46週間後

 パステルエースワンは霧中を走っていた。

 同期の中から何組かが頭角を現し始めた。ある者は小さな事務所との契約を勝ち取り、ある者はCMソングに起用されるまでに成り上がった。パステルエースワンには固定の熱心なファンはいたものの、新規はなかなかつかなかった。少しずつではあるが、確かな差が生まれ始めていた。

 あれから40週、実に十ヶ月が経過しようとしていた。十ヶ月経ってようやくあの日の、興奮と落胆が入り交じった、混沌とした感情から抜け出すことができたように思う。僕はバンドの活動に本腰を入れようと意気込んでいた。

 立場も徐々に変わってきた。かつては青い新参者で、ライブハウスの一番下っ端だった僕たちに、何組かだが後輩ができた。自分達よりいい服を着ている若者に、飯を奢るという経験をした。眩しかった。輝いているやつも燻っているやつも、若いだけでどんな脅威にもなり得る。年功序列が時代遅れとなった今、成果を伴わない時間の経過に、僕は焦り始めていた。


「俺たちいつまで続けられると思う?」


 不意にそんな言葉が口から飛び出した。


「何だ、家でも継ぐのか?」


 京八きょうやはいつもの冗談めいた口調だったが、その目線から、僕の言わんとしていることを察しているのは明らかだった。

 それは先週末のことだった。

 僕たちは後片付けを終えて楽屋に戻り、ライブハウス近くの居酒屋で一杯ひっかけようとしていたところだった。


「ああ悪ぃ、俺、金ねえや。青都あおと、今日は奢って」


 京八がいつも通り、僕に交渉を持ちかけてきたところで、コンコン、と音が鳴った。入るぜ、の声でノックをしたのが赤松さんだと分かった。


「何だろう」


 赤松さんは顔だけ覗かせると、京八を呼んだ。その隙間から、高そうなスーツを身に纏った老人がいるのが見えた。僕はそれで大体用件を察することができた。

 二分ほどで京八は戻ってきた。


「よし、じゃあいくか」


 何事もなかったかのように振る舞う京八を見て、僕は楽屋の壁が薄いことを恨んだ。


「音楽会社の取締役だろ、あの人。それも結構大手の」


 京八は顔を強張らせた。僕は煙草に火をつけた。楽屋に気まずい沈黙が流れる。


「いいんだよ、俺は、そういうのはさ」


 その声にはあまりに力がなく、僕はそれ以上責め立てる気にもなれなかった。

 こういうことは、前々からよくあった。スター性のある京八が世間に見つかるのは、時間の問題であった。大手レーベルからソロデビューの話が持ちかけられ、その度に京八がそれを断っているのも、それとなく耳にしていた。京八はバンドを大切にしていた。僕はひょっとして妨げとなっているのかもしれないと思った。僕は自分の存在意義に悩まされる羽目になった。


「二人だろ、パステルエースワンは」


 僕は力なく俯いた。


「──あと、今日やっぱ俺の奢りで」


 顔を上げる。またか、と僕は思った。これまで何度も、京八の才能に強く惹かれたプロデューサーが、金にものをいわせようとした。京八は毎度それを断ろうとしたけれど、それを受け取らせる罪悪感を植えつけるのが、そういう輩の第一目的だった。震える京八の右手には、薄い茶封筒が申し訳なさそうに握られていた。



  ✽



 翌日、坂下屋の暖簾をくぐると、水月が待ち構えたように座っていた。


「今日は来ないかと思ってたよ」


 そう言うと水月は立ち上がり、厨房に入った。


「青都、疲れた顔してる。何だか色々あったみたい」


 まあ、と僕はお茶を濁した。


 かくいう水月も、その日は珍しく愚痴が多かった。


「新メニュー案、却下されちゃった。ほら、父さん、頑固な人だし」


 僕たちは奇しくも、新規を獲得できていない者同士だった。坂下屋の場合、事態は深刻化していた。昨今のラーメンブームによって近所にライバル店が増え、メニューの少なさが単純な弱点となってしまったのだ。特殊な営業形態もあって売り上げが下がってきているのを、水月は建て直そうとしていた。しかし、彼女が進めようとしている改革は、保守的な父親とぶつかってしまった。


