00-3.いのちの綻びを繕う糸だよ
火口から逸れて岩場を越えた先の斜面に、人がひとり通れるほどの亀裂があった。少年に倣って
中は自分の体がどこにあるかもわからないような暗闇だった。奥から冷たい風が吹きつけて、汗ばんだ首筋が粟立つ。
「すこし待てば見えるようになる」
そう言い残して少年の足音は遠ざかっていく。どんなに目が慣れようと見えるようになるとは思えない深い闇だ。少年の言葉を信じるのは難しい。
(得体が知れないのに、期待しすぎたか)
気持ちを整えるために、慶栖がひとつ息を吐こうとした時だった。
木の葉がはらりと落ちるように、視界を掠めていくものがあった。小さな、雪のひとひらほどの微かな光だ。ときおり浮き上がりながら次第に舞い落ち、慶栖の靴先を灯す。山歩きですっかり汚れた布靴は、ほのかに青く発光した。
「どう、いう……?」
顔を上げると、いくつもの青い光が中空に浮かび、それ自体が意思を持つ生きもののように自由に舞っていた。
おかげで洞内の様子が明らかになる。両腕を広げきれないほど狭く、まったく整備されたことのない荒々しい穿ちだ。地面の岩盤は急流のように波立ちながら、うねり、下っている。慶栖はほとんど滑り落ちるようにしながら奥へと進んだ。
くだるほど、光は強く、青くなる。大きくひらけた底へ着いたときには、青い光の氾濫に慶栖は言葉が出なかった。
「無事来られたみたいでよかった」
少年のまわりは、青い光がいっとう激しく輝いている。燃えるように光って尽きたかと思うと、光の糸を吐き出して身に纏い、ふわりと丸い綿のようになる。みずから舞うことも輝くこともできなくなった光だったものは、風に吹かれて大きな空洞を漂い、やがて周囲の泉へと吸い込まれていく。泉はよく澄んでいるが底が知れない。相当の深さがあるようだった。
先ほど慶栖の靴先を灯した青い光も再び浮き上がると少年の周りを飛びながら白い光の糸を吐き、丸くなって風に煽られていった。
「ここは……」
「ぼくは
「いのち?」
「そうだ。各地の
少年が慶栖を指さすと、光のいくつかが慶栖の体にまとわりついた。それぞれに明滅したり、慶栖の肌へ張りついたりして、慶栖が何者であるか探っているようでもあった。
「気を付けろよ、そいつらは貪欲で嫉妬深くて、生きているものへの執着がすこぶる強い。下手したら食われるぞ」
「は?」
もぞもぞと虫が這うような感触に腕を見下ろすと、着地した光が慶栖の肉体へめり込もうとしていた。慶栖は慌てて光を払い落とす。
ははは! と少年が声をあげて笑った。
「ぼくの言うことをよく聞く、いい子たちだろ?」
「おまえ!」
落ちた光は何事もなかったように少年のもとへ戻っていく。
「まあ落ち着け。おまえがこいつらに食われるのなら、ここへ来るまでに食われているだろうから」
「どういうことだ」
「いのちを食うのは本当だよ。でも、天地の杖を持つおまえを食いはしない。それはぼく同然だからね」
「……なるほど、これはおまえの骨、ということだったな。ならば、わかりながらからかったということか」
少年はそうだと答える代わりに、にこりと微笑む。
「ぼくはたくさんのいのちと話をするけれど、そこに人や動物の区別はないからね。やりとりには明確な言葉だって存在しない。だからこうやって人の子と会話をするのは久しぶりなんだ。うれしくて、ね」
少年が指先を高く掲げると、青い光は一斉にその色を失くして糸を紡いだ。
「見えるだろ、この糸が。これはいのちの綻びを繕う糸だよ。再生の力が宿っている。だから言ったんだ、天地の杖では殺せないと。ぼくはみんなのいのちを次へ繋ぐためにここにいる。どんなことがあろうと、ぼくは殺さない。いのちを奪うことなんて、ない」
声変わり前の中性的な声ではあるが、少年に幼さは感じられない。むしろ侵しがたい聖性を帯びるようだった。
慶栖は禁足地の森を思い返す。誰の手も入っていない、あるがままの荒々しい森は、人にとっては歩きづらく容易ではなかったが、森には森の法則があった。生きることや命あることにどこまでも真っ直ぐで、生きよう、越えよう、進もうとするすべての命に対して道がひらかれていた。平等であるがゆえ、厳しく残酷でもあった。
あの森とおなじ公平さが、少年の澄んだ声にもある。
少年はやわらかな糸を紡ぐように、そっと微笑んだ。
「だからぼくは、慶栖、おまえのいのちも見過ごさない」
洞内に少年の声が反響する。
霧雨のように言葉が降り注ぎ、全身に染みていくようだった。慶栖は二度三度と何か言おうと口をひらいたが、返す言葉を失くしてしまっていた。
どんなときだって、誰にも何も言わせないようにする言葉を胸に用意していたはずだった。自分がたとえ正統の
(そのはずだったのに……)
ほんの一瞬、少年のほんのすこしの言葉で、慶栖は丸腰になってしまった。
なぜと自問することもできない、理解の及ばない心境だった。
体が、いのちが、慶栖自身の意思と関係なく、また抗いようもなく、この場所を心地よいと感じ始めていた。これまでの二十年の人生で作り上げてきた殻に不意にひびが入るようだった。
慶栖の視界を、少年がいのちと呼ぶ綿毛が横切っていく。
(おれもまた、あれとおなじということか)
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