嘘つきハーディの嘘

彩瀬あいり

嘘つきハーディの嘘

 ピリオドを打って、ペンを置いた。

 途端、耳に周囲の声が戻ってくる。もとより静かな喫茶店ではあるけれど、カップをソーサーに置く音や、店員の足音、ドアベルが鳴る音は耳をかすめるもの。

 けれど集中すると、そんな些細な音すら私の耳は遮断してしまうらしい。

 物語の世界に入り込んで、私は彼になり、彼女になり、そうして現実に帰ってくる。

 書き上げたときの達成感はいつも大きいが、今回のそれはより深いように感じられたのは、これが最後と決めているからだろうか。


 文筆作業は孤独だ。

 紙面に向かうのは自分だけで、他の介入は存在しない。中には、周囲の人達と相談しながら作業を進めていく作家もいるのかもしれないが、私はそうではない。

 だって私はゴーストライター。

 私が――ハーディ・ヘルマンが書いたものは、まったく別人の名で掲載され、世の中のひとに読まれているのだから。



     □



 フランクリン・グレゴリウスといえば、二十代半ばの私が子どものころから作品を発表している古株の作家だ。一切の取材を受けないため、彼の姿は誰も知らない覆面作家。一時は沈黙を保っていたが、ここ数年は短編を中心に活動を再開させている。


 国民の誰もが知っているほど有名で多筆なわけではないが、王都で発刊されている五大雑誌のひとつに定期的に作品を発表しているのだから、安定した作家といえるだろう。

 私はそんなフランクリン作品を秘密裏に執筆している、彼の影。ゴーストライターだ。かれこれ六年ほど続けている。



 専用の部屋があるほど本に溢れた家で育った私は、御多分に漏れず、読書を趣味とする文学少女に育った。

 母親はフランクリン作品を特に気に入っていたのか、本棚の一角は彼のスペース。影響されて私も愛読していた。

 ジャンルはさまざまだけど、柔らかな語り口で紡がれる物語は、子どもにも読み進めやすかった。私を本好きにしたのはフランクリンなのかもしれない。

 しかし私にとって本とはつまり「読むもの」であって、自身が「書くもの」ではなかった。いや、「書けるとは思っていなかった」が正しいか。


 物語を愛する者にありがちなとおり、想像の翼を広げてあれやこれやと空想する痛い子どもだった。付いた渾名は「嘘つきハーディ」

 成長するにつれ、妄想を声高に主張することはやめたけれど、内側にくすぶってはいたのだろう。

 現実には存在しないものに思いを馳せ、学校生活におけるクラスメイトとの軋轢や先生に対する不満。いまにして思えば、他愛のない、けれどきっとそのときにしか描き出せなかった青い発露をなんとなく文字に起こしてみた理由は、タウン誌に掲載されていたどこかの出版社が主催した小さなコンテストを目にしたからだった。選考員のなかにフランクリンの名があったことも理由だろう。


 卒業を間近に控え、進学と就職に分かれる世代。取り立てて特技のない文系の私は、学生時代のちょっとした思い出として、そこへ応募した。誰にも内緒でこっそり、ひそかに。

 課題以外でなにかを創作したことは初めてで。多くの若者がそうであるように、私もまた心のどこかでわずかな期待を寄せていた。

 あなたの作品が選ばれましたと、脚光を浴びる輝かしい未来が訪れることをひそかに夢見るお気楽なティーンエイジャーを嘲笑うように、しかし私のもとへやってきた予期せぬニュースは、鉄道事故による両親の訃報だった。



 それは大陸全土を賑わせた、センセーショナルなニュースだった。

 敷設が進み、馬車を使えば何十日もかかるであろう旅程を大幅に短縮する鉄道旅行は、爆発的に広がった。客足は途絶えず、鉄道会社は乗客確保に伴い、機関車の数を増やしていく。黒い煙を吐き出しながら、鉄の車は昼夜を問わず大陸を走り続ける。

 その結果が脱線事故だ。


 鉄道を謳歌していた人々はあっさりと手のひらを返し、鉄道会社の批判を始めた。利益を追求し、安全性をないがしろにした運営を新聞各社は報じ、議会でも問題視された。

 民間企業であったことも、問題が大きくなった要因のひとつだろう。急成長した新興会社をやっかむ者は多かったのだ。


 脱線した車両は一部で、そのなかでも横転したのは一車両。次の駅に止まるためにスピードが落ちた状態、夏季休暇も終盤で乗車率はいつもより低く、横転した車両に乗っていたのは十人にも満たなかったという。

