉に話し出し、会議室は混沌の渦となる。

「静かに、お静かに! 金魚すくいを楽しみにしている方も多いでしょうし、なくすのではなく、配置を変えるというのはどうでしょう? 動線上、通り道ではなく、奥まったところとか。配置図も大きく掲示して」

 館長の提案に、それならまあと高波が凪ぎ、多くの参加者が胸を撫で下ろした次の瞬間。

「この件、改めて話し合いませんか?」

 ずっと黙していたショウジさんだった。彼はゆっくりでもなめらかに立ち上がる。

「他でもない、地区の将来を担う子どもからの意見です。地区住民の皆様が主体となって決め、来年に繋ぐべきではないでしょうか」

 一語、一語、明瞭に発される、凛とした、熱っぽい声音。それは、夏まつり報告会で初めて耳にするものだった。

 結局、三十分押しで閉会した。館長が『後日、連絡します』と宣言し、半ば無理やり。

 その後、ショウジさんは館長に別室へと呼ばれ、小一時間経っても出て来ない。私の定時は五時半、すでに十五分過ぎている。これ以上居座っていれば変に思われる。

 と、事務所の引き戸が開き、疲れた顔の館長とショウジさんが戻ってきた。

 縋るようにショウジさんを見上げれば、微笑み返される。

 ほっとしたのも束の間、ならばぐずぐずしていられない。

 退勤すると職員用の駐車場に停めてあった自家用車に駆け込み、辺りに人がいないか確認してシャツのボタンを外し、車に用意してあったワンピースを被った。通勤鞄からハンドバックに必要なものを入れ替える。

 お店の最寄り駅で落ち合い、帰りはショウジさんが送ってくれる。駅まで歩いて十五分、目的の駅は二駅先、待ち合わせは午後七時。

 ローヒールで歩き出した私の視界の隅に、公民館のアプローチを行く小柄な老人の姿が引っかかった。川津さんだ。肥料を持ってきてくれたのかもしれないが、今は時間が惜しく、悪いと思いながら声を掛けなかった。

 盛夏の午後六時は明るく、熱気が重い腰を上げようとしない。汗は掻きたくないけれど、気が急いて、足がもつれそう。

 さんさん歩き、駅のプラットフォームに着くとちょうど各駅列車がやってきて乗り込む。

 正面奥の扉付近に立ち、流れゆく町並みを眺める。夜に染まりつつある夏空はジョーゼットのように柔らかな風合いだ。淡い紺色と薄桃色が境界を曖昧にしてゆるゆると混ざり合う。不安と期待、今の心情を映しているよう──とは自己陶酔に過ぎるだろうか。物思いに耽る間もなく、電車は駅に到着する。

 駅構内に入っていたドラッグストアで制汗シートを買い、化粧室に飛び込み、十全ではないけれど、妥協点まで身支度を整えた。姿見に映し出されたワンピースは女性らしい曲線を描き出してくれている。

 待ち合わせの駅前ロータリーに着いたのは六時五十分。ショウジさんのエコカーはまだ見当たらない。携帯電話を確認すれば、商品発注の新着メールが一件来ているだけだった。

 ビルの壁面に背を預け、私は待った。暑さと疲労に少し眠気を覚える。だけど耳は澄ます。かくん、かく──ショウジさんの独特なリズムを聞き漏らさないよう。

 と、思い違いに気付く。ショウジさんは自家用車のエコカーでやってくるはずで、足音どころか、エンジン音もほとんどしないはず。彼と足音をセットにしている自分に苦笑した。

 約束の一時間を回った八時、ショウジさんの携帯電話にかけてみたが繋がらない。メールやSNSは、内容が残るので気が引けた。

 待つことには慣れている。苦ではない。

 ロータリーを回る車のライトに照らされ、目を閉じる。

 ……あの時も、目蓋を下ろしてうずくまり待っていた。薄緑の繭の中、玄関のドアが開く音を、耳を澄ませて。

 不意に気付かされる。やはり、私は待っていたのだろうか。暴言を吐かれるのも、殴られるのも、薄ら笑いされるのも嫌だった。下手な前戯も、気が乗らないセックスも。

 ……だのに、どうして、私は。

 くらりと身体が傾ぎ、歩道に踏み出す。倒れては元も子もない。近くの自動販売機でペットボトル飲料を買って、一気に半分飲む。湿った唇を離すと、嘆息が押し出された。蒸れた空気と混じり合い、気鬱の海が広がる。

