(7)
秀雄が個室席の襖を開けると、背中を向けて座っていた冴がこちらを振り返った。右手にはトングを持ち、首から紙エプロンをぶら下げている。テーブルに並べられた肉盛りはどれもきめ細かい脂身が均一、かつ迷路のように刻まれていた。備え付けのロースターからは白い煙が立ち上がっていた。
「おかえりなさい」と冴は言って微笑んだ。「ちょうどよかった。そろそろカルビが焼きあがるところだったんです」
席につくと、さっそく秀雄は手元に三種のタレが入った黒い陶器の三連皿が用意されていることに気が付いた。その隣に並べられた丸い取り皿には、すでに焼きあがった肉が何枚も重ねられている。その一方で、彼女の取り皿はいまだ新品同様に綺麗まっさらなままで置かれていた。
「食べていないのか?」と秀雄は尋ねた。
彼女は手元のトングに目をやったまま小さく肯いた。「ちょうどさっき運ばれてきたところなので」
そうか、と言って秀雄はポケットの中にしまっていたジッポーを冴に返した。「そういや、これ。ありがと」
「お口に合いましたか?」、彼女は左手でジッポーを受け取り、それをシャツの胸ポケットの中へ入れた。彼女の左胸が不自然に膨らむ。「いつもは何を吸ってるんですか?」
彼は首を振った。「実は普段はあまり吸っていないんだ。昔、警察官だった頃は常にツー・カートンほど家に備えていたんだが、ある時期から手が震えるようになってな。医者に止められたんだ」
「へえ、そうだったんですか」と冴は言って目を丸めた。とはいえ、その視線の先にあるのは常にトングの先端で焼いている特上カルビであり、秀雄の顔に目を向けることはなかった。
どうやらその話に冴はとくに興味を持たなかったようだ。彼女は話を遮ってしまうことなど微塵にも躊躇わず、焼きあがったカルビ肉を次々に秀雄の取り皿へ置いていった。
秀雄は構わず話を続けた。「でも、たばこを吸っている時間はなぜだか思考が働く。散乱していた部屋が徐々に片付けていくみたいに、考えがある一箇所に集約していく。そこに正当性が含まれているかどうかはともかくとして、それは辻褄の合う、いわば矛盾の生じない美しい世界へとおれを導いていくんだ。当時、おれはそれを一丁前に推理と呼んでいたが、それが勝手な妄想で終わることはよくあった。だからその推理に、あるいはただの妄想に、本気でのめり込んでしまう危険性は十分に理解しているつもりだ。しかし、癖というものは一度でも身体に染み付いてしまえばその痕が完全に消えることはない」、彼はそう言って皿に載った熱々のカルビに箸を伸ばした。それを三連皿の左端に盛られた岩塩の上で滑らせ、口へ運ぶ。上質な脂の甘さと鋭すぎないまろやかな塩味が口の中で広がり、それをくどいと思わないうちにサッと水で流した。もったいない食べ方だな、と周囲からはよく指摘されていたが、経験上、旨いものは最終的にいつも酷い胃もたれを引き起こした。後味がよかったことなんてほとんどない。彼は箸を手元に置き、冴に向かって落ち着いた声でこう言った。「あんた、もしかして何かよからぬことでも企んでいるだろう?」
彼女の手が空中で止まった。トングはカルビを掴んだまま離さない。滴る脂がロースターの中に落ち、一瞬だけ火が勢いよく燃え上がった。「どうしてですか?」
「おれはまだ、あんたのことを完全に信用したわけではないんだ。こう見えても案外用心深い人間でね」
「今日初めて出会ったような女とは協力できない。そうおっしゃっているんですか?」、冴はゆっくりと本を朗読するように慎重に尋ねた。
「もちろんそれもそうだが……」
それからしばらく沈黙があった。それは緊密な沈黙だった。
「偽名を使っていることですか?」と彼女は言った。
秀雄は低い声で「ああ」と返事をする。
「やはり気付かれていましたか」、冴は口元にばつの悪い笑みを漏らした。
「さっき保険証を拾ったときにな」と秀雄は教えた。「どうして最初に会ったとき、あんたはおれに嘘の名前を教えたんだ」
冴はひとつ深いため息を吐き、それから焼いていたカルビを自身の取り皿の上に載せ、手に持っていたトングをロースターの出っ張りに立て掛けるようにして置いた。ようやく顔を上げ、秀雄の目をまっすぐに見つめる。その眼差しに揺らぎはなく、彼女が動揺している様子は何故かこれっぽっちもなかった。
