ヴェルバルニアの白い冬

かとりせんこ。

白狼の姫君と銀の牙

 帝国の北辺を守る白狼公爵エルジェーヴェトとは、あたしのママのことだ。

 波打つ漆黒の髪は少女の頃からまともに結いもせず無造作に背中に流し、薔薇色の肌を男物の黒い礼服に包んだ彼女は、見た目もさることながらその気性に至るまでいっそ清々しいほどの男勝りだった。

 帝国が大陸西域全土を支配下に納めてから、まだ五十年にもならない。その最末期にようやく陥落したヴェルヴァルニアを北方の要衝と定めた当時の皇帝は、自分の弟に白狼公爵の地位を与え、その地の支配を命じた。長い戦乱が続き疲弊した帝国が、後継者争いを防ぐために行った措置というのが今では専らの定説だが、取りも直さず生真面目な皇弟は北辺へ赴いた。

 ヴェルヴァルニア――現在の白狼公国は、一年の大半を冬将軍の支配下に置かれる厳しい気候で、しかも領地の大半が岩山という極めて貧しい土地だった。帝国にとって軍事的要衝という以上の意味を持たない場所を、初代公爵は十年余り統治した後に、早すぎる生涯を終えた。彼に男児はなく、後継問題によって帝国からの干渉を受けたものの、それを退け爵位を継いだのが公爵の一人娘だった。

 帝国のルーツとなった南方系の民族の特色を、令嬢はその容貌に色濃く残していた。大地も山も川も白い雪と氷に覆われ、雪の妖精のように淡い色彩しか持たない民族ばかりが住む土地において、太陽の忘れ形見として地上に落ちた鮮やかな影のような女公爵の姿は、それだけで人々の希望だった。長い冬の果てに雪解けの下から現れた黒土のような、勝利と豊穣の具現だった。

 とは言え爵位を継いだ時点で彼女は僅かに十歳、年端も行かない彼女の後ろ盾になったのが、帝国最強とも謳われる白狼山岳兵によって組織された親衛隊だった。

 帝国の版図に組み込まれる以前、ヴェルヴァルニアには固有民族であるヴェルヴァル人が住み、独自の文化を持つ王国があった。歴代の王は尚武の気質で、自ら兵を率いて戦に赴いたと吟遊詩人が伝えているが、険しい山地と厳しい気候に鍛えられたヴェルヴァル人全体が元々素晴らしい兵士の適性を備えており、特に王の率いる兵団に選ばれる者だけがその名だけで帝国中を震撼させる白狼山岳兵と名乗ることを許されていた。ヴェルヴァルニアが帝国の軍門に降ったのも、その軍事力に屈したわけではなく、戦乱中に数年間続いた冷夏でひどい飢饉となったためで、民草全てが餓死するくらいならと覚悟を決めた王が自らの首を差し出したと言う顛末であった。銀狼王との通称でその武名が轟いていたヴェルヴァル人の王を皇帝は惜しみ、小麦と引き換えに新しく統治者として派遣される公爵の親衛隊長となることを命じた。帝国に額ずいてもなお誇り高き銀狼王は、粛々とそれに従い、白狼公爵初代親衛隊長となった。

 白狼公爵はそれでも、帝国中枢から追放されたような立場であったにも関わらず、皇弟という地位を精一杯駆使して民が飢えぬように腐心したらしい。はじめこそ立場の違いによる軋轢があったようだが、公爵と親衛隊長は共に飢えや寒さや帝国からの圧力と戦う中で、友情にも似た絆を結んでいった。帝国から要請される派兵依頼には、何と隊長自らが前線に乗り出して必勝でそれに応え、その代償として公爵は毟り取れるだけの褒賞を帝国に求め、所領に持ち帰ってきた。白狼公国を傭兵国家と揶揄する者に対し、公爵は当然の対価を得ているだけだと胸を張って答えたという逸話も伝わっている。

 ともあれその公爵が死んだ後、一人残された令嬢を帝国の干渉から守り育ててきたのは親衛隊の者たちだった。特に親衛隊長は自らの娘のように慈しんだらしいが、それはつまり白狼山嶺最強の兵によって徹底的に訓練をつけられたということに他ならない。その報せを受けた皇帝は、姪の嫁入り先がこれで永久に失われたと天を仰いで嘆いたともいう。

 数年後、その危惧は的中した。南方の異教徒との長引く戦で劣勢に置かれた帝国が、戦況打破のために白狼山岳兵の派遣を依頼したとき、その先鋒に立っていたのは何と漆黒の男装に身を包んだ女公爵であった。彼女は敵味方共に犠牲を厭わぬ苛烈な戦術で遂に異民族を撃退し、長年の懸案であった南方国境線の画定における最殊勲となった。そして北辺の白狼公国領の植民地としてその土地を得、南方の豊かな税収を恒久的に得ることに成功した。

