白狼の公爵と皇帝の憂鬱

 白狼公爵は、わたしのただ一人の同腹弟だった。

 祖父の代から続く長い戦乱の時代に終止符を打つために、私は帝位に就いた。その私を陰で支え続けてきたのは、紛れもなく同腹弟であった。

 北方異民族の侵入と南方異教徒との衝突で長く苦しめられてきた帝国は、私が即位した頃まさに潮時を迎えていた。現状をよしとして国境線を画定することも考えられないわけではなかったが、それは妥協に他ならず、弱腰を見せた瞬間から四方をじりじりと侵食されてゆくことは知れきっていた。国力と折り合いのつく限界まで我々は攻め続ける帝国でいなければならなかった。

 同腹弟は、私の持たない思慮深さを備えていた。私が下す過酷ともいえる指令に対し、面と向かって批判をしてくれるのは彼くらいのものだった。その進言はいつも正鵠を得ていて、私が決断を翻したことも一度や二度ではなかった。戦に勝利するたびに同腹弟は私の指揮の的確さを褒め称えたが、彼の支えがあったからこそ、手酷い敗退を喫したときでも損耗を最小限に食い止めることができたのは疑うべくもない。

 帝国北辺を三代に渡り脅かし続けたヴェルヴァル人の王が我々の軍門に屈したのは、私の即位から五年目のことであった。当代の敵将は銀狼王と呼ばれ帝国中を震撼させる武名の持ち主であったが、三年続いた冷夏によって領土が飢饉に見舞われ、遂に窮した末の投降であった。同腹弟の進言によって即位直後から開始していた経済封鎖が直接の勝因であった。

 私の前に引き出されてきた銀狼王は、ヴェルヴァル人特有の氷のような薄金色の髪に灰色の瞳を持つ美丈夫で、手枷と首輪をかけられ鎖に縛られた姿はそれでも哀愁より先に畏怖を感じさせるほど堂々としていたた。降伏した敵将をそれほどまでにきつく戒めた我軍の兵卒は、狼に似た王の容貌に本能的な怯妥を覚えてしまったのだろう。

 銀狼王が提示した要望は簡潔で、自らの降伏と引き換えに領地ヴェルヴァルニアの健全な統治を帝国へ委任するとのものであった。すなわち、自らの命で飢える祖国の民の食料を購おうとしたのである。銀狼王の率いる精鋭白狼山岳兵も全て武装解除し、帝国の北辺を脅かし続けてきた狼はその牙を抜かれたも同然だった。

 その嘆願を受け入れ、慣例に従い銀狼王を断頭台へ送ろうとする私を押し留めたのは、やはり同腹弟であった。

 「王を処刑し、あの精鋭を四散させてしまうのは余りにも惜しい。白狼山岳兵の類い稀な精強さは、必ずや帝国にとって重要な切り札となることでしょう。ヴェルヴァルニアは帝国の統治下に置こうとも、銀狼王には今後も兵団を指揮させ続けるべきです」

 それは余りにも危険な賭けであった。降伏したとはいえ、軍事力では依然として優勢にあり続けてきた敵将を、兵力を温存させたまま活かし続けるというのは、飢えた狼を敷地内へ招き入れるようなものだった。しかし一方で、ヴェルヴァルニアの過酷な環境を考えたとき、通商権を握られたその地が独立を果たすのが極めて困難だというのも事実であった。経済政策を得意とする同腹弟だからこそ、その発想も現実的なものとして思い描いたのであろう。

 帝国内での議論は紛糾したが、遂に私は同腹弟の進言に従った。餌と引き換えに飼い慣らされた犬になれと告げられた狼の王は、誇り高い死すらも許されず氷のような涙を流して牢の中で額ずいた。

 ――折しも、同腹弟が私に与える影響の強さを危惧する朝臣が増え始めた。銀狼王の降伏は、すなわち帝国の北辺の国境が画定したことを意味し、長く続いた戦乱にひとまずの終止符をもたらすものであった。戦乱を終わらせるために即位した私は、有事における才を広く人々に認められていたものの、これから訪れるであろう平和の時代に果たしてどれほどの適性を持つものか危惧されていたのだ。翻って慎重な同腹弟は、紛れもなく平穏と安定の時代を治めるのに適していた。

