(6)

 老夫と入れ替わりで正面に座った一葉は、店員にカプチーノを頼んだ。

 彼女はキャメルのコートを脱ぎ、手元で小さく折り畳み、隣の椅子の上に置いた。黒いタートルネックのニットは胸のラインを強調するように身体に密着し、綺麗な曲線を描いていた。肩に掛けていた紐の細いショルダーバッグからスマホと財布を取り出し、テーブルの上に重ねて置いた。そのひとつひとつの所作がどこか色っぽく見えてしまうのは、おそらく千春が彼女のことを勝手にとして捉えていたせいなのかもしれない。

「この間はわざわざ誘ってくれたのにごめんなさいね」と千春は言った。「紹介してもらったバーはまた今度お邪魔させてもらうわ」

 一葉は小動物のように「いえいえ」と軽く頭を振った。その仕草一つとっても愛くるしい。そのあとに彼女は「ずっとあなたに会いたかったんです」と言った。まっすぐに千春へ向けられたその瞳孔の奥には、かすかに脆さを孕む光が見受けられた。そのどこか危うい雰囲気に千春は惹かれていたのかもしれない。

「私も実はあのあと、少しだけあなたと同じことを考えていたの」と千春は言った。正確には、彼女は目の前に座る女性の裸を何度か頭の中で想像していたというのが正しい。だが、そんなことを正直に打ち明けてしまえばきっと猛烈に引かれてしまう。彼女は意外にも臆病だった。

「覚えてくれてただけでも嬉しいですよ」と一葉は言った。

「忘れるわけないじゃないの。ほら、だってあなたはずいぶんと変わった名前をしているから」

 千春はそう言ってカップの底に溜まっていたコーヒーを飲み干し、通りかかった店員に空いた容器をさげてもらい、もう一杯おかわりを頼んだ。そして再び一葉に目を向けた。冷やかしたつもりはなかったのだが、わずかに生まれた沈黙のほつれが辺り一帯の空気に砂袋のような重さを与えた。言わなければよかったと後悔するには、少々遅すぎたようだ。

「そうですよね」と一葉は言って苦笑いを浮かべた。それから稲穂が垂れるようにゆっくりとテーブルの上に視線を落とし、彼女はある一点をじっと見つめながら語り始めた。「今までの人生の中で、ここまで可哀想な名前をした人物に私もいまだ会ったことがありません。当時、高校を卒業した直後に母は私のことをその身に孕んだそうです。これはあくまで勝手な想像にすぎませんが、両親はその若さ故に、冗談半分でこの名を私に授けたものと疑っています。仮に姓が『樋口』であれば──加えて一般的な常識を兼ね備えた日本人であれば、最も避けるべき名が『一葉』だと思うのです。たしかに読み方は違うけれど、むしろそのせいで私は不必要な面倒を被りました。いちいち訂正をしなければならないのですから。これは『カズハ』と読むんです、と」

 千春は何も言わずにその話に耳を傾けていた。

「坂本龍馬と名付けられるよりは幾分かマシのように思いますが、それでも子供の頃は同級生によくからかわれていました。しかし、私はそのことで両親を責めることはできませんでした。彼らは早々と交通事故で死んでしまったのです。奇しくも、それは本物の樋口一葉が亡くなったのと同じ二十四歳の時でした。イギリスの詩人の言葉を借りるなら、それは『事実は小説よりも奇なり』とも言えましょうか。想像もしていなかった世界に突き落とされたと言いますか、とにかくそれ以降は身の回りのありとあらゆるものが変わってしまいました。私は自然な流れで叔父のところに引き取られ、何不自由なくここまで育て上げてもらいました。彼は日頃から武術と剣術を嗜み、私もたまにそれに参加させてもらっていました。気付けば、同級生からいじめられることもすっかりなくなっていました。思い当たる理由は幾つかありましたが、やはり当時の私はまだ子供でしたから、その事情については深いところで理解できていませんでした。どうやら私は保護者の間で危険人物と見なされていたようなのです。『あの子にだけは何があっても手を出してはいけない』、そんなことを陰では言われていたようです」