 北風に黒いマントを翻して戦場に降り立つ女公爵エルジェーヴェトは、敵にとっては命を刈り取る死神そのものだが、彼女がもたらす無数の死によって凍える北の公国は生き長らえた。かくして、漆黒の女公は北の厳しい大地に恵みをもたらす文字通り豊穣の女神となった。在位二十年を越える彼女は、今も戦場の最先鋒に立ち続けている。この帝国のどの君主より――もしかしたら白狼山岳兵の誰よりも、多くの敵を殺戮しているのは彼女かもしれない。亡骸は痩せた大地を肥やし、雪に埋もれた黒土は血を吸ってますます豊かな実りを得るものだから。

 ――要するに、そんな血の臭いが絶えない女性があたしのママだ。



 「ユーリ、またこんな寒いところにいるのね」

 白狼公爵の居城は、氷雪山嶺の懐に抱かれた高台の上にある。かつて銀狼王が帝国からの侵攻を阻止するために砦を築いたその跡地で、都を一望するこの砦によって、ヴェルヴァルニア全体が鉄壁の防御を誇る要塞となっていたと言っても過言ではない。軍事上はこれ以上ないくらい最適な位置にあるものの、雪嶺から吹き荒ぶ山おろしに常に晒され、平地からも遠いこのお城は居住性という意味で甚だしく問題がある。

 そんなお城の詰所に、今は白狼公爵第二代親衛隊長以外に誰もいなかった。彼は一人だと火を焚かないから、部屋の中は氷室のように冷え込んでいて薄暗い。部屋の高い場所にある窓から差し込む僅かな光を手掛かりに、彼は小さな手持ちの砥石でナイフを研いでいた。

 彼の髪は光に透かすと透明に見えるほど淡い金色で、音がしそうなほどさらさらとした髪の毛をいつも無造作に下ろしている。羽毛を挟みこんだ戦闘用の革キルトのコートは薄く光って見えるほど白いけれど、これは白狼山を駆けるときに敵の目を誤魔化すためだ。おまけに素早く動けるように装備を軽くしているからか、ひどく着痩せして見える。

 ユーリは狼に似た灰色の瞳でこちらをちらりと見ると、ナイフを片手に下げたまま椅子を立った。見ると部屋の脇に薪が積んである。

 「あら、別にいいのよ。火を焚かなくても」

 「姫様がお風邪を召されては困りますから」

 ユーリは億劫そうにそう答えて、いくつか薪を無造作にストーブへ投げ込むと、砥石代わりに使っている火打石で火を起こした。暗い室内に赤い火花がちらちらと瞬くのを、あたしはユーリのコートの裾に潜り込みながら眺める。

 「……姫様」

 「こっちの方が暖かいもの」

 案の定、コートの中にはユーリの体温が篭っている。中に余り服を着込まない彼の身体は、しがみ付くとびっくりするほど固くて、雪のように白い容貌からは思いも寄らないほど熱かった。ユーリは少しだけ振り払おうとしたけれど、諦めたようにストーブの脇のベンチに腰を下ろしたので、あたしも一緒に座り込んだ。ユーリはあたしに甘いから、どうせ怒られるはずなんかない。

 しゃ、しゃっと涼しげな音が響き始めたので顔を上げると、ユーリはまたナイフを研ぎ始めたところらしかった。緩く孤を描く大ぶりなナイフは随分歪な形をしていて、ママのナイフとはまた全然形が違うけれど、きっとそれは長年使い込んで磨り減っているせいだと思う。そう言えばママも、よく政務の合間に偵察の報告とかを聞きながらナイフを研いでいる。

 低いところから見上げると、ユーリの直線的な顔の特徴がよくわかる。顎も鼻も細く直線的で、唇や目は鋭利なナイフのように研ぎ澄まされた印象がある。髪をきちんと束ねて華美な礼服を着ていれば立派な美丈夫なのに、普段は野生の狼みたいな気配を纏っていて、軽々しく人を寄せ付けない。そんな放し飼いの猛獣のような彼を恐れないのは、ママかあたしくらいのものだ。

 現在の白狼公爵親衛隊長を務めるユーリは、つまり銀狼王の嫡男なので、世が世なら王様というわけなのだけど、そういう典雅な響きはまるで似合わない。狼の群れを率いる首魁とか、そういう言葉の方が彼の印象を言い当てている。但し本当の狼の隊長は手下に狩をさせて自分は指揮するものだけれど、ユーリはいつだって戦場では先陣を往く。天衣無縫な女公爵の先を駆けることが許されているのは、露払いを任された親衛隊長ただ一人なのだ。

