最終話 約束

翌日の昼下がり、いつものように彼女の部屋に向かった俺は、途中でえも言えぬ違和感を感じた。何かが、おかしい。何かとは言ったが、その正体は明白だ。音が、しない。音が、聞こえない。もう聞こえないといけないはずの音が、聞こえてこない。彼女の笛の音が、あの音色が、聞こえない。俺を呼ぶ笛の音が、俺を惹きつけてやまない音色が聞こえない。俺は慌てて、彼女の部屋へ向かう。こんなに遠かっただろうか。こんなに、寂しい道のりだったのだろうか。あの音がないだけで、こんなにも、変わってしまうというのだろうか。恐怖が、不安が、寂しさが、俺を押しつぶそうと躍起になっている。重すぎて、つぶれてしまいそうになる。押しつぶされないように必死に抵抗しながら、俺は彼女の部屋へと急ぐ。少しでも早く、一秒でも早く辿り着きたかった。そこで彼女に、いつも通り佇んでいてほしかった。リコーダーを今日は吹いていないだけだと、俺を安心させてほしかった。

 やっと彼女の部屋が見えてくる。今日も窓は小さく開けられている。それを見て、少し安心した。きっと彼女は大丈夫だ。今日はリコーダーを吹いていなかっただけなのだと。窓に手をかけて、開く。しかしそこには、期待していた光景は広がっていなかった。何も、無かった。いや、何もなかったわけではない。昨日見せてもらった制服と制帽は、壁に掛かっているし、リコーダーも、テーブルの上に置いてある。でも、肝心の少女は、どこにも、いなかった。

 窓を開けた体勢のまま、目の前の光景が信じられず、呆然としていると、部屋の入り口のドアが開いた。そこから入ってきたのは少女ではない。初老の男性と、どこか少女によく似た雰囲気の女性だった。二人と目が合う。

「誰だね君は? ここは君の部屋ではないはずだが」

 初老の男性が問いかけてくる。問いかけというよりは、叱責に近い。思わず謝って立ち去ろうとしてしまう俺を呼び止めたのは、少女によく似た雰囲気の女性だった。

「もしかして、あなたがお兄さん? 娘とよく遊んでくださっていた」

 やはりというべきか、少女によく似た女性は、少女の母親だったらしい。

「はい、そうです。それで、彼女はどこにいるんですか?」

 俺がそう尋ねた瞬間、彼らの顔が、悲痛に歪むのが分かった。それで俺には察しがついてしまった。もういい、やめてくれ。その先は、知りたくない。そんな思いとは裏腹に、知らないといけないのだとも、そうも思う。彼女との約束が、知りたくないと叫ぶ意志を、身体を、この場所に縫い止める。

「君のことは彼女から聞いていた。君にも、知る権利があるだろう」

 初老の男性はそう言うと、左の方を指さしながら続けた。

「あっちに、この棟の入り口がある。こちら側に入ってくるんだ。彼女に、会わせよう」

 茫然としたまま、俺は諾々と、彼の指示に従った。建物の中に入ると、彼に連れられて歩いた。どうやって歩いたのかも覚えていない。そもそも、ちゃんと歩けていたのかさえ確かではない。前を歩く彼と、後ろを歩く彼女の母が立ち止まった。俺に合わせて俺も立ち止まる。自分の意思で体が動いている気がしない。何者かに操られているかのような奇妙な感覚。間違いなく自分で手足を動かしているのに、そこに自分の意思が介在していないような奇妙な浮遊感。

「ここです」

男性の声がどこか遠くに聞こえる。身体の自由だけでなく、その感覚まで、自分のものでなくなってしまったかのような。遠い声に導かれるまま、俺は顔を上げる。

霊安室

その三文字が、俺の目に映った。決定的で、悲劇的な、その三文字が飛び込んでくる。

彼が、上着の胸ポケットから取り出したカードキーを、部屋の名前を示す機械灯の下に鎮座しているガラス板に押し付けると、短い機械音に続いて、両開きの白い扉が、静かに横に滑る。

冷たい空気が、空いた扉の隙間からあふれ出した。冷気が、刃のように肌を刺す。

「少し寒くなっているから、気を付けて」

 遠くに聞こえていた彼の声が、さらに遠くなる。俺の耳には、すでにほとんど届いていない。ただでさえ遠かった声は、さらに遠くなり、消えて行ってしまう。俺の目は、意識は、身体は、俺を構成するすべての要素が、俺の目の前の一点に集中する。目の前の、簡素なアクリルの板に眠る一人の少女に。

