冷や水

まんごーぷりん(旧:まご)

第1話 潮干狩り

 ゴールデンウィークは、かぞくといっしょにしおひがりにいきます。――長期休暇を目前に先生や他の生徒たちの前で高らかに宣言した私は六歳だった。いいなぁとこぼす女子たちに、しおいかりってなぁに? と首を傾げる男子。幼稚園が一緒だったくみ子ちゃんは「また、みえはっちゃって」と鼻を鳴らした。小学校に入学して初めての長期休暇を目前に、朝の会で先生が「ゴールデンウィークは何をする予定ですか?」と私たちに質問したので、手を挙げたのだった。


「潮干狩り! 素敵ですね、三田みたさんは海が好きなのですか」

「うみにはいったことがありません。でも、いつかいきたいなとおもっていました」

「それは楽しみですね。たくさん獲れるといいですね、料理もどんな味だったか教えてくださいね」


 先生は温かい笑顔を向けてくれて、私はそれを受けてにっこりとほほ笑んだ。くみ子ちゃんが小さな声でつぶやいた、ほんときらい、という一言だって、いつもだったら涙ぐんでいただろうに、そのときは軽い気持ちで受け流すことができた。







 長期休暇の初日に、近所に住む伊織いおりくんの家族とばったり出くわした。伊織くんは私の二つ下で、幼馴染。そのくらいの年齢における二歳差って結構大きくて、さらに女の子の方が男の子よりも精神的な成長が早いことも相まって、私にとって伊織くんは友だちというよりは、「きんじょにすんでいる小さい子」だった。一緒に遊ぶというよりは、「遊んであげる」、そして「いつも守ってあげなければならない」子。――だから正直、おしゃべりな母が「あさってから潮干狩りに行くんです」って、伊織くんママに話したとき、とても嫌な予感がした。

 案の定伊織くんのママは、ぜひご一緒させてくださいなんて言い始めて、母はその場で潮干狩り会場に電話をかけ、三名追加でお願いします、と携帯電話越しに頭を下げた。そして伊織くんママはわざわざ私に目線を合わせて「また伊織と遊んであげてね」なんて言ってきたものだった。楽しみです、と作り笑いを浮かべる私を見て、母も誇らしげだった。

 それでもやっぱり、人生初めての潮干狩りを目前に、前日は一丁前に眠れなかったし、そのくせ当日はめちゃくちゃ早起きをして大人たちを多少困らせた。単に楽しみだった、というと少し違う。初めてのレジャーを楽しみたいと願う気持ち、まだ小さくて目が離せない伊織くんに邪魔されたくないな、なんて考えてしまう浅ましい思い、そして、学校で見栄を張ってしまったからには、何としてでも潮干狩りを楽しまなければならないという変なプレッシャー。私はアサリを百枚拾わなければならなかったし、母に作ってもらうアサリの味噌汁は、今まで食べた食べ物の中で一番美味じゃなければならなかった――あの頃の私は、小さなことが嬉しくて、小さなことが苦しかったのだ。

 レジャーあるあるだが、往々にして子どものすることなすことはうまくいかない。先端に丸みを帯びた、プラスチック製の熊手を手にアサリやハマグリを探し回ったが、スタートが遅かったのかすでに他の客に大部分をさらわれていた。伊織くんも同様だったらしく、彼は「こんなおもちゃのだからとれないんだ」と泣き、ぐずった。そんな彼も、不意にヤドカリを見つけるとあっという間に機嫌を直す。四歳っていいな、と思った。

 一体何時間、砂浜を掘り続けていただろうか。根気強く探しているうちに、私でもいくつか小さなアサリを掘り当てることができた。父に見せては「おお! さすが夏美」とほめられたのが嬉しくて、父の持っているバケツに収穫物を少しずつ入れていった。――そのとき、少し離れたところから男の子の悲鳴が聞こえたのだ。伊織くんだった。

 伊織くんだけでなく、伊織くんママもとても慌てたようすで、最初何事かと思った。「クラゲ! クラゲが」と叫ぶ伊織くんママと、足を押さえて泣きじゃくる伊織くんの姿を遠目に眺めながら、とんでもないことになった、と思った。

