46日後
行きつけのラーメン屋の暖簾をくぐるまで、僕はまだ、これが夢である可能性に賭けていた。
「いらっしゃい!しょうゆ一つね」
確認するまでもない。カウンターの上にかかった木札は「しょうゆ」のみである。
この店のことは、よく知っている。青い暖簾には大きな白い文字で「坂下屋」と書かれている。しょうゆラーメン一本で数十年の時を越えた、根性のある店だ。おまけに開店時間はお昼時の四時間のみで、月の後半は全部休む。その奇を
もはや確認ですらない注文をとった
ここはカウンター席しかない。奥では、寡黙な水月の父が黙々と調理をしている。僕は左端から二番目に腰かけた。いつもはもう二人くらい客が入っているのだが、今日は僕以外誰もいなかった。月に一度か二度、こういう日がある。そういう日は決まって、水月がラーメンを二つ運んでくる。
「私も今日はあーがりっと」
うきうきした様子で俺の隣に座った水月は、頭に巻いたタオルを無造作に取った。そして割り箸を割ると、勢いよく麺をすすった。
「美味っ!やっぱうちのラーメンが一番だよね~」
水月がそう口にするのもいつものこと。俺も今日は色々あって飯のことなど考える暇もなかった。ようやく空腹が訪れたので、僕は口いっぱいに麺とチャーシューを詰め込んだ。
「え、じゃあ彼女さん、良くなるかもしれないの?」
水月は嬉しそうに言った。瞳のことも逐一報告していたから、自分のことのように喜んでくれたようだった。
「医者はそう言ってる。でもあんまり信じてない」
46の時間のシステムは、まだ教えないことにした。冗談を言っていると思われたら印象が悪いし、何よりまだ僕がその事実を受け入れられていない。
「何言ってんの!彼氏の
水月は僕を鼓舞するかのように、僕の肩をバシバシ叩きながら言った。その力があまりに強くて、肩に伝わった衝撃が、骨盤にまで走った気がした。
「変に期待すると、外れたときショックだろ?」
「ほーんと、現実主義っていうか、頭が堅いわー。瞳さんだっけ?何で付き合ったんだろ」
お父さんご馳走さま、と言って水月はお盆を厨房に返した。僕は返す言葉もないまま、最後のメンマを口に放り込んだ。
「さ、店閉めるから出て!容態が良くなったら、また報告よろしく!」
僕は代金を支払うと、追い立てられるように外に出された。レシートを入れようと財布を開くと、千円札が一枚と小銭しか入っていない。
「またバイト増やさないとな」
坂下屋に来る回数も、徐々に減らしていたところだった。でも今日は水月と話したことで、瞳の件に関して、覚悟が決まったような気がした。
✽
飲食店のバイトで二時間こき使われた後、僕は足早にいつものクラブハウスに向かった。裏口から入って狭い控え室を覗くと、
僕に気づいた京八は振り返って、わざといつもより低い声を出した。
「遅いぞぉ、青都ぉ」
「悪い悪い。ちょっとバイトが長引いた。にしても店長がさあ──」
京八はバイトをしていなかったので、僕のしょうもない愚痴を楽しそうに聞いてくれた。僕たちは、お互いのプライベートに干渉しないという主義を持っていたから、京八がどうやって生活しているのか、僕には知る由もなかった。まあ、ある程度想像はできた。ライブハウスの裏口で待つ女がコロコロ変わるのと、しょっちゅう顔に殴られた痕をつけているところを見るに、あいつが踏み倒してきた借金は、きっと数万や数十万ではない。
練習が終わると、行きつけの居酒屋で飲んだ。そして決まって飲みの場では、京八のお説教を食らった。
「おい青都、今日も出てたぞ、サビのとこの悪い癖。お前興奮するとすぐ喉が締まるから、高音が細く出るんだよ」
その日、京八はビールを既に四杯飲んでいた。しかし、どれだけ酔いがまわっていても、京八のアドバイスは的確だった。
「あとはここだろ、ここ」