 ……彼は、来ない。

 それは予感か、記憶か、そもそも胸に浮かんだ〝彼〟とはどちらなのか。

 足は動かない。期待、下心、悲嘆──少しでも動いたなら溢れてしまいそうで。

 ……どうやってあの部屋を出たのだったか。

 汗ばんだ首筋にまとわりつく髪を剥がしながら思う。

 1LDKの鍵は開いていた。開けたままにしていた。今思えば、不用心も甚だしい。

 男が部屋に入り浸っていたのはおよそ半年。大学三年の夏の終わり、男はコンビニに行くと言ったままふらり戻らなかった。男が出掛けることはままあった。初めのうちは一人を満喫し、徐々に不安に侵された。でも、何もしなかった。しようがなかった。四六時中一緒にいたのに、私たちはどこまでも他人だった。八月が終わり、九月になって友人から課題を手伝ってほしいとの連絡があり、現実感が乏しいまま、大学生活を再開した。自発的にあの部屋を出たわけじゃない。

 ……なら、私は。まだ、薄緑の繭の中、うずくまっているのか。二十一の夏からずっと。

 携帯電話で時間を確認すれば九時少し前だった。躊躇いつつもそのまま公民館にかける。

「お電話ありがとうございます。東川公民館、ショウジが承ります」

 何度目かのコールで応答したのはショウジさんその人だった。歓喜と戸惑いで、あの、イトウですが、と押し出した声が掠れる、が。

「──申し訳ありません、ただ今、来客中でして。また、後日改めます」

 ぷつりと切れて、それきり。

 ロータリーを回る車のライトに幾度となく炙られる。私が浴びることなかったスポットライトに、今更。

 ふらりと傾いた身体そのままに、歩道に飛び出てガードレールから車道へ上半身乗り出し、勢い良く手を上げた。前を少し通り過ぎたところで、タクシーが停まる。

「丸山町の蕎麦屋、岩庵までお願いします」

 ドアが開いて乗り込み、私は事前に調べてあった店名を告げた。


 翌日の土曜は休みだった。元々土日は、大きなイベントがなければ、少ないスタッフで回している。

 休みを良いことに、昼まで横になっていた。

 午後から発注されていたクラフト品の発送準備に取り掛かった。梱包して、宅配便の集荷所へ行く段になり、足がないのを思い出す。

 夕暮れ時を待ち、休日用の綿麻のロングワンピースにカーディガンを羽織り、市の巡回バス停へ向かった。

 昨夜、待ち焦がれたエコカーは、私の車と同じく、公民館の職員駐車場にいた。あまりにあっさりと。ショウジさんは私と同じく休みだったはず。だからこその打ち上げだった。

 かくん、かく──かくん、かく──かくん、かく──

 私はその気配を違えない。正面玄関から、背の高い人影が現れる。仕立ての良い深緑のシャツに灰色のスラックス。

「どうしたんですか?」

「どうしたんですか?」

 互いに姿を認め、いつかのように、異口同音に尋ねていた。

「水を撒こうと思いまして」

「今日は勤務日じゃなかったですよね?」

 そうじゃなくて、と首を振って私は訊く。

 ああ、とショウジさんは頷き、

「吉田さんのお子さんが発熱したそうで、勤務を代わったんです」

「でも、吉田さんは早番勤務だったはずじゃ」

「午前で帰るつもりが、提案書を作っていたら熱が入ってしまって」

 どこか恥ずかし気に言う。欲目であるのは承知していた。

 と、彼はグリーンカーテンへの歩みを止め、

「昨夜はすみませんでした、こちらから誘っておいて、」

 頭を下げてきた。謝らないでください──そう返そうとした寸前、彼は続けて言う。

「実は、あれから川津さんが相談に来られて」

 帰りがけに見た小柄な老人の姿を思い出す。

「地域の方が相談に来たのなら、優先されるのは当然ですから」

「そう仰っていただけると助かります」

 私の言葉が終わるより少し早く頭を上げ、彼は無邪気に笑った。

 ショウジさんがホースヘッドを持ったので、幸いと俯き加減に屈んで止水栓を開けた。ワンピースの裾がざらり地面にすれる。

 彼は夏の陽にぬるまった水をしばらく排出してから、プランターに水を撒き始めた。

 濡れた土の匂いが立ち昇る。けれど日中の暑さにしんなりした葉が、すぐに瑞々しく甦るわけでもない。

 視線をショウジさんに移し、そのほの白い横顔を観賞しながら、さして興味があったわけではないが一応はと訊く。

「川津さんは、どんな相談を?」