「特殊な仕事をしているんですもの。慎重になるのは当然でしょう?」と彼女は言った。
「それはそうだが、おれたちはいわばチームだ。互いの本名を知っておくくらいの信頼関係は結んでおいてもいいはずだ。なにしろ、おれたちは巨額の成功報酬をなんとしてでも勝ち取り、それを仲良く半分に分け合おうとしている。嘘はいけない」
「果たして、本当にそうでしょうか?」
「どういう意味だ?」と秀雄は尋ねた。
「私にはどうしても、あなたが素直に成功報酬の半分を分け与えてくれるとは思えない。きっとあなたは成功報酬を手に入れたあとで、私のことを何の躊躇いもなく殺すでしょう。そうすれば報酬は独り占めできるから」
「なにを根拠に」と彼は言った。
「根拠はありません」と冴は言って小さく首を振った。「ただ、おそらくあなたも偽名を使っている。違いますか?」
秀雄はしばらく黙り込んで何も言わなかった。回を重ねるごとに沈黙の重みが増し、時間の進み具合を遅らせる。冴の予想は見事に当たっていた。弁解する余地はない。彼は偽名を使っていた。それだけでなく、冴と協力して蜘蛛を始末したあとで、彼女のことを殺そうと考えていた。幸い、元警察官だった彼は、人を殺める手段とその証拠を隠蔽する方法については誰よりも熟知している。一人や二人、誰からも気付かれることなく、その存在をこの世から消し去ってしまうことくらいは彼にとっては容易いことだった。
「噂に聞いたことがあるんです」と冴は淡々とした口調で続けた。手元ではまたしても肉を焼き始める。秀雄の視線は自然とそちらを向いた。「ある信頼できる情報通から聞いた話です。この地域には、三ツ谷と名乗る敏腕の従者がいて、その人はその昔、Aから直々にスカウトを受けたといいます。であれば、かなりの実力者であることは間違いない。そして実際に、彼は史上稀に見るハイペースで次々と依頼をこなしていった。いまや他の主人たちからも一目置かれた存在になりつつある」
秀雄は尋ねた。「仮にその噂が本当だったとして、どうしてそれが偽名を使っていることと繋がるのかな?」
「この業界で生きているということは、常に死と隣り合わせの状態にあるということです。これはあくまで個人的な見解に過ぎませんが、優秀な人ほど簡単に他人のことを信じません。疑うことを放棄してしまえば、おそらくは一瞬のうちに消されてしまうからです。それくらいこの業界は異常であり、殺伐としています」
「だから、おれは偽名を使っていると?」
冴は肯いた。「簡単に本名を晒すほど、きっとあなたは馬鹿じゃない」
「きみはそんな相手だとわかっていながら、自ら協力関係を結ぼうと提案した。それはどうして?」
「あなたの近くにいれば、何か重要なことがわかりそうな気がしたから。たとえそこに危険が孕んでいたとしても、やってみる価値はある」、冴はそう言って微笑んだ。「私、生まれつき勘だけは冴えてる方なんですよ。冴だけにね」
口元に簡易的なシールを貼り付けたようなその不自然な笑みは、得体の知れない生き物を見ているかのようでどこか少しだけ不気味だった。とはいえ、それが恐怖にまでに至らないのは、彼女が童顔だからかもしれない。
「その勘とやらも、あながち間違っちゃいないだろう」と秀雄は落ち着いた声で言った。「おれは普段から偽名を使うほど用心深いし、内部のことについても他の従者よりはかなり情報を持っている」
それから彼は取り皿に載ったタンを箸で掴み、口の中へ運んだ。すでに肉は冷めていたが、歯ごたえがあって美味だった。それをしばらく咀嚼し、飲み込んだ後にまた彼は箸を置いた。いつの間にか肉を焼く手を止めていた彼女は、彼が食べ終わるのをじっと観察しているかのように正面に待ち構えていた。
「しかし残念なことに、蜘蛛の情報についてはほとんど何も知らない。わかっているのはせいぜい、靴のサイズが27センチもあることくらいだ。それくらいのことなら、誰だって知っているだろう」
冴の片方の眉がぴくっと動いた。それを彼は見逃さなかった。「どうした」とすかさず尋ねた。「もしかして、おれの近くにいても期待していたほど重要な情報は得られそうにないと気付いて、がっかりしたのか?」
