46ヶ月後

 四ヶ月が経った。春を何かの始まりの季節と捉えることは、学生以来なかった。だが、ある朝外に足を踏み出したときの、昨日までとは明らかに違う陽気に包まれたとき、俺は不思議と心踊った。

 解散後しばらくして、僕は就職活動を始めた。バンドを組んでいたときのバイト先で正社員にしてくれと交渉したが、まともに取り合ってくれなかったので辞めてやった。初めは店長が狂っているものだと思い込んでいたが、面接で二、三回落とされてようやく、自分のことを省みた。新卒のときに真面目に就活をせず、明け暮れた音楽も中途半端で投げ出した僕への、社会の風当たりは強かった。


「社会の一員としての自覚だってさ、瞳。誰も入れてくれなんて頼んでねえのにな」


 僕はそっと呟き、近所の花屋で買った、黄色のスイートピーを挿した。


 パステルエースワンが解散してから、毎日見舞いに来るようになった。ある一時を心待ちにするよりも、ずっと楽だった。そして時々、今日のように花を買ってくるようにした。花言葉は聞かないし、調べない。人への贈り物が、純粋に相手に喜んでほしいという気持ち以上の意味を持ち出したら、それは欺瞞だと思った。前日に見た瞳の姿に、一番良く合う花を選んだ。


 病室の窓からは桜の木が並んで見える。僕は鮮やかなピンクの桜が好きだから、ここらへんに咲く白っぽい桜は正直気に入らないけれど、今朝青空をバックにそれを眺めたとき、悪くないと思った。今まで立ち止まって空を見上げることなんてしてこなかったから、気づかなかったのかもしれない。


「面接ってつまんねえよ、瞳。こんな下らねえことしてるから、日本ってつまんなくなってくんだろうな」


 僕の愚痴はどうしようもないものばかりだったが、行き場がないわけではなかった。その声は確かに瞳に届いているはずだという実感があった。


 そんな僕が内定までこぎつけた頃には、もう葉桜の季節を過ぎていた。


「内定、おめでとーう!」


 その日は坂下屋で、二人だけの祝賀会が開かれた。


「ありがとう、水月」


「乾杯だよ、乾杯!今日は飲むよー?」


 そう言うと彼女はジョッキを高く掲げ、生ビールをぐびぐび飲んだ。

 かつて僕たちが「麺祭り」に行った後も、水月は新メニュー考案と現地調査に奔走した。その結果、伝統伝統と頑なだった父も、ようやくリニューアルを受け入れてくれたらしい。営業日だけは譲歩したらしく、今まで通り月の前半しか暖簾を出さない。しかし、水月の提案で、夜は居酒屋としてやっていくそうだ。


「これ、おつまみ。唐揚げ、ユッケ、きゅうりの浅漬け。変わり種だと、チーズチャーハンっていって、私考案」


 で、これは私の、と水月が自分のほうに引き寄せたのは、チュロスが豪快に刺さったミニパフェだった。チュロスを見ると、あの日の切なそうな彼女の顔が浮かんで、胸が痛んだ。

 それで罪悪感を感じたからだろうか。そうでなければ、あのような誘いに、自分が乗るはずもなかった。


「青都の就職も決まったし、うちもこれから忙しくなるし、お互い大変だねー」


「そうだね」


 水月は何か言おうとしてそれをビールで飲み込んだ。顔を赤らめ、また口を開くも、言葉は出てこない。僕はそれに気づかない素振りで、カウンターのほうに目を移した。角の曲がった女性ものの雑誌に、付箋が何枚かつけてあった。


「プ、プライベートとかもさ、合わなくなってくるだろうし、その……」


 水月は言葉に詰まり、慌ててビールを飲み干した。


「思い出作り!最後の!あ、最後って言うとアレだけど、あ、でもそんな感じ!」


 一息にそう言うと彼女は途端に口ごもり、遠慮がちに、どうかな、と呟いた。


「良いんじゃないかな」


 僕がそう言うと、水月は顔をぱあっと輝かせた。僕は申し訳なく思った。僕の気持ちが揺れることはないわけだから一概には言えないけれど、水月の誘いに応じたのは優しさであったと、少なくとも僕は思っている。



