第2話 普通

それから数日たった。彼女と俺の関係はまだ続いている。毎日昼下がりに彼女の部屋を訪れ、彼女にリコーダーを教える。たったそれだけの関係だが、俺にはかけがえのないものであるように感じられた。そんな話をする中で、俺は彼女のことを少しずつ知ることができた。その最たるものは、彼女がリコーダーを吹く理由だろう。

つい二日前の事だった。基本の音はすべて出せるようになって、いよいよ次は曲を吹いてみようとなったあの日、俺はずっと気になっていたことを彼女に聞いてみた。

「なんで、リコーダーを吹こうと思ったんだ?」

 教えてくれるかどうかはわからなかった。場所が場所だ。事情があることはわかっている。だからこそ、知りたかった。

「普通になりたかったの」

 俺の予想とは裏腹に、少女は簡単に答えてくれた。儚げな、透明な声で、彼女は言葉を重ねる。

「このくらいの年の子はみんな、リコーダーを吹くって、ちょっと前に教えてもらった。私は普通じゃないし、きっと普通にはなれないんだろうけど、でもちょっとは普通なことをやって普通の子になってみたかった」

 普通、普通、普通。何よりも重いその響きが、俺たちの間を木霊する。普通は普通だ。高い壁ではないと思う人も多いだろう。でも俺達にはそうじゃない。普通から遠ざけられすぎた俺達には、普通というのはあり得ないほど高い壁で、まばゆく輝きすぎて直視するのすら難しい。言葉で言うとややこしいが、普通の人の普通は、俺たちにとってはあまりに普通じゃなさ過ぎて、現実味のない夢のようでしかない。夢と言っても、追おうという夢ですらなくただ想い追うだけの遠すぎる存在。遠すぎて、夢を見ることさえもできない存在。俺が、追うのを、考えるのすらもやめた存在。追うことに、夢見ることに疲れ果ててしまった存在。それを彼女は今も、追い続けているというのだろうか。『普通』にまだ、あこがれ続けているというのだろうか。

「普通は、難しい。普通は、怖い。でも、私は普通になりたい。普通じゃ入れなかったから、普通になりたい。普通のことをしたい。そう思うのは、変かな?」

頭の中をぐるぐると、思考が巡る。一番の難問、一番の疑問。そう言っても差し支えないほど、俺の思考はぐちゃぐちゃだった。ぐちゃぐちゃなまま、俺は声を出す。

「変だとは思う。多分、変なんだろうとも思う。でも、嫌いじゃない」

 ぐちゃぐちゃのまま、俺はそう答えた。わからない、わからない。でも、きっとそれだけは間違っていない。そう思えた。夢なんて全部諦めて、捨て去って、消してしまったはずの俺に、まだそんな感情が残っていたことが、俺自身にとっても一番予想外で、一番不思議なことだった。

「よかった」

 ぐちゃぐちゃな俺の答えは、ぐちゃぐちゃだったのに、いや、ぐちゃぐちゃだったからこそかもしれないが、彼女には届いたのかもしれない。彼女はそれだけ言って小さく微笑むと、まだ考えがまとまってすらいない俺をよそに、リコーダーへと視線を戻した。

「少し、不安だったんだ。あなたが、そう思ってくれるかわからなかったから。でも、あなただけは、そう思ってくれるかもしれないって思ってた。そう思ってほしいって、思ってた」

「俺がもし、嫌だって、嫌いだってそう言ってたらどうするつもりだったんだ?」

「どうもしなかったと思うよ、でも、あんまり考えてはなかったかな」

気負いもなく、淀みもなく、その透明な声音のままで、彼女はそう言い切った。その透明な声音に、確かに不安と期待を等量練りこんで。でも俺を信頼しきった声音で。嫌だなんて言われるなんて、考えてはいたかもしれないが、全く信じていなかったといわんばかりの、そんな全幅の信頼。それがこんな、まだ知り合って数日程度の俺に向けられていることに、向けてくれていることを嬉しく思っているのは間違いない。それは間違いないのだが、その期待は、重い。重すぎる。逃げようとしていた、いや、実際に逃げてしまっていた俺に向けられるには、あまりにも。でも、彼女の視線は、彼女の期待は、俺をからめとって離さない。彼女の視線に宿る力が、期待が、純真さが、妖しさが、その総てが俺をつかんで、放してくれない。俺がその期待から逃げようとするのを、許してくれない。その妖しさに絡めとられて、俺の中に残っていた、『普通』への憧憬が顔をのぞかせる。それと同時に、それと一緒に忘れようと、心の奥に押し込めていた、諦念が。

 様々な感情が、浮かんでは消える。そうして何もできないでいる俺に気付いたのか、彼女が俺の顔を覗き込んでくる。魅力的な、魅惑的な、蠱惑的な、幻想的な、彼女の美しい瞳が、濁りきった、濁りきってしまった俺に瞳を、まっすぐに見つめてくる。