 その様子は、いつもの彼女と何ら変わりがなかった。しかし、いつも俺に向けられていた、無垢な瞳は、今は閉じられていて、ピクリとも動かない。天使のようで、悪魔のようにも感じられた、鈴のような声が発されることはもう二度とない。あの声が聞けることは、彼女が動く姿を見ることは、彼女の、あの吸い込まれるような瞳を眺めることは、もう二度とない。もう、二度と、無いのだ。俺たちにとっては、ここではそれが当たり前で、そのことには疑う余地すらない。この場所では、俺たちは終わりに向かっていくことだけしかできない。許されていない。それが当たり前で、悲しむことでもないはずなのに、それはわかっているのに。俺は膝をつき、ただ呆然と涙を流した。涙を流すべきではないことが分かっていても、涙を流すことに何の意味がないことが分かっていても、俺の瞳から流れる水は止まらない。留める術を、持っていない。

 ただ呆然と涙を流し続ける俺に、彼らは、何も声をかけてこなかった。声をかけてこないでいてくれた。今の俺には、思いやる声すら雑音にしかならない。もうとっくに擦り切れて、失ってしまったと思っていた痛みが、俺の胸を刺す。まるでナイフで古傷をえぐるように、忘れていた痛みに対する心構えは、俺には残っていない。痛みを押し流すことも出来ず、爆発したものが、瞳から零れる、零れ続ける。

 ――やくそく。

 少女の声が蘇る。昨日の少女の、声が、声音が、その時の喜びが、蘇る。悲しみと、喪失と、全てとぐちゃぐちゃに混ざって、判らなくなる。あいまいな境界、あいまいになる世界。俺という存在の教会すら、判らなくなるくらいに混ざられる。

 ――やくそく。

 反響する。木霊する。声が、感情が。

 ――私たちは、絶対にお互いのことを忘れない。

 約束。誓約。彼女の言葉が俺に与えてくれたものを、彼女の弱さを、彼女の強さを、忘れてはいけない。ぐちゃぐちゃになって、溶けて、無くなって、俺に残ったものは、たったそれだけだった。

 ――次も、その次も、永遠に。

 忘れない。忘れない。忘れられない。忘れてやらない。彼女の魂を、輝きを、色を、声を、夢を、彼女を形どり彩った、その総てを。


「リコーダー、俺がもらってもいいですか……」

 長い沈黙の時を破った俺の声に、彼女の母は、全てわかっていたかのように、慈愛の凍る声音で、直ぐに肯定してくれた。

「そのほうが、あの子もきっと喜ぶわ」

「ありがとうございます……」

 幽鬼のようにおぼつかない足取りで、彼女の部屋まで戻ると、彼女の母は、縦笛が入った袋を、俺に手渡した。ありがとうございます。それだけを伝えると、俺はそのまま、足元もそぞろに、自分の部屋へと戻る。俺にとっての彼女は、希望だった。夢だった。憧れだった。そして何よりも、俺の最後を、見ていてほしかった。俺が思っていた感情の最後の一片は、そんな願いに近いものだった。それが手折られた。その衝撃は俺の心を破壊して、もう治せないほどに削りきってしまった。


 ♢


 いつの間にか、意識を飛ばしてしまっていたらしい。目が覚めると、そこは、彼女の部屋に向かう通りの途中だった。手には彼女の縦笛。周りはもう明るくなっていた。こんなところで意識を失ってしまっていたのだろうか。

 その時だった。聞こえるはずのない、聞けるはずのない音が聞こえてきたのは。縦笛の音。彼女を示す、彼女への道しるべ。もう聞けるはずがない、聞こえたらおかしいはずの音階。なぜ、それが聞こえるのだろうか。こんなことがあり得ないはずなのに。そんな思考が頭をよぎるが、身体が、心が、俺を音のもとへ連れて行く。音が、俺を惹きつける、引き寄せる。彼女の部屋に辿り着く。いつも通り、小さくあいた窓に手をかける。窓を開く。音が、止む。部屋の主が、音を奏でるのを止める。勢いよく窓を開けたせいだ。それもわかっている。でも、だけど、そんなことはどうでもいい。俺は、俺の目は、部屋の中央に固定されて離れない。音の主に、彼女に。いつも通りに佇む、あり得ない光景に。

「どうして……」

 彼女の口から零れた声すら、俺にはもう届かない。見たこともないほどに分かりやすく動揺した表情をする彼女の姿も、もう何も気にならない。俺は、ドアに足をかけて、それを超えた。少女と俺を隔てていた。低くて、高い、絶対の壁を。そうして少女を抱きしめる。

「よかった、よかった、よかった……」


 ♢


 倒れている男性1名。手にはリコーダー。緊急の通報を受信済み。

その横を人が歩く。また歩く。誰もそれを気にしない。人からモノに代わってしまったそれに、一瞥さえくれようとしない。ここはそういう場所、それこそが当然の場所。誰もが全員、いつ自分がそうなってもおかしくないことを知っているから、それから全力で目をそらす。見ない、見えないふりをする。そうなることへの恐怖から、逃げようとする。ある者は諦め、ある者は抗う。しかし後者は極端に少ない。終わりを告げられ、希望を奪われたものだけが集う場所。

終末期ホスピス

固く閉ざされた、許されたもの以外には開かれることのない門扉の上には、それだけが、刻まれていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

縦笛 釉貴 柊翔 @Shuuto_Yuuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