 このまま同腹弟が王宮内に留まっていては、新たな紛争の火種となる。それは私と同腹弟の一致した見解だった。苦悩の末に、私は一つの残酷な決断を下した。

 同腹弟に白狼公爵の称号を与え、ヴェルヴァルニアの統治を任せたのだ。

 北辺の厳しい気候に加え、誇りを挫かれたばかりの銀狼王を傍らに置くという、危険極まりない措置であった。ヴェルヴァルニア攻略の最大の功績者である同腹弟に、その地を任せるのは不自然なことではなかったが、とは言え何の咎も犯していない彼にそれは余りにも惨い仕打ちであった。

 それにも拘らず、同腹弟は微笑みながら私の決定を英断と褒めた。北辺の守りという栄誉ある任務を誇りに思う、と述べ、新領土を獲得し新たな時代の局面を迎えた帝国の礎になれると喜びながら、極寒のヴェルヴァルニアへと赴いていった。

 彼には結婚して間もない妃が一人いて、彼女も北の土地へと付き従った。帝国南部の内海にあった小国の出で、海賊の拠点となる島の出自だけあって気丈な女だったが、日の当たらない北国の気候に馴染むことができず身体を壊し、やがて現地で一人娘を生むときに命を落とした。

 果たしてヴェルヴァルニア――白狼公国と名を改めたその土地で、同腹弟は冬将軍の圧政と戦い続けた。商才に長けた同腹弟も、岩山ばかりの資源も何もない国ではどうすることもできなかった。農業政策も作物改良も一年の大半が冬という国土ではなかなか芽吹くことはなく、銀狼王に鍛えられた白狼山岳兵の兵力だけが唯一の産業であった。同腹弟の進言が――銀狼王を飼い慣らすという恐るべき提案が実は白狼公国が生き残る唯一の道であったと人々が理解したのは、ようやくその頃になってからであった。銀狼王は白狼公爵に忠誠を誓い、貧しい北の地が飢えることのないように帝国の派兵に応じ続けた。

 結果的に、白狼公国にとって最善の決断となったとはいえ、私は同腹弟に対し常に償いきれないものを感じていた。それは、ヴェルヴァルニアに送られて十五年目に彼が亡くなったことで、遂に行き場を失った。決して丈夫とは言いがたい性質だった同腹弟が、厳しく貧しい北国の暮らしで命を縮めたことは知れきったことだった。

 同腹弟には、早くに亡くなった妃の生んだ一人娘があった。その後再婚もしなかった同腹弟が死んだことで、姪は北の凍える土地で孤児となった。せめてその姪だけは都へ引き戻してやりたい、と私が考えたのは当然のことであった。公爵不在となった白狼公国の後継者に姪が置かれると、年端も行かぬ彼女が北国を出る機会は永久に失われる。追いやるように北の辺境へ追いやった同腹弟へのせめてもの罪滅ぼしに、その娘だけは私が責任を持って扶育してやらねばならない。そう考えた私が次代の白狼公爵となるべき皇族の選定を始めた直後、王宮を訪れる者があった。

 それは、姪を連れたかつての銀狼王――現在では白狼公爵親衛隊長を任じられた、あの男だった。氷の彫刻のような白皙と嵐に似た灰色の瞳を持ち、淡い白金色の蓬髪を乱した狼さながらの姿で、彼は私の前に再び降り立った。

 「陛下は、我々から誇りだけでなく、希望まで奪おうと言われるか」

 謁見の間で、幼い姪の足元に跪いたまま、親衛隊長はそう述べた。ようやく十歳になる姪は、母親譲りの黒髪と情熱的な目を持つ美しい少女だった。

 「あなたの命令で死ぬことすら許されなかったのに、今ここで公女まで奪われては、とても生きてはゆけぬ。あなたは、我々に生きることも死ぬことも許さないと言われるか」

 ――その気迫だけで食い殺されるのではないかと近衛が震え上がるほどの剣幕だった。

 なるほど考えてみれば、これまでの経緯と無関係の人物を白狼公爵に据えてしまえば、同腹弟の手腕によってぎりぎりのところで保たれてきた均衡は崩れかねない。白狼公爵との誠意ある忠誠関係によって不満を辛うじて押しとどめてきた白狼山岳兵が決起すれば、帝国の北辺に大きな亀裂が入ることは間違いない。それは何より、同腹弟の尽力に裏切る行為に他ならなかった。