「しょうゆ一本でやってきた、その意地と誇りがあるのは分かるの。でも、気持ちだけじゃ経営はできないと思う」


 物価高の影響を受け、安さが売りだった坂下屋のしょうゆラーメンも、値上げを余儀なくされた。歯をくいしばってでも、現代に迎合しようとしないその姿勢は、苦しそうだった。


「私、父さんの後を継ぐつもり。人生をこれに懸けるの。だから、半端なところで引き下がるわけにはいかない」


 羨ましいと思った。人生を預けてもいいと思えるほど、熱中できるものが彼女にはある。そういう人が輝いて見えるのは、迷いがないからだ。僕にも、そんな太い芯が欲しいと思う。


「だから青都、協力して」


「……え、俺?」


 いつになく興奮した水月の話しぶりに、僕は嫌な予感がした。しかし、そのまくしたてるような依頼に、僕は屈するしかなかった。


 それから一週間後、僕は水月を助手席に乗せて高速道路を走っていた。


「あー楽しみ。私、朝ごはん抜いてきちゃった」


 水月いわく、今日は年に一度のラーメンの祭典「麺祭り」が執り行われる日だそうだ。全国から屈指の名店が集結するこのイベントは、水月がやりたい、新しいラーメンの研究に打ってつけらしい。ただ、彼女の胃袋では、一人で何杯も平らげるのは不可能であるため、僕が呼ばれたというわけだ。

 僕たちが着く頃には、会場は既に大勢の人で賑わっていた。満杯の駐車場の隙間に何とか車を押し込むと、僕たちは入り口へ向かった。

 元々公園であると見えるその会場には、広場や噴水、大きめの遊具もあり、子供たちが楽しそうに遊びまわっていた。先へ進むと白い特設の屋根があり、その下に立ち食い用の長机が設置されていた。中心部にあるドームの中に入ると、外とは段違いの熱と煙たい空気に包まれ、十数店舗が所狭しと並んでいた。どの店の前にも行列ができていたので、僕たちは二手に分かれて、各々でラーメンを買って、外の広場で合流して食べることにした。


「全部乗せにしちゃった~」


 器からはみ出さんばかりのチャーシューとのり、それに、卵、メンマ、コーン。十五分ぶりに僕の前に現れた水月は、おぞましい一品を持ってきた。


「……一杯目からそんな食って、大丈夫?」


「平気平気!私は三分の一くらいしか食べないし」


 ここにきてようやく、僕は自らが請け負った任務の過酷さを実感することとなる。

 それからは、暑さと満腹感に耐え続けながら、食べては並ぶという地獄のループに陥った。研究と称して祭りを満喫する水月の「残飯処理」に、僕は苦しんだ。

 六杯ほど完食したところで、水月がおもむろに立ち上がった。


「ふー、結構食べたねー。……あ!そういえばあっちに、チュロスの屋台あったの!行こ!」


「……もうそれ、ラーメン関係ないんじゃ──」


「いいから!行くよ!」


 かき氷も捨てがたいかぁ、と言う水月の背中を見つめる。強引に連れ出され、彼女の欲しいままに振り回される。それは、実に久しい感覚として僕を包む。

 そう、あの頃はそれが日常だった。瞳とのデートを思い出すのも、やはり久しぶりだった。行き先があるのはいつも彼女の方で、僕はただそれに付き従っていくだけだった。でも、それで良かった。彼女がいるだけで良かった。前と違うのは、その日々をもう一度取り戻してやろうという気概が、僕にあることだった。


「ここ、毎年やってるんだっけ」


 水月に追いついて僕は言う。


「そうそう。まあ、私も今年初めて来たんだけどね」


「来年は瞳と来れるかな」


 水月は呆気にとられたような顔をしていたが、やがて小さく頷いた。


「そうだね。そうなると良いよね」


 水月は遠くの方を見ながら、また何度か頷いた。そこにある一抹の感傷を、僕は見逃さなかった。


「嘘みたいな話なんだけどさ──」


 その日、水月に瞳の秘密を喋ったのは、弁解というか、贖罪のようなものだった。あるいは、拒絶と捉えられても仕方ない。瞳のことと、京八のこと。すなわち、愛と夢のこと。それをずっと考えている。そういうことにどうやって時間を割けばいいかを考えている。僕の危惧は、そこに水月が絡んでくることだった。面倒事と言っては何だが、彼女が僕の思考を更に複雑にする要因となれば、僕はそれを、もはや丁寧に扱えないかもしれない。それが怖かった。考えすぎであればいいと願う、その弁解だ。