 あたしはそんな戦場の光景をまだ見たことはないけれど、なぜかその光景は容易に思い浮かべることができる。白狼公国にはほとんど騎兵がいないから、名だたる戦闘集団にも拘らず白狼山岳兵に騎士はいない。いつでも彼らは白兵戦で戦うから、その分だけお互いの距離が近いのだ。

 「ねえユーリ、あたしがどうしてここにきたのか訊かないの?」

 甘えるように声を上げると、彼は今度は手も止めずに無造作に答えた。

 「姫様のしでかすことに、大体意味はありませんから」

 「うふふ、やっぱり?」

 「そういうところは公爵殿下とよく似ておいでです」

 ママのことをいきなり引き合いに出されて、急にあたしは冷めてしまった。ユーリはあたしのことも、ママのこともよく知りすぎていて、いつもあたしは上手いようにあしらわれてしまう。

 仕方なく彼にしがみ付くのをやめて、あたしはその隣にきちんと座り直した。

 「ねえ、あたしこのところ綺麗になってきたとは思わない?」

 「そうですね、お年頃ですからお転婆はほどほどになさらなくては」

 手も止めず、一瞥すらくれずにそんなことをしゃあしゃあと言うユーリに腹が立ったので、あたしは彼の髪の毛先を少しだけ掴んで思い切り引っ張ってやった。いた、という声と同時に淡い髪の毛がさらりと何本か抜けた。

 「白髪を抜いてあげたのよ。あなた、少しも目立たないわね。ママはよくこのところ愚痴ってるわ」

 「公爵殿下は黒髪ですから、目立つだけですよ。数ではわたしもそう変わりません」

 そうね、と頷いてあたしは自分の髪の毛を眺める。頭の後ろで一つに束ねただけの髪の毛は、ママと同じ漆黒。だけどこのところ急に褪せ始めたママとは違い、あたしの髪にはまだ痛み一つなくて、それに気付いてからというもののちょっとした自慢になっている。

 「赤ちゃんができてから、急に白髪が増えたってママは言ってたわ」

 「公爵殿下がそう言うのならそうなのでしょうね」

 ユーリの返事はいつでも投げやりで、それが妙に心地いい。少し笑ってあたしは言った。

 「生まれてくるのは、弟がいいわね」

 「爵位の継承がややこしくなりますよ」

 ママのときのことを、ユーリもよく知っている。そのときに暗躍したのはユーリのパパで、ママと同い年のユーリは顛末を一番近くで見てきたはずだからだ。帝国の方針が男子相続優先ということも、白狼山岳兵の利用と南方新領土の租借が帝国にとって大変な旨みのある権利だから、何とか白狼公国に楔を打って割り込む隙を作りたいという皇帝の本音も、きっとあたしよりよくわかっている。そしてユーリは、誰よりもこの白狼公国を――ヴェルヴァルニアの土地を愛していて、その土地に豊穣をもたらしてきたママに忠誠を誓っている。ママに捨石になるよう命じられたら、他のあらゆる命令にこれまでそうであったように、誰よりも完璧に従うはずだ。

 それでもあたしは、ユーリの金色の髪の毛が覆う背中に顔を寄せた。

 「いいの。そのときはユーリ、あなたが守ってくれるでしょう?」

 「姫様もその弟妹様も、いずれも公爵殿下のお子様には違いありませんよ」

 「そこはお世辞でも、あなたを守りますというべきところよ」

 「失礼しました」

 思ったより素直にユーリが折れてくれたので、あたしは何となく気分がいい。そう言えばストーブも温まってきたみたいで、あたしとユーリの周りだけ空気の温度が違っている。

 「あのね」

 わざとあたしが小さな声でそう言うと、怪訝な表情を浮かべながらユーリがこちらへ顔を寄せた。その耳元の髪をさらりと掻き揚げて、あたしは囁く。

 「妹だなんてありえないわ。恋敵はママだけでたくさんよ」

 ふとユーリは、砥石を脇に置いてあたしの髪に手を延べた。だけど、ママと同じ色の髪に触れられるのが嫌なので、あたしはその手を取って自分の頬に当てる。彼の指先が、あたしの睫毛に触れる。

 あたしの一番好きな場所。ユーリと同じ、灰色の瞳に彼の指先が触れられるのを感じながら、あたしは軽く瞼を伏せた。

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