 事故の大きさに反して死者数が少なかったことは唯一の幸いともいわれたが、その少ない死者の中に私の両親は含まれていた。


 多くの生存者よりも、わずかな死者のほうが話題を呼ぶのは想像に難くない。

 国が主導し、犠牲者の詳細は秘されることとなった。

 そこには財政界の大御所がいて、表沙汰にはしたくない事情が絡んでいたからではないか、とも囁かれた。

 しかしその「闇に葬られたスキャンダル」のおかげで、私たち姉弟は世間の同情と哀れみと好奇心から身を隠すことができたのだから否やはなかった。


 理由はなんであれ、両親が亡くなったことは周囲に知られる。近所には「旅行で留守にする」と伝えてあったものだから、もしかしたらと噂が広がるのは仕方がないことだろう。

 どこから聞きつけたのか、疎遠になっていた母方の親族が押しかけてきて金の無心を始めた。鉄道会社から莫大な金を貰ったのだろうと言われても、それをどう使うのかは私と弟が決めることだ。


 当時の私は十七歳のまだ学生で、具体的な方策などわからない。弟にいたっては十二歳だった。

 銀行から金を引き出せないとわかると、その替わりにと家財を持ち帰っていく男たちに対抗する手段もなく、家の中は荒れた。お隣に住んでいた老夫婦がいなければ、耐えられなかったことだろう。

 手紙が届いたのは、そんなころだった。


 出版社の名を冠した封筒。本をよく取り寄せるため、両親どちらかの名で届くことは珍しくなかったが、宛名は何故か私だった。

 訝しんだ時間は僅か。ここ最近のバタバタのおかげですっかり忘れていたけれど、そういえばコンテストに応募していたのだったと思い出す。

 沈みきっていた心が、ほんのすこしだけ踊る。

 しかして広げた紙面に書かれていたのは結果の合否ではなく、けれど、それ以上に驚くべき内容だった。

 覆面作家であるフランクリン・グレゴリウス専属担当を名乗る人物は、私たち姉弟へお悔やみの言葉を述べるとともに、こう記してきたのだ。


 フランクリン・グレゴリウスの正体は、あなたの父親フランク・ヘルマンである、と。




 詳細は会って話すと書いてあったとおり、数日後に男が訪ねてきた。

 何度も見たこともある顔。身寄りのない父にとって唯一の交流相手、学生時代からの友人であるジェンキンス・マクスウェル氏だ。

 いつも仕立ての良い服を着ていて、立ち居振る舞いも洗練されている紳士。それでいて驕ったところのない方で、近しい親戚がいなかった私たち姉弟にとって「優しいおじさん」といった存在であった。

 ゆとりのある暮らしをしているのだろうとは思っていたが、彼の家は商売をしていて、出版社もそのひとつ。学生時代から文章を得意としていた父を見出し、小説家への道を切り開いたのは彼だったそうだ。

 文筆業ひとつで生計を立てるには難しく、父は雑誌社に勤めながらの兼業作家となり、自身が勤める会社の出版物にも作品が掲載されるがゆえに、正体を秘すことを選択。フランクリンはいつもジェンキンスを通して作品を発表していたので、誰も気づかなかったという。


 にわかには信じがたい話だった。

 しかし、父とフランクリンを同一視するひとが少なかったことには、すこしばかり納得もいく。

 私の父はなんというか、とても無骨な印象のある男だ。声は低く顔も険しい。黙っていると「怒っているのか」と敬遠されるようなひとである。フランクリン作品から受ける穏やかさとは真逆。

 けれど私はすとんと納得してしまった。

 フランクリンの本を読んでいると、まるで父が話をしているのを聴いているような気持ちになってしまう理由は、彼が父そのものだったからなのだと、腑に落ちてしまった。

 ジェンキンスは神妙な顔で続ける。


 フランクリンとの契約はまだ活きている。彼が亡くなったことは誰にも知られていないから。

 そして彼の連載作品はまだ終わっていない。

 ミス・ハーディ。君が続きを書いてくれないか。



     □



 あまりにも無謀な取引に応じた理由はふたつ。

 ひとつは弟の将来を案じたこと。

 母方の親族からの猛攻は収まらず、弟は誘拐されかけたのだ。彼の安全を確保するため、予定を早めて寄宿舎へ入学させることにしたのは、ジェンキンス氏の進言である。理事とも繋がりがあるらしく、話をつけてくれた。

