(5)
国道沿いを歩いていると、やがて大きな五差路に突き当たった。元々あった十字路に、あとから線を一本付け足したような細い道路が北西に向かって伸びていた。直角三角形の二辺を辿るように信号を二つ渡り、数十メートル先に見えた目的の焼肉店の看板を目掛けて二人で歩いた。後付けされた細い線の上をしばらく進み、店の前にたどり着くと秀雄から先に暖簾をくぐった。その直前にちらと横目に映った自動販売機の薄明かりは、世間からすっかり隅へ追いやられてしまった筒状の灰皿スタンドを寂しげに照らしていた。焼肉店の客だろうか、サラリーマンらしきスーツ姿の男性はその隣に立ち、軒下で黄昏ながら紺色の空に向かって煙を吐いていた。二月の日没はまだ早い。
滑りの悪い戸口が二人を迎え入れ、レジの近くで何やら作業をしていた女性店員はこちらに気付いて気怠そうな挨拶をした。胸元には『研修中』と記された名札が貼られている。ところどころ色ムラの目立つその長い金髪は後ろで留められ、耳には大振りのピアスを開けていた。とはいえ爪だけは綺麗に丸く削られていた。おそらく店長に手元だけは厳しく指摘されたのだろう。客側の意見としてもそれはそうだ。知らない誰かの爪で触られた生肉なんて、たとえ焼いたとしても食べたくはない。とはいえ、その外見からしても、彼女が異常に長い派手なネイルをつけていないのは、かえってなんだか不自然に思えた。
「何名様ですか?」と店員は秀雄に尋ねた。彼が指を二本立てると、店員は後ろに立っていた冴に目をやった。そしてすぐに視線を戻す。明らかに良くない印象を持たれたようだった。「あの、ご予約の方はされてますか?」
その声色に棘が含まれていることを感じつつ、秀雄もそれについては何も指摘せずに首を振った。「いえ、してませんが」
少々お待ちください、と店員は言い残し、そそくさとバックヤードの方へ消えた。やがて今度は、奥から背の高い筋肉質の男が入れ替わるようにやってきた。さっきの新人店員の指導係でもしているのだろう。険しい顔つきをしていた彼はレジの前に立つ秀雄に気づくと、途端に安堵したように表情を和らげ、軽く頭を下げた。いったい彼女はどんな不審者が店に現れたと報告したのだろうか。たしかに一見すれば、秀雄が金にものをいわせて無理やり冴を連れているようにも見えるだろうが、彼らはまだ何もしていない。何かが起こるにしてもこれからであり、この店がそれによって何か迷惑を被るわけでもない。そもそもこの話は、秀雄が金を払ってもらう側にいることですでに破綻していた。
「いらっしゃいませ。奥の席にご案内しますね」と背の高い男性店員は言い、それから二人を店の奥にある掘りごたつの個室の席へと案内した。
この日はいつにも増して店内の客入りが少なかった。これもバレンタインの影響なのかもしれない。とはいえ、この店が満席になっているところを普段からあまり目にしたことはなかったのだが。
案内された個室席は入口を薄い襖で仕切っており、小上がりになっていた。中はそれほど広くはないが、座布団は四人分用意されている。入って左手の壁側は道路に面していたようで、一般的な家庭に常設されている薄型テレビほどの大きさの障子が、外の視界を遮りながらも同時に明かり取りの役割を果たしていた。
秀雄はすのこの手前で靴を脱ぎ、向かって奥の席に腰を下ろした。店員はテーブル上の呼び出しベルを手でさし示し、「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのベルでお呼びください」と言ってその場を後にした。靴を脱ぐまでにずいぶんと時間がかかっていた冴は、そのまま席につくのではなく、しばらくはすのこの上で身を屈め、自らの爪先を手で揉みほぐすように触っていた。その顔にはつい先ほどぶりの苦悶の表情が浮かんでいた。秀雄はついその様子が気になって席を立ち、彼女のもとへ歩み寄る。
「どうかしたのか?」、彼がそう尋ねると彼女は顔を上げて首を振った。
「たいしたことないです。ただ親指の裏にできてたマメが潰れちゃっただけなので」
「サイズが合っていないんじゃないのか?」