彼女は首を振った。「いえ、そんなことはありません。ただ内部の情報について、少しだけ興味が湧いたもので」
「なにを知りたい? 今なら一つだけ質問に答えてやってもいいだろう」、どうせいずれはこの手であの世へ送ってやるのだから──とまでは、さすがに口にはしなかった。
「それじゃあ」と言って冴はひとしきり考え始めた。それから数秒のあいだに部屋の中には沈黙が沈殿していく。やがてそれを漏れなく吸い取るように、彼女は無味乾燥かつ扁平な声で秀雄に尋ねた。「Dについて、何か知ってることはありませんか?」
彼はしばらく何も言わず、顎の輪郭を人差し指と親指の腹で摘むようになぞった。「どうしてきみはそんなことを知りたがる」
「宇宙人にかんしてもそうなのですが、人は自然と謎の多い生き物について知りたがるものです」
「Dは宇宙人とは違う。ちゃんと存在している」、秀雄はそう言って彼女の顔をひとしきり見つめた後、ひとつ短い息を吐いて姿勢を正した。「だが、Dはきみの言う通りかなり謎が多い人間だ。あれですらその用心深さは敵わない。警戒心の強い主人の中でも群を抜いて秘密主義者だ。ほとんどの人間がその正体を知らない。名前も、年齢も、性別も、どこに住んでいるのかについても、噂ではちらほらと耳にすることもあるが、おそらくそれらはどれも間違った情報だ。あの方の情報管理は国内のどの企業よりも徹底しているからな。おれでさえ薄らとしかその顔を覚えていない」
冴はわずかに顔をしかめた。たった今、どうやら彼女は秀雄の言葉の中から明らかに聞き逃してはならない、重要な何か──あるいは魚の小骨のような異物を喉の奥に感じていたらしい。彼女は一度だけ軽く咳払いをしたあと、しばらくのあいだ口を噤んで何かを考えていた。ある仮説に対し、自らの頭で何度か推敲を重ね、不必要で辻褄の合わない部分は極力削ぎ落としていく。やがてその作業が終わると、彼女は端的な言葉で彼に尋ねた。
「Dと会ったことがあるのですか?」
秀雄は黙って小さく肯いた。
「その時、Dはどういう格好をしていましたか?」と冴は立て続けに訊く。
予想以上の食いつきっぷりに秀雄はつい怯みながらも、重たい腰を持ち上げて遠くにある埃をかぶった古い本に手を伸ばすように、当時の記憶を奥の方からゆっくりと丁寧に手元へ手繰り寄せ、それからDの姿を頭の中にじわじわと思い浮かべた。そしてその特徴を箇条書きで並べていくように説明していく。そのあいだ、冴はこれまでにないくらい真剣な顔つきで、その説明に耳を傾けていた。
「上下ともに黒い冬用のジャージ姿で身を包んでいた。それから黒いバケットハットを頭に被り、目元はサングラスで隠し、黒いスニーカーと黒いマスクを着用し、それほど暑くない日にもかかわらず黒い手袋をはめてた。見た目の特徴といえばそんなところだ」
「いつ、どこで遭遇したんですか?」
秀雄は週刊誌の記者に捕まった芸能人はきっとみんなこんな気分なんだろうなと想像した。思わず顔をしかめてしまう。それを見た冴がようやく自ら一歩後ずさりをしたかのように、ばつの悪い顔をして俯いた。
「すみません、つい調子に乗ってしまいました」
謝る彼女に秀雄は首を振った。「いや、別に構わないよ。ただ、きみがあまりにもDのことを熱心に聞いてくるものだから、少しだけこちらとしても困惑してしまったんだ」、彼はそう言ったあとに水を一口飲み、それから話を続けた。
「初めてあの方と遭遇したのは、おれがまだこの区域に配属されて間もない頃のことだったと思う。依頼を受けたおれは、いつものようにターゲットを速やかに始末した。そのあとすぐに依頼完了の報告をしたよ。ただ、おれはしばらくその現場から離れなかった。例に漏れず、犯人は現場に戻るという心理がおれにも働いたわけだ。その後の事件がどのように処理されていくのか、その動向を見守らないと気が済まなかった。すると、その三十分後に、さっき説明した黒ずくめの人間が現場にやってきた。おれはそいつのことを物陰でじっと観察していた。遠目だったから性別もよくわからない。ただ、そいつはターゲットの死体をその目で直接確認すると、何もせずにすぐその場を離れた。