縦笛

釉貴 柊翔

第1話 場違いな音

「何の音だろう……?」

 9月の昼下がり、ようやく落ち着いてきた暑さがまだわずかに肌を刺す。ずっと部屋にこもっていても疲れるばかり。息抜きにと出てきた散歩の途中、音が上から降ってきた。外れた音階、割れた甲高い音。お世辞にもきれいだとは言えないような音が、かすかに聞こえてくる。

 こんなところでどうして? 

 場違いなような、それでいてしっくりとくるような、そんな不思議な感覚。俺はその音に惹きつけられるようにして、ふらふらと音のするほうに歩き始めた。


 小さく開いた窓。きっとあれだ。直感的にそう思う。俺をここまで引っ張ってきた不思議な感覚が、俺にそれが正解であると伝えてきた。

 そこからずっと垂れ流されているへたくそな音階。近くで聞くと、なおのことへたくそだ。街中で聞いても、いや、ここ以外の、俺以外の誰が聞いたとしても、きっと聞きになんて来ないだろう。でも、その場違いさが、場違いなまでの初々しさが、俺をつかんで離さない。

 小さく開いた窓から中を覗き込む。

 そこにあったのは、幻想的でも、蠱惑的でもない、この空間ではありふれた光景。質素で簡素な部屋に座る、俺より3つ4つは幼いであろう少女。その空間を特別にしていた唯一の要素は、彼女の手にある楽器。ただそれだけだった。

「リコーダー……?」

 明らかな異端。この空間にそぐわない、ただ一つの異常。ずっと俺の耳を離さなかったそれは、単なるモノとしてそこにあった。その異常さに、異端さに、そして何よりもそのあまりの普通さに、俺は思わず声を上げた。

 それは間違いなく、大した声の大きさではなかった。それは間違いない。きっとさっきまでのように、彼女がリコーダーを吹いていれば、きっと俺のつぶやきを彼女の耳は拾わなかっただろう。しかし幸か不幸か、俺がこの光景に圧倒されている間に、音は踊りをやめていた。俺に気付いた、気付いてしまった少女は、それでも特に驚いた様子もなく、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

「だれ……?」

 小さな声だった。誰とも話していないのか、薄くかすれた小さな声。どこか天使みたいに神聖な響きで、どこか幽鬼みたいに不気味な、そんな声。不思議な響きなのは、何もリコーダーの音楽だけではなかった。彼女が、彼女の発する総てが、俺を縛り付けて離さない。

 金縛りにあったのか、魅了されたのか。俺は声の一つすら出せず、ただただ立ち尽くす。何か返すべきだ、それはわかっている。でも声の一つすら出ない。身体が意思を引き留める。

 そんな俺の様子を彼女は少し眺めて、興味すら失ったかのように、彼女は視線を俺から外した。そしてまたリコーダーを構える。

 へたくそな構え方だった。俺だって別にリコーダーが特別得意だった記憶はない。むしろ下手な部類だったと思う。でもここまで酷くはない。まず右手がおかしい。そんなべったりと握りこんでしまっては音をどうやって変えるというのだろうか。次に左手が変だ。こっちは握りこんでしまっているわけではないが、穴を上手くふさげていない。本人はきちんと持っているつもりなのかもしれないが、全く失敗してしまっている。そんな、誰が見てもへたくそな持ち方。初心者だって、一回でも見たことがあれば、きっとそんな間違い方はしないだろう。そんなおかしな構え方から奏でられる音は当然ながら不格好だ。俺が外れていると感じていた音は外れているというよりも音として未熟なだけだった。ふさげてない穴から空気が漏れる。中途半端にふさげている穴が半音ずらす。俺が何かを奏でていると思ったのは、単に彼女が思っている音が出せず、色々試しているだけだったらしい。少し見ていて、俺にはやっとそれが分かった。

 しばらくいろいろ試すと、少女は口からリコーダーを放した。リコーダーを持つ手を顔の前まで持ってくると、色々指を動かした後、コテンと頭を倒した。やっと、不思議で透明な少女が色を帯びてくる。彼女は悩んでいたのだ。わからなかったのだ。知らなかったのだ。やっとそれが俺にも分かった。何処か神聖で、幽玄な少女が、自分と同じところまで堕ちてきた。その安心感が、俺を魅了と金縛り、その両方から解き放つ。

「構え方が間違ってる。それじゃあ音はちゃんと出ないぞ」

 少女の目が再びこちらを向いた。俺が話しかけてくると思っていなかったのか、はたまた俺の存在なんて忘れてしまっていたのか。今度は驚いたとでもいうように、少し目を大きく見開いていた。表情が豊かで乏しい、そういうのが的確なのかもしれないと、俺はその時ふと思った。

 少女は何も言わず、視線をリコーダーへと落とすと、もう一度コテンと横に頭を落とした。そうして俺のほうにリコーダーを突き出してくる。

「見せろってことか?」

 俺がそう尋ねると、少女はコクコクと首を縦に振った。座ったままズイっと身を乗り出すと、俺にリコーダーを押し付けてくる。俺がそれを受け取ると少女は急かすかのように、キラキラと目を輝かせてこちらを見つめてくる。本当にさっきまでの、どこか超然とした女の子と、彼女は同一人物なのだろうか。そんな疑問が浮かんでくるほどだった。そんな彼女の瞳に押されるように、俺はリコーダーを構える。