「だから、教えて」

「ああ、ごめん。続けようか」

 俺の感情はまだドロドロだ。きれいでもない、きれいにもなれない。そんなのもう今更だ。でも、だからこそ、この子を見ていたい。この子がどうなるのか、汚れてしまうのか、清廉なままなのか。或いは、それさえ示すことなく終わりを迎えてしまうのか。

 どうなるにせよ、なんであれ、俺にはこの結末を見届ける必要がある。そう、思った。そう、思えた。


 ♢


 さらに数日が過ぎた。まだ幼いと言って差し支えない彼女は、スポンジのように教えたことを吸収した。初めて聞いた時の外れていた音は、今ではもうすっかり鳴りを潜め、聞き心地の良い和音が耳に入ってくる。こうして彼女の部屋の窓まで、だんだんと寒さを増してくる中でも、柔らかく暖かな太陽が優しく照らす中を歩くのは、もはや俺にとっても日課と化していた。いつも通り、彼女の部屋から聞こえてくる音、前よりも格段に上達した音色を聞きながら、彼女の部屋へと急ぐ。俺にとっても、彼女はすでに、大切な存在になっていた。指標、道導、希望。どう表していいか、俺もうまく言葉にすることはできない。今だって心の中はドロドロのぐちゃぐちゃだ。でも、そんな中でも彼女だけは、憧憬を失わず、夢を捨てずに道を、茨で彩られた道を歩き続けている。その姿が、俺にはまぶしくて、敵わないと、素直にそう思う。諦めから抜け出すことができない俺にとっては、本当にまぶしい。それでも、どれだけまぶしくても、目を引き付けて離さない魅力を、輝きを彼女は持っている。彼女のまぶしさを知ってからしばらくは、彼女の輝きから目をそらしたくなることも、遠ざけようとしたこともあった。でも彼女は俺を逃がさない。彼女が俺を逃がさないわけではない。俺が彼女から離れられない、逃げられないのだ。それに気が付いてからは、どこかすっきりとした気持ちで、彼女の行く末を見届けようと思うようになった。行く末まで見届けることができなかったとしても、せめて最後まで、彼女の姿をこの目に焼き付けよう、そう決めた。

 彼女の部屋に辿り着く。小さく開いた窓に手をかける。それまでわずかに空いた窓の隙間から漏れだすだけだった音が、空いた窓いっぱいに、俺を包み込んでくる。何もない質素な部屋に佇む少女、その彼女を『普通』に変える魔法の道具。俺が予想していたのは、そんないつも通りの、俺を引き付けて離さない、魅惑的で、蠱惑的な日常の一片だった。だからこそ、俺の目に飛び込んできた、予想の埒外の光景は、俺を再び魅了した。今度は初めて彼女に会った時のような恐れでもなく、不気味さでもない、ただその光景の神聖さに、荘厳さに、そして何よりもその光景持つ意味に、魅力に、輝きに、俺は圧倒され、魅了された。

 黒一色の制服と真新しく見える制帽を身に纏い、ランドセルを背負った少女が、リコーダーを吹いている。言葉にするとそれだけだ。ただ、それだけの光景に過ぎない。この場所でなければ、この瞬間でなければ、きっと誰も、この少女を特別だと思わない。今、彼女は間違いなく、『普通』に片足を踏み込んだ。俺が、俺たちが、この場所で過ごす全員が、憧れてやまない、それでいて、諦めてしまう、諦めてしまったものに。その光景に呑まれて、何も言えないで呆然としている俺に気が付いた少女は、あの日の再現とでも言うかのように、こちらに顔を向け、不思議そうに頭をコテンと倒した。

「どうしたの?」

 良かった……。心のどこかで、そう安堵する自分がいるのを感じた。この光景は、少女の服装と姿勢を除けば、あまりに既視感を覚えるものだった。俺は多分、あの日のように「だれ?」と聞かれるのが怖かったのだ。少女の中から、自分が消えているのかもしれないと想像するのが、たまらなく怖かった。俺という存在の意味が、理由が、全部無くなってしまうような気がして。

「いや、少し驚いただけだよ。その恰好、どうしたの?」

「お母さんが、持ってきた。あなたももうすぐ、卒業なんだからって。だから着てみた。どう? 似合ってる? 普通に、なれてる?」

 彼女の問いは重い。答えなんてないし、きっと本来、俺には答えようすらもないのかもしれないとさえ思う。俺も、『普通』を知らない。知らないというだけではない。俺は、憧れることさえ諦めてしまった。そんな俺が、彼女の念願を、判ずることができるとは思えない。でも、それでも、彼女の目の前に今いるのは俺で、彼女が答えを求めている相手も俺だ。彼女の純粋な期待を裏切るという選択肢は、俺には残されていない。俺はもう、最初に抱いた感想を、素直にそのまま答えにして返すことにした。

