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 私生活にかんして、千春は一般的かあるいはそれ以上の生活を送っているのだと自覚している。誰かと一緒に住んだことがあるわけでもないため、そのという感覚が、もしかすると世間一般とはすでにズレている可能性だってある。仮にそうであれ、という可能性について考えてしまうのは、常日頃から自宅の部屋を持て余していたからだ。一人暮らしで3LDKはあまりに贅沢すぎる。家賃は月々、七桁をゆうに超えていた。車は所持していないが、買おうと思えばテスラもポルシェもワーゲンも一括で支払える。そうしないのは、普通車免許を取得するのために自動車学校へ通うことが面倒だったからだ。

 普段は寝室とリビングしか使っていない。部屋のひとつは念のため来客用にダブルサイズのベッドとワークデスクを用意しているが、もうひとつの空き部屋は完全に物置と化していた。そもそも、彼女の家には誰も寄ってこない。家族、友人、恋人……。考えてみても頭に浮かぶのは、ヨークシャテリアのよーちゃんだけ。しかし彼女は昨年の五月に死んでしまった。

 桜の散る季節に命を落としたことについてはちょっとだけ羨ましい。そう言えばきっと、不謹慎極まりないと誰かしらに叩かれるかもしれない。しかし、私も死ぬなら桜と共に散っていきたい。そんな風に思っていた。理由を訊かれてしまえば、誰もが納得するような答えは用意できない。とはいえ、仮に自分が孤独死に至るとして、夏はすぐに遺体が腐って虫が寄ってきそうだし、反対に冬の寒い季節は単純に好きじゃなかった。つい人肌の温もりを欲してしまう時点で、他の季節よりも常にどこかで損をしているような気がしてしまうからだ。あと残るは秋だが、春と比較したときに秋の方が台風の頻度が高いこともあり、できれば穏やかに死にたいという理由で、見事、春が堂々の一位に選ばれる。加えて桜を最期まで満喫したいというのであれば、必然的に理想はゴールデンウィーク直前くらいに絞られた。帰省ラッシュの人混みに揉まれて窒息死するくらいなら、潔くここのベランダから飛び降りた方が幾分かマシかもしれない。この部屋は地上から数えて三十も階層を積み上げた場所にある。死ぬのは一瞬に違いない。

 だが、彼女には毛頭その勇気もなければ、死ぬことが怖いとさえ思っている。だからこそ、こうして今もなお、その瞬間が近くに訪れないように必死に抗おうとしているのだろう。ここ最近はとくに落ち着かない。得体の知れない鋭利な刃のような何かが、すぐ喉元まで迫ってきているような恐怖に囚われる。生きる理由はそれほど思いつかないくせに、死にたくない理由は山ほど浮かんでくる。痛そうだから、辛そうだから、苦しそうだから──。ほんとに馬鹿らしい。

 毎日の食事については、基本的には外食もしくはデリバリーで済ませていた。単に料理することが面倒ということではなく、手元に残っていても誰の役にも立たない有り余った財産を──少しでも経済により良い循環をもたらすために──世間にばら撒いている、ということにしている。実際のところは本人にすらわからない(正確