46年後

 水月が結婚式を挙げた日、僕は三十になっていた。

 例の一件以降、坂下屋に行く用事がなくなった。というかそもそも仕事が忙しくて、飯をゆっくりとる暇もないまま、気づけば十年も生きていた。疲れや劣等感で心から色が抜け落ちたのも、もう何年か前の話だ。それに慣れてから、色んなことを諦められるようになった。意地がなくなったといってもいい。二十代の自分の真ん中を陣取っていた精神が、いつしか使い物にならなくなって、必要とすらされなくなったのは、少し寂しい。

 とにかく、僕はあの日以降もしばらくは彼女を気遣っていたのだが、時の波が、脳内から大事な記憶も押し出していった。そうして気づけば音沙汰がなくなっていた連絡先から久しぶりに着信があったので、僕はひょっとして、借金の肩代わりでもさせられるのではないかと疑ったが、そうではなかった。


「青都を招待するか、随分と迷ったの」


 彼女は苦笑した。僕だったらしないのに、と言うとまた苦笑した。


「でも、私が幸せになったって証拠を見せることが、あなたへの恩返しになると思って」


 恨まれているとさえ思っていた彼女が、自分に恩義を感じていることが意外だった。僕が正しい道を一度でも選んだだろうか。自信がなかった。ひとまずは記憶を美化する時の作用としておくことにした。


 式場に向かう途中、久しぶりに坂下屋の前を通った。足を止め、店の前に立つと「臨時休業」と書かれた張り紙がされていた。僕はしばらくそれを眺めていた。


「お、何や、やってねえとよ」


 いつの間にか隣に立っていた、僕よりひとまわり年上と見える男が、連れに呼びかけていた。僕の視線に気づいた男は、すぐに立ち去ろうとしたが、何かに気づいたように振り返った。


「あんた、もしかしてここ、よう来とったか」


 僕はまじまじと男を見つめる。言われてみればこんなのが常連にいたような、いなかったような気がする。そんな僕の困惑をよそに、男は満面の笑みを浮かべた。


「そうやそうや、思い出した。あんたほら、みっちゃんと仲良かった子やな」


 それが水月のことを言っていると気がつくのに、少し時間がかかった。


「なんや、ここ最近見いひんくなったさかい、痴話喧嘩でもしたんか思うてな」


 今日はあいにくやけど、また来いや、と男は愉快げに僕の肩を叩いた。そうして歩き出そうとした男を、僕は慌てて引き止めた。


「あの、どうかこれからも坂下屋をお願いします。いい店ですから。それから水月のことも、よろしくお願いします」


 男は不思議そうに僕を見た。しかしすぐに、分かっとる、と笑いかけた。僕はそれに心底安堵し、やっとのこと男を見送った。

 肩の荷を下ろすことができたと思った。あるいは、僕が勝手に背負った気になっていただけなのかもしれない。ずっと、彼女のことを心配していた。それと同時に、彼女を悩ませるのが僕の存在であることも、よく分かっていた。


「もう、大丈夫だ」


 最後に店の写メでも撮ろうかと思い立ったが、やめた。僕は再び歩き始めた。

 ここに来る必要はなくなったと思い、随分と気が楽になった。



 式場には、水月の高校時代の同級生のために設けられた席があった。同窓会以来の懐かしい顔ぶれが揃っていて、僕たちは邂逅の喜びを分かち合った。


「聞いたか、坂下の相手、年上の経営者で、お偉いさんの息子だってさ」


 誰ともなくそんな話題が放り込まれると、場は騒然とした。玉の輿だの戦略結婚だの、各々勝手な見解を並べるのを見て、きっと水月もいい迷惑だろうと思った。そんな会話に首を突っ込む気力も、とうに失った僕だったが、その結婚相手に関しては、妙に腑に落ちるところがあった。経営者と知り合ったのは、多分坂下屋のビジネスを拡大する過程であろう。過去の恋愛で負った傷も含めて全てを受け止めてくれる、頼りがいのある年上の男に惹かれたのであろう。きっとそいつの財産や地位はどうでもよくて、その内面が好ましかったのだろう。そこまで思考を展開して初めて、これこそ勝手な見解だと思ってやめた。