「似合ってるよ、すごく。普通の女の子って感じがする」

 嘘ではないが、本当でもない。間違いなく俺は、彼女を見て、『普通』の女の子の姿だと感じた。そこは決して嘘ではない。しかし、本当にも決してなりえない。俺は本物を知らない。俺の思う『普通』は、俺の思い描く希望と、期待と、諦念の集積だ。そんなものが、本物だとは到底思えない。だからこれは、嘘でも本当でもない、ただの俺の、思い込み。

「そっか、それなら良かった」

そう言って彼女は小さく、でも確かにほほ笑んだ。透き通った、柔らかく、どこか儚い笑み。それでも、心の底から嬉しいんだということがこちらに伝わってくるような、そんな、表情だった。

「聞いてて」

彼女は俺にそれだけ告げると、リコーダーへと視線を戻した。ずいぶんと様になった構え。彼女が笛を吹き始めると、美しい音色が、俺の耳を震わせた。この演奏をしている子が、ついひと月前まで、縦笛の持ち方すら知らないで、へたくそな音を吹き鳴らすだけだったとは、誰も思うまい。最早、教えた俺よりも上手になってしまった彼女の演奏に、ただ、聞き惚れる。耳だけじゃない。彼女が、『普通』を謳歌する姿を、目に、心に、焼き付ける。あれが、あの姿こそがあるべき姿なのだと、俺の心が歓喜に震えた。求めていたものが満たされたような充足感が胸中を満たす。諦念に沈んだ俺を、彼女の演奏が、彼女が優しく引き上げる。演奏が終わり、彼女の唇が、リコーダーから離れた。こちらに顔を向けると、少し驚いたような表情になる。どうしたというのだろうか?

「お兄さん、どうしたの?」

「え?」

「どうして、泣いてるの?」

 そう言われて初めて、俺は自分が涙を流していることに気が付いた。慌てて涙を拭うが、後からあふれてとどまることを知らない。何度も何度もぬぐい続けていると、不安そうに、彼女は尋ねてきた。

「私の演奏、ダメだった?」

違う。そうじゃない。最高だった。すごかった。すぐにでもそう言わないといけないはずなのに、涙を流し続けて止まってくれない瞳同様、喉も、口も、俺の言うことを聞かない。それでも何とかこれだけは伝えないといけない。この子を悲しませてはいけない。

「……違う、そうじゃないんだ……、ただすごくて、感動して……、それで……」

 言葉にならない、断片的なつぶやき。もっと言葉を重ねたい。重ねるべきだとも思う。でも、俺の口からはやっとそれだけをこぼれ落とさせられただけで、その先は続かなかった。それでも、彼女には伝わったらしい。彼女にしては露骨なほどに、安心した表情になった。

「お兄さん、ありがとう」

 少しの沈黙があった後、彼女は言葉を発した。

「私が、『普通』になれたのは、お兄さんのおかげ、私だけじゃダメだったし、多分お兄さん以外でも駄目だったんだと思う。だから、ありがとう」

 少し拙い言葉だったが、これほど心にくる言葉はほかにないだろう。彼女の中で、俺が特別な何かに慣れているということの証明。俺が求めてやまなかった、俺の存在の理由を、彼女に満たしてもらえたような気がした。

 俺が何か言葉を返す前に、彼女は言葉を重ねた。

「約束。私たちは、絶対にお互いのことを忘れないって。次も、その次も、その先も、ずっと」

 その言葉に俺は目から鱗が落ちる思いだった。俺は、彼女の強さにばっかり目をやっていた。諦めない強さ、諦めずに足掻く強さ、超然とした様子、神聖ささえ感じさせる佇まい。俺はどこか、彼女に理想を重ねていたのだろう。自分の理想を彼女に重ねて、彼女の弱さから目を背けた。すっかり忘れてしまっていた、忘れようとしていたが、彼女は俺よりも幼い少女だ。『普通』に焦がれる、か弱い少女だ。それを思い出させられた。

 不安がないはずがない。恐怖がないはずがない。それでも進みたいと思える強さがあるのだとしても。転ぶことが分かっていて、覚悟をしていても、痛いものは痛いのだ。俺は、彼女に理想を押し付けるあまり、そのことをすっかり失念していた。

「ああ、約束だ。次も、その次も、絶対忘れない」

 今、万感を込めて、彼女と誓約する。絶対に忘れない。記憶が風化しても、魂が、この光景を忘れない。忘れるわけがない。それだけは、嘘偽りなく誓える。

 

 時間の終わりを告げる鐘は、唐突に、機械的に、時間通りに鳴り響いた。少女と出会ってから、その前は何とも思っていなかった鐘の音に、煩わしさしか感じなくなってきていた。管理される生活に戻るのが、億劫で仕方がなくなっていた。それでも、戻らなくてはいけない。この日々を、今の日常を、少しでも長く続けるために。

「また明日」

「ああ、また明日」

 これもまた日常の一部と化した明日の再会の約束を、残酷で優しい誓いの言葉を口にする。夕暮れの中に、俺は身を翻した。

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