今日のビーナス

@yomunyamKL

第1話

おはようビーナス最後の1日よ

地球の外側から回り込むには月と太陽の位置を人差し指でたしかめて。


「うん。」

涙が頬をつたった。枕カバーのいちごの色は濃くなった。時計を確かめる。枕元のヘアゴムで腰まで伸びた髪をまとめると、今日が平日であること、そしてそれは昨日の延長であり明日もまた同じ日が始まることを私は寝ぼけた頭で考える。頬を触る。どうして泣いていたんだっけ。

学校へは自転車で30分かかる。朝の20分で結えた髪も塗りたくった日焼け止めもこの夏の太陽の元では関係ない。前髪から汗が落ちる。学校の方角をにらみつけるようにして私はペダルを漕ぐ。ギアを低くして立ち漕ぎで橋をのぼり、ギアを高くして橋をくだる。はあっと息をつく。毎日毎日、絶好調ですな、お天道さん。

授業中、自分が無意識の底に沈んでいくのが分かる。週の真ん中6限目。体育で行われたバスケットボールの試合は12人ずつ3分交代で行われる。見ている側は暇である。持ったり打ったりとったり。誰がしていようと知り合いと友達の境界の存在を考える恭子にはひどくぼやけて見える。目の前でバスケットボールに精を出す同級生は恭子の名前を知らないだろう。そして恭子自身もまた、彼女たちの名前を知らないのだ。そこには何の悪意もない。この授業以内に、両者に同じ世界が広がるとは考えずらい。ぶくぶく。恭子は想像で授業から抜け出してしまうことにした。体育館が水に沈められていく。その水位は高くなって、やがて恭子たちは体育館という水槽の底にとぷんと潜り込んだ。

試合の歓声も蝉の鳴き声も低くなって、ぶよぶよとゆがんだバスケットボールが目の前をゆっくり跳ねていく。ぶくぶく。ゆらゆら。みんなきづいてないわ、今私たちは水の中で息をしているのよ。くるしくないのかしら。観戦に熱を上げる同級生たちを恭子はふしぎな気持ちで見つめてみる。彼女たちにとっちゃ、知らんこっちゃないだろう。そう、だから、雨の日がすきだ。傘をもって長靴を履いて、雨の日は携帯もお財布も持たずに家を出るのがいい。家の鍵だけをポケットにつっこんで。ぱっ、と傘をひらく。私の傘の下だけがわたしの世界だ。濡れないように、はみでないようにぎゅっと持ち手をにぎりしめて。街はすこしだけ灰色。人々も少しうつむき加減に歩いていく。雨のおとだけが、ひびく。雨の日だけは、靴の音じゃなくて、笑い声じゃなくて、雨のおとだけを聞けばいいのだ。そして、自分のつくったじぶんの世界にただ、かくれていればいい。雨音はきっと、寄り添ってくれる。今もそうだ。恭子はゆらゆらと揺れる髪の毛のすきまから同級生を観察している。自分の世界から少しそちらをのぞいてみる。はあ、とついたため息にひとつふたつ泡がぷくぷくと上へ上がっていく。すうっと手を伸ばしてそのまま伸び上がり、腕でかく。わたしの意識はゆらりと浮かび上がって軽やかに一回転する。私は膝を抱えたまま時計を見やった。今日も1日が過ぎていく。

今朝見た夢の場面を思い出す。そうだ、私ビーナスだったのよ。アクティブなバスケットボールとふわふわとんで行ってしまいそうに軽い自分の夢のエピソードはむすっと結ばれた恭子の口角をほぐした。あまりにギャップがあったからだ。輝く同級生の汗と溶けていく時間の中で恭子は今日もゆっくりとあくびする。

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