 私は姪を諦めるという苦渋の決断を下した。もしかしたらそれは、それまでに私が下したあらゆる決断よりも強い決意を要するものであったかもしれない。例え遠い辺境の地にあっても献身的に私を支え続けた、あの同腹弟を失ったという実感が、そのときひどく胸をえぐった。

 そしてそのとき、ふとぼんやりと思ったのだ。

 はて、姪は果たして嫁に行けるのだろうか――と。



 「伯父上におかれましてはご機嫌麗しく」

 闊達な口上と共に現れたのは、現在の白狼公爵エルジェーヴェトであった。いつものように黒い男物の正装を纏い、黒鷹の羽で飾った男物の帽子を戴いた彼女は、しかし男装では隠しきれない色香をその全身から溢れさせていた。波打つ艶やかな黒髪を結いもせず背中に流しているのは、戦士が髪を結ばないヴェルヴァル人の伝統に従っているためか。そのためしなやかに身を翻すたび、髪に染み込ませた麝香の香りが辺りに広がる。

 その彼女の近侍として付き従うのは、白狼公爵二代目親衛隊長であるユーリ・ヴェルヴァリックである。紋章を備えた白い副官の礼服に身を包んだその姿は、年々父親である銀狼王の面影が強く浮かび上がり、精悍な美丈夫に育っていた。嵐のような灰色の瞳で、エルジェーヴェトの傍を決して離れようとしない寡黙な青年である。

 今を盛りと咲き誇る花のような姪を眺めながら、先が思いやられると私は眉を寄せた。そろそろ婚期を逃しつつあるというのに、同年代の王侯からまるで声が掛からない。身内の贔屓目を抜きにしても美貌の持ち主であり血統も申し分もないのだが、戦場を駆ける黒い死神と呼ばれ敵味方を問わず恐れられているのだから無理もあるまい。

 早くに両親を失ったエルジェーヴェトを親代わりに扶育したのはかつての銀狼王だったが、もう少し手加減をしてもらいたかったと私は内心で頭を抱える。白狼山岳兵最強の男直々に鍛え上げられた姪は、親征の要請がなくても白狼山岳兵の派兵依頼を受けると勝手に先鋒として切り込んできて、両手に握った鉈のような山刀で歩兵だろうと騎兵だろうと容赦なく薙ぎ倒してゆく。親族会議に招いても一人だけ――否、副官のユーリと二人きりで血と戦塵に塗れた別世界にあり、ドレスを纏い舞踏会でワルツを踊っているときであっても、彼女が動くたびに周りの人間が思わず戦慄せずにはいられない気配を漂わせているのだ。

 最近では、白狼公爵の名を聞くだけで逃げ出す者すら少なくない。苛烈な北の女公爵は勝利のためならどんな手段も厭わないため、敵味方問わず甚大な被害をもたらすことがしばしばあるためだ。実際のところ、結果的には帝国の利益になる用兵を行うのだが、覚悟もないうちに捨て駒にされる王宮育ちのひ弱な貴族たちは血まみれ淑女などと陰口を叩いている。

 これはもう、皇帝権力を直々に行使すべきときがきた――そう私は決断した。

 「エルジェーヴェト、お前の嫁入り先を探してやった」

 おもむろにそう告げると、エルジェーヴェトは長い睫毛を瞬かせ、凛とこちらを見上げた。隣のユーリは平伏したまま身じろぎ一つする気配もない。

 「……え?」

 「白狼公国の南東、ワルゼンブルグの王太子でどうだ。あそこの王族は代々狩猟を好んでいるし、お前とは話が合うかもしれん。もしも帝都がよければ、ウェルギリウス大臣でも構わんぞ。あれも腹黒い男だが、シャトランガの腕前は確かだから暇つぶしにはうってつけだ」

