天涯の糸
望月あん
【1】
00.青嵐をゆく
00-1.あなたに天露がありますように
かすかな木漏れ日に気づいて男は顔を上げた。いつしか中天まで日が登っている。
——おれが殺った!
そう叫びながら
追ってくる篝火から逃れるため、そして殯のうろへと向かうため、禁足地を示す
森は聖地・
木々に覆われているため多湿で、いつまでも汗がひかない。そのくせ山気は冴え渡るようで背中が小刻みに震えた。倒木に行く手を阻まれ、何度も斜面を転げ落ち、砂と汗とが混じって泥になり、枝先で上衣がほつれ、擦り傷や湿疹で肌には血が滲んだ。麓から毎日見上げていた美しい山の内側がこれほど荒々しいものとは、つゆほども想像しなかった。人の手が入り整然とした参道周辺の景色がどこまでも続いているものと思い込んでいた。もはや自分がいまどこにいるのかもわからない。
枝葉の小さな隙間から糸のような光が伝い落ちている。荒い呼吸を繰り返しながら、慶栖はその光の下に立つ。
光を求めて伸びた枝は歪に曲がり捻れていた。吐いた息が岩や土や木に溶けていく。次に吸い込む息は森と水といのちのかたまりだ。慶栖はうまれて初めて自分のいのちがこの地と繋がり、生かされ、許されていることを、言葉ではなく肌触りとして感じていた。
(皮肉だな)
もうここには戻れないのにと、頬を笑みのかたちに歪める。
館から持ち出した黒檀の杖を、その存在を確かめるように強く握る。姉の手から奪ったときには血で濡れていたのに、いつしかすっかり乾いていた。
いまごろ姉の
彼女のそばには杖で刺された男が倒れ、奇妙な白い糸に覆われはじめていた。みるみる血が流れているのに、一向に息絶える気配がない。祥稲は怯えて、何度も繰り返し男を刺した。
何があったのか説明を求めたが要領を得なかった。ひとまず杖を取り上げたものの、このままではいられないと察した。慶栖は罪を被るつもりでいたが、祥稲がそれを容れるとも思えなかった。大丈夫だと祥稲を抱きしめながら慶栖は言った。
かつて母が話していた殯のうろで、
天地の杖は
血溜まりのなかに倒れる男と、血まみれの杖を前に、祥稲が慶栖の提案を断れるはずがなかった。彼女は渋々、引き留めていた慶栖の袖を離した。
そうして祈りを口にした。
「あなたに
祥稲はこれが今生の別れとわかりながら、同時に心の底からまた会えると信じているようでもあった。慶栖は杖をもとの状態にしに行くだけで、目的を果たせば館へ帰ってくる、と。
その残酷でうつくしい声がいまもまだ慶栖の頭の片隅で疼いていた。
いま、慶栖は殯のうろを目指している。はじめは祥稲を言い包めるための方便だったが、禁足地の森を進むうち、それは慶栖にとっての拠り所となっていた。殯のうろを探しているあいだは、人のままでいられるように思った。
足場を確かめながら岩を越え、蛇のように伸びた枝に掴まって体を押し上げる。そうしているうちに泥だらけの肌も、息苦しさも、喉の渇きも、苦にならなくなった。ただただ無心になって山を登る肉体だけがある。むしろ心地よいくらいだった。
やがて森は唐突に途切れた。
強い風が吹き抜ける。瞬きするたび風向きが変わるような、巻くような風だった。その風に乗って、喉の奥が焼け付くようなひどい臭いがする。辺りは一面灰色の砂利に覆われ、岩の隙間からは白煙が噴き出していた。
空を見上げて、慶栖は思わずここがとこぼした。
上空に島が浮かんでいる。神が暮らすとされる浮島、
麓からだと天水は楕円形に見える。だが実際の天水は麓から見えない北側に鋭く突き出て、本で読んだとおり扇のような形をしていた。
伝承の真偽をみずからの目で確かめて、慶栖はかつてこの場所を訪れた人々のことを思った。なぜ、なんのためにここへ。
「おれは……」
握りしめた杖を見下ろし、掠れた声で呟く。慶栖の目的はこの杖を浄化すること。もし彼らもそうだったなら……。
殯のうろは、ある。
ただ、それがどのような場所か、母は教えてくれなかった。母も知らなかったのかもしれない。
上方でひときわ大きな噴煙があがる。慶栖は導かれるようにそちらへ向かった。
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