京八は自分の胸を叩く。
「自分のやりたいこととして、音楽をやってるっつう意識が薄い。まずはそこに対する情熱がなきゃ、届けたいもんも届かないぜ?」
京八は自分のために音楽をやっているタイプで、生涯をそこに注ぐ覚悟がある男だ。対して僕は、瞳や京八のために音楽をやっているし、いつかは普通に就職するものだと思っている。京八の言う通り、さして情熱がない。そのことを、いつまでも京八に言い出せずにいる僕。いつか酔った勢いで口を滑らすんじゃないかと、内心ヒヤヒヤしている。でもだからこそ、僕はムッとすることもなく、京八の叱咤を受け入れられる。パステルエースワンは、歪ながら絶妙なバランスで成り立っている。
幸運なことに、僕たちのことをかわいがってくれる人たちも少なくなかった。うちのライブハウスの一番の年長者である、バンド・
「まあ、よくやってるさ、お前らは。根性なくて、すぐ辞めちまうやつらばっかだからなあ」
ボーカルの赤松さんは、酒が入るとすぐご機嫌になった。僕や京八の背中を、その大きくてゴツゴツした手で叩きながら、僕たちへの称賛と、若者への愚痴を次々と口にした。それがヒートアップしてくると、決まって京八がそれをなだめた。
「いやあ、いくつになっても夢を諦めないとこ、ホント尊敬しますよ」
赤松さんに、十和田さん、そして二宮さん。全員四十五歳を超えている。活動歴もライブハウスのメンバーの中では段違いに長いが、未だに音楽だけで食う夢は果たせていないそうだ。
「カミさんによお、いつまでやってんだいって怒鳴られたよ。パートやらせて、金もたんまり借りたままで、これで良かったのかって思うね」
「最近新しいバイトリーダーが来てよ?そいつが俺より年下なんだわ。そのくせ、俺をこき使ってきてよ」
面子を潰してでも、自らの信念を貫き通す。それがいかに根気の要る行為なのか、僕には想像もつかない。僕はいわば、潰せる面子は背後に隠したまま、最低限の犠牲をもって板の上に立っているに過ぎなかった。いわばモラトリアムに守られた弱虫だ。全てを差し出してでも、叶えたいものがある、それだけで尊敬に値する。ただ、果たして自分にその覚悟があるのかということは、分からなかった。
✽
一ヶ月半が具体的な体感としてどのくらいか、僕は意識したことがなかった。何となくそわそわするので、その日が来るのを出来るだけ遅らせようと試みた。何もしないにはきっと長い歳月だろうと思って、僕は何とか人為的に時間を引き延ばそうとしたが、カレンダーは僕の心中を見透かして、悪意を持って時間を速めた。全くもって憎らしかった。
その日、僕はらしくなく朝早くに目が覚めた。今日はバイトもないし、バンドの出番もない。その代わり今夜、一番大事な用事が控えている。
「46日後──」
僕は布団から上体だけ起こして、そっと呟いた。
ドアを開けると、先週までの残暑を忘れた秋の外気が頬に触れ、僕は少し寂しくなる。生涯瞳とともに歩んでいくことがついに叶わないと受け止めて以降、彼女がそばにいないことを寂しいと感じることは少なくなった。それはきっと、本能だと思う。人事を尽くしてもどうにもならないようなことに期待を寄せ続けていては、虚しさが足枷となり、前に進むことができない。だがそこに一筋の光、微かな希望が差し込んだことで、封印した感情が、また蘇ろうとしている。それは喜ばしいことであるはずだが、想像以上に苦しくもある。
もし今夜、瞳が目を覚ましたら、何を話そう。朝日にきらめく川面を横目に、僕はそんなことばかり考えていた。いや、仮に彼女が目を覚まそうものなら、僕は言葉を発することができないかもしれない。もしかしたら、眼前の出来事を、この上なく深く疑ってかかるかもしれない。そしてもし、彼女が目を覚まさなければ──