   ✽



 僕が社会に入っても子供心を失わないように、というよく分からない理由で、行き先は遊園地に決定した。


「お待たせ!」


 振り返って、僕は思わず、あっと声をあげた。

 いつもの、髪を無造作に縛り、Tシャツとジーパンを愛用している様子からは、まるで想像できない姿で彼女は現れた。肩くらいまである髪はふんわりと巻かれ、赤い口紅が白い肌に映えている。服装はまるで例の雑誌から飛び出してきたようだった。胸元に黒いリボンがつけられたベージュのワンピース。足元は黒いハイヒールでぐらついている。


 そういう彼女の格好が意味するところが分からないほど、僕は鈍感ではなかった。それが苦しくて、今日彼女が仕掛けてきた真っ向勝負を避けることはもはや叶わないと、僕は確信した。


 改めて見ると、水月は顔を真っ赤にしていた。


「変かな……?」


「……いいと思うよ」


 水月が照れくさそうに笑った。これが僕の精一杯だった。


 その日は文字通り振り回された。水月が乗りたいものに乗り、食べたいものを食べた。ひょっとして彼女はとっくに僕の小細工に気がついていて、それを見過ごそうとして、想いを発散しようと躍起になっているのかもしれないと、僕は勘繰った。でも彼女が本気で楽しそうな顔をするものだから、そう思うことすら申し訳なく感じた。ひねくれた考えはよそうと思った。だが、考えずにはいられなかった。

 そして、ここにいるのが瞳だったらどうだろうかと、たとえ心の片隅であったとしても考えてしまう自分がいた。比較して優劣をつけているわけではないけれど、そういう自分の不誠実さというか、冷淡さが嫌だった。

 僕が思考をぐちゃぐちゃに掻き回しているのとは対照的に、水月はすっきりした笑みを浮かべていた。その日の水月は、口数が極端に少なかった。地元の小さい遊園地だから待ち時間もほとんどなかったけれど、昼食をとっているときでさえ、彼女は何も言わなかった。それどころか、僕のほうすらあまり見なかった。僕から話したいことはたくさんあるのに、彼女の佇まいがそれをさせなかった。彼女は相当な覚悟をもってきている。もしかしたら彼女も、思考をぐちゃぐちゃに掻き回す経験をとっくにしているのかもしれないと、僕は思った。


 それでも笑顔は絶やさなかった水月だったけれど、園内が暗くなってくる頃には、少しずつ表情を固くしていた。


「……観覧車、最後に乗りたい」


 必死さと淡い期待が込められたような声に、僕はいたたまれなくなった。分かった、と僕は言った。ここで断っておくべきと、思わなかったわけではない。だが水月が全てを分かったうえでそれでも想いを伝えたいと言うのなら、お互いのためと銘打って、それをうやむやにする勇気なぞ、端から僕にはなかった。


 観覧車に乗り込み、係員が扉を閉めると、密室特有の緊張感が立ち込めた。向かいに座った水月がつとめて外を見ようとするので、僕も特に自分から話を振るようなことはしなかった。

 観覧車は、ゆっくりと、静かに半円の軌跡を辿る。


「瞳さん、いつ意識戻るの?」


 水月の口から瞳の話が飛び出すとは思わず、僕はすぐには答えられなかった。


「いつ目を覚ますか分からないのに、どうして待てるの?」


 水月は僕の目を見て、問いただすように言った。遂に勝負を仕掛けてきた、そう思った。せめてもの誠実さを示すならば、僕はこの戦いを避けることなく、自らの手で終わりを告げるしかないと思った。


「愛してるからだよ」


「愛してる、かあ……」


 水月は言葉を噛みしめるように吐き出した。彼女もまた、僕の発言を冷やかしたりせず、勝負を降りなかった。ゴンドラの中、一メートルも離れていない両者の、覚悟のぶつかり合いだ。


