00-4.おれの神さま

 慶栖けいす、と呼ぶ声は木陰を吹く風のように心地よい。

「おまえのいのち、ぼくに預けてくれないか」

 少年は慶栖へと歩み寄り、水から掬いあげるようにして天地あまつちの杖ごと慶栖の手をとった。初めて触れた少年の肌に体温は感じられない。だが慶栖には少年の存在それ自体がとても温かなものに思えた。

「おまえの目はいま死んでしまうにはあまりにも痛々しい。それは生きたいと願う者の目だ」

 体の内側がざわざわとする。

 おさないころ、耳を塞ぐと聞こえてくる音は、水潦すいろうが地中で繋がり楔原せつげん中を巡っている音だと母から教わった。ふとそんなことを思い出す。あのとき祥稲さちねは無邪気に信じていたが、慶栖はそれが自分の呼吸や鼓動の混じった音だと察していた。

 だが思いがけず地中へ降り、まさに水潦の巡りを目の当たりにしたいま、母の話もまたひとつの真実だったのだと知る。

 なにを、どう話せばいいのかわからなかった。言葉は見つからない。ただ衝動が渦巻いて、伝えたい気持ちばかりが膨らんでいく。

 慶栖は少年が握ってくれている手を、強く握り返した。

「おれは……」

「うん」

 慶栖の脳裏に浮かぶのは三年前、育ての父と母が獣に襲われて亡くなった日のことだった。泣き崩れる祥稲を抱きしめながら、慶栖は彼女の悲しみとはまったく異なる心境にいた。

「おれは……祥稲がほしかった」

 言葉にして初めて慶栖は自分の心のおぞましさにぞっとした。

「だから彼女を巫女にしなくてはならなかった。巫女候補で終わらせたくなかった。彼女の貞操を……守るために」

「それで当主を引き受けたのか」

「ああ。もとより生前から母が望んでいたし、公言もしていたからそう難しいことではなかった。ただ、どこの血筋かもわからない、そもそも竜家かもわからないおれが青家せいけ当主なんて、誰も、よくは思ってなかったが。それでも祥稲を巫女に任命できるのは青家当主だけだったから……」

「叶ったわけだな」

「そう……そのはずだったのに……」

 おそらく少年は慶栖の身に何があったのか知っている。出会ったときか、それとも手を握ったときか。知りながら、慶栖自身に話をさせるためにじっと耳を傾けている。

「おれのせいで、もう……巫女も青家も終わりだ。黄竜こうりゅうになにもかも穢された」

 血を流し、白い糸に覆われながら、黄竜――穂鷹ほたかは笑っていた。

 ――絶対におまえの存在を許さないぞ、慶栖!

「おれは逃げたんだ。あいつを殺すこともせず、いっそ祥稲を自分のおんなにすることもできず、まるで……被害者みたいに……」

 嗚咽にも似たため息がこぼれる。

「殺せばよかった! 抱けばよかった! そうすればおれは何も失わずにいられたのに……!」

「違う」

 少年の短い声が静かに響く。

「おまえは何も失ってなんかいない。守ったんだ。おまえはおまえ自身とその尊厳を」

「まさか、そんな」

「いいや、そうだ。守ったんだ。おまえの姉も、おまえに守られたんだよ」

 天色そらいろの眼差しがまっすぐ慶栖へ向けられている。

 青く染まった洞内にあっても、少年の瞳の清さと青さは冴えていた。彼の前ではどんな青もくすんでしまう。

 そのあまりのうつくしさに、慶栖は縊られるような思いで言葉を絞りだす。

てん……」

 かつて龐樹には天露と呼ばれる恵みが天水てんすいのふちから降り注いでいたという。いまもまれにその片鱗が輝くことはあるというが、もはや虹よりも儚く、星の輝きよりも微かなきらめきを見つけることは不可能に近い。少なくとも慶栖は見たことがなかったし、見たという人から話を聞いたこともなかった。

 だが慶栖はいまここに天露を見た。まるでそう錯覚するほどの心の震えがあった。

「あなたは、いったい……」

「みんなのいのちを次へ繋ぐためにここにいる、そう言ったはずだよ」

「そうではなく」

「うん、わかってる。ぼくは硝ではないし、そもそも人ですらない。ぼくが何者なのかは、ぼくにもわからないんだ。わかるのは、おまえたちとは異なる仕方でここにいるということだけ。神か化け物か。たぶん、まっとうないのちではない」