 白狼山岳兵ほどではないが、元々騎馬民族が跋扈する土地の王侯であれば、まだエルジェーヴェトへの耐性が期待できる。もしくはこれまで散々白狼公国を戦略的に用いてきた大臣が、幸いなことに政務の多忙さゆえか嫁を貰いそびれているので、行き遅れの責任を取らせるという手段もある。いずれも直々に呼び出し声をかけてみると畏れ多いと後退ったが、いざとなれば皇帝命令を発動するだけのことだった。

 ふと見ると、エルジェーヴェトの美麗な眉がこわばった。

 「伯父上」

 「不満なら、私の息子たちならどれでも構わん。話なら通してやるから、できるだけ独身を選んでくれ」

 「……伯父上ェ」

 あからさまに表情を歪め、姪は凄みのある顔でこちらを睨んだ。

 「あたしにもあたしなりに考えってもんがあるんで、口挟まないでもらえます?」

 「いつまでも任せておいたから、行き遅れているのではないか。こういうものは縁だ、気乗りしなくても意外と上手くいくこともある」

 「だからっていきなりこれはないでしょ!」

 まあまあ、と言わんばかりの隣のユーリに取り成されながら、エルジェーヴェトは拳を固めて身構える。彼女の拳はこれまでに数多の敵を討ち取ってきた実績があるのでさすがに私も身構えたが、脇に控えるユーリは白兵戦ではエルジェーヴェトと互角で、しかも皇帝をいきなり殴り殺したら公爵とはいえただではすまないということを理解するだけの理性もある。気を取り直して私は続けた。

 「そう言うな。銀狼王――親衛隊長は確かにお前の親代わりとして立派に育ててくれたものと感謝しているが、お前の身内は白狼公国領内にいる者だけではない。こういうときには帝国側の親戚を頼ってくれても構わんのだ」

 「別に男に困ってるわけじゃないんですけど」

 「それは逆に問題だ。いつまでも身を固めずにぶらぶらしていると悪い噂が立つぞ」

 いきり立ったエルジェーヴェトは、背後からユーリに羽交い絞めにされ、離せ離せと謁見の間で喚いている。悪い娘ではないのだが、やっぱりあのとき銀狼王にほだされて白狼公国に残しておくのではなかった、と少しだけ後悔した。育て方を間違えたというか、すっかりいい年をして野生児そのままである。まだユーリが脇に控えているから歯止めが利いているだけで、一人で他国へ嫁がせるのも不安な気がしてきた。

 「……ああ、お前の父にいよいよ顔向けができない。北辺へ追放するようなことになってしまい、不遇な目に遭わせてしまった上に、娘をこんなふうにしてしまった」

 「人の領土を好き勝手言ってんじゃないよ。あそこは流刑地でも何でもないし、あたしはヴェルヴァルニアを離れるつもりはないからね! なあユーリ、お前だって嫌だろ故郷を離れるのって」

 「は……」

 狼のような親衛隊長は何となく曖昧な返答をする。ふともしやと思い、私は尋ねてみた。

 「ときにエルジェーヴェト、お前、もしや嫁に行くことになったとして、嫁ぎ先にユーリを連れて行くつもりじゃないだろうな」

 「え、何で? 当たり前でしょ」

 姪はさも当然と言わんばかりにこちらを見上げてくるので、さっきまでとは別の頭痛を覚えた。

 「ユーリは白狼公爵の親衛隊長で、白狼山岳兵の総司令官だろう。職務上白狼公国に残らないといけないではないか。第一、嫁入り先に親衛隊長を連れて行く奴があるか」

 「えー、嘘。駄目なの?」

 エルジェーヴェトは信じられないといった調子で目を剥く。そしてふとユーリの方をまじまじと眺めた後、妙案を思いついたと言わんばかりにこちらに向き直った。

 「あー、それじゃこいつ犬ってことで。飼犬として連れていけば万事問題なし」

 「は?」

 姪の発言の意図がわからず、思わず彼女に負けず劣らず大きな声が漏れた。呆れる私を尻目に、姪は嬉々としながら手を打った。

 「そうそう犬。嫁入り道具に猟犬を連れて行くのなら別に問題ない。狩のときとか必要だし」

 「エルジェーヴェトお前何を言っているのかわかっているのか。何をふざけたことを……」

 「ユーリ、お座り」

 私の言葉に目もくれず、エルジェーヴェトはその場に佇んでいた親衛隊長に命じた。女にしては長身の彼女より頭半分背の高いユーリは、その場にすっと片膝をついて平伏する。それを満足げに横目で眺め、エルジェーヴェトは片手を差し伸べた。

