空海の漕ぎ手

雪菜冷

前編 夜に浮かぶ空海

 空が漆黒のカーテンを纏い、星々が目を覚ます頃、一艘の船が夜を泳いでやってくる。舳先に橙色に光るランタンをぶら下げ、船体の両脇からいくつものオールを突き出し、ゆらゆら、ゆらゆらと夜空の船旅に興じている。

 甲板はオールの動きに合わせていつも木の軋む音が響いていた。ゆったりと、時に強弱をつけながら同じ調子を繰り返す。まるで子守唄のようだ。


「月は囁き空を揺らし 星は歌うよ 眩い衣装──」


 天然のBGMに合わせて一人の少年が民謡を歌っていた。澄んだソプラノの声に小柄な体躯。少し古ぼけた布を何枚も纏い、鳥の羽がついた帽子を被っている。翡翠色のくりくりとした愛らしい瞳は好奇心を抑えられないようで、宝石のようにキラキラと瞬いていた。

 頬を少し冷たい風が掠めたのを感じて、少年は歌うのをやめた。人差し指をペロリと舐めて、宙に高く掲げる。より冷気を感じる面とは反対側に舳先が向くように、舵を微調整していく。太い柱に吊り下げられた真っ白な帆が綺麗な弓形になると、満足げに口元を緩めた。

 再び前に向き直った少年は月との距離から針路を確認すると、ズボンのポケットに手を突っ込み、懐中時計のようなものを取り出した。腰のベルトと繋がる鎖からその丸い蓋に至るまで全て黄金色に輝いており、まるで新品のように綺麗に磨き抜かれている。少年が器具の蓋を開けると、最も外側に百単位の数字とコマかな目盛が並んでおり、その内側には一本の帯が三色に分けて描かれていた。帯の中には文字も書かれており、中心部からは一本の赤い針が伸びている。今現在、針は『浅空』と書かれた赤い帯の中を行ったり来たりしながら動いていた。少年は真剣な眼差しで針の指す数値を見ながら左手で舵を操作する。

 『浅空 二〇』で針が安定すると、前方の薄灰色の雲が蠢き、小さな光の玉が無数に飛び出してきた。陽だまり色の温かな輝きに、思わず少年の顔も綻ぶ。


「妖精さん、こんばんは」


 光の玉が彼の顔近くまでくると、ブーンと小さな羽音が聞こえる。その中心部には、薄く透き通るような羽を一生懸命羽ばたかせる人型の生き物の姿。妖精たちは少年の周囲を右へ左へと忙しなく行き来した。


「僕も会えて嬉しいです。特に困ったことはないですか?」


 妖精たちは一度羽の動きを緩め、ゆらゆらと空中を上下に動きながらその場に留まった。少年が黙って見守っていると、やがて再び高速で羽を動かし彼の周りをぐるぐると回り始める。翡翠色の瞳が柔らかに細められた。


「それは何よりです」


 少年が船の清掃で黒く煤けた手を伸ばす。たちどころに妖精たちが群がり、あっという間に手が光に包まれてしまった。指の一本一本にちょこんと座り込んで身体の輝きを明滅させてくる様は実に愛らしい。少年はもう一方の手も差し出し、しばし妖精たちとの対話に没頭した。



 次第に風が強まり、船の周囲に雲が集まってきた。妖精たちが少年の体全体を覆うように身を寄せぬくもりを分け合っていると、不意に頭上から低くしわがれた声が響く。


「移動しろ」


 ガンガンと頭を揺さぶるかのような声量に、妖精たちは一瞬弾き飛ばされたように床板へ向けて落ちていったが、すぐに羽をバタつかせるとあっという間に夜の闇へと散り散りになっていった。少年はかけられた言葉の意味を反芻しようと舵を握り直すと、前方の雲が晴れ、その先に一機の航空機が現れた。


「わっ」


 思わず声を上げ、慌てて足元のレバーを動かす。金属同士が奇怪な和音を立てながら擦れ、甲板と並行だった棒が今度は垂直へと変化していく。何かをはめ込むような大きな音が鳴ると同時に、舳先のランタンが薄紫色に変化した。続いて船の周りに何処からともなく気泡が生じ、見る見るうちに船体を包み込んでいく。懐中時計のような器具──深度計を握りしめながら少年が大胆に舵を切れば、目の前の闇が薄い膜となって突き進む船体を飲み込んでいく。船全体がすっかりその膜の中へと入り込んだ直後、飛行機がその場所を直進した。うっすらと透ける膜の中で、少年の体と船の中を機体がすり抜けていく。