「再来週に、また会いに行くんだ」


「……へぇ、何かすごい話聞いちゃった」


 水月は深く考え込んでいるようだった。それをとやかく詮索するのは止そうと思った。

 夏の終わりを知らせるようなそよ風が、二人の間を通りすぎていく。水月は顔を上げ、僕に微笑みかける。


「チュロス食べて帰ろっか」



     ✽



 その日は京八がうちに来て、新曲の制作に励んでいた。


「青都、Aメロこんな感じでどうだ」


 京八はギターを手に取ると、自作のメロディを一節弾いてみせた。


「んー、何か二つ前の曲に似てねえか」


「そんなことないだろ、ほら、ここがさ──」


 ピンポーン、と二人の会話を遮るように呼び鈴がなった。今日は何の宅配も頼んでないので、ひとまず無視しようと思った。しかし、呼び鈴がもう数回鳴ったのちに、今度は扉をドンドン叩く音がした。終いには「青都ー!いるんでしょー?」と耳馴染みのある声がしたので、僕は観念し、重たい腰を持ち上げ、戸口へ向かった。ノブを捻ってドアを開ける。そこに立っていたのは、僕の両親だった。


「ちょっと入るね」


 母はそう言うと、有無を言わさず僕を押し退けて、家の中に入っていった。後ろにいた父も「よう、元気そうで」とだけ言って靴を脱いだ。用件は知らないが、面倒なことになりそうで、僕は大きなため息をついた。


「まだ、音楽やってるの?」


 壁にギターが立て掛けられ、楽譜が散乱し、何回か顔を合わせたことのあるはずの京八がいるその部屋で、母はそんな質問をした。それがあまりに馬鹿らしくて、僕は苦笑した。


「何だよ、開口一番に」


 両親は、出したお茶に一切口をつけなかった。詰問モードに入った母の隣で、「今は母さんの番だ」と言わんばかりに、父は悠長に腕を組んでいた。


「瞳さんの入院費、馬鹿になんないのよ。うちもキツキツの状態でやりくりして仕送りしてるのに、当のあんたが就職しないでどうすんのよ」


 こういった類いのことは、今まで何回も、電話口で口酸っぱく言われてきた。それでも息子が生返事しか返さないものだから、わざわざ家まで押し掛けて来たのだろう。

 父は古き年功序列制度の恩恵を被って、会社でそれなりの地位についてそれなりの収入を得ている。母は僕が中学生だったときに始めたパートが今でも続いていて、金のためというよりは、職場が楽しくて働いている。僕が言える立場ではないが、つまり、仕送り程度で生活が困窮するほどの稼ぎであるはずがないということだ。それなのに僕を咎めに来たのは、僕の音楽に対するちょっとした気持ちの変化を見透かしてのことだろうか。そうであれば、もはや親に隠し事はできないと観念するほかない。


「青都、昔から歌が好きだったじゃない?私たちも、そういうときのあんたの、きらきらした目を見るのが好きだったの」


 ずっと目を瞑って、黙って聞いていた父だったが、母の言葉を聞いて、遂に口を開いた。


「母さんも僕も、何もお前の楽しみを奪おうってんじゃない。ただお前の本当の気持ちが知りたくて来たんだ」


 僕が肩をすくめると、父は目を光らせた。


「青都、まだ音楽好きか?」


 すると後方で、ガタッと椅子を引く音がした。見ると、京八が拳を握りしめて立っていた。


「青都は、本当に音楽が好きなんです。ずっと近くにいるから分かります。俺とこいつ、二人でパステルエースワンなんです」


 両親は驚いた顔をしていた。


「金は俺がどうにか、つっても俺が青都に借りてばっかだけど……まあとにかく、もう少し、一緒に音楽をやらせてください」


 そう言うと、京八は深々と頭を下げた。その時、僕は嬉しさよりも、恥ずかしさや罪悪感のほうを、強くおぼえてしまっていた。本来ならば京八に追随するべきところを、僕は頭を上げさせ、なだめようと努めた。