「ねえ、青都。愛がどれだけ不安定なものか、分かる?」


 彼女が浮かべた笑顔は、僅かに歪んでいた。


「仕事に就いたとき、上司にいびられたとき、昇進が決まったとき、そういうときに、青都が感情を伝えられる人が、一番側にいるべきじゃない?」


 正直な人だと、僕は思った。自分の愛にとびきり正直になれる彼女は、美しいとさえ思った。でも不運なことに僕は、彼女と同様、正直な人間だった。そうでなかったならば、どれほど良かっただろうと、僕は思った。


「でも、俺が生きる意味は、瞳なんだよ」


 その瞬間、水月は本当に切なそうな顔をした。再び外の景色に目を向けた彼女の、少しだけ開いた口は震えていた。


 観覧車を降りると、外は随分暗くなっていた。水月は僕の二歩先を歩いた。僕もそれに追いつこうとはせず、距離をとって歩いた。

 月は雲に隠れていたが、星はいくつか見えていた。北斗七星の端っこで、ポラリスが光輝いていた。


「きゃっ」


 前方で声がしたので視線を戻すと、水月が道に倒れこんでいた。


「大丈夫!?」


 どうやら、排水溝の蓋の格子に、足元をとられてしまったようだった。黒いヒールはポッキリと折れ、水月の白い膝には赤い血が滲んでいた。


「ごめんね、青都。今日は、色々、迷惑を……」


 最後のほうは嗚咽に混じってよく聞こえなかった。僕は黙って水月を抱きかかえた。もう優しくしたくはなかった。だが、仕方なかった。


 偽りの自分を乗せて歩き回るも、最後には根本から折れてしまうそのヒールが、彼女の愛だった。やがて彼女の足から脱げ落ちた靴を、僕も、彼女も、拾おうとはしなかった。



     ✽



 思惑通りと言うとあまりに悲しいが、京八は僕とのタッグを解散してまもなく売れた。


 僕が週五で奢っていたから良かったものの、一人になった京八はすぐに食えなくなった。食えていたときは乗り気でなかった大手事務所からの誘いにも、屈する他なかったようだった。

 僕が初めて京八を地上波で見たのは、深夜にやっていた音楽番組のケツでやっていた、ネクストブレイクのアーティストを一挙紹介するコーナーだった。それを見て、はっきりとした違和感が胸をよぎった。京八のよく言っていた熱意というものを判別することは、僕には難しい。しかし、画面越しに見る京八のそれが薄れているように、僕には見えた。


「あいつ、無理なスケジュールに気を病んでるらしい。ちょっと話してやってくんねえか」


 赤松さんはパステルエースワンの解散後、僕の言葉を額面通り受け取って、京八の面倒を見てくれているらしい。京八のこれまでの経緯も、全部赤松さんに聞いた。前々から京八に、如実に疲れが見え始めているという話は聞いていたが、今回ばかりは赤松さんの声色が深刻だったので、僕はおよそ一年ぶりに、京八と会うことに決めた。



 この居酒屋の座敷に上がるのも、久方ぶりであった。僕は京八の立場を慮って、高級レストランを予約することも考えたが、当の京八本人が「お前と会うならあそこだろ」と、パステルエースワン時代の行きつけの店を提案した。先に到着した僕は、自分のハイボールと京八のビール、それと適当におつまみを注文して待っていた。近くの席には、忘年会をする大学生の集団と、少人数で飲んでいるサラリーマンが数組座っていて、座敷は比較的賑やかであった。

 約束の時間を十分ほど過ぎて、京八は現れた。


「おーい、ここここ」


 京八は僕に気づくと、控えめに手を振り返した。パッと見ただけで分かる高そうな服も、丁寧に整えられたヘアースタイルも、肌の艶も、堂々とした歩き方も、彼の処遇を体現していた。


