後編 航海の理由
そうして受けつ逃れつする間に、一際大きな雲の塊が近づいてきた。まるでそこだけ闇が切り取られたかのように真っ白い。眩しいほどに迫るその色に吸い寄せられ、少年は攻防の手を止めた。頭上をぐるぐると飛んでいた黒竜も、もう一度彼の肩に降りてその横顔に目を向ける。
「……故郷か?」
「その一つでしょうね。彼らの住処は沢山あるから。時々移動用の船を見かけます」
「お前は何故『漕ぎ手』になったんだ。せっかく天空人として生を受けたのだから、そのまま暮らしていれば何不自由なかっただろう。浅空に限定すれば船にも乗れる。一度『漕ぎ手』になれば、そうやすやすと故郷にも帰れまい」
「そうですね。僕らは一箇所に長くとどまれないので。記憶が持続しないから、生活が破綻してしまう」
言いながら、少年の頭からさらさらと輝く砂のようなものが流れ出てきた。小さな粒はやがて寄り集まっていくつかの塊を作り、くるくると回転しながら夜空の海を漂っていく。やがて収まるべき場所までくると、自然とその場で固まって青白い光を放ち始めた。新しい星の誕生である。周囲に目を向ければあちこちで地上から吸い上げられてきた記憶の砂が、同じようにピンクや黄色の星となって夜を彩っている。今日は何を忘れたのだろう。昨日立ち寄った地域は愉快だった。様々な精霊が混在する所で、湖の中に火の玉が浮いていたり、風が沢山の岩石を持ち上げ浮遊都市が存在したりと驚きに満ちていた。何人か仲良くなった精霊がいたが、彼らの名前は何だっただろうか。ヴァイス、ラクリア、フィゲ……何とか。少年は瞼を閉じる。冷たい夜の風が背後から吹き付けてきて、体の芯が冷えた。
「それでも、何かが僕を駆り立てるんです。この空海に漕ぎ出さなければならないって、何かが。理由なんて、すっかり忘れてしまっているのに」
強まる語気に合わせて、吐息が濃い霧のように白く染まる。少年はゆっくりと船端まで歩いていった。一歩足を進めるたびに、小さく木の板の軋む音がする。少しばかり色褪せたへりに両手を乗せて、空を見上げた。あちこちでまだ生まれたての星たちがちらちらと、まるでまばたきをするように輝き、少年の視線に応える。背後に広がる漆黒の空間はどこまでも奥深く果てがない。
「何かを、探してる気がするんです」
黒竜は少年の肩から離れ、少しの間彼を自由にした。ふわふわと、白い帆の周りを何とはなしに飛んでみる。
三週目に差し掛かった頃だった。ヒクヒクと、小さな鼻が何かを捉えて小刻みに動く。黒竜は羽ばたき飛行をやめて宙に停止した。辺りを見回し、何か勘づいたようにさっと少年の方へ視線を戻す。
「下がれ! 何か浮かんでくるぞ!」
少年もまた夜の膜が張り詰めたような気配を感じ、すぐに舵のある場所と戻ってきた。足元にあるスイッチを踏み舷のオールを動かす。舵を限界まで左回転させると、急な発進で船体が大きく傾き、積んでいたロープや荷物が船端まで滑っていった。
船がその場を離れるや否や、夜が振動を始めやがて渦を巻き始めた。あまりの大渦に、少年は舵を握りながら目をひん剥く。月明かりの燃料は燃費がいい代わりに、一度切らしてしまったら中々手に入らない。少年は祈るような気持ちで動力を最大に上げて星々の間を突っ切った。渦が深まると、その中心部が裂けて今度は大きな亀裂が走る。この穴に落ちてしまうと、例え『漕ぎ手』であってもどこに沈んでしまうかわからない。少年は額にびっしりと汗をかきながら懸命に船を操作した。
夜空の振動が徐々に小さくなり、裂け目の拡大もおさまっていく。ひとまず難は逃れたようだ。少年はふうっと大きく息を吐き、袖で額の汗を拭う。自動運転に切り替えてから船尾へ小走りし、帽子の鍔を持ち上げて亀裂の方をまじまじと見た。黒竜も近くのへりにそっと足を下ろす。沢山の星が開いた穴の中へ流れ落ちているかと思えば、突然凹んだ空間が盛り上がり、深い穴底から大量の夜水が噴き出してきた。落ちた星が夜水と一緒に吐き出され、噴水のように辺りに星のシャワーが散らばる。その明滅する光の奥から、大きなイカのような幻獣が姿を表した。少年は思わず「うわーっ」と声を漏らす。幻獣は何本もある長い足で辺りに転がる星をかき集め、次々と口に放り込んでいく。