「ありがとう、ありがとう」


 京八は信じられないといった表情で僕を見ていた。僕は両親のほうを振り返る。


「母さん、父さん、今日は帰って。考えておくから、ちゃんと」


 母はまだ何か言いたげだったが、父と顔を見合わせると、そそくさと部屋を出ていった。重い扉が閉まる音が、部屋の壁を揺らすと、京八は両手で、僕の肩を強く押した。


「何だよ青都。どういうつもりだよ」


 京八は怒りで口をパクパクさせていたが言葉は続かず、クソッとだけ吐き捨てて、ソファに勢いよく座り込んだ。

 嫌な沈黙が流れた。


「悪い、京八」


 京八は僕を睨んだ。


「お前も、今日は帰ってくれ」


 京八は呆気に取られたのち、舌打ちをして、荷物を乱暴に掴んで部屋を出ていった。僕は一人立っていた。


 贖罪をうながすような、父の問いを反芻する。僕のために頭を下げた、京八の言葉を反芻する。僕は頭を振り、ベッドに飛び込んだ。自分自身を責め立てる言葉が背中に突き刺さり、体が重く重く、ベッドに沈んでいった。

 僕は胸を張って、音楽が好きだと言えなかった。



     ✽



「ちょっと聞いてくれるか」


 赤十二せきじゅうじさんに連れられたいつもの中華料理屋。飲んだくれがどんちゃん騒ぎする時間帯のことだった。いつもなら陽気に「とりあえず生だな!」と声を張り上げる赤松さんだが、今日は様子が違う。喧騒の中、その声が重たく響いた。


「どうしたんですか」


 京八が尋ねると、お三方は顔を見合わせた。まるで、誰も言いたくないような事実を、互いに押しつけあっているようだった。やがて、しびれを切らしたかのように、二宮さんが口を開いた。


「解散するわ、俺ら」


 思いがけない報告に息を呑んだ。隣を見ると、京八も動揺を隠せない様子だった。赤松さんは、不甲斐なさそうに顔を伏せていた。十和田さんは首を傾け、そっぽを向いていた。しかし、二宮さんの真っ直ぐな眼差しから、彼ら三人の歩んできた途方もない道のり、その先で今下した決断の重みが、固い意志として、ひしひしと感じられた。


「そんな、まだまだ行けますって」


「そうですよ。生涯現役でやっていくわーっていつも話してくれたじゃないですか。どうして急に──」


「お袋が倒れたんだ」


 赤松さんが顔を上げずに言った。


「もうすぐ七十になるんだ。なかなか顔も出せずに、今どうしてるかも分からずに過ごしてた。今まで何事もなく済んでたのが奇跡だった」


 顔を見なくとも、赤松さんが涙ぐんでいるのが分かった。僕は赤松さんに同情せざるを得なかった。


「三十年間追い続けた夢だ、そりゃあ大事さ。……でも、家族とか愛とか、そういうものと天秤にかけたとき、俺はこれまでと同じようにはやっていけねえと思った」


 赤松さんが頭をもたげた。その表情に、僕は胸を締め付けられた。


「実家のケーキ屋を継ぐことにするよ」


 赤松さんは、大量の涙を流しながら、笑っていたのだ。それは、長年大事にしてきたものと引き換えに、長年無視してきたもの、その板挟みから解放されたことを安堵するような表情に見えた。その面持ちが僕の心を打ったとき、これは他人事ではないと実感した。


「それで、俺たちもこれからのことをよく考えたんだ。結果、バンドマンとしての人生はここまでで良いんじゃないかって」


「十代の頃とは状況が大きく変わった。一番大切にしなきゃいけないものも、有限な時間を注ぎ込まなきゃいけないものも」


 十和田さんも二宮さんも、どこか清々しそうだった。その言葉は、人生の先輩からの偉大な助言のように思えて、すとんと腑に落ちた。ちらと横を見ると、京八は何か言いたげだったが、ぐっと堪えているようだった。


「お前たちは、今年で何年目になる?」


 僕は考え込む。すぐに思い出せない。


「四年と二ヶ月です」


 京八が即答したことに、僕は驚いた。体感としては六、七年やっているような感触だった。


「四年かあ。若いな」


「まだまだこれからです」


 京八の瞳は、組んだ当初の輝きを失っていない。


「これは俺の勘でしかないが、お前たちもそう遅くないうちに、分かれ道に立たされる」


 赤松さんは、その熱い眼差しで、僕たちを交互に見つめる。


「それが良いものか悪いものか、そんなことは分からねえ。だが、よく考えることだ」


 今日は飲もうや、と十和田さんがメニューを開く。最後の奢りだな、と二宮さんが笑いかける。僕はそんな光景に、にわかに寂しさをおぼえる。赤松さんの険しい表情もふっと緩む。そして、思い出したように口を開く。