「よっ、売れっ子ミュージシャン」


 出会い頭に僕がからかうと、京八は困ったように笑った。


「やめてくれよ、お前こそ、大人になって」


「なーに、俺はとりあえず就職しただけ」


 その絶妙な頃合いに、酒が運ばれてきた。


「まあまあ、とりあえず座って、乾杯しようぜ」


「おう」


 京八が席に着き、僕たちは杯を掲げた。


「京八の出世に、乾杯」


「乾杯」


 京八は気恥ずかしそうな表情を浮かべると、それを誤魔化すように、ぐいっとビールを流し込んだ。こうして対面で座るだけで、あの頃に戻ったような感覚に陥る。


「それ」


 京八の着ているシャツを指差す。


「良いシャツ着てんなあ」


 京八はまた、困ったような笑みを浮かべる。


「うちの社長がくれたんだ。会うときに着てると喜ばれる」


 熱気に包まれた店内で、一人だけ長袖のシャツを着ている光景は異様だった。昔ならきっと一時間はいじり続けただろうが、今となってはそこをつつくような距離感でもなくなっていた。


 夜が更けていくにつれて、僕は不思議な感覚に陥った。京八と話しているはずなのに、まるで、全くの別人と話している感覚だった。昔からバイトの愚痴を言うのは僕で、それを聞いて笑い飛ばしていたのが京八だった。それがすっかり逆になっていた。京八の愚痴は間髪入れず飛んできて、僕はそれを体全体で受け止めるしかなかった。

 そうなってみて初めて、かつての京八の偉大さが分かった。自分が未経験の境遇の人の悩みに共感することは、容易ではなかった。僕は京八の話の要素を摘まみとって、帰納的に一般論を提示するしかなかった。そういうものは、どれも僕の本心から来るものではなく、ここに座っているのが僕である意味もなかった。当然、赤松さんがこの面会を取り計らった意図も、京八が本当に求めているものも、そこにはないと分かっていた。だが、僕には京八の果てしない闇を包み込めるほどの力がなかった。そうして京八の歯切れも徐々に悪くなり、気づけば二人とも、気分の悪い酔い方をしていた。


「帰ろう、今日は」


「……そうだな」


 そうしてその日は初めて、京八の奢りとなった。僕が礼を言うのも気にせず、よろよろと歩いて帰ろうとする京八を必死で食い止めると、店先に停めさせたタクシーに押し込んだ。運転手に行き先を伝え、京八に別れを告げようとすると、待て青都、と引き止められた。


「一万年先は無理だ」


 無理なんだ、どうしても、とほとんど泣きそうになりながら京八は言った。突拍子もないことだったので、それを理解するまでに時間がかかった。京八は目を見開いていたが、その目は虚ろで、弱っていて、面倒で、全てを投げ出したいとでも言いたげだった。それがかつての自分に見えた。京八は音楽に夢を見ていたのだ。大昔の自分もまたそうだった。だが、そこから覚めるのが些か早かったせいで、京八を引き返せないところまで追いやってしまった。そう思うと、今更ながら自分の無責任さが思われて、僕は逃げ出したくなった。


「何言ってんだ。お前には才能があるんだよ。俺と違ってな」


 その言葉もまた、逃避だった。僕はいわば京八を生け贄に、呪いから解き放たれたようなものだった。今なら、こいつの話す一言一句に共感できる。今ならまだ間に合うから、早くこいつを解放してやるべきだ。これまた今更ながら、そう思った。でも無駄だった。才能があったならどこまで行けるのか、自分は安全地帯から見ていたかった。


「出してください」


 僕がそう言うと、タクシーは真夜中の闇に消えていった。赤松さんの依頼とは反対に、僕は自分の都合で京八を闇に押し戻した。今日の出来事をいつか後悔するかもしれないという不安さえも、所詮は客観的に見ているだけだった。

 



     ✽



 瞳が危篤との知らせを受けたのは、「46ヶ月後」の一日前、10月11日の昼頃だった。


「生体反応が非常に微弱です。明日まで持つかどうか……。とにかく今日が山場でしょう」


 46の経過直前に、瞳が危篤状態に陥るのは、もはや常態化していた。だからといって、ゆったりと構えてはいられなかった。看護師がひっきりなしに病室を出入りし、瞳の体に、色々な機具がつけられたり外されたりした。段々それが瞳の生気を吸い取っているように見えてきて、僕はあわや「やめろ!」と叫ぶところだった。