 間もなく音楽がかかり、会場が暗転した。司会者が新郎新婦入場を高らかに宣言すると扉が開き、拍手喝采が飛び交った。

 心を動かされた。水月の立ち姿は、目映いほどに純潔で、目を奪われるほど美しかった。しばらく見入ったあとで、またひとつ、腑に落ちた。僕は笑って、何度か頷いた。


 花嫁姿が唯一無二の輝きを持つのは、彼女がこれまでに乗り越えてきた苦難と、それを凌駕するこの瞬間の幸せが、見る者を魅了するからだ。思えばかつて、水月は僕といたいと望んだかもしれないが、その時間はきっと、不幸だっただろうと思う。今の水月を見れば、一目瞭然だ。彼女に見合った器量の男が現れて、本当によかったと思う。


 その後は余興でひとしきり盛り上がり、スピーチやサプライズでひとしきり感動した。旧友たちは久方ぶりの再会を祝して飲み明かそうと提案してきたが、明日は仕事があると断った。それに少し、頭がふわふわしていた。自宅についてからも、しばらく夢見心地だった。


「どうか幸せに」


 水月のラインにそう打ち込んではみたものの、流石に素面で送る文章ではないと、スマホをソファに放り投げた。その瞬間、着信音が鳴った。見ると、水月からメッセージが届いていた。


「次は青都が幸せになる番だね」


 先回りされた気がして、とても恥ずかしくなった。でも、すぐに画面を閉じずに、しばらくその文章の温もりに浸っていた。水月の声が聞こえてくるようにさえ感じた。


「参ったなぁ」


 返信はせずにスマホを閉じた。僕はとんでもなくいい女を取り逃がしたのかもしれない。そう考えて、僕は吹き出した。



     ✽



 水月から届く年賀状に写る子供が、ランドセルを背負うようになった頃、僕が向かった先は、赤松さんのケーキ屋だった。


「二十年経つか、あいつが死んで」


 そう寂しそうに口にする赤松さんの声は、以前に比べて随分しゃがれている気がする。

 赤松さんが父を亡くして五年経つ。葬式に呼ばれたとき、四十を回ると周りの人間の死に直面することが増えるなと思い、瞳のことを棚にあげて、僕はそれなりに悲しい気持ちになった。それでも、京八の葬式で、彼の体を前にしてかき混ぜられた、心中の罪悪感や無力感に比べれば、幾らか安らかな式だった。この時代に老衰で逝けて、親父も幸せだったと思うよ、と話す赤松さんの笑顔に、どれほど救われたことか。


「長かったのは初めの三年で、あとの十数年はあっという間でしたね」


 閉店時間をとっくに過ぎた店内で、僕たちはテレビを観ていた。奥にある休憩部屋から、赤松さんが持ってきたものだ。この時間帯にやっている番組を一緒に観るために、わざわざ訪れたというわけだ。


「いつでも連絡しろよ」


 葬式で会うたびに、赤松さんは僕にそう言った。寂しいのだろうと思った。お前はまだ生きろよ、と言っているようにさえ僕には聞こえた。その一言だけでそう判断するのは尚早かもしれないが、何にせよ僕は敬遠していた。そうして結局連絡しないまま、五年も放置した僕が、迷わず携帯を手に取ったのは、テレビ欄で京八を目にした日だった。


「特番が組まれるみたいです、夜九時半から」


 その番組では、二十年前に存在したスターとして京八が取り上げられ、過去の映像が流されたり、若い歌手が楽曲をカバーしたりしていた。京八がカメラに写り続けた、数年間の映像を連続して見ると、みるみるうちに痩せていくのが分かった。顔を背けたくなるほど、いたたまれなくなった。夢に翻弄され続けた男を救い出せなかった責任が、重くのしかからなかった日はない。

 ふと赤松さんのほうを見ると、そのタイミングで目が合った。その瞬間、赤松さんは、僕の考えていることを察したかのように俯いた。そして、画面の向こうで涙ぐみながらコメントする女優を見て口を開いた。


「まあ、世間もまだまだ忘れちゃいなさそうだ。今でもあいつが生きてる心地がする」


 その事実は、かなり僕の励みになった。いつか嬉しそうに夢を話していた京八の、満面の笑みが目に浮かぶ。目標の一万年なんてまだまだだぞ、と意地悪を言ってやりたくなる。それでもきっと、あいつは屈託のない笑みを見せるに決まっている。それが、僕の希望になる。