「クラーケンか」
黒竜でさえ感嘆の息を漏らした。それくらい、ここまでの巨大生物の来訪は珍しい。
クラーケンは周囲の星を食べ尽くすと、ぶるると体を震わせ、勢いよく墨を吐き出した。大量の黒い雨は避けることも叶わず、咄嗟に少年は両手で頭を抱えてみたが、あえなく全身が真っ黒になった。黒竜は自分の周りだけ墨を炎で吹き飛ばしたようで、涼しい顔で少年を眺めている。少年はじとっとした目つきで黒竜を見遣り、ぼそりと呟いた。
「クラーケンさんも珍しい。黒竜さんの次くらいに怠け者なのに」
黒竜の目がカッと見開いた。少年もまるでボクシングでもするような構えで応じる。
一人と一匹がふれあいという名の睨み合いを続けていると、再びクラーケンは穴の底へと戻っていった。溢れかえった夜水も一緒に引いていき、亀裂がゆっくりと塞がっていく。
やがて辺りが静寂を取り戻して初めて、彼らは浅空への来客がクラーケンだけではなかったことに気付いた。クラーケンが現れた場所に、少年の乗るものとよく似た別の船が浮かんでいる。『漕ぎ手』の船だ。遠目ではあるが、あちらの方が年季が入っているようだった。
「クラーケンの移動に合わせて浮上してきたのか。中々肝が座っている」
黒竜の感心したような物言いにも、少年は反応しなかった。じっともう一つの船を見つめている。何故か、手にじっとりと汗をかいていた。閉じ忘れた口からは早く浅い息が漏れる。瞬きをすることすら億劫だった。黒竜もそんな少年の様子に少し目を見開いてから、改めて例の船の方に目をやった。
先ほどより、随分と互いの距離が近くなっている。帆が少し黄ばんでいたり、船体が黒ずんでいたりと、やはり最初に感じた通り船の使い込み具合が窺えた。甲板に誰か立っている。流れるような亜麻色の髪に、やや丸みを帯びた体躯。おそらく女性であろう。年は少年よりいくらか上であるようだった。心臓の音がやかましい。呼吸はさらに荒く、早くなっている。
少年の頭の中はほぼほぼ空っぽだ。何かを記憶しては、まるで手に掬った水の如く流れ落ちていく。それなのに、あの『漕ぎ手』の女性から目が離せない。向こうも、こちらを見ているようだった。絡み合う視線。さらに船の距離は近づき、彼女の琥珀色の瞳がはっきりと見えた時、頭の中にノイズだらけの映像が差し込んできた。
──トト、私ね──
今の少年と同じくらいの背丈の少女。長い亜麻色の髪に、琥珀色の瞳がやさしく揺れる。
映像はほんの一瞬の出来事だった。あっという間に消え去って、少年の目には再び現実が映る。船はもう少年の近くを通り過ぎ、今度は段々と離れていった。もう、何を思い出したのかすら分からない。それでも、胸の奥の熱はまだ冷めていなかった。
「どうかしたか?」
いつの間にか黒竜が肩に乗って少年の顔を覗き込んでいる。少年は再び水滴の滲んだ額を軽くさすってから、穏やかに微笑んだ。
「今、理由に会えた気がします」
「そうか。あっちも同じだといいな」
「はい」
少年は顔の向きを前方に戻すと、帽子のつばを握り少し目深に被り直した。頰が緩み、少しばかり赤く色づいている。黒竜は横目でそれを見てから、プイッとそっぽを向いた。美しく伸びた尾がゆらゆらと左右に揺れる。少年は軽く咳払いをしてから舵を握りなおし、深度計の蓋を開けた。膜の向こうの空が少しずつ橙色に染まり始めている。空海の中では、月が目を閉じ星たちも欠伸をし始めた。一つ、二つと光が消えていく。少年は再び足元のレバーを動かしランタンの色を変えた。
「さあ、そろそろ今日の宿泊場所を探さないと」
「深空に来ればいいだろ」
「暮らせませんて」
少年は笑いながら舵をきる。船は再び沢山の気泡に包まれ、黒い膜の向こうへと沈み込んでいく。星たちが寝息を立て始める頃には、すっかりその姿を消していた。
日の出を迎えた空では、今日も航空機が何事もなく飛んでいく。背後に白い飛行機雲を残しながら。東の空はもうすっかり明るくなっている。夜の空海はすっかり鳴りを潜め、空の青へと溶けていった。
空海の漕ぎ手 雪菜冷 @setuna_rei
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