 僕はずっと病室の中にいられたわけではなかったが、状況の許す限りは瞳の手を握っていた。ただ座っているだけで、物凄い体力を消耗した。

 太陽が沈むと、瞳の生気がさらに薄れた気がした。ただ祈ることしかできない、自らの無力さが嫌だった。出入りする人の数が減ると、僕はなりふり構わず、瞳に言葉をかけ続けた。


「生きなきゃ、生きなきゃダメだ、瞳」


 月光の差し込む閑散とした病室で、僕はそう呟いていた。そして、あまりに心を酷使した僕は、彼女の側に居続けるという強い意志に反して、いつしか眠りについていたようだった。



「夜の紅葉もいいね」


 僕ははっと目を覚ます。椅子に腰かけたまま、前のめりで寝てしまっていたから、首が痛い。僕は軽く伸びをする。

 夢で瞳の声を聞いた気がした。心地よく、鮮やかであった。僕はその余韻に耽ってしまう。

 僕はふと、目の前のベッドに視線を落とす。そして驚きのあまり、声が出た。寝起きの声は掠れていた。


 瞳の姿が見当たらなかったのだ。


 息ができなかった。僕が寝ている間に、何かあったのだろうか。それとも、僕はまだ夢を見ているのだろうか。


「青都ってば」


 夢の中で聞いた、あの鮮やかな声だった。僕は辺りを見回す。後ろを振り返る。月明かりに照らされる、窓のそば。

 そこに、彼女は立っていた。僕はやはり、夢を見ているに違いなかった。きっとそうである。そうでなければ説明がつかない。

 次の瞬間、涙がとめどなく溢れてきた。声をあげることさえできず、おいおい泣いた。スリッパと床が擦れる音がして、俺の肩には、暖かい手の感触がした。その手を引いて、彼女を抱き寄せた。その温もりは、紛れもなく生きていた。

 涙を拭きながら、僕はスマホを見る。2026年10月12日、午前0時3分。46ヶ月後に、彼女は目覚めたのだった。


「ついさっき、看護師さんがすごい形相で病室に駆け込んできて、腰を抜かして出ていったの」


 ほんとおかしい、と彼女は愉快そうに笑った。僕はそんな彼女を見つめる。彼女はそれに気づくと、僕の手を引いてベッドに座らせ、両手を僕の顔に当てた。


「少し、大人っぽくなったみたい。それに、疲れてる」


 僕が笑ってみせると、彼女も笑った。


「私、随分長いこと寝てたのね」


 それから数分後にやってきた医者は、手を震わせながら瞳を診察した。


「異常……なしです。脈拍・血圧、良好……です」


 ひとまず安静に、と言って立ち去った医者は、病室を出て姿が見えなくなるまで、戸惑いの表情を浮かべたままだった。無理もないことだ。今夜死ぬかもしれないとまで思っていた患者が、突然息を吹き返したのだから。


 しばらくは二人で語り合った。僕がここまでどう生きてきたか。彼女を取り囲む物事がどう変わって、どう変わらなかったのか。僕はこの時間という事物が、彼女が目覚める前と後で、同じ質量を持っているとは思えなかった。

 ひとしきり話に花を咲かせると、瞳は窓の外を見上げて言った。


「青都、その上着貸して?」


 体が冷えているのかと思い、僕は着ていた黒いパーカーを瞳に手渡した。


「ねえ青都、外は寒いのかな」


 瞳がいたずらっぽく笑ったので、僕は嫌な予感がした。


「無茶言うなよ、瞳。今日は安静にしてないと」


 僕はなぜか声を潜めて言った。しかし、制止もむなしく、瞳はおもむろに立ち上がった。


「いつかの草原に、星を見に行こうよ」


 瞳は星が好きだった。一見バラバラに散らばっているように見える光の粒の、一つ一つにつけられた名前や、関係性を俺が知ることができたのは、ひとえに彼女のおかげだったといえる。デートでは何度もプラネタリウムに行ったが、一度だけ、本物の星を見に行ったことがある。