そしてその直後におれの携帯にDから報酬についての連絡が送られてきた。同じような出来事が次の現場でも起こったよ。その次も、そのまた次も、黒ずくめの人間は必ず現場にやってきた。最初はまさかそれが張本人だとは思いもしなかった。誰かしら他の従者が駆り出されて、Dの指示に従って死亡確認が行われているものだと思っていた。しかしながら、それはD張本人で間違いないという。おれはAとも直接連絡を取れる唯一の従者だが、彼が前に教えてくれたんだ。Dは非常に疑い深く、自分以外の人間を一切信じていないと。たとえそれがAであれ、他の主人であれ、見境なく他人を信用していない。だから素性を誰にも明かさないまま、実務に関しては他人に外注しているが、その最終確認については自身の目を使って行う。それがDという人間らしい」
秀雄はもう一口水を飲み、取り皿の上で山積みになっていた肉を一枚食べた。それがどこの部位の肉だったかはわからないが、冷めてしまっていたせいで、本来の柔らかさは失われていた。それを口の中で粘り強く咀嚼したあと、最後はやはり水で流し込む。
「いいことを聞きました」と冴は言った。そして彼女は手元に目を落とし、その存在をすっかり忘れ去られていた特上カルビをいまさら口へ運ぶ。美味しそうに食べていたが、それもやはり本来の良さを失っているに違いない。秀雄の食べた特上カルビとは全くの別物だろう。「やはり私の勘は冴えていたようです」、彼女は最後に小さな声で独り言をつぶやいた。
秀雄は彼女の胸元に目をやり、この後のことについてしばらく考えていた。たとえ秀雄が多くの主人から一目置かれている存在であったとはいえ、Dのことを今日初めて会った新参の従者にペラペラと喋ってしまったことは、決して許されることではなかった。つまり、彼女を生かしておくわけにはいかない。しかし現在、彼に拳銃の持ち合わせがなかった。パチンコにあっけなく中身を奪われた空っぽの財布と、スマホとこの店のクーポン券だけでは何の役にも立たない。いずれにしても、この焼肉屋の店内で殺しを試みるわけにもいかない。個室になっているとはいえ、壁は薄く、少しでも大声を出せば店員がすぐにやってくる。隠密に物事を進めることを好む彼にとっては、あまり状況がいいとはいえなかった。考えられる最善策は、このあと彼女を自宅に招くか、もしくは日を改めて彼女を殺害するかの二択に絞られる。
それについて秀雄がしばらく熟考していると、やがて冴が何かを思い出したように目を瞠り、あとにこう続けた。「そうだ。せっかく協力関係を結んだわけですから、私からもひとつ、とっておきのいい情報を教えてあげましょうか?」
「とっておきのいい情報?」と秀雄は復唱し、軽く眉をひそめた。「Dについての情報かい?」
冴は小さくかぶりを振った。「いえ、蜘蛛についてです」
秀雄は何も言わずにその続きを待った。
「これまで蜘蛛は何人もの主人を殺害してきましたが、彼らはいずれも満月の日に殺されています」
「なるほど」と彼は言って短く息を吐いた。「つまりあんたの予想では、次に月が満ちる日に蜘蛛は犯行に及ぶ。そういうことを言いたいわけか?」
冴は力強く肯いた。肩より少し上の位置で切り揃えられた後ろ髪が飛び跳ねるように揺れる。「予想ではありません。確信しています」
「なにを根拠に」
「根拠はありません」と彼女は得意げに言い放った。「ただ、これは明らかな決定事項なわけです。そのスケジュールが狂うことは万一にもありません」
秀雄は彼女の主張を聞き、それに付随させるように意見を述べた。「仮にその予想が正しければ、蜘蛛は次の満月の日に確実にDの目の前に現れるということになる。蜘蛛の命を狙っている我々からすれば、その好機を逃すわけにはいかない。それを逃さないためにはまず、我々がその場に居合わせる必要がある。つまり、今はどうにかしてDの居場所を特定しなくてはならないということだ。蜘蛛は何も知らずにそこにやってくる。だがそこには我々が隠れて機械をうかがっている。いますべきことは、誰よりも早くDの身柄を確保し、自分たちのフィールドに蜘蛛を誘い込むこと。幸い、月が満ちるまでにはまだ時間が残っている」