「ふぅ」

「やれやれ。危なっかしいことだ」


 空に垂れ込めた暗雲の中から、暗黒の鱗を纏い、血のような禍々しい瞳を持った竜が顔を覗かせた。あまりの巨体に、体全部を出すには雲が足りないらしい。竜が膜越しにこちらをぎろりと見たかと思うと、首を伸ばしフーッと息を吐く。夜の膜が激しく振動する。大きな船体がグラグラと左右に揺れ、少年は咄嗟に両手で舵をつかんだ。


「黒竜さん、何の前触れもなく浅瀬に来ないでください。皆さん驚いてしまいます。後、息熱いんでやめてください」

「それが恩人に向かっていうことか。後一歩遅ければぶつかっていたぞ。お前は『漕ぎ手』としての技術は目を見張るものがあるのに、どこか抜けている」

「はは……面目ないです。助けてくださってありがとうございます」


 帽子を脱いで綺麗にお辞儀を返すと、黒竜はふんと満足げに鼻を鳴らし、姿を縮めながら雲を這い出てきた。するりと黒い膜を通過し、少年の肩に着地する。


(小さくなると、ちょっと可愛いんだよなぁ)


 思っても決して口には出せないことを考えつつ、少年は帽子を胸の前にあて軽く会釈をした。黒竜はピシリと背筋を伸ばし、長く伸びた尻尾をゆらりと左右に振る。


「それで、今日はどんな用件でこられたんですか」

「なんだ、用がなければ来てはならんのか」


 黒竜は片眼を吊り上げ首をぐっと引いてみせた。喉の奥でちらちらと火花の影が見える。少年の額にうっすらと汗が浮かんだ。


「そうじゃなくて。黒竜さんは星を食べる必要がないでしょう? 何万年も前から存在してるすごい方だから。それにあまり光を好まれないから、浅瀬は眩しいんじゃないかと思って」

「ふん。確かに浅空は俺にとって騒がしい。生物の痕跡も多いし、最近では人間どもまで空をうろうろしているしな。だが、とにかく深空は暇なのだ。俺以外誰も住んでいない」

「そりゃ皆さん星を食べて生きてるから。星も月明かりも届かない深空で暮らせるのは黒竜さんくらいですよ」

「ならお前が定期的に来い。前に来たのはいつだった? 待ちくたびれてしまったぞ」

(待ってたんだ……)


 危うく口に出しかけて少年は何とか言葉を飲み込んだ。黒竜は悪い輩ではないが、少々短気なところがある。彼の逆鱗に触れて前髪が焼け焦げたことは一度や二度ではない。


「今はグリフォンさんもいるのでは?」

「あいつは中空でたらふく食った後深空に寝にくるだけだ。人間時間で言うとかれこれ千年は眠っているぞ」

「ならもう少しで起きるのでは?」

「お前、俺たちの感覚で『もう少し』がどのくらいかわかるか」

「もう後千年くらいですかね」

「わかってるならわざわざ言うな」


 黒竜はぷくりと喉元を膨らませたかと思うと、口からシュボッと火を噴いた。咄嗟に頭を後ろに引いたが時すでに遅し。今回もまた前髪を守ることは叶わなかった。少年は慣れた手付きで炎を払いのける。


「でもだからって急に出てきたら、人間にも見つかりやすいですよ。黒竜さんは存在感あるから」

「馬鹿を言うな。奴らは空を高度でしか捉えない。深度を操れんものに、この空海そらうみは理解されんよ」


 低く唸るような笑い声が響く。おそらく本来の巨体であれば、これだけで大気は震え人間の世界はすべからく地震に襲われていただろう。しかし今はどうだ。マスコットが吠えているようにしか見えない。少年がしげしげと小さな黒竜を見ていると、不穏な気配を感じ取ったのか彼の者の眼光が鋭くなる。少年は慌てて深度計に目を落とした。現在赤い針は『浅空 二〇〇』付近を指している。そろそろ『中空』へと切り替わり、月光も届かなくなる頃だ。船底の向こうにはまばらになった星明かりと深い闇が続いている。生物の拠り所となる雲も少なくなるため、少年が長時間過ごすことができるのもこの辺りまでだ。


「深空に行くのは大変なんですよ」

「知っている。俺の知る『漕ぎ手』の中でも、迷わず辿り着けるのはお前くらいのものだ」

「留まるのはもっと難しいんですよ。せいぜい三十分くらい」

「話にならんな。瞬きしているうちに終わる」

「それ、黒竜さんだけの感覚……」


 再び炎による攻撃が始まった。今度は少年も予測できたため釣り竿を振り回して応戦する。黒竜も彼の髪の毛一式禿頭にするべく、様々な角度から火炎噴射を試みる。

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