「いつか、うちのケーキ食いに来ると良い」


 その日初めて見た、赤松さんの笑顔だった。



 それから数日でその話は広まり、後輩たちが一様にざわつき始めた頃、赤十二さんの解散ライブが開催された。


「ありがとーう!!」


「寂しくなるぜー!!」


 客席はいつになく満員だった。三十年で培った、厚いファンだ。赤十二さんの人気と人望が伺われる。


「音楽人生、鳴かず飛ばずだったが、楽しかった!悔いはない!」


 パステルエースワンは、その勇姿を一番近くで見てきた。今も、舞台袖に集まった後輩たちの最前列で歌を聴いている。

 僕たちも、ああなれるのだろうか。夢を追いかけた先に望む景色がなくとも、息を切らして走り抜けた時間に、悔いはなかったと胸を張って言えるだろうか。これからのことを考えた、と十和田さんは言った。一番大切にしなきゃいけないものが変わった、と二宮さんは言った。これまでと同じようにはやっていけねえと思った、と赤松さんは言った。目の前の三人に、僕たちを照らし合わせる。そこには、京八の姿がはっきりと見えた。僕は──


 初めは人のために音楽をやっていて、でもあの日、京八の決意に心を動かされて、そこから一年弱、本腰を入れて音楽をやってきた。それなのに少し時間が経つと、また弱気な自分が顔を覗かせる。結局は原点に立ち返って、頭を抱えてしまう。

 人生をかけて音楽をやっていくつもりなのか、自分が分からなかった。



 パステルエースワンに転機が訪れたのは、それから間もなくだった。

 僕たちはとある映画の主題歌募集のオーディションに参加していた。書類審査に始まり、一次審査、二次審査を通過したことを知らせる中間選考の段階で、僕たちは確実にいつもと違う手応えを感じていた。


「青都、これはひょっとしてだな」


「うん、慎重に行こうか」


 こういうときの勢いとは侮れないもので、僕たちは最終審査まで駒を進めた。「最終審査には監督も参加していただきます」と書かれた書面に、京八ははしゃいでいた。

 しかしそれは、46週間後の一週間前のこと。僕は京八と同じようには興奮できなかった。人生の分岐点は連続してやってくる。

 パステルエースワンが緊張気味に入室した部屋には、今までの比でない数の大人たちが座っていた。だが、一目で分かった。真ん中の、やけに落ち着いていて、いかにも審美眼に長けていそうな男。あれが監督に違いない。


「自由にやってもらって」


 僕は戸惑った。これまでの審査は、課題曲が与えられていた。


「君たちのポテンシャルが見てみたい」


 監督が目を光らせた。隣を見ると、京八は待ってましたとばかり、俄然やる気だった。ここまでのオーディションは、彼にとって窮屈だったのかもしれない。

 そして僕たちはパフォーマンスを始めた。京八の楽しそうな歌声と軽快なギター捌きに、僕が食らいついていくような、そんな演奏だった。やっていることは、ライブハウスにいる僕たちと同じはずだった。京八が興奮で独りよがりになっているのか、僕が緊張で萎縮しているのか、あるいはもっと大きな次元での乖離が知らぬ間に生まれていたのか、僕には判別もつかない。しかし、いつの間にか僕は顔を正面に向けられなくなっていた。


「ありがとう、いいパフォーマンスだった」


 監督がそれを定型文として用いたのは自明だった。


「えっと、右の……二瓶くん」


「はい」


 京八は、額に軽く汗をかいていた。おそらく、この時間を充実したものとして受け止めている。彼と僕、パステルエースワンで、二人でいることに本人は納得、むしろ満足しているのだと思う。その純朴さが申し訳なくのしかかった。