 見返りを要求しての行動ではないだろうが、恩は返さなくてはならない。


 ふたつめの理由は、ジェンキンス氏から聞いた父の言葉だ。



 フランクは応募作品にあった君の作品を握りしめて、とても嬉しそうにしていたよ。

 ジェン、俺の娘は凄いだろう。初めてとは思えない。素晴らしいとは思わないか。

 目をぎらつかせて、しばらくは興奮していた。形相が怖すぎて周囲の者は「ついに誰かってきたのか」と囁いたぐらいに高揚していたよ。



 目に浮かぶような光景だ。私の父は本当に見た目と内心が乖離している。

 学生寮暮らしで実家からは離れていたけれど、もしも自宅から学校へ通っていたとしたら、父は私にどんな態度を取ったのだろうか。

 想像すると泣き出しそうな衝動に襲われる。


 ジェンキンス氏とともに向かった父の書斎。そこに置かれた小さな金庫の番号を彼は知っていた。

 私の誕生日。ダイヤルを回して開錠すると、中にはたくさんの執筆メモが残されていた。

 フランクリンは丁寧なプロットを作る作家らしい。現在連載中の物語に関しては結末まですべて記されていたため、道筋に困ることはなかった。

 その他にも、これからの構想や新作の種がいくつもいくつも保管されている。

 とはいえそれはあくまでも「案」であり、小説の形を成しているわけではないのだ。ド素人の私が、すでにいくつもの作品を発表している作家に成り代わることができるとは思えない。

 父は私を手放しで褒めたというが、それは身内の欲目。親ばかな発言でしかないだろう。



 フランクが娘を愛しているのは間違いないけれど、作家としての目が曇っているとは思わない。

 それにね、フラクリン・グレゴリウスの物語をずっと読んで支えてきた担当として言わせてもらえば、君の文章はとても彼に似ているよ、ミス・ハーディ。

 ひとまず書いてごらん。結果はそのときに考えよう。



     □



 弟が家を出ると、実家はとても広くなった。

 ジェンキンス氏の伝手を借りて実家は貸し出すこととなり、私も拠点を移すことにしたのは、作家業を知られないようにするためでもある。

 家にあった膨大な蔵書は図書館へ寄贈し、私はフランクリンの本のみを持って独り暮らしを始めた。

 都心からはやや外れた町の雑貨屋を紹介してくれたのもジェンキンス氏であった。なにからなにまで世話になりっぱなしである。


 執筆に際し、ジェンキンス氏とは電話や手紙のやり取りに絞った。あらぬ誤解を避けるためにも、そうしたほうがいいと言われたからだ。

 父と同じ年齢の男性とはいえ、妻を亡くした男と独り身の若い女。くだらない下卑たことを噂する輩は、どこにでも湧いてくるだろう。

 たしか彼にはひとり息子がいたはずだ。自分の父が、自分とそう年の変わらない女を囲っているなど、不快になるに違いなかった。私が逆の立場なら、父を嫌悪したと思う。




 ひとつ、ひとつ。

 私は物語を積み重ねていった。


 執筆の速度は速くない。

 綴っては止まり、途中まで書いては止まり。

 途中で投げ出したくなったことは何度もあったけれど、それでも続けてきたのは弟を無事に卒業させるまでは「フランクリン・グレゴリウス」として仕事を用意してくれると請け負ってくれたからだ。


 進学を諦め就職を選んだけれど、たいして頭もよくない女が稼ぐ額なんてたかが知れている。

 弟の学費は両親がある程度残してくれていたけれど、継続的な収入はなくなる。資金は決して潤沢ではないのだ。

 切り詰めて生活する必要があり、けれど弟には遠慮してほしくない。

 姉である私は不自由なく青春を謳歌したというのに、弟には「節制しろ」だなんて言えないし、言いたくもない。



 姉さんは大丈夫、あんたはしっかり勉強しなさい。

 こう見えてもそれなりにもてるのよ。恋人候補にも困らないぐらいだわ。



 長期休みのたびに顔を合わせる弟には、そういって笑ってみせた。

 大丈夫、嘘は得意だ。

 だって私はずっと嘘をついている。

 弟どころか世間に対して、大きな嘘をつき続けている。


 作家、フランクリン・グレゴリウスはもうこの世にはいないのに。

 彼の振りをして、彼に成り代わって、彼が考えた物語を、あたかも彼本人であるかのような顔をして発表し、本来は彼が受け取るべき名声を享受して、報酬すら受け取っているのだ。

 とんだ大ぼら吹き。世紀の大悪党である。



     □



 フランクリン宛に送られてくるファンレターは箱に詰めて仕舞いこみ、私は目を通していない。これらは父が受け取るべきもので、私に宛てられたものではないからだ。他人宛の手紙を黙って読むのは気が引ける。

 専属であるジェンキンスが一度開封し、中を確認しているというし、本当になにか対応しなくてはならないような事柄があれば、彼のほうから打診があるはずだという安心感もある。