 「ユーリ、お手」

 爪の形の整ったエルジェーヴェトの手を、ユーリの白い掌が拾い上げ、押し頂くようにして手の甲に口づける。ひどく得意げに姪は玉座の私を見上げた。

 「ほら、しつけも完璧」

 「こら待て」

 確かに見蕩れるほど絵になる姿ではあったが、それはこの際問題ではない。思わず突っ込む私に眉をしかめ、姪は無造作に肩に落ちた髪の毛を掻き揚げた。

 「それなら伏せとおまわりもしてみせましょうか?」

 「どうせ匍匐前進と巡視哨戒をさせるんだろう」

 「あー、ばれてた」

 エルジェーヴェトはその場に跪いたままのユーリに肩を竦めて見せる。何を考えているのかわからない親衛隊長は、いつも通りの平然とした無表情だった。なるほど狼に似た容貌は、その獰猛さを上品な忠誠の中に押し込めば、そのままできのよい軍用犬にも似ている。一切何を考えているのか他人に悟らせないのはもはや一種の才覚だろう。常に不敵な笑みを浮かべつつ、軽口ばかりを叩きたがるエルジェーヴェトの対極にあった。

 改めて並んでいるところを眺めると、艶やかに波打つ黒髪に薔薇色の肌を持つ黒衣の公爵と、銀に近い淡い金髪に白皙を備えた白ずくめの親衛隊長の姿は余りにも好対照で、それゆえに、まるで同じ盤上にあるシャトランガの駒のようによく似た印象を持っていた。そう言えばエルジェーヴェトとユーリが共に銀狼王に育てられた、双子のような幼馴染同士であるということを、不意に私は思い出す。

 これ以上何を言っても姪ははぐらかすばかりで無駄だろう、と見切りをつけて、私は溜息をついた。

 「……とりあえず、エルジェーヴェト。お前にその気がないのに無理に進めるわけにも行くまい。今回のところはわかったから、話だけは考えておいてくれ」

 「はいはい、気が向いたらね」

 間延びした返事をして黒衣の姪は薄く笑った。せっかくの妖艶な美貌も、男勝りの身ごなしとぞんざいな口調で台無しだ、と私が惜しんでいると、ふと姪は愉快そうにこちらを見上げた。

 「別にあたしも、白狼公国が帝国の一部だってことを忘れてるわけじゃないんで。いざというときには精々頼りにさせてもらいますよ。伯父上の後ろ盾なしじゃ、一冬越せずに飢えるのがあたしたちのヴェルヴァルニアですんでね」

 全くこの姪には困ったものだ、と思いながらも、私もつられて目だけが笑ってしまった。男勝りでいつでも傍若無人に振舞うくせに、ここぞという場面で媚びるのがやけに上手い。要するに、結婚などで自分を帝国側へ引き止めるまでもないと釘を刺しているつもりなのだろう。

 やがて踵を返してエルジェーヴェトが退出しようとする折、彼女に付き従うユーリを私は何気なく呼び止めた。

 「手の焼ける姪だが、これからもよろしく頼むぞ。当分はお前にも面倒をかけそうだ」

 「……畏れながら申し上げてもよろしいでしょうか」

 ふと、窓越しの木枯らしのように微かな声でユーリが答えた。寡黙なこの青年が自ら口をきくのは滅多にあることではない。許すと短く告げると、彼は物静かに言った。

 「公爵殿下は、白狼公国のためでしたらいずこにでも――どのような形でも赴かれる方でございます。どうかそのことだけはお忘れなきようお願いいたしたく存じます」

 彼の語る内容は私の予想の範疇に収まるものでなかったため、飲み込むまでしばし待たせることになってしまった。ようやくその意を汲み取り、思わず私は苦笑した。

 つまりこの忠実な親衛隊長は、仕える女公爵が凡百で非力な他の姫たちのように意に沿わぬ政略結婚の手駒にされることを案じていたのだろう。かつて青年の父が自らの治める土地のために誇りをなげうって膝を屈したように、祖国を質に取られたエルジェーヴェトが戦装束を婚礼衣裳に着替えさせられるということを危惧していたのだとすれば、なかなか哀れなことだった。