そのとき僕は、どうなるだろうか。
こういうのを、捕らぬ狸の皮算用というのだ。しかし人は、中途半端な望みを抱いてしまうと、かえって粉々に砕け散ってしまうような気がする。僕は果たして悲観的だろうか。
重たい時計の針が何回転かしたのち、ようやく短針が十一と十二の間を指す頃になると、僕はもうぐったりとしていた。そのくせ、今朝の散歩から帰ってきてからは、どうやって過ごしたのか、見当もつかない。ずっと寝ていたような気もするし、永遠に思考に縛られていた気もする。心配事を心の隅に押しやっているのを、今度は時計に見透かされ、またもや悪意を向けられているようだった。僕はいよいよ、本格的に時間への復讐を考えようとしたくらいだった。
「身体が……もたないな」
僕はソファに沈んでいきそうな身体を持ち上げた。
この間は二十分かかった病院までの道のりを、今日は十三分で歩けてしまった。時刻は十一時半過ぎ。空にはプロキオンが寂しげに光っている。僕は早く着きすぎたと、入り口の前で時間を持て余したが、特段することもないので中に入ることにした。
受付を通って病室を覗くと、例の医者は不在で、瞳がただ一人、白いベッドに横たわっていた。一昨日から変わったところといえば、病室内に機器が増えたところだ。それが僕を不安にさせた。瞳の口には呼吸器がはめられ、点滴が繋がれた細い腕が痛々しかった。心電図の示す波は限りなく水平に近く、彼女が危篤状態にあるのは、誰の目にも明らかだった。瞳が息を吹き返すかどうかの皮算用をしていた僕は、とうとう彼女が生きて明日を迎えられる確信すら持てなくなってしまった。
「大変危険な状態にあります」
病室にやってきた医者は深刻な面持ちで言った。
「例の、46時間後に反応を見せて以降、心拍数と血圧が急激に低下しています。我々もあの手この手を尽くしてはいるのですが、何せ原因が掴めないものですから……」
「そうですか……」
最悪の事態を思うと言いようもない悲しみが募って、僕は居ても立ってもいられない気持ちになった。
医者が時計を見上げる。
「……ひとまずは、奇跡を期待するしかないでしょう」
重い頭をもたげる気にもならず、僕は腕時計に目をやった。あと五分で、46日が経過する。僕は瞳のそばに椅子を寄せた。運命の時は刻一刻と近づき、気がつくと僕は両手を合わせていた。ただ無力に天命を待ち、一心に祈り続けるしかなかった。
そして遂に、その時がきた。医者がカウントをとる。
「五秒前、四、三、二、一」
すると突然、瞳の周辺の機械が一斉に音を鳴らし始めた。部屋中に不協和音が響きわたり、僕は軽いパニックに陥る。聴覚を支配される中で僕が目をとめたのは、先程はほとんど波のなかった心電図だった。何とそれが今、正常な波形を示しているのだ。僕は目を擦らずにはいられなかった。
「心拍数、正常!血圧、正常!容態が急激に良く……どうしてだ……」
「瞳──」
今ならその声が、遠い向こうまで届くような気がした。しかし、やっとの思いで口に出したため息のような言葉は、鳴り止まぬ機械音にかき消された。
そしてまた、瞳は眠りについた。まるで何も起きなかったかのような静寂が訪れた。あれほどやかましかった機械も、知らん顔して黙っている。間違いない。僕は奇跡を目にしたのだ。
✽
翌日は、京八の家で練習だった。しかしどうしても、身が入らなかった。
「何だよ青都。そこミスんの、もう三回目だろ」
「ご、ごめん」
京八はため息をつき、ギターを置いた。僕は煙草をくわえ、ライターを探した。
「おい、吸うなら外だぞ」
京八は煙草を吸わなかった。俺は小さな窓を開け、ガタガタいっている汚い換気扇の下で、煙草に火をつけた。