「才能あるよ」


「あ、ありがとうございました」


「逃したくはない人材だ」


 監督が目を輝かせる。しかし書類に目を落とし、表情が陰る。


「で、隣の子」


「青都です」


 京八が言うのを横目に、監督は続けた。


「君は何がしたい」


 現場に一気に緊張が走る。その瞬間、京八の思惑とは違えど、今日が確かな分岐点になると確信した。


「君の奥には、何か、諦念のようなものが見える。自分のやっている音楽に、価値を見いだせていない」


 僕の言ってることが分かるかい、と尋ねられ、僕は静かに頷く。京八が困惑したような表情を浮かべているのが見なくても分かる。


「これからに期待する。次」


 僕たちは無慈悲に、現実に叩きつけられた。



    ✽



 その夜、帰路に着く僕の足は、鉛のように重かった。


「年単位での辛抱になります」


 46週間が経過した今日、やはり目を覚まさなかった瞳を前に、医者はそう言った。

 46週間、およそ一年だった。一年経って、色々なことが変わってきた。酒の飲み方や、金の使い方が変わった。後輩が出来て、初めて見栄というものを意識し出した。水月との関係性は少し変わった。赤十二さんは解散した。京八と交わす会話は減った。パステルエースワンには限界が見えてきた。重大なことも些細なことも、忘れることができていない。この一年にあった出来事のその全てを、鮮明に記憶できているのは、これが苦しい愛に繋ぎ止められた一年だったからだ。それなのに、一年を費やして得た刹那は、当たり前のように何もなく過ぎ去った。次が46ヶ月後と考えるだけで、気が遠くなってしまう。

 遂に歩みを進めるのが困難になり、僕は立ち止まり、夜空を見上げた。月が眩しかった。その隣で、ベテルギウスとアルデバランが紅く光っていた。


「君は何がしたい」


 僕は監督の言葉を反芻した。長らく考えていたが、京八の明るさを前についに言い出せずにいたこと。この一年、いや、二、三年、もしかしたら、組んだ当初から考えていたのかもしれない。監督の言葉にある種励まされて、僕は何としてでもあの日言わなければならなかった。

 しかしあの日、あのオーディションの帰り道、落選を確信する僕の隣で、京八は話を途切れさせなかった。勘の鈍い京八が僕の真意に気づいていたかは定かでないにしろ、あいつなりに何かを感じとり、それを阻止しようとしていた。その意気に僕は根負けし、最初は京八の話の隙を伺っていたものの、途中からはともに夜空を見上げていた。


「月って毎日続けて見てると、満ち欠けの変化が分かりにくいんだ。でも一月前と比べると、確かに違う姿をしてるんだ」


「……ここまでの俺たちの活動も、そうだって言いたいのか?」


 京八は小さく笑みを浮かべ、ため息をついた。


「分からない。でも今日のことだけで、早まってほしくない」


 京八は一段と語気を強めた。


「答えを出す頃合いなのかもしれない。でもそれは今日じゃない」


 そうだろ?と京八が問いかけてくる。どうかな、としか僕は言えない。結局その日も、解散を言い出すことはできなかった。


 しかし今、瞳が目を覚まさなかったこの夜に、あの夜と少し形を変えた月を見て思う。僕には人生をかけてやるべきことがあって、それは今となっては音楽ではない。

 首元に冷たい感触が広がる。雪が降ってきた。白い雲の隙間から星空が覗く。雪の結晶が、星の粒とともに漆黒の空を覆う。雪を避けて商店街に入ると、カロルの音色が優しく包み込む。ふと、今日はクリスマス・イブだと思い出す。ポケットの中から携帯を取り出す。連絡先はそう多く登録されていないし、その中でも瞳と京八以外にかけることはほとんどなかった。着信音が鳴ると、カロルの音が消えていく。僕は行列のできたケーキ屋を眺める。


「なあ、明日の夜、赤松さんのとこでケーキ食わないか」



 翌日の夜十時半、僕たちはケーキ屋の最寄り駅で落ち合った。京八の肩にはギターケースが担がれている。僕は不思議に思ったが、詮索する気も起きなかった。

 五分ほど歩くと、一軒だけ明かりのついている店を見つける。通常九時で店を閉めるところを、赤松さんに無理を言って開けてもらっていた。ガラス張りの店内に、暇そうに立っている赤松さんを見つける。こちらに気づくと、手を振ってきた。


