幻想四六時中
向乃 杳
序章
僕は目の前の医者を殴り飛ばしそうになるのを、既のところで思いとどまった。
積雪を掻き分けて病院まで来たために、スニーカーの中はぐっしょりと濡れていた。芯から冷えた体を表面的に温める、エアコンの風が不快だった。僕は、病室に響きわたる心電図の音と連動するように、怒りを鎮めるよう努めた。それから、低い声で僕は問い直した。
「どういうこと、ですか」
これがどうも暖簾に腕押しだった。僕からして見れば、調子の外れたことを言っているのは医者のほうであるのに、医者は険のある訝しげな表情で僕を見つめてくる。それはあたかも、物分かりが悪いのは僕のほうだと言われているようだった。医者はパソコンに目を戻し、腹立たしい素っ頓狂な声で繰り返した。
「いやですからね、桜山瞳さんは二日前の、ええ、つまり……2023年12月16日の、午前0時ちょうどから数えて、46のつく時間の経過後に、目を覚ます見込みが高いのです」
桜山瞳は僕が三年半交際し、結婚も考えていた彼女の名だ。それが今はこの病室で器具に囲まれて、白いベッドに横たわっている。昨年の末頃に体調を崩し、容態が悪化していくうちに、より大きい病院へと移された。少し前まで、僕の隣で笑っていたのが嘘のように、表情をなくしたままになってしまった。原因は全く不明らしく、「最善を尽くしたのですが」という建前とともに、彼女が目を覚ますことはないとの宣告を受けた。幾つもの夜を越えて、思考を行き巡らせ、考えあぐね、人生と愛情の間で板挟みにあい、それでも僕は彼女に添い遂げる決心をし、しかし現状を受け入れることはできず、それでも自分で立てた信念を道標に、何とか歩み始めようとしていたところであった。
そこに医者が急な方向転換を加えてきたものだから、僕の中には喜びよりもまずは困惑が、そして怒りがこみ上げてきたというわけだ。加えて言っていることが支離滅裂で、それはこいつの不謹慎さから、もしくはユーモアのなさから来ているのかと本気で思ったのだが、どうやら違うらしい。
「現に、12月16日の午前0時0分46秒と午前0時46分、それと12月17日の午後10時ちょうどに、生体反応が確認されたのです」
医者は白い丸テーブルの上の分厚いファイルを開き、中から一枚の資料を取り出し、僕に見せた。
「16日の段階では、機械の故障なんじゃないかって疑ってましてね。原因究明に努めていたところ、17日にも同様の反応が見られたもんですから、もしかすると、ってね」
細かな上下を繰り返していながらほとんど平坦に見えるそれは、驚くことに心電図であるらしい。僕は、瞳がそれほどまでに差し迫った容態にあることを思い知らされ、ベッドの彼女を見ていたたまれなくなった。
もう一度資料に目を戻すと、確かに医者の言うとおり、三つの時点においてのみ、心電図の波の動きが変化している。心電図だけでなく、血圧や脳波、臓器の動きなどにもそれまでと明確に違ったデータが得られていた。しかしその時点を過ぎればまた元通り、生死の崖っぷちに立たされている。
「今年のクリスマスは二人で過ごそう」と瞳は言った。交際開始直後から、彼女が働き始めた街のおもちゃ屋は、クリスマスが書き入れ時であった。そのためもう三年も、一緒にクリスマスを祝えていなかった。僕はそれで構わなかったが、こたえていたのは彼女のほうであった。
「あのね、私が青都を愛していて、青都が私を愛してる、それだけじゃ不十分なの。馬鹿らしいと思えるような体裁が時には、輪郭のない人の気持ちを繋ぎ止めるんだから」
だから何としてでも、今年は恋人らしくクリスマスをともにしたいと、彼女は言った。健気だと思う。もし彼女がもう一度目を覚ましたら、と気づけば僕は考えていた。
「前例はありませんし、嘘みたいな話です。しかし、幻想でも希望があるのなら、賭けてみる価値はあります」
「しかしこの間は確かに、治る見込みはないと……」
「治りますよ。現代の医療技術がありますから」
いちいち鼻につく言い回しだ。乱暴に言い放つ医者を、気づかれないように僕は睨んだ。
それにしても、信じ難いことである。しかし、具体的なデータを目にした僕は、先程とは打って変わって、心の中を希望の風が吹きぬけるのを感じた。生死の狭間に立つ彼女が再び生に還ることは、
「法則性でいうと、次に目覚める確率が高いのは、46日後、つまり2024年1月31日の午前0時というわけです」
46秒後、46分後、46時間後、46日後。人間の時間の区切り方の性質上、間隔はどんどん大きくなっていく。ただその一瞬の希望のために、彼女の心臓は微細な拍動を続ける。それはいつまで続くかも分からない、果てしない旅だ。
「先生、瞳は助かるでしょうか」
「そりゃあ、現代の医療技術がありますから」
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