煙で肺を満たそうとしても、胸がいっぱいでできなかった。昨晩の一件で、瞳が目を覚ますことが、「科学的にあり得ない」から「現実的にあり得る」に変わってしまった。それはある意味で、俺が恐れていた悲劇だった。100%の絶望よりも、1%の希望のほうが、ときに人を苦しめる。今まで何の留保もなく音楽をやれていたことの意味するところはつまり、あれほど瞳の目覚めを願っていた僕が、逆説的ではあるが、実はそこに何の期待もしていなかったということだ。瞳が目覚めるあの兆しのような現象がフラッシュバックして、ギターが弾けない今になってそう思う。
「天気どうだ、青都」
僕は空を見上げる。
「晴れだな」
「じゃあ今日あたりやるか」
僕は顔だけ京八のほうを向く。
「やるって?」
「決まってんだろ」
京八は立ち上がり、押し入れの中から、スピーカーと、パステルエースワンのCDを取り出す。そして、僕を見てにやっと笑う。
「渋谷、野外」
十二月だというのに、渋谷の夜は生ぬるかった。それが温暖化の影響なのか、人混みのせいなのか、分からなくなるくらい、いつでも人がごった返している場所だ。
僕たちは時たまここに来ては無許可で路上ライブを開催し、警察に追い立てられるなんてことをしていた。そこまでして京八がこれをやるのは、いつもバンドが停滞気味のときであった。いつもとは違う環境で、少し悪いことをしている気分を味わうことが、気分転換になると見込んでいるのだろう。
「この辺にしよう」
人通りの隙間に僕たちは腰掛け、何の合図もなしに歌い始める。
渋谷は暖かい街とも、冷たい街ともいえる。変質者に干渉しないからだ。僕らがこうして歌っていても、まるで聞こえたいないようなフリをするのが、僕は鼻につく。そういう実体のないものへの抵抗を歌っている気がする。だが、そうやって歌い続けていると、いつしか僕らと同じような変質者たちが寄ってきて、ちょっとしたコンサートホールが出来上がる。聴衆を前にして歌うのは、いつだって気分がいい。
そこで突然、脳天に冷たいものが垂れてきたのを感じた。僕は空を見上げた。いつのまにか、夜空が黒い雲に侵食されていた。
雨足が強くなってくると、せっかく集まった人も、散り散りに帰路についていった。僕たちは傘をさして歌い続けたが、人の群れは流れていった。
すると突然、京八が演奏を止めて立ち上がった。
「覚悟、見せねえとな」
京八はスピーカーに傘をかけると、自らはずぶ濡れになったまま、演奏を再開した。雨に濡れて顔に張りついた前髪の、その隙間から見える眼は
京八の姿は、人々の注目を集めた。たくさんの人がスマホを構えて、珍しいものを映像に収めようとした。しかし、カメラを通しては薄れてしまう、その一瞬の輝きは、京八を肉眼で見ている者だけに伝わったことだろう。あの夜、僕は本物のスターを見た気がした。
渋谷の視線を釘付けにした京八が演奏を終えると、騒ぎを聞きつけた警察が、人混みを掻き分けてくるのが見えた。
「京八、逃げるぞ」
「うわ、やべ」
パステルエースワンをよろしく、と高らかに叫ぶと、僕たちは一目散に駆け出した。
京八の家に着く頃には、二人ともびしょ濡れだった。髪から滴る
「青都、お前晴れって言ったじゃねえか」
「うるせえ知るか、お前こそ警察が来るまで歌い続けやがって」
全て可笑しかった。そうやってひとしきり笑うと、京八は上に着ていた服をまとめて脱ぎ、バスケの要領で洗濯機に放り込んだ。それが入ったのを確認すると、人差し指を突き立てて、僕を見下ろして言った。
「青都、俺は俺の声を、一万年先まで届けるぜ」
突拍子もない発言に、僕は思わず吹き出した。でも京八なら、それすら可能である気がした。
「すごいことが起きるな」
目の前に立つ上裸のバンドマンは、まるで別世界にいるようだった。
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