 うちの近所にある山は標高が低いうえに、頂上付近が平たい草原になっていた。そのため、天体観測にはうってつけの場所だった。

 同棲を始めて二月ほど経った、ある夏の夜、瞳が「眠れない」と俺に言ってきた。意識が朦朧としている中で、置時計を手に取った。時刻は一時半を回ったところだった。


「ねえ、どこか連れてって」


「え、今から?」


 俺の戸惑った顔を見て、瞳はいたずらっぽく笑い、布団を蹴飛ばした。俺は手を引かれるままに、パジャマ姿のまま、家を飛び出した。

 そこからあの草原まで、どうやって辿り着いたのかは、よく覚えていない。山道を駆け上がり、木々の間を通り抜けた先に、突如、どこまでも続く草の海が出現したのだ。僕はこんな場所があるなんて知らなかった。彼女が道を知っていたのか、闇雲に走った結果だったのか。ともかくあの夜、あの草原に二人はいた。星が導いてくれたと、彼女は言っていた。


「アルタイル、ベガ、デネブで、夏の大三角。学校で習ったでしょ?」


 草原に寝転んで、彼女が星を指差して教えてくれた。そよ風が野を吹き抜けると、ズボンの裾から風が入ってきて、服と肌の隙間を通り抜けて、首もとから抜け出して、また草の上を走っていった。草の先端が背中をチクチク刺すのも、その日は気にならなかった。



 今さっき目覚めたはずの瞳に手を引かれて走るのに、僕はかなり体力を使った。彼女が足を止め、僕は息を整えようとしばらく身をかがめていた。そして顔を上げると、何年かぶりにやってきた草原は、あの頃と何も変わらなかった。もしかすると、草は少し長くなったかもしれない。その草原が、風にざわめく。あの夏の夜とは違って、秋の風は冷たかった。

 瞳は僕の手を離さず、ゆっくりと、その草原に入っていく。足首をくすぐられながら、僕たちは星に近づいていこうとする。そうやって気がつくと、ずいぶん遠くまで来ていた。

 あの日と同じように、草を枕に寝転んだ。視覚は辺り一面を囲んだ星空に囚われ、聴覚は少し遠くで鳴く鈴虫に奪われた。


「秋はアンドロメダが綺麗だね」


 瞳は空中で星座を繋いでみせる。僕がカシオペアとペガススを描き出すと、秋の夜空は途端に賑やかになった。


「青都はどの星が好き?」


「南の一つ星かな」


「「フォーマルハウト!」」


 二人の笑い声が星空に反響する。


「私ね、星の光の美しさは、その不確定性だと思うの」


 彼女の声は、不思議な響きを持っていた。それが僕の鼓膜を震わすと、僕は自ずと、幻覚を見ているような高揚感に包まれていった。

 

「あの星も、あの星もあの星も、私たちがその光を目にしている、この瞬間に存在しているなんて保証はないの」


 耳にしたことはある。超新星爆発によって、銀河の果てで星が消えたとしても、その事実が、何光年も離れた惑星地球に到達するまでには、途方もない時間がかかる。星空を見上げる僕らは、ともすれば過去を見ているといえる。


「でもね、青都」


 彼女はゆっくりと、僕のほうに目を向ける。僕も、星空から彼女に視線を移す。


「あの星がかつて輝いていて、その光を私たちは見ることができてる。それだけは確かなんだよ」


 彼女の目線が、僕の心臓を掴んで離さない。その繊細な息遣いが僕に届くと、心臓は鼓動を速め、僕と彼女は今、確実に生きていると実感した。未知の多幸感に包まれた僕は、彼女にキスするしかなかった。