秀雄はそう言って冴の足元に目を向け、すのこの前に並べられた黒いパンプスと彼女の足の大きさを交互に見比べた。見たところ、その靴のサイズは24、5センチほどだった。女性にしては比較的大きい。が、その靴の中に彼女の足が綺麗に収まるとも到底思えなかった。そこで彼はふと、パンプスを履く彼女の足の甲が異様なまでに盛り上がっていたことを思い出した。
「新しい靴買いなよ」と秀雄は言った。
冴は恥ずかしそうにはにかみ、小さく肯いた。「ただ、サイズの合う靴がなかなか見つからないんですよね」
「メンズもののスニーカーでも履くといい」
「それはそれで足幅が合わなかったりするんです。男と女では根本的に身体のつくりが違うので、一見、同じサイズが表記されていてもそれは必ずしも同じではない。表面的に同じように見えるだけで、実態はまるで違うものって割とこの世に溢れてます」と彼女は言った。それからひとつ間を置いて続けた。「選挙でさえ、一票の格差が問題視されているこんな時代です。世界は平等なように見えて平等ではないし、公正であることを願っている割には一向に公正な世界を目指す気配がない。国内の政治でさえ長年ひとつの政党に支配されているし、事実、私たちのような存在はいたるところに
「難しい話だ。それは今に始まったことではないし、おれたち民衆がどんなに喚き散らしても今更それが変わるとも思えない」、秀雄はそう言って席へ戻った。メニュー表を手に取り、それをテーブルの上に広げる。「さっきの店員にしたって、ついこのあいだまではこちら側の人間だった」
なるほど。だから最初の店員に比べて愛想がよかったんですね、と納得した様子を見せた冴は、ようやく小上がりをあがって秀雄の正面に移動した。それから羽織っていた茶色のトレンチコートと黒いジャケットを脱ぎ、それを後ろのウォールハンガーに引っ掛けた。「よっこいしょ」とおばさんくさい声を漏らしながら彼女は腰を下ろす。向かいで広げられたメニュー表を覗こうと、その身体がわずかに前のめりになった。その際、綺麗な形に膨らんでいた胸が音を立てずにテーブルの上に載った。秀雄はそれをできるだけ注視しないように心がけた。
「カルビが美味しいんでしたっけ?」と彼女は言って、メニュー表にでかでかと載っていた『特上カルビ』を見つけ、指を差した。それは一皿で四〇〇〇円もする高級品だった。「せっかくですからこれにしましょうよ」
その見た目の幼さと羽振りの良さがあまりにも釣り合わず、秀雄はつい困惑してしまう。「きみがいいのなら、おれは何だって構わない」と遠慮がちに肯き、その後も楽しそうにメニュー表を覗いていた冴の顔から目が離せなかった。
山の天気のようにコロコロと変わるその表情は、いくら見ていても飽きなかった。従者であるという前提さえ忘れてしまえば、目の前に座っている彼女はどこにでもいそうな、ただの愛らしい女の子だった。いかにも建設会社で事務作業を任されていそうで、週末は華金だからと街の呑み屋へ繰り出していそうだった。合コンの自己紹介で普段はOLをしていると口にしても、誰かにも疑われることはないだろう。しかしその実態は、世間の枠からはみ出した
二人はある程度注文が決まると呼び出しベルを押した。それから十秒も経たないうちに部屋を仕切る薄い襖が軽くノックされ、冴は後ろに手を伸ばして襖を開けた。目の前で中腰になって待っていたのは、研修中の札をつけた派手目な若い女性店員だった。彼女は相変わらず秀雄に怪訝そうな目を向けていた。彼はそれに気付いていないフリをしながら注文を伝える。彼女はその短時間のあいだにも何度か聞き間違いをしながら、おぼつかない手つきでハンディーに注文を入力していた。
「お飲み物はいかがしましょう」と店員は最後に尋ねる。
「ビールとレモンサワーで」と秀雄が注文すると、店員は僅かに眉間にしわを寄せ、冴の顔に目をやった。嘘をつくな、とでも言いたかったのだろう。店員はおもむろに彼女へ年齢確認をおこなった。
「すみませんが、規則ですので」と彼女は言って、冴にだけ身分証明書の提示を求めた。それは何かの正義感からくるものなのか、あるいは過去に自身が歳上の男性から不貞を働かされた苦い経験があるのか、その詳細については明らかでないにしろ、彼女は秀雄の顔を睨みつけるような勢いで一瞥した。
