時の悪魔はほくそ笑む

香屋ユウリ

時の悪魔はほくそ笑む

 誰もが一度は想像したことがあるかもしれない。

 もし、自分が世界の時を操れる、まるで御伽話おとぎばなしに出てくるような道具を手に入れられたら、どうなるだろうか。


 そして、その道具を自由自在に使いこなして、思うがままに人生を謳歌できたなら──と。


 いやまあ、そんな道具は普通に考えてこの世界に存在するわけもない。当たり前だ。


 時を止めるということは、この世に存在する全ての原子の動きを制御して、さらにそれらの動きを操るということ。そんなことができるのは悪魔くらいだろう。


 けれど、そんな常識を覆すような時計が本当に存在したなら?


「……いや、何考えてるんだ」


 村岡はメルヘンチックな思想をコーヒーのブラックを飲んで胃に洗い流した。


 原稿の締切が近くて切羽詰まっている状況で、ついに頭がいかれてしまったようだ。


 村岡は、地方ではある程度有名な作家であるが、小説の締切が1週間後に迫っているという中、原稿の完成度が3割という絶望的状況に立っていた。そして、そんな状況に限って全く集中できず、気が散っている。


 今は少し流行に遅れてしまっている異世界転生ものの小説を書いている。第1巻の売上がそこそこで2巻の発売までこぎつけることができたのだが、そこからが苦労の連続だった。


 試しに書いてみるも有名な作品の二番煎じに無意識のうちになってしまっていたり、キャラクター同士の掛け合いが思ったようにいかず、更にはボスキャラの情報量が多すぎて伏線を回収していくのが大変になったり、などなど。


「はぁ……外にでも行くかな」


 村岡は伸びをしながら椅子から立ち上がる。こういう時はパソコンの前でうんうん唸っても仕方無い。リフレッシュしなければ。


 ⏱


 築70年のボロアパートを出て、アパートの周囲の住宅街を適当にぶらつく。昨日雨が降ったのだろうか、地面のコンクリートにいくつか水たまりが作られていて、その上に反射した青空の上をあめんぼがふよふよと漂っている。


 パシャリ、パシャリと水溜まりに足を踏み込む度に、水が新品の靴の上を踊った。


と、その水に反射して何かが視線の先でキラリと光った。

 

不思議に思って寄って見てみると、そこには金色の塗装が施された、少し高価そうな懐中時計が水溜まりに落ちていた。首にかけるためのチェーンが切れている。どうやら、誰かが落として行ってしまったようだ。

 

村岡は興味本位で、その懐中時計を手に取ってみた。ポタポタと、懐中時計から水が滴り落ちる。それをTシャツで拭き取ってから、時計の盤面を見てみた。「I」「II」といったふうに、ローマ数字で字が振られている。


 村岡は、ほう、と思わず息を呑んだ。それが不思議と彼の琴線に触れたのだ。彼はじっとその時計を見つめる。


 カチッ、カチッ、カチッ………


 秒針が、1秒ぶん進む。

 

その度に、体の奥底にあるモヤモヤが晴れていくような、そんな気がした。

 

秒針が1秒ごとに奏でるメロディーに、高揚感を感じる。


 カチッ!


 その瞬間、彼の体は奇妙な感覚を覚えた。


「………?」


 急に電源を落としたかのように、周りが異様な静けさに包まれている。風が木を揺らす音でさえ、一切聞こえなくなった。


 無音。呼吸音が、はっきりと耳に届くほどに。なんならいっそ、自分の心臓音でさえも聞こえてきそうである。

 周りにぐるぐると視線をやる。


「?」


 少し先に犬の散歩をしている女性がいるのだが、その女性の動きが妙だった。1歩1歩がゆっくりすぎる。というか、まるでその女性の動きがスローモーションになっているような。


 と、突然、ァァ!という声が頭の上からして、村岡はビクリと驚き、慌てて上を見た。そして、彼は目に飛び込んできた異様な光景に、さらに驚きの声をあげた。


「……なっ!?」


 普通に飛んでいるカラスが鳴いただけ……ではなかった。

 なんと、カラスがまるでスローモーションになったかのように、ゆっくり、ゆっくりと飛んでいるではないか。羽も通常ではありえないような遅さで上下に動いている。


 改めて前を見た。よく見れば犬も同じようになっていた。村岡は幻覚を見ているのだと目を擦ってみるが、それでもこの状況に何ら変化は見られない。


「夢でも、見てるのか」


 ⏱


 村岡は、懐中時計を家に持って帰った。


 あの後、色々調べてみたところ、どうやら時が進むスピードがテレビのスローモーションのごとく、遅くなっていることがわかった。そして、カラスの件から、音の概念は遅くならないこともわかった。


 ではなぜ懐中時計を持って帰ったのかと言えば、懐中時計が何かしらの鍵になっていると考えたからだ。あの時、何かしていたかと言えば、懐中時計を見つめていたくらい。だから、これぐらいしか疑う余地がないのだ。もしかしたら見当違いかもしれないが。


(まさか俺の先程の妄想が現実になるなんて、思ってもいなかった)