「……長年変わらないコミュニティ役員へ不満を抱いておられました。金魚すくいはきっかけです。ここ十数年、役員は会長、副会長、会計の三役を順繰りに回していますから」

 確かに、私が知る限り、見知った顔しかいなかった。ただこれを、仕事を引き受けてくれていると見るか、役職の独占と見るか、微妙なところだろう。川津さんは孫が通う保育園の行事にまで口出しされたと主張したそうだが、真偽のほどはあやしい。

 けれど、ショウジさんはゴーヤに慈雨を降らせながら続ける。

「これはチャンスだと思うんです」

「チャンス?」

「循環しているといっても、溜池の水を掻き回しているだけなら意味はありません。新しい流れを呼び入れなければ腐ってしまう」

 思いがけない強い口調に相打ちを忘れた。

 公民館とは、と彼は続ける。

「住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする──社会教育法第20条です」

 らしからぬ圧のある言葉の羅列。

「ですが、今、東川公民館はその目的を達成できていない。利用者は減少傾向、講座やイベントは単発で終わって、地域の発展・振興に寄与しているとはいいがたい」

 はあ、とだけ呟くこともできたけれど、

「でも、毎年開催している行事もありますし、講座も単発というわけじゃ」

 つい、言い返してしまう。自分が講座を請け負っているという自負が働いた。

「繰り返される行事は役員意見が色濃く反映されます。彼らの力あっての毎年行事ですが、それでは自浄作用は薄れる。最終的に住民の自治能力の育成・向上を目指しているはずが、一部の専横を許し、他の住民の口を、塞がせて、いる、なん、て──」

 きゅっと。私は止水栓を締めた。水の勢いに同調して言葉は失速する。シャワーヘッドの先から、ぼた、ぼた、と水の名残がだらしなく垂れる。夕闇の中、見上げる顔は白く浮き上がっていたが、表情までは読めない。

「もう帰りますよね。戸締まり手伝います」

 ──お子さんも待っているのでしょう?

 ショウジさんの手からホースを奪い、ホースリールを巻きながら告げる。

「ああ、そう、ですね。帰らないと……昨夜、僕と一緒に風呂に入ると言ってきかなかったらしくて。今夜は、早く帰らないと」

 どこか自身に言い聞かすような口調だった。

 そして屋内に戻り、ショウジさんは二階、私は一階の施錠に回る。脚が悪いショウジさんよりも、私が二階に上がるべきなのだろう。けれど、ショウジさんは率先して鍵を持ち、階段へ踏み出す。そういう人だからこそ。

 本当は少し期待した。きちんとした打ち上げはまた今度セッティングしますが、せめて今からお茶だけでも、なんて。

 昨夜、タクシーで乗り付けた岩庵にはキャンセルの連絡は入っていなかった。私は盛大な遅刻を詫び、二人前のコース料理を出してもらった。昼まで横になっていたのは胸やけのせいだ。もちろん、食事代は私持ちだ。

 ──結局、自分都合。アイツと同じ。

 私を置き去りにしたショウジと、私を待ちぼうけにしたショウジさん。

 いや、違う。全然、違う。

 ショウジは他にも女がいて、出て行った。己の欲望のため。ショウジさんは市民のため、私を待たせた。善なる行為のため。

 緑の誘導灯が天井をほの照らす。私は自らの意志で、あの部屋を出るべきだった。惰性に任せたから、未だ囚われている。

 一階の施錠と点検を終え、事務所に鍵を仕舞うが、ショウジさんは戻らない。点検ついでに、簡単な掃除ぐらいしているのかも。

 嘆息しつつ、ショウジさんのデスクを眺めた。付箋がびっしり貼られた本が数冊とノートパソコン、そして紐付きカードケースに入った職員証が置いてある。

『公民館の役割』『生涯学習大全』『ファシリテーション手引』──本は私物らしく、アンダーラインや書き込みが多数ある。

 開いたままのノートパソコンを覗いた。職員共有のパスワードを打ち込む。講座申し込みのフォームを確認しています、と言えば納得されると算段して。

 作成途中のファイルには『東川公民館 夏まつり改善提案書』との見出しがあった。スクロールすれば、運営プロセスについて詳細に書かれていた。本気で改善──改革を考えているらしい。正直なところ、私にはそれが善いことなのか、悪いことなのか、判断つきかねたし、関心もなかった。それよりも。