 その後は大変だった。――私が大変だった、というのは誤りで、正確に言うと私の父と、伊織家が大変だった。父が、伊織くん一家を車に乗せ、病院へ向かった(伊織くんのご両親は運転ができなかったのだ)。私は母に連れられて、電車を乗り継いで帰宅した。母の「潮干狩りなんて行かなければ良かったのに」という不機嫌な呟きに、うまく反応できなかった。確かに、潮干狩りに行こうと言い出したのは父だった。しかし、伊織くん一家を誘ったのは母だった。「こうしなければ良かった」を口にするのは不毛だということくらい、子どもの私にでもわかったけれど、「行かなければ良かったのに」という言葉を向けられたのは、何よりそのイベントを一番楽しみにしていた私なのだ、ということに気づいてしまった私は黙って下を向くしなかったのだ。心の中で謝る。ごめんなさい。私のことを潮干狩りに連れていきたいだなんてパパに言わせて、ごめんなさい。伊織くんのことを見張っていればクラゲに触らなかったかもしれないのに、目を離してごめんなさい。――全部私のせいなのに、伊織くんのことを病院に連れていくこともできなくて、ごめんなさい。子どもで、ごめんなさい。







 帰ってからすぐにお風呂に入り、しばらく経った頃に気になったのは、私が頑張って集めた貝の行方だった。私は父に収穫物を預けていた――はっきりと見たわけではないが、伊織くんたちを病院に連れていった父が、わざわざ拾い集めたアサリたちをガシャガシャと持っていくはずがない、ということくらい、なんとなく想像はついた。しかし、学校で見栄を張った手前、それでは非常にまずかった。私の拾った百枚のアサリは母によって世界一美味しい味噌汁にされなければならなかったのだ。それに、「さすが夏美」なんて言いながら、私のことを誇らしげに眺めていた父が、私の努力の結晶をその辺にバラまいて帰ったなんて、想像したくもなかった。嘘だと言ってほしかったのだ。

 夜遅くに、父が疲れた顔で帰宅して、母はお疲れ大変だったでしょうと、彼に優しく声をかけた。その様子を見て、やっぱり母は私に向かって怒っていたんだなと確信する。

 そんな中、常識と、わずかな願いとを天秤にかけた。頭では分かっていた。私の拾った貝は持って帰ってきてくれた? ――そんなことを訊いたら、イヤなやつだって思われることくらい。伊織くんが大変なときに、お前は自分の楽しみのことしか考えていないのかって。小賢しい私は、しばらくの間ふんふん、と父の話を聴くふりをしていた。大変だったね、伊織くん大丈夫かな。ばかみたいに、その二言を繰り返した。彼が仮に重傷だったら、さすがにそのような姿勢ではいられなかったと思う。しかし、伊織くんはその日、入院などせずちゃんと家に帰っている。毒の弱いクラゲだったらしい、ということだけは分かった。

 今日の潮干狩りが如何に大変だったかを語る、父の演説がひと段落したときに、チャンスだと思ってしまったのだ。


「そうだ! なんとなく思い出したんだけど、今日拾った貝ってどうなったんだっけ」


 こんなに我慢したんだから。こんなにパパの話を聴いて、こんなに伊織くんのことを心配したんだから。だからこれくらい訊いてみたっていいよね? そんな油断が、最悪の言葉を選んでしまったのだろうか。


「そんなん持って帰れるわけないやろ何考えとんねん」


 日焼けで赤い顔をした父が、吐き捨てるようにそう言った。


「逆によく覚えてたね」


 おまけに母の薄ら笑いを見て、私は顔が熱くなるのを感じた。うん、いやごめん。ただどうなったかなって。いや、分かってる分かってる。当たり前だよね。知ってる知ってる。意味の分からない言葉を並べて私はあははっと笑って、洗面所に駆け込んだ。冷水を顔にかけながら声を殺して泣いて、こんな事で泣くなんて頭おかしい、とさらに悲しくなった。消えたい。人生で初めてそう思った。







 休暇明け、潮干狩りのことを訊かれたらいやだな、とびくびくしていたけれど、誰一人私にその話題を振ることはなかった。そのときは「もしかして潮干狩りがうまくいかなかったことが噂になっているのかもしれない」なんて思ったけれど、単に朝の会での発言が忘れ去られているだけだということに気づいたのは、それから二年後くらいだっただろうか?


『潮干狩り』――fin.

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