00-2.これが自由というやつだろうか

 気づけばいつしか汗はひいていた。吸い込む風の冷たさに胸が凍みる。夏の盛りとは思えない肌寒さだった。

 禁足地の森も日差しはほとんどなかったが蒸し暑かった。虫の羽音、鳥の鳴き声、動物の息遣い、木々の葉擦れなど、生命の鼓動が騒々しくもあった。だがいま耳に届くのは山の鳴動と風の唸りだけだ。

 慶栖けいすり鉢状の火口の淵に立ち、眼下の火口湖を見下ろした。緑青ろくしょう色に染まった湖面が噴煙の隙間からちらちらと覗く。目が覚めるほどの鮮やかさで、空の青とも、湖の青とも異なり、不透明でありながら何よりも澄んだ色をしていた。風向きによっては火口の熱が一気に届いて、たまらず一歩あとずさる。

 それでも慶栖は際立つ青から目が離せなかった。

 もしも世界にてがあるならば、きっとこういう景色の先にあるように思った。

(いや……ちがう)

 ここがもう、涯てなのだ。

 それは生と死の境目でもあり、つまり殯にふさわしい場所ではないのか。

 うろと呼ぶには大きいがもはや問題ではなかった。ここであれという願いがあった。

 慶栖は手のなかの天地あまつちの杖を見下ろす。ただ、火口湖へ杖を投げ込もうとしても、ここからでは届きそうにない。この杖の羽根のような軽さでは、下まで転がりきることも難しい。慶栖みずから降りるしかなかった。

 無事ではすまないだろうが、それでいいようにも思った。どうせ館へ戻ったところで青家の立場を複雑にするだけだ。祥稲さちねが周りにどう話したか知るよしもないが、まさしく先代の姪である彼女の言葉なら誰も疑いはしないだろうし、仮に彼女が慶栖をかばおうとも、都合の悪いことはすべて出自のわからない慶栖のせいになるはずだ。

 最善だ、そう思って足を踏み出したときだった。

「ここは水潦すいろうではないぞ」

 思いがけず話しかけられ、慶栖は驚き振り返った。すると後方に少年の姿があった。

「身を投げても浮かばれん」

 滑りやすい砂利に足をとられることも、強い風にぐらつくこともなく、慣れた様子で歩み寄ると、少年は慶栖をじっと見上げた。

「人の子とは珍しい。この辺りは禁足地にしろと伝えたはずだが?」

 境綱さかいづなを越えたことを責めるような様子はなく、不思議そうに、そしてどこか楽しそうに微笑んでいる。その眼差しは空を切り取ったような青——そら色で、風に乱される短い髪もまたおなじ色をしていた。彩姿さいしだ。

 教養としてその存在は知っていても、自分の目で見るのは初めてのことだった。聞く限りではなんて珍妙な姿だろうと思ったが、まさに目の前にしてみると、浮世離れした美しさに言葉がなかった。

 ただ、なぜここに彩姿がいるのか。禁足地にしろと伝えた、というのはどういうことなのか。それらの疑問がかえって慶栖の平静を保った。

「それならば、なぜ彩姿……いいえ、なぜしょう龐樹ほうじゅに? その姿では門を通れませんよね」

「ああ、この色のことか。だが、ぼくは硝ではない。これはみんながくれた宝物だよ」

「は……? なにを言って……」

 では硝ではないなら何者なのか。慶栖は重ねて訊ねようとしたが、少年がいやに嬉しそうにしているので機を逸した。

「人の子おまえ、名は?」

「慶栖……青竜せいりゅう慶栖」

「なるほど、青家せいけ当主か。それで天地の杖を持っているわけだな」

 少年は慶栖の手を視線で示し、猫のように優雅に目を細めた。

 天地の杖は平時は蔵に収められ、祭事の際にも各家当主以外の目に触れることはない。また、見た目に特別なところもないため、それと知らなければ天地の杖とわかるはずがない。

 慶栖は少年から一歩後ずさった。

「誰だ。なぜこれを」

「そう警戒するな。それはぼくの腕の骨から作った。自分の体だったものくらい、見ればわかる」

「腕の、骨……?」

 慶栖は少年の汚れた外套から伸びる二本の腕を目に留める。

「ほらを吹くなら、いくらかそれらしいものにしたほうがいい」

「そうだな」

 少年は慶栖の厭味を受けとめて、静かに頷く。そうしてから、火口湖のほうへ視線を向けた。

「当主が杖を持ち出し、禁を破って山頂でもろとも果てようだなんて、尋常ではないな」

 その横顔は透徹として、皮膚の内側からかすかに光り輝くようだった。

「ずいぶん血も浴びたようだ。濃い、血のにおいがする。だがその杖で命を奪うことは叶わなかっただろう?」

 ただ見ただけで、なぜそこまでわかるのか。慶栖は少年のことを薄気味悪く感じはじめていた。彼のその推察力だけではない、時折こぼれるぞっとするほどの美しさは、畏怖に近い感情を抱かせた。

 少年は慶栖を横目に見て首を傾げた。

「どうだ、その杖で殺せたか?」

「……いいえ、血があふれるばかりで」

「だろうな。おまえたちはもう知らないのだろう、その杖がいったいどういう代物なのか」

「どう、とは」

「おまえまだ死ぬ気はあるか」

 言葉と釣り合わない笑顔で少年は問う。慶栖が答えに窮していると、少年は満足げに頷いた。

「ついてこい。ふさわしい場所へ案内してやろう」

 言うやいなや少年は身を翻して火口の淵を東へと歩き出した。だが慶栖がついてきていないことに気づいて振り返る。

「どうした、知りたくないのか。それとも死にたくないか」

 火口湖を見下ろしたときの恍惚とした感傷はすっかり失せてしまった。死にたい気持ちが無くなったわけではないが、その死は姉のためでも、家のためでもなくなっていた。

 罪を被り、杖を持ち出し、禁を破った。誰に命令されたわけでもない。自分が選んだ道だった。だがほんとうにそうだったのか。

 昨日までの慶栖なら迷いなく、みずから選んだと答えただろう。そのことに気づいて思わず息がとまる。選ばされたという恨めしさがたしかにあった。

 いまや慶栖の決断を遮るものはなにもない。

(おれは、どうしたい……?)

 これまで考えたこともなかった問いかけに、心が震える。それは初めて感じる喜びのかたちだった。

(知りたい)

 慶栖は杖を持つ手に力を込めた。

 明日のことなど想像できない。このまま山をさまよい、日没にはもう終わっているいのちかもしれない。けれど少年のことと杖のことを知りたいと強く思った。知ったからといって慶栖の明日が変わるわけでもなく、何の役に立たないとしても、慶栖は湧き立つ好奇心を抑えることができなかった。

 強い風が吹きつける。服や、髪や、そして身も心も乱されていく。視線の先には空からこぼれた色彩の少年がいる。

 人ならざる存在かもしれない。場合によっては人を喰うような存在かもしれない。恐れがまったくないとは言えない。

(だがそれがどうした)

 終わらせるつもりで淵に立ったのだ。いまさら死を恐れるのは滑稽に思えた。

 体は疲れきっていたが、不思議と重く感じない。強い風に吹かれて、いくらか失くしてしまったのかもしれない。

(これが自由というやつだろうか)

 慶栖は少年のあとを追った。

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