 ファイル情報を開けば最終更新日時は三十分前。そして作成日時は昨日の十九時十二分。

 私がワンピースを纏い、駅まで速足で歩き、汗を拭い、化粧を直し、蒸し暑いロータリーで待っていたあの時。

 ノートパソコンを閉じた拍子に、職員証が床に落ちる。

 拾い上げれば生真面目そうな丸眼鏡と目が合う。ふふ、と笑ってしまう写真の横に、もう一つ笑えるような、笑ってはいけないようなものが並んでいる──東海林しょうじ  昭次しょうじ。それが彼の本名だった。

 苗字と同じ音の名を付けられることはまずない。ならば、後年変わったのであり、結婚相手の姓に変わったと考えるのが自然だった。

 ショウジさんが侮られるのは、彼の柔らかな気質に加え、女の家に入ったという嘲りが含まれているのだ。男女平等、多様性を謳いながらも、沼から抜け出す日は遠い。根を張っているなら、知らず、沼の水を吸っている。

 だから、彼が、男子かくあるべしと一家言持つ年輩男性らに反発心を抱いていても不思議はなく、彼らに対立する川津さんに肩入れする気持ちも理解できなくない。

 それとは別に、心から東川公民館や住民の将来を憂いている可能性もある。

 ……でも、そんなのは、どっちでも。

 私は仕舞ったばかりの鍵を取り出してあの部屋へ向かう。

 シリンダー錠に鍵を差し込み、一回半回して、五時の方向に戻して引き抜く。慣れ切った手順でわざとでもなければ間違えない。

 図書室は暗緑に染まっていた。濃い翡翠色。南東向きの窓で、夕暮れの指先は届かず、事物を輪郭でしか追えない。

 窓辺まで歩み寄り、耳を澄ませる。大好きな音が響くのを。

 かくん、かく──かくん、かく──かくん、かく──

「……いらっしゃいますか、伊藤さん?」

 窺うような声に、います、と端的に応える。

「どうかしましたか?」

「上の小窓に手が届かなくて。施錠してもらえますか?」

 椅子に登れば済むことを、ショウジさんは責めない。率先して前に出る。引け目ゆえだろうか。その引け目は善なる性質を帯び、彼を聖者に仕立て上げる。

 その明るさ、健やかさ、優しさを好ましく思う。彼には彼の野心があると知った今も、私は──

「好きです」

 ショウジさんは腕を上げた姿勢で、私を見下ろし、そのまま動かない。仰ぎ見て、視線をぴたりと受け容れる。鍵と、鍵穴のように。

「あなたの脚が」

 あなたのその善なる象徴が、そうでなかったとわかってもなお。

 ショウジさんは腕を下ろし、

「……あし、ですか」

 戸惑いを含んだ声を漏らす。こんなにもあけすけに言われたのは初めてだろう。

「僕はそう思っていないので、意外です」

「不自由さの中で頑張っておられるショウジさんを尊敬しています」

 少し空いた間には、ああそういうという納得とわずかな不快感が入り混じっていたように思う。恐縮です、と彼は頭を揺らした。

「事故だったんですよね」

 ええ、そうですが、どうして──続く言葉に被せるよう言う。薄緑の幕で包むに似て。

「記憶を喪ってしまうほど、大変な」

 その後の生き様を変えるほどの。例えば、結婚して自らの姓を捨て、生真面目な公務員として身を粉にして働くような。

 細身だが、身長百八十センチを超えるショウジさんの立ち姿は迫力がある。力では敵わない。走ってなら逃げられるだろうけれど、私は逃げない。そも、ショウジさんは暴力をふるわない。〝ショウジ〟と〝ショウジさん〟は別の存在だから。今は。

 館長から聞いたのですかという問い掛けに、私はただ微笑む。誰に教えられずとも知っている。あなた自身が忘れたことすら。

「ショウジさんの脚が好きです。左の内太股に並んだ、こいぬ座みたいなほくろも」

 さあ、帰りましょうと図書室の鍵を掲げる。

 彼の沈黙が、演技でも、素でも、良かった。そのどちらにでも嵌まる。緑の部屋の鍵を握っているのは、私だから。【了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

緑の部屋の鍵 坂水 @sakamizu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説