冴は肯いた。「ええ、その通りです。ただ、逆を言ってしまえば、蜘蛛を殺したと報告を受ければ、Dは必ずその現場に姿を現します。なにしろ、現在、我々従者に課せられた最重要ミッションは蜘蛛の始末なわけですから、間違いなくDはその足で現場に赴くでしょう。その死体が本物であろうと偽物であろうと、Dは自分の目で蜘蛛が死亡していることを確かめないことには気が済まない。頭には黒いバケットハットを被り、上下ともに黒いジャージに身を包み、足元には黒いスニーカーを履き、そして口元を黒いマスクで覆った格好で現場にやってくる。それがDの習性であり、いわば決定事項のようなものです」
「なにが言いたい」と秀雄は疑問符をつけずに彼女に尋ねた。
「Dが誘い込まれることもあり得るということです」と彼女は言った。
聞きながら、なかなかに的を射ている意見だと秀雄は思った。その幼げな見た目によらず、彼女は聡明な頭脳の持ち主であり、なおかつ形のきれいな乳房も携えている。ここで殺してしまうにはいささか勿体ない気がした。しかし、それも致し方ないことだ。あとのことは一人だけでも十分にやり遂げられる。そもそも、彼には協力関係など必要のなかったことだ。いま考えるべきは、彼女をこの後どのように始末するのか。それだけだった。
「あ、さいごに一つだけ質問いいですか?」と冴は言った。
「どうした」、卑劣な思惑が毛穴から漏れてしまわないように秀雄は顔を引き締めた。「これがさいごの質問だ。なんでも答えてやろうじゃないか」
それから少し間を空けて冴は尋ねる。
「三ツ谷さんの本名は何ですか?」
秀雄はその質問に虚を衝かれ、数秒のあいだ言葉を失った。「そんなことでいいのかい?」と彼は言った。なにか国の重要機密でも聞かれると予想して、息を巻いて準備していただけに、思わず拍子抜けしてしまった。そんなことを知ったところで、果たしてそれが何の役に立つというのだろうか。
しかしながら、冴はこちらの事情など一切構うことなく首を縦に振り、その後も秀雄の本名をやたらと聞きたがっていた。
やがて彼が仕方なく本名を名乗ると、「なんだか室町時代に出てきそうな名前ですね」と冴は言って鼻をふんっと鳴らした。
「きみだって本当は五千円札みたいな名前をしているじゃないか」と彼はつい言い返してしまう。
「違いますよ。あれは
食事を終えた二人は無事に(彼女が)会計を済ませて店を出た。
上弦の月は相変わらず悠然と夜空に浮かび、こちらの動向を窺うように見下ろしていた。二人はしばらく夜空を見上げながら道のりを歩いた。ひんやりとした風に背中を押されるように足が前に進んだ。いつの間にか街を外れ、街灯のない暗闇へと入っていく。すぐ近くを高速道路が川のせせらぎのように流れていた。
地上は一体どんな風に見えているのだろうか──とそんなことに思いを馳せながらふとその場に立ち止まっていると、突然大きな破裂音がした。始まりとも終わりともとれるその合図に誰かが反応し、勝手に舞台の幕を下ろしたかのように、少しずつ秀雄の目の前が暗闇に溶け始めた。気付けば彼は反射的に腕を振り回していた。何故かはわからない。しかし、こうしなければならないと身体が反応していた。何かに必死に抗うように、あるいは少しでもこの世に爪痕を残したいと願うように。そして指先にたしかな感触を捉えた直後、また破裂音が鳴った。
今度は凍てつくような風が無許可に体内へと侵入し、全身の細胞は暴れるように震えだした。あっという間に手足には力が入らなくなっていた。やがて顔を思いきり地面に打ちつけ、そのはずみにとうとう意識が朦朧とし始める。知らぬ間にこちらを見下ろしていた彼女はやけに寂しそうな顔をしていた。その手に握られていたものがロシア製のマカロフだと分かったのは、彼の家にもそれと同じようなものがいくつか用意されていたからだ。
誰かの吐息で蝋燭の火がふっと消されるように、彼はいつの間にか眠っていた。そしてもう二度とその夜が明けることはなかった。
水面下戦争(No.16) ユザ @yuza____desu
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