秀雄にはそれが単なるこじつけとしか思えなかったが、冴は面倒臭がることなくその指示に従った。彼女にとっては普段からよくあることなのかもしれない。表情をひとつも変えることなく当たり前のように立ち上がり、トレンチコートのポケットから財布を取り出した。その淡い紫色をした折財布は容量過多になっていたのか、ソフトボールのような丸い球にも見えた。彼女はそこから免許証を抜き、店員に手渡した。免許証を抜いた拍子に、同じポケットに差し込まれていた何枚かのカードが財布からこぼれ、そのうち一枚がテーブルの上に落ちた。すかさず秀雄は手を伸ばしてそれを拾う。国民保険証だった。
「……確認しました。ありがとうございます」
店員の控えめな声が聞こえて秀雄は保険証から顔を上げた。生年月日を確認し終えた彼女は目を剥いていた。そしてその顔に何か特別な仕掛けでも施されているのではないかと疑うように、しばらく冴の顔を見つめていた。信じられない、と店員の顔は言っているようだった。それからばつが悪そうな目を秀雄に向ける。しかし、先ほどはすみませんでした、と不用意に疑ったことを反省しているようには到底見えなかった。私は間違ってなんかいない。あんたは絶対に不貞を働くに決まってる。顔にはそう書いてあった。
秀雄は何も言わず、そそくさと持ち場へ帰っていこうとするその小さな背中を見送った。音を立てずに襖が閉まり、彼はふと思い出したように手の中に持っていた保険証を裏返して冴に返した。それを受け取る彼女の表情を注意深く見ていたが、とくに変化は見られなかった。
「お肉、楽しみですね」と冴は声を弾ませ、テーブルの下に足をいれた。
「ところであんた、たばこは吸ってないのかい?」と秀雄は尋ねた。
彼女は小さく首を振った。「割に吸うんです」、そう言って彼女は壁に掛かった黒いジャケットの内ポケットから、白と水色のキャラメル箱とスパイダーマンが刻印された銀色のジッポーを取り出した。それをテーブルの上に滑らせる。「ハイライトならありますけど」
「こんな時になんだが、一本吸ってきてもいいかな?」
「構いませんよ」と冴は肯いた。「お肉が届いたら呼んだほうがいいですか?」
秀雄は首を振る。「先に食べててくれ。そこまで時間はかからない」
「わかりました」
秀雄は差し出された箱の中からたばこを一本だけ手に取り、それを人差し指と中指の間に挟み、残った他の三本指でジッポーを掴んだ。「いいセンスしてるんだな」と彼は微笑み、それから席を立った。彼女も同じように笑みを浮かべ、「いってらっしゃい」とこちらに手を振った。
靴を履いて店を出ると、さっそく冷たい風が顔にぶつかった。自動販売機に照らされたステンレスの円柱の隣には誰もいなかった。真ん中に拳ほどの穴が開いた蓋の上には、つい先ほどまでここで煙をふかしていたサラリーマンの亡骸でも残すかのように、燃え尽きてしまった灰がうっすらとかかっていた。
秀雄はジッポーでたばこの先端に火を灯し、ゆっくりと時間をかけながら肺の中を麻痺させた。そのうち軽く手が震えだし、それに伴って吐く息も小刻みに揺れる。遠くの空を眺め、ひとしきりそれについて考えてみたが、複雑に絡まってしまったケーブルのように、簡単に
彼は目を細め、空に浮かぶ上弦の月に煙を吹きかける。自分がやけに疑い深い性格をしていることは、ずいぶんと昔からわかりきっていたことだが、それが今になってたまに煩わしく思うときがある。考える必要もないことに頭を使い、些細な違和感にも過度に反応し、余計な心配をしてしまう。それは大抵の場合で予想を外し、ただ神経と時間をすり減らすだけすり減らして、じきに消えてなくなってしまう。何事もなかったかのように、その存在自体が幻想であったかのように。
灰色の煙は誰にも届くことなく宙に溶けてしまった。その一連の様子を月は嘲笑うかのように、遠くからじっとこちらを見下ろしていた。それがなんだか手のひらで転がされているような気配も孕んでいる気がして、癪に触った。かといって、こちら側からさらに攻勢に出るわけでもない。
いずれにせよ、得体の知れないものをたった一人で対処できるほど秀雄は力をもっていなかった。月がふっと笑い声を漏らす。使い慣れた拳銃を携帯していなかったことを、彼は今更になって少しだけ後悔していた。
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