 当初はなにくれと世話を焼き、こまめに電話をくれていたものだが、やがて頻度は減り。最近はもっぱら手紙でのやり取りだ。

 直接的な交流は減ったように思えるが、文章のみで伝え合うほうが心根を明かしやすいと感じるのは、私が偽りとはいえ文筆業をしているからなのだろうか。


 ジェンキンス・マクスウェルは私にとって、嘘をつかなくてもよい人物で、偽りのない本当の私を明かせる唯一の相手。

 突然両親の庇護を失い、世間を騒がせた鉄道事故の犠牲者の家族であることを隠し、母の親族を名乗る男たちに強盗のような真似をされ、逃げるように生家を去り、仕事が休みの日は引きこもって誰にも明かせない立場で執筆活動をしている。

 影に隠れ闇に身を潜め、噂から、真実から、世間の目から、あらゆるものから身を隠し、ごまかして、嘘で塗り固めて、真実を隠すハーディ・ヘルマンの本当の姿を知っているのは、ジェンキンスだけ。


 彼だけが、私を知っている。

 私が私であることを、彼だけが知っている。



 直接会うことを避けたジェンキンスには先見の明があったのか。

 いや、大人である彼は、世間を知らない小娘が己に依存してしまう可能性を見越していたのかもしれない。

 だってどうして好きにならずにいられるだろう。

 父と同年齢とは思えないぐらい、彼の言葉は若々しい。

 綴られる文字から伝わる実直さ、送った草案に対する指摘は鋭く、けれどこちらを否定しない言葉運びで伝えられるため、物語の質はあがる。


 なにか困っていることはないか。職場環境や生活面での悩み。

 年若い娘の独り暮らしを慮っての言葉の数々は、秘密を抱えた孤独な心に寄り添い、柔らかく包み、固まった気持ちを溶かしていく。

 覆面作家であった父とも、紙面を介して作業することが多かったため、私とも同じ方式を採用させてほしいと乞われてのやり取りだが、会わないことで私の想いはよくない方向へ突き進んでしまったと思う。


 職場と家を往復するだけの生活。息抜きに喫茶店へ行く程度の私に、雑貨屋の女店主は呆れと心配をないまぜにしたような顔をする。

 両親を亡くし、学生の弟へ送金するために働いている事情は伝えてあるため、娘か姪を見るような思いを抱いていることはありがたく感じるが、彼女にすら私は嘘をついているのだ。だからどこか後ろめたい気持ちを隠せない。


 売り子をしていると、若い娘というだけで、なにかと声を掛けられることもある。あきらかに遊びとわかる誘いには罪悪感などなく、適当な嘘で煙に巻くことは厭わないが、真面目なひとにはどう対応していいかわからない。


 控えめに声をかけ、必要以上に踏み込んではこない気遣いもある。どこかジェンキンス氏に似た雰囲気のある、私よりもいくつか年上と思われる男性。

 どうやらそのひとのことは店主も知っているらしく、それとなく交際を勧めてくるが、どんなに身なりの整った相手であっても、私の心は動かなかった。

 動かないことで、自分の想いの深さをいやでも自覚したともいえる。

 ああ、このままでは駄目だ。どこかで区切りをつけなければ。



 だから私は終わりを見定めた。

 鉄道事故から六年。昨年、慰霊祭が営まれ、世間でもひと区切りがついたという風潮になっている。

 そしてこの夏、弟は寄宿学校を卒業する。


 父が遺した創作物の種もなくなり、最後の物語にピリオドを打ったところだ。

 これを以って、フランクリン・ゴレゴリウスの作品もおしまいだ。

 私のゴーストライター生活も終わり。

 二重生活を終わらせて、私の苦く青臭く、みっともない恋心も終わらせよう。

 今年の夏にすべてを終わらせると決めて、いままで以上に力を入れた最後の原稿をジェンキンスへ送り、私は手紙に思いの丈を綴った。



     □



 親愛なるジェンキンス氏


 これが父が遺した最後の物語です。

 フランクリン・グレゴリウスの遺作として発表してください。

 弟も就職が決まり、独り立ちします。

 いままで私たちを気にかけてくださって、本当にありがとうございました。

 貴方がいなければ、私たちは母の親族の食い物にされ、両親が遺してくれたものはすべて奪われていたことでしょう。どれほど感謝してもし足りないほどです。

 私が父の振りをして、世間を欺き続けてこられたのも貴方の尽力あってのこと。

 素人の私を導いてくださって、ありがとうございました。

 最後にひとつだけ我儘をお許しいただけるなら、愚かな小娘の想いを受け取ってください。


 父のように慕っていると伝えてきましたが、私は貴方をひとりの男性として愛しています。

 ずっと偽っていてごめんなさい。

 さようなら。


 嘘つきのハーディ・ヘルマン



     □



 独り暮らしとはいえ、六年も過ごせばそれなりに荷は増える。次に暮らすのは、今よりも狭いアパルトマンなので、減らさなくてはならない。ジェンキンスが斡旋してくれた部屋は、彼の名があってこそ家賃を下げてくれていたのだと後になって気づく。