「何か赤松さん、変わったな」


 京八が笑って言う。


「そうだな」


 バンドマン時代の反骨精神がなくなり、ずいぶん丸くなったように見える。心なしか表情も朗らかだ。僕は、無謀な夢がどれほど人の心を蝕むのか、それを呪いのようなものとして実感せずにはいられなかった。


「いらっしゃい、久しぶりだな、お前たち」


「赤松さん、元気そうで」


 話したいことは山ほどあったが、ぐっと堪えた。僕たちは一番安いショートケーキを二つ注文した。

 気温は低いが、風のない夜だった。感動的な場面を演出するかのように、満月が街を照らしていた。その朧気な光は、道を違える二人の男を祝福するかのようにも見えた。

 ひんやりとした縁石に腰掛けると、僕たちは早速ケーキの箱を開く。幼少期、父が特別な日にこんな箱を持って帰ってきた夜の、あの高揚感を思い出す。「お前らは素手でいいだろ」と、赤松さんはフォークすらくれなかった。夜の街の隅に座り込み、手掴みでケーキを食う、その節操のなさが今日は心地がいい。


「頑張ったよな、俺たち」


 気づくとそんな言葉が漏れていた。


「全っ然売れない中、四年もよく続いたわな」


「そうだな」


 京八は愉快そうに笑っていた。

 昨日の今日で呼び出されて、流石の京八も用件は把握しているらしかった。あえて僕がそれを確認する必要もなければ、京八が特段落ち込んでいるような雰囲気を持ち込むこともない。これまで通りの僕たちのままで、少しづつ距離を離していくだけの話だった。

 生クリームの甘ったるさが口の中に広がる。スポンジのざらざらした感触が舌をくすぐる。苺を口に放り込むと、爽やかな酸味が身体に染み込んだ。


「覚えてるか、青都」


 京八がケーキで口をいっぱいにして言う。


「何を」


「俺の夢」


 京八は少し不安そうに僕を眺める。僕はにやりと笑い、二、三回、大きく頷いて見せた。


「一万年先まで声を届けたい、だろ?」


 京八はそれを聞いて、いかにも嬉しそうな笑顔を浮かべた。


「覚えてたのか!」


 あの晩の宣言がなければ、僕はもう随分前に音楽を辞めていただろう。何なら、京八に無断で逃げ出していたかも分からない。だから、覚えていないはずがないのだ。


「青都、お前には、その証人になってほしいんだ」


「証人?」


 すると京八はおもむろにギターを取り出した。


「今日は俺の客になってくれ。俺の隣じゃなくて、正面で歌を聴いてくれ」


 決意にみなぎった眼光が僕に突き刺さる。


「……いいよ」


 京八は少しほっとしたような表情を浮かべる。だが指先が弦に触れた瞬間、その目つきが変わる。その吐息からは、仄かな緊張感が伝わってくる。

 そして京八は歌い始めた。それはパステルエースワンの一番のヒット曲だった。作詞は二人で、作曲は京八が担当。デビュー二年目で出来た曲だった。初披露のときに感じた今までにない手応え。ミュージシャンとしての成功への第一歩を踏み出したという実感。その興奮と安心感。そしてそれ以上のヒットを生み出せなかった無力感。

 ただ何よりも確かなのは、僕たちが一番多く歌ってきた曲だということだ。気を抜くとすぐにメロディが頭を駆け巡るくらい、きっと寝ながらでも口ずさめるくらい、はっきりと心に刻まれた曲だ。だが今感じているこの印象は、あらかじめ持っていたそれを破壊するほどに、全く異なるものだった。

 こんなに何でもない歌詞だっただろうか。こんなに単純なコードで埋め尽くされていただろうか。数年前の僕たちが伝えたいと意気込んでいたものとは、こんなにありふれた常識みたいなことだったのだろうか。この程度の曲なら誰でも歌えるとさえ感じた。

 そして同時に、僕たちがこの曲を自分たちのピークにしてしまった訳も見えてきた。何でもない歌詞だからこそ、切実で胸を打つ。単純なコードだらけだからこそ、誰にでも受け入れられる。ありふれたメッセージだからこそ、本質を突いている。いつだって自分は作り手だと思っていたい僕たちは、創作者というものへの執着ゆえに、客としての視点を失っていた。何をすればいいのか分からなかった日々への答えは、皮肉にも音楽を辞めるこの日に、明確に出た。僕たちは改善の余地だらけだ。しかし、それが分かってもなお、それを修正していく人生に、僕はとっくに意義を見出だせなくなっていた。