 わざと私は明るい口調を繕った。

 「ああ、まさかエルジェーヴェトを婚姻外交の駒にするつもりはないよ。そうするつもりなら、他にも手頃な姫君はいくらでもいる。結婚云々と言ったのも、特に他意があってのことではない。第一、帝国のためを思うなら、あの子には戦場を駆け回らせている方がどれほどよいか」

 ふとユーリの口元が微笑んだ気がしたが、顔に掛かる長い髪に遮られはっきりと見分けることはできなかった。

 「それでしたら、我々もまた帝国のために心血を惜しむつもりはございません。なぜならば」

 「おい、ユーリ。いつまで居座るつもりだい。用がないならこんな王宮とっととずらかるよ」

 ふと扉の方からぬっと黒い影が現れた。足音を忍ばせ、王宮の調度品の陰に紛れると、華麗な容姿の持ち主にも関わらず驚くほど周囲に溶け込んで見分けづらくなる。腕組みをして扉の陰に佇んでいたエルジェーヴェトは、ユーリが立ち上がるのを確かめると待ちもせずに廊下へと消えていった。

 彼女を追うように立ち上がったユーリは、ふと言いかけていた言葉の続きを短く述べた。

 「――公爵殿下は、我々の希望ですから」

 囁くような声で早口にそう言い置いて、親衛隊長はすかさず公爵の後を追った。暗い回廊の中で黒衣のエルジェーヴェトはすぐに見分けられなくなったが、その背後を追うユーリの白い背中はまるで雪片のようにいつまで闇の中でもたゆたっていた。お転婆ではねかえりのエルジェーヴェトはユーリがいないと手がつけられないが、逆にエルジェーヴェトの外にユーリを飼い慣らせる者がいるのだろうか、とふと思った。

 ――かつて、ヴェルヴァル人にとって黒は豊穣を意味する希望の色なのだと、教えてくれたのは確か同腹弟だったか。言い捨てるようにして去ったユーリの言葉から思い出したのは、そんな昔のことだった。

 妃を失って以来ずっと黒衣を纏い続けている同腹弟に、新しい妃を探してやろうかと尋ねたとき、こんな風に答えたのだ。

 「ヴェルヴァルニアに雪が完全に消えるのは、夏場の四ヶ月しかないんです。だから、雪が解けて土の色が見えたとき、ヴェルヴァル人はもう我々がびっくりするほど喜ぶんですよ」

 確か、小麦の借用を願い出にやってきたときのことだったと思う。北の寒さと日の光の弱さにやられてすっかりやつれながら、同腹弟はひどく嬉しそうにそんなことを言っていた。かつて私に奉げた誠心を、氷雪群峰に生きる民に奪われてしまったような気がして、そのときは少し寂しかった。

 「白狼山岳兵がその使い道を失っても飢えることがなくなるまで、私の戦は終わりません。兄上、どうかそれまで果断なるご決断を下し続けてください。有事におけるあなたの判断は、帝国に住む者全てにとって絶対のものです」

 ほどなくして同腹弟は、愛するヴェルヴァルニアに倒れ、二度と帝都に帰らぬ身となった。そういえばエルジェーヴェトの纏う漆黒の礼服は、初代白狼公爵が好んで着ていたものではなかったか――。

 帝国の領土が画定したとは言え、時代はまだ平安には程遠い。南方の異民族との衝突も回数を重ね、また安定した都市部で膨張し始めた人口を養うために、新たな領土への需要が尽きることはない。帝国は依然として白狼山岳兵を必要としており、それを率いるユーリは、ただ白狼公爵エルジェーヴェトの命令のみに従う親衛隊長であった。

 姪を手元に置く機会がなかったとは言え、配慮が足りなかったか、と私は少しだけ悔いた。

 ――どうやら、姪の将来を考える上で、諦めという大きな決断を私は迫られつつあるらしい。

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ヴェルバルニアの白い冬 かとりせんこ。 @nizigaro

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