 46年先なんて、想像もつかなかった。その宣告を受けた二十代の僕には、満ち足りた五十年弱を生きられる自信がなかった。彼女の目覚めに翻弄され続けて一年の段階で、随分と疲れ果てていた。でも、愛はあった。人前で堂々と話すには恥ずかしいことではあるが、百年先だって、僕は今と同じように、新鮮に彼女を愛する自信があった。その気持ちを開け放ってくれたのが水月で、背中を押してくれたのが京八だった。僕らが皆、運命に翻弄された者同士であったから、僕は間違っていないと確信できた。とっくに火は点いていて、僕は走るだけだった。



     ✽



 時間とは奇妙なものだった。46で区切った時間の間隔は確実に開いていくけれど、人間は晩年に向かうに連れて、流れていく時の速さに追いつけなくなる。人生の密度が小さくなっていっているとは思わないが、ある点では認めなければならないのかもしれない。瞳がいなければ、もっと早くに人生に置いていかれ、魂を殺していても何ら不思議なことではなかった。

 そんなことを考えながら、病院まで歩いていた。見舞いは日常的に行っていたので、僕は今日が「46年後」であることすら、危うく忘れるところであった。瞳の病室がある三階まで、階段を一段ずつ上がっていく。一段上がるたびに、膝に響くようになったのが何年前か、それもよく覚えていない。覚えていないから、エレベーターに移行するタイミングも失ってしまった。

 病室には既に、例の医者が待機していた。相変わらず噛み合わないことも多いが、変わらず元気だ。ここまでくると、もはやかかりつけ医と言っても差し支えなく、そのいちいち聞き手を逆撫でするような発言にも、大方慣れてきた。


「いよいよですな」


 医者はいつになく緊張した面持ちだった。それが可笑しくて、僕は思わず吹き出しそうになった。

 一度だけ、彼女の夢を見た。そこにいた僕はまだ二十そこそこで、彼女が隣で息をしていた。場所は地球がかろうじて目視できるくらいの距離にある、灰色の小惑星。風が強く吹いていて、二人の髪がなびいていた。

 彼女が立ち上がって、口を開く。


「この星は、地球の周りを回っているの。でも、その距離はどんどん離れていく。その公転周期は、どんどん長くなっていく」


 遠くに見える太陽系以外は、何もないに等しい銀河だった。僕は彼女を見つめる。彼女はどれくらいの間、ここにいたのだろうと思った。音一つない空間で、自らの鼓動だけに耳を澄ませながら、生命の星から少しずつ離れていく孤独な道のりだ。自らの生を信じ続けるには、絶望的すぎると僕は思う。

 彼女は僕を見て微笑む。


「私ね、ここから青都のこと、ずっと見てたんだよ」


 夢はそこまでだった。目が覚めてからも、実に長い間、その意味を考えていた。

 いつか彼女が、死んだ星の話をしてくれたのを思い出した。今我々に届いた光が、この瞬間にその星が発した光ではないということ。それを瞳に当てはめて、随分と不安になったものだった。でも、それも平気になった。彼女の生死という不確定な事物に心をかき乱されるよりも、彼女が、少なくとも今は生きているという事実に賭けてみたいと思った。

 いよいよ、と医者が言ったのに、何と返答すべきか悩んだ。医者はきっと、これがラストチャンスのつもりなのだろうと思った。でも、僕にはそうは思えなかった。もしかしたら46の法則性が実は間違っていて、急に明後日あたりに目を覚ますかもしれないじゃないか。仮に次が46世紀後か46万年後だったとして、僕が死ぬまでにコールドスリープの技術が発達して、そんな果てしない未来まで、人体を保存できるようになるかもしれないじゃないか。もう何かに翻弄される時期は過ぎ去った。陳腐かもしれないが、そこに希望があるならば、それにしがみついていたい。それがみっともないと吐き捨てるほどのプライドも、過去に置いてきたものの一つだった。

 時計が向けてくる悪意にもすっかり慣れてしまった。すると、時計は驚くほど針を刻んだ。やがて0時を回り、病室中の機器が喚き始める。医者が息を呑んでそれを見つめる。


「今夜目覚めなくたって、なんてことない。今まで通り、僕は待ち続けるだけだ」


 そう考えていた。しかし、反芻しているうちにそれが強がりに聞こえてきて、案外まだまだ若年の気力が残っているじゃないかと感心した。そして、瞳の手がピクッと動いた気がして、そうすると僕の体は正直に反応して、僕は胸の高鳴りを感じないではいられなかった。

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