 やがて一葉が頼んでいたカプチーノがテーブルに届けられると、その話はキリのいいところで中断された。表面に愛くるしい熊のラテアートが施されているのを見て、彼女は「すごく可愛いですね」と笑みを漏らした。

 ほんとね、と千春はそれに追随し、それとなく話題を逸らした。「恋人はいるの?」

 一葉は首を振った。「一度もできたことがないんです」

「本当に?」、千春はつい顔をしかめて聞き返していた。その行為は一般的に失礼にあたるのかもしれないが、そんなことなど気に留める間もないくらい彼女は驚いてしまった。「どうしてかしら。こんなに可愛らしい顔をしているのに」、それは紛れもない本心だった。

「どうしてでしょうか。私、わりと警戒されやすいので……」

 一葉はそう言って片側の口角を引き上げたが、その目は明らかに笑っていなかった。そしてそれ以上は互いに丁度いい言葉を見つけられずに数秒の沈黙が流れ、やがて一葉はその空気にも耐えきれなくなったようにカプチーノに口をつけた。熊の顔が誰かの手によって摘み上げられているみたいに、その頬が横に伸びる。もうひとくち彼女が口をつけると、今度は扁平とした耳が食べられてしまった。

 やがて彼女はカップをテーブルの上に戻し、ふと何かを思い出したように「そういえば──」と口ずさんだ。

「先ほどこちらに居た男性とは、どういったご関係なんですか?」

 千春はその質問に少しだけ間を置いて尋ねた。「もしかして、あれが私の恋人だとか想像してない?」

 一葉は小さく首を振った。「ただ純粋に気になっただけです。最初は親子なのかなと思ったけれど、千春さんとはあまりに似ていないように感じて」

「たしかに、言われてみるとあの人との繋がりはどこか曖昧で、正確には言い表せない」と千春は言った。そのあとすぐに店員が運んできたホットコーヒーのおかわりを空中でソーサーごと受け取り、静かにテーブルの上に置いた。カップから絶え間なく湯気が立ち上っている。まだしばらくは冷ましておいた方がいいような気がした。それからふと一葉の手元に視線を移した。熊の顔は割れた鏡に映っているかのように歪んでいた。それを見てつい可哀想だと思ってしまう。「あの人はただの知り合い……というよりも、仕事仲間と言ったほうが正しいのかもしれない」

「お仕事は何を?」と一葉は尋ねた。

 千春はしばらく何も言わなかった。

「もしかして人には言えない仕事だったりして」と一葉は鋭いことを口にしたが、とくにそれを本気で疑っているわけではなさそうだった。

「オットッケ、アラッチ」

「え、なんですか?」、一葉は拾いきれなかった声に手を伸ばすように身体を前傾させ、顔をしかめてそう聞き返した。千春はそれに小さく首を振った。

「ううん、関係ない話だから」

 そうですか、と彼女は聞き逃したことを残念がるように声を漏らした。それからしばらくの間、彼女は何も言わずに窓の外を眺めていた。考えごとでもしていたのか、その表情は妙に強張っていた。やがて遠くの空に何かを見つけたように目を細め、おもむろに口を開いた。「そういえば今日って満月でしたよね?」

 千春はコーヒーカップを両手で持ち上げて口元へ運び、口をつける前に小さく肯く。「そうみたいだね」、ふと窓の方を振り返ってみると、空は少しだけ闇に溶け始めていた。一葉の声で再び身体を正面に戻す。

「このあとって何か予定あったりするんですか?」、彼女は千春の顔をじっとりと見つめていた。「一緒に行きたいところがあるんですけど」

 構わないけど、と言って千春はようやくコーヒーに口をつける。正面でわずかに白い歯を覗かせていた一葉は、よかったと小さな声でつぶやいた。彼女は嬉しそうにカプチーノに手を伸ばし、こともなげに熊の顔を食らった。

 何がそんなに楽しいのか、そのときの一葉の笑みがやけに不気味で、まるで別人を見ているかのように思えてならなかった。

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