 京八の歌が終わり、懐古的な余韻が闇に溶けていく。


「……そんな下手くそな歌じゃ、せいぜい三日だな」


 僕は冗談めかして言った。京八は呆気にとられたように僕を見つめていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。


「ふざけんなよ、てめえ」


 京八は涙が出るほど笑っていた。僕はこの四年間、気づいていないことばかりだった。曲のこともそうだが、この男。こんなにすごい男の隣で、僕は四年も歌い続けたのか。身の程知らずなものだ。僕は僕を誇りに思う。

 ひとしきり笑うと、京八は急にしんみりした表情を浮かべる。


「俺、これからお前がいなくなるのが、すごく不安だ」


 思ってもみなかった発言に、僕は思わず吹き出した。


「何言ってんだ。何なら俺が足枷だったようなもんだろ」


 しかし、京八はムッとしたように言う。


「そんなわけねえ。お前がいてこその俺だった。青都がいてこそのパステルエースワンだった」


 お前なしじゃ、俺は、と京八は言葉を詰まらせた。それを見て、僕の心にかかった鍵が、音を立てて外れた気がした。


「いつも京八の才能を閉じ込めてるんじゃないかって思ってた」


 京八は驚いたように僕を見つめる。


「俺がいなけりゃ、もうとっくにメジャーデビューできてたんじゃねえかって。罪悪感に押しつぶされそうになったこと、いっぱいあった」


 話を聞く京八は、ずっと首を横に振り続けていた。


「でも辞める理由はそれじゃない。人生を賭けてやりたいことが見つかったんだ」


 僕は愛する人が眠り続けていることを明かした。それに添い遂げるには、途方もない歳月を費やさなければならないこと。それまでの生き甲斐は、間違いなくパステルエースワンであったこと。


「そうだったんだな」


 京八は想像以上に早く事態を飲み込んだ。


「それって、たまにどうしようもないくらいの絶望に見舞われないか。こんなことして、何にもならないんじゃないかって、そう思うことはないのか」


 ぶしつけなのが良かった。全員が真っ先に思い浮かべて、でも気を遣って胸の奥に仕舞うようなことを口に出す、それが京八だった。


「あるよ、もちろん。でもそれは京八だって同じだ。お前のやっている音楽が、いつ世間に認知されるかなんて未知数だ。死んだ後に名を馳せた偉人なんて山ほどいる」


 そう遠くないうちに京八の才能は見つかるはずと内心思っていた、というか確信していたのは秘密にしておいた。


「でもお前の声が一万年先まで届いたとき、俺は四十六万年先まで生きられる心地がすると思う」


 僕の役目は、隣に立つすごい男を認知してもらうことだった。それは今もこれからも変わらない。京八がここを乗り越えて、僕の横を通り過ぎて、これからも走り続けられるようになればもう大丈夫だ。僕たちは熱い抱擁を交わした。


「パステルエースワンは、これで終わりだ」



 思い出話と夢の話をたんまりとした後、名残惜しそうに去る京八の背中を見守っていると、赤松さんが店から出てきた。


「……いい歌だったな」


 開口一番赤松さんは言った。


「いつから聞いてたんですか」


「俺だって聞きたくなかったよ」


 赤松さんは煙草に火をつけた。


「どっか遠くに行っちまいそうだな、あいつは」


 吐いた煙は、寒さで白くなった俺の吐息と混ざり、ポルックスの光に透かされて、空へ消えていく。


「そりゃそうですよ」


 僕は誇らしい気持ちで言った。赤松さんは何か言いたげだっだが、何も言わず煙草をくわえた。


「これからも、あいつのことよろしくお願いします」


「よろしくったって、俺だってもう音楽は辞めたんだよ」


 僕は赤松さんのほうに向き直り、深々と頭を下げた。


「色々と、お世話になりました」


「おう、おつかれさん」


 僕は、がんじがらめになっていたあらゆるしがらみが、ばらばらと取れていくのを感じた。第一の人生を完走したことを、今ここに認められたような心地がした。そしてこれからも、このいばらの道を行く京八に、思いを馳せずにはいられなかった。

 僕はただ一人煙草を吸う赤松さんを残し、冬の街をあとにした。

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