「これが正しい構え方だ。それで、これがお前が出そうとしてたドの音な。ちゃんと全部の穴を指のおなかの部分で抑えるんだ」

 そこまで教えて、俺はリコーダーを彼女に返した。

「やってみろよ」

 少女はまたコクコクと小さくうなずくと、俺からリコーダーを受け取って構えた。まだ不格好だけど、一応できてはいる。やっぱり知らなかっただけなのだろう。まあ、こんなところにいるのだ、彼女も相応の事情があるのだろう。リコーダーのことを何も知らないのもある意味では当然なのかもしれない。そう俺が一人で納得していると、彼女は突然、リコーダーを自分のお腹に押し付け始めた。なんで、どうして? 突然すぎて混乱している俺をよそに、彼女はリコーダーを吹こうと吹き口に顔を寄せようとし始めた。当然届くはずもない。啞然としている俺をよそに少女は口をつけようとし続けたが、やがて諦めたかのようにジトッとした目でこちらを見てきた。

「嘘つき……」

「何でだよ! 俺、おなかにくっつけろなんて一言も言ってないぞ!」

「嘘はダメ。お兄さん、さっきおなかで穴をふさぐって言ってた」

「ゆ、び、の、おなかな。指の」

 すると少女は不思議そうに自分の指を見つめた。リコーダーを置いて、右手で左手の指をフニフニと触る。そしてまたコテンと首を倒した。そして今度は生暖かい目を向けてくる。本当に表情が乏しいのに豊かな子だ。そうほっこりさせられていると、爆弾は突然に放り込まれてきて、逃げる間もなく大爆発を起こした。

「お兄さんって、おバカさんなんだね」

 コノコハナニヲイッテイルンダロウ

 脳の処理の限界を超えた埒外の事態に、脳の処理がフレームアウトした。なぜ俺がバカ呼ばわりされているのだろうか。理由に思い当たらない。ぐるぐると思考が回る。そんな俺をよそに、彼女はちょっと胸を張って得意気に、教えてあげるとでも言わんばかりに言葉を続けた。

「指におなかなんてないんだよ。おなかはここにあるんだから」

 それを聞いて、やっと腑に落ちた。さっきも自分で確認したばかりじゃないか。彼女が無知だってことを。それに気が付いたら、荒立っていた心が穏やかになる。

「……手を開いて指をもう一回触ってみろよ」

 不思議そうにしながらも、彼女は何も言うことなく俺の言葉に従った。良くも悪くも素直なのだろう。出会ったばかりの知らない人の言うことをこんなに素直にほいほい聞いてしまって、少し心配になる。最も会ったばかりで言うことを聞かせている奴がするべき心配ではないだろうし、彼女にとっても大きなお世話だろうが。フニフニと少女は再び自分の指を突っつく。

「その少し柔らかい部分を指のおなかって呼ぶの。おなかみたいに柔らかいだろ」

 そういうと彼女は自分のおなかを何度か指でフニフニとやり、もう一度自分の指をフニフニとやって、俺のほうを見ると、コクコクと頷きかけてきた。小動物みたいな子だ。最初からずいぶんと印象が変わったものだと自分でも思う。最初は天使か幽鬼かとか思っていたのに今では小動物。ずいぶんと可愛らしい堕天の仕方もあったものだ。

「じゃあもう一回やってみろよ。今度はちゃんと指のおなかでな」

少女は頷くと、少し引き締まった表情でリコーダーに立ち向かう。最も目に見えるほどの表情の変化があるわけでもないのだが。不格好だが、さっきよりもさらにましになった構えから、今度はちゃんと指で全部の穴をふさいで、息を吹きかける。

ちゃんと音が出た。でもどこか違和感を覚えて、俺は少女の指を見る。よく見ると、左手の薬指のところがちゃんとふさげていない。だからだろう、少し音がずれてしまっている。

「左手の薬指のところがちゃんとふさげてないぞ。もうちょい力入れてみろ」

 俺がそういうと、少女は少し手をもぞもぞと動かして、吹いてみるというのを何度か繰り返すと、5回目くらいにちゃんとドの音が出た。

「それだ! それで出来てる!」

そうやって言うと、少女は嬉しそうに目を輝かせて、嬉しそうに何度もドを吹き鳴らす。そんな姿を見て、俺も嬉しくなってくる。こんな場所で、こんなちっぽけなことで、こんなにも喜べる少女に、俺は素直に尊敬の心を抱いた。見習いたいと、そう思えた。

 そんな俺たちに水を差すかのように、楽しい時間の終わりは、美しくてうざったい鐘の音として突きつけられた。自由な時間の終わり。管理される生活へと戻る時間。夜の訪れとともに、それは目には見えない確かな壁として、俺たちに現実を突きつける。

「もう戻らないと。」

俺がそう切り出すと、彼女は少し寂しそうに小さく眉を寄せた。ここまでくると俺も少しずつ分かってきた。彼女は表情が乏しいわけではないのだろう。表情の作り方が下手なだけで。その表情を見て俺が何かを言おうとする前に、彼女は口を開いた。

「また明日ね」

 なんて純真で、そしてなんて残酷なのだろう。ここでこれを言うことが、どういう意味を持つのか、彼女はわかっているのだろうか。やっぱり彼女は、天使か悪魔か、どちらにせよ、何か超常的な存在であるように俺には感じられた。でもその言葉が、その残酷で優しい言葉が、俺には嬉しかった。本当に、嬉しかったのだ。

「ああ、また明日も教えてやるさ。ちゃんと今日のも練習しとけよ」

コクリと今度は大きく一度だけうなづいた彼女が、小さく手を振るのを横目に、俺は身を翻した。誰だ彼女を悪魔だなんて言ったのは。かわいい小悪魔でしかないじゃないか。手を振る彼女の姿を見て、俺はそんなことを思っていた。

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