 フランクリンではなくなった私が、変わらずここに住むわけにはいかない。まして、あんな手紙を送ったあとだ。顔を合わせるかもしれない場所にいるのはさすがに気恥ずかしいというものだ。

 子どもの戯言と流してほしいような、けれど女として見てほしいような複雑な気持ち。


 玄関ブザーが鳴った。引っ越しに際して管理人が来ると言っていたが、もう到着したのだろうか。

 扉を開けると、そこにいたのは見覚えのある人物。雑貨屋によく現れる、生真面目なひと。店主がやたら紹介しようと試みていた、あの男性。


 まさか彼女の仕業? 引っ越しすることは伝えていたが、手伝いに寄越したのだろうか。

 訝しむ私の前に、彼は驚くべきものを差し出した。

 それはつい先日、私が郵送したばかりの原稿に添えた恋文。

 混乱する私に、男は頭を下げた。


「すまない。僕は――僕たちはずっと君に嘘をついていた。嘘つきは僕のほうだ、ハーディ」



     □



 ジェイク・マクスウェルと名乗った男は、ジェンキンスの息子だという。

 そして父親は四年前に亡くなったのだと語った。

 病に侵されていたけれど、旧友が子どもを残して亡くなったと知って、居ても立ってもいられなくなった。立場上、取り繕うのが得意で、会ったばかりの私に不調を悟られないように振る舞うなど、造作もなかったことだろうと、苦く笑う。

 四年前といえば、完全に電話をしなくなったころに重なる。



「だから、手紙だったんですね」

「君が父親を演じているように、僕も父に成り代わって君に接していた。ずっと嘘をついていた。いや、君の正体を知っているぶん、僕のほうがよほどひどい裏切りだ。恨んでくれていい」

「そんなことはないです」


 手紙に綴られていたものは、彼本人の言葉で。

 私はそこから滲む人柄に惹かれたのだ。

 目の前にいる彼が発する言葉。まぎれもなく手紙の主であることを察せられた。

 六年間、他人の名を借りていたとはいえ、文章に携わる仕事を続けてきたのだ。彼の文章に偽りの気持ちが入っていないことはわかる。心が伴わない文面は、読めばわかるから。


「ありがとうございます。きっと恐ろしかったでしょうに、貴方はこうして直接やってきた。許す、許さないの問題ではないです。あの手紙がなければ、私は続けてこられなかったのだから。恨むなんて筋違いだわ」

「礼を言う、ハーディ。だけど今日こうして来たのは謝罪だけではないんだ」

「といいますと」

「さよならは言わせない」

「……で、ですが」


 強い眼差しに射抜かれて、つい俯いてしまった私の手を取り、彼は続けた。


「フランクリンの遺作は発表する。だけどその次はハーディ・ヘルマンの新作発表だ。四年間、ずっと君を見ていた。僕は君の物語が読みたい」

「だけど私みたいな嘘つきが――」

「作家なんてみんな嘘つきさ。いかに上手に嘘をつくかの商売だよ。この六年、君は誰にも見抜けない嘘をついてきたんだ。デビュー前から大作家だよ」


 ジェイクが歯を見せて笑い、舞台役者のように両手を広げてそんな言葉を放った。

 懐かしそうに父のことを語ってくれた六年前のジェンキンス氏の姿に重なり、彼が語った父の娘自慢が脳裏に蘇る。

 そういえば、近所の子どもたちに「嘘つきハーディ」と笑われることを、父は決して悪く捉えなかった。

 嘘にも種類があって、ひとを傷つける嘘があれば、ひとを救う嘘もあるんだよと、頭を撫でて言ってくれた。


「……私、もっと上手な嘘つきになれるかしら。もっともっとたくさんの嘘をついてもいいのかしら」

「僕はその嘘が見たいよ。だけどひとつだけ嘘じゃないと嬉しい」

「なにかしら」


 ジェイクは私が書いた手紙を机に載せると、もういちどこちらの手を取る。

 そしてやや頬を赤らめて、恋文の返事をくちにしたのだった。




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