 唇が重なった瞬間から、瞳の言葉の意味が、僕の全身に浸透し始めた。彼女が星であってほしくはないと、今目にしている、生きている彼女が確かなものであってほしいと、僕は思った。自然と、涙が出てきた。彼女が横たわっていた茫漠とした時間を思うと、この瞬間が束の間の奇跡なのかもしれないと、思わざるを得なかった。悲しかった。言いようもないほどに、悲しかった。僕はひたすら、目の前の彼女が、実体を持つ目映い光であると、考えようとするしか、なかった。


 その瞬間、ポケットで携帯が鳴った。その震動は、徐々に僕を現実に引き戻していく。僕は体を起こすと、ポケットをまさぐり、スマホを取り出した。


「もしもし──」


「大変だ、青都、き、京八が……」


 電話の主は、赤松さんであった。いつになく慌てた様子だった。


「京八が、どうしたんですか」


 僕はこのかけがえのない時間を邪魔されるのが嫌で、苛立っていた。しかし、次の赤松さんの言葉を聞いて、血の気が引いていくのを感じた。


「はねられたんだ、車に。交通事故だ」


 すぐ来い、と言われて電話は切られた。


「行ってあげて」


 上体を起こした瞳は、僕の肩に手を当てて、間髪入れずそう言った。


「いや、でもそんな、瞳を置いていくなんて」


 あまりに突然だった。僕の心は葛藤に割られる。京八の身に起きた一大事は、僕をパニックに陥れるには十分な知らせだった。だが、僕はまだまだ、こうしていたかった。秋風が吹きすさぶこの平原に寝そべって、瞳と手を繋いで星を数える。そんな泥のような時間の中に沈んでいたかった。白いベッドの上で、長い歳月をこぼしてきた瞳と、それを隣でずっと見守ってきた僕には、その権利があると思った。

 僕は黙って彼女を見つめる。今にも泣いてしまいそうな彼女は、かろうじて現世に存在しているような儚さをはらんでいた。ここを立ち去ったが最後、二度と彼女に会えなくなってしまうと、僕は理由もなく確信していた。

 瞳はそんな僕の思考を全て理解しているかのように、何度もうなずき、その痩せた手で何度も頭を撫でてくれた。


「私は大丈夫だから」


 僕は弱々しく首を振る。


「一人にしたくない」


「大丈夫、一人じゃないよ。星が見守ってくれているから」


 目頭に涙を溜めた彼女を前に、先に泣いたのは、僕だった。僕はもう、こうしてはいられなかった。最後に瞳を、力一杯抱きしめた。その刹那が、僕には永遠に思えた。

 そして僕は立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。よろけそうになりながら、その度地面を強く踏みしめた。後ろは見ないと決めた。彼女が泣いているのが分かったからだ。


 木々が生い茂る山道に戻り、緩やかな傾斜を駆け降りていく。初めは小走りだったが、徐々にスピードをあげていく。深夜二時の暗闇を突っ切る僕は、気がつくと大声で叫んでいた。初めて、誰に届けるでもなく、自分のために声を張り上げていた。



 下山をしてタクシーを捕まえ、十五分かけて京八の入院した病院へ向かった。病室の前には、何人ものスーツ姿の男が、仏頂面で立っていた。中に入ると、事務所の社長とおぼしき人物と、それを取り巻く人間が何人かいた。その脇には赤十二のお三方が揃って座っていて、その隣で知らない女が這いつくばって泣いている。テーブルの上には大量の花束が積まれていた。そして、その中心に京八が、力なく横たわっていた。


「とりあえず死んじゃいねえみたいだけど、時間の問題かもな」


 やがて医者がやってきて、僕たちは一旦廊下に追いやられた。そこで赤松さんに、詳しく事情を聞いた。


「酒をしこたま飲んでいたみたいだ、あの馬鹿」


 通報を受けた救助隊が駆けつけたとき、京八はお忍びで通っていた料亭から、数百メートル離れた路地で倒れていたそうだ。通報したのは、事故を起こした張本人であるトラック運転手で、要するに、千鳥足で路上をふらつく一流ミュージシャンをはねてしまった、不運なお方なわけだ。直近であいつに会ったとき、酒に対する自制心が効いていないと思った。パステルエースワン時代から酒好きではあったが、節度は守れる男だった。そんな京八が足を取られていた、アルコールに溶かすしかなかった深い深い闇に、手を伸ばしてあいつを引き上げることができなかったことを、僕は悔やんでも悔やみきれなかった。