「気に、ならないのですか。自分がどこから来たのか、どういう存在なのか」

 慶栖の問いかけに、少年はぱっと明るく笑った。

「わかったところで、ぼくの毎日は変わらないからね」

 強がりでも諦めでもない健気な笑顔が眩しかった。

 禁足地の森に差し込んでいた一条の光が思い出される。おなじ、慈悲深い眼差しだった。境遇や運命を受け入れたような顔をしながら結局逃げ出してしまった慶栖にはとても到達できない高みだった。

「おれは……これからどうすれば……」

「おまえの気持ちが収まるまで、ここにいるといい」

「構わないのですか、おれのような人間がここにいて……穢れるようなことは」

「しつこい。ぼくがいいと言っている」

 少年は呆れたように笑って続けた。

久暉ひさきだ」

「はい、よろしくお願いします……」

 久暉は慶栖と軽く手を打ち合わせると、次々やってくる青い光にやわらかな目を向ける。

「そうだ慶栖、腹が減ったら言えよ。なにか探しにいくから」

「なにかって、なんですか」

「さあ、それは山へ行ってみないと」

「待ってください、もしかしてさっきの隙間からまた出るんですか」

 屈託のない笑顔で、久暉は頷く。慶栖は短くため息をついて、しばらく使うことがないであろう天地の杖を懐へ押し込んだ。




 あれから十五年が経つ。

 館を飛び出したあの日、殯のうろはたしかにあった。そこで慶栖は一度死に、生まれ直した気持ちでいる。慶栖の胸にはいまもまだ久暉と出会った日の喜びが生々しく宿っていた。

 慶栖は外輪山の外から龐樹ほうじゅを眺める。山は中腹まで白い繭のようなものに覆われ、橋上にあった門はどんな刃物も寄せ付けない白い糸にからめとられて閉ざされている。

 人々はいまの龐樹の姿をいつも不安げに見上げた。ここ数年、水潦の水位が減り続けている。その原因が龐樹の変化にあると考えられているからだ。

 いま慶栖は各地の水潦を巡回して、水位の変化や水枯れなどを見守っている。場合によっては水量を増やす術式をかけることもある。また不安に思う人々に、龐樹はもとの姿を取り戻しますよ、と伝えることも欠かさなかった。

 半年ほど前からは、近いうちに必ず、とも言い添えている。

「慶栖おじさま! お待たせして申し訳ございません!」

 灰煉瓦の家々に挟まれたなだらかな階段を、ひとりの少女が駆け降りてくる。肩で切り揃えた黄金色の髪が初夏の健やかな朝日にきらめいていた。

「急がなくていいですよ、未真みま

「言い訳なんですけど、出しなに金具が壊れてしまって」

 未真は肩にかけていた鞄をすこし持ち上げるようにして見せた。金具の一部に色の違うものがある。

由稀ゆうきが応急処置をしてくれました」

「相変わらず器用な子ですね」

「でもあくまでも応急だから、どこかでちゃんと職人さんに見せるようにって。やることが中途半端なんですよ」

 未真は不満げに唇を尖らせるけれど、慶栖の目には正反対に映る。

 あと、と未真は手に提げていた大きな包みを差し出した。

「母からです。朝と昼、二食分のお弁当を作ってもらいました」

安積あずみはあなたの同行を許してくれたんですね」

「さあ、どうなんでしょう。わたしはてっきり、おじさまが言ってくれたのかと」

「いくら兄妹とはいえ、わたしも安積ももうおとなですから、そこまで出過ぎたことはしません」

「じゃあ、由稀かなあ」

 未真は馬の背に包みをくくりつけながら首をかしげた。

「だってせっかく還り子もどりごに生まれたんだから、なにか役に立ちたいって思うのは間違ってませんよね」

「それが未真の素直な気持ちなら、間違いなんてありませんよ」

「よかった。あ、お弁当、おじさまの分もありますよ」

「それは楽しみです」

 慶栖は応えるように笑みを浮かべ、足もとに置いていた鞄を背負った。

 胸から提げた小さな布袋をぎゅっと握る。布越しに硬い感触がある。なかには天地の杖の欠片が納まっていた。かつてはただの木片のような質感だったが、いまは微かに鼓動が感じられるようだった。

「では行きましょうか」

 馬の首をひと撫でして、村と龐樹を振り返る。そうして心のうちで彼の名を呼ぶ。

(おれの神さま……)

 行ってきます、久暉さま、と。



00.青嵐をゆく【おわり】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天涯の糸 望月あん @border-sky

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説