 だが、はっきり言ってこの状況は彼にとっては素晴らしいの一言だった。彼には締切がある。もしこの状況が続いてくれるんだったら、時間をあまり気にする必要はなくなる。実に素晴らしいことではないか。


 懐中時計を見てみると、いつの間にかもと通りの時の流れに戻っていた。けれど、大丈夫。

 この時計を1分近くずっと見続けていれば時の流れが遅くなるのだ。


 村岡は先のようにじっと時計を見続ける。1分、2分と経って、顔をゆっくりとあげた。


 カチッ


 村岡は時の流れが遅くなったことを確かめるため、台所に行き蛇口を一気に捻り、全開にした。


「よし」


 蛇口からは少しずつ、水が姿を現し始めた。だが、速さは遅い。成功だ。


 村岡は蛇口の栓を閉めると、自室に戻った。


 そして、原稿用紙を取り出し、鉛筆を握る。

 今までの遅れを、取り戻さなければ。


 ⏱


 その後、村岡は2日間ずっと飲まず食わずで原稿を書き上げ、無事に提出することができた。自分の中では2日間でも、現実時間では数時間しか立っていなかった。


「いや、驚いた。この調子じゃぁ、てっきり期限内に書き上げられないかと思っていましたが……」

「そうなんですか?」


 編集者さんは鼻眼鏡になってしまったのを右手でクイと直しながら、申し訳なさそうに微笑んだ。実際は自分も驚いていたのだが、それは表情には出さなかった。


「正直なところね、そう思っていたんですよ。……うん、内容としては悪くないな。所々修正点とか疑問点は残ってたりするけど、それくらいですね。大きな変更とかはないです」

「あ、ありがとうございます」

「うん、この調子で引き続きやっていきましょうか」





 それからは、村岡はこの懐中時計の力を使って、短期間で4巻分の続きを書き上げ始めた。編集の人には「ほんと、どうしたんですか最近」と驚きを通り越して心配されてしまうほどには、執筆速度が上がっていた。


 無論、懐中時計の力を使って時間の流れをゆっくりにしているから早く書き上げられているのであって、実際は普通、もしくは気持ち遅いくらいの執筆速度で書いている。


 そして異世界ものの作品が完結してからは、ラノベ1冊分の小説を1ヶ月で10本以上出していく異次元の執筆速度を持った異才作家として名を馳せた。

 もちろん内容面は拙い部分があったが、それが打ち消されてしまうほどの話題ぶりで、一時期はテレビのニュース番組で特集が組まれた。



 そんな生活が2年ほど続いた。執筆速度に加え、内容面でも2年前と比べかなり成長していた村岡は今や地方ではなく全国に名を轟かせる作家となっていた。240冊分の小説を書き上げていた。そしてそれらの小説の何本かは、テレビの話題性のおかげだろうか、アニメ化もすることが出来た。


 収入も上がり、家もオンボロなアパートから新築の都内のアパートに引っ越していた。はっきり言って、かなり充実した生活を送ることができていた。


 けれど。


 そんな生活に慣れ始めた3年目。終わりは突然やってきた。



 ⏱


「っ……ぐぁ……!」


 いつものように、あの時計の力を使って執筆をしていた。今回は、1ヶ月前からずっと世界の時を遅くした状態で。


 だが突然、心臓をギュウ、と強く握られたような激痛が村岡の心臓を襲ったのだ。


 村岡はたまらず椅子から地面に倒れ込む。倒れ込んだ時の衝撃で、さらなる激痛が彼を苦しめた。


「が………あ………!!」


 なんだ、これは。何だこの痛みは。激痛は。今まで経験したことがない。

 前胸部が表現しがたい痛みに襲われている。その上、冷や汗が止まらない。


「と、とにかく、助け、を……!」


 村岡は机の上に置いてある携帯電話を取るために、呻きながらなんとか手を伸ばす。


 床から地面が、思ったより離れている。が、届かないほどじゃない。少しでも触れられれば、落ちて来るはず。そう思い懸命に腕を伸ばすと、なんとか指先をスマホに触れさせることが出来た。


 グラリ、とスマホが揺れる。


 ──落ちる


 スマホは机から倒れ込む村岡目掛けて落下してきた。……が。


「…………嘘、だろ……」


 スマホは空中で静止していた。いや、静止などしていない。スマホは確実に落ちてきている。


 気の遠くなるほど、遅いスピードで。


 村岡は、絶望した。そんな、嘘だろう。そんな馬鹿なことがあってたまるか。


(解除……解除だよ!)


 心の中で強く念じる。時の流れが元に戻ることを強く願う。だが、そんな念は知らぬと言わんばかりに無情にも時間はスロウスピードで進んでいく。やがて、彼は考える力もなくなり、スマホを取ろうとしていた手は地面に吸いつかれてしまった。

 ああ、何も感じない。暗い。死ぬのか。俺。


 薄れゆく意識の中で、彼はさらにこう呟く。



 あんな時計なんて、拾わなければよかった──



 意識が闇に呑まれる。


 カチッ


 それと同時に世界の時間は、通常の速度で流れ始めた。







 後日、彼の死因が警察によって明らかにされた。


「老衰」だそうだ。

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