 そうして間もなく、京八は死んだ。


 僕は運命を憎んだ。同じ日に、人生を揺るがす大事件を二つもぶつける、運命を憎んだ。そうでなければ、僕はきっとこの狭い病室に響き渡る号哭に加われていたことだろう。しかし、現に僕は、京八のベッドから少し離れた戸口で、それを俯瞰している。京八が死んだのが、何もこんな日でなければ、僕はもう少しその死を悼むことができただろうに、この瞬間の僕は驚くほど冷酷だ。死んだものは死んだ。そう心のなかで繰り返していた。直近で生の祝福に触れてしまった僕は、死の悲哀に興味を持てなかった。瞳が目覚めたから、京八は眠ったのだとすら思った。あるいは京八が死んだのなら、また瞳に会えるかもしれないと思い始める。そうすると、またも僕は、自分の下した決断に対する弱さを曝けだすことになる。構わないと、僕は開き直る。僕はついに、京八の顔をよく見ることもせずに、病院をあとにしたのだった。



 僕はすぐに、あの草原に戻った。まるで時間が経過していないかのようだった。カシオペアも、ペルセウスもケフェウスも、その位置をほとんど違えていない。しかし、僕は自分に向かって輝いている星を、その光の中に見つけることができない。彼女を照らす星と言うよりは、僕を照らす彼女の光を追い求めていた。


「瞳?瞳ーー!?」


 僕は草原を割っていく。辺りを見渡し、彼女の姿を探す。あらゆる方向から風が吹き、僕の頬を掠めていく。僕はその度に、風が示す方向を振り向く。しかし、彼女はいない。腹が立った。ひどく無謀なことをしている気分だった。まるで、全速力で走れば、月との距離を縮めることができると信じてやまない、少年のような無謀さだった。彼女がとても遠くにいるように感じる。どうすれば、彼女に近づくことができたのだろう。僕はとうとう彼女を捕まえられなかった。草原を別々に駆け抜けていく葛藤の二つの感情を、僕は遂にどちらも取り逃がしてしまった。



 瞳の病院に戻ると、僕は重い足取りで階段を上り、力の入らない右手でドアを開けた。その瞬間、僕と目が合った医者は、僕の来訪に驚いたような顔を見せたのちに、気まずそうに目線を外した。その目線の先には、ベッドに横たわる瞳がいた。

 僕は力なく彼女のそばに歩み寄り、膝をついた。彼女の安らかな表情に、僕はシーツを握りしめた。


「どうして……」


 すると医者が、またもや素頓狂な弁明を始めた。


「いやね、急にお二方が行方を眩まして、職員皆大騒ぎでしたよ。看護師があたふたしながら院内を駆け回って。私自身も、走り回って息を切らしたのなんて、久方ぶりでしたよ」


 それがどうも、内心苛ついていながら、医者と患者及びその関係者の距離感を守るために、その怒りを抑えて、皮肉っぽく言うしかないような言い方だった。だから僕も、瞳との対話を邪魔される苛立ちを抑えて、ただ「すみません」と言う他なかった。


「本当は一刻も早く、電話でお知らせする手筈だったんです。ですが、それを見ましてね」


 医者が指差したベッド脇のテーブルには、紙切れが置かれていた。そこには、「探さないであげてください」と書かれていた。


 僕の周りには、数多の人々の感情や思惑が渦巻いていた。その全てを取りこぼして、ここまで来た気がする。今僕の手の中に、大切なものがどれほど残っているだろう。取り返しのつく後悔が、いくつ残されているだろう。

 ずっと瞳にこだわって生きてきた。彼女に会える一時を除いて、世界を流れる時間に関心がなかった。その執着にしがみついて生きていく。これが僕に課せられた新たな呪いだ。それにしたがって生きる人生が利己的と非難されようが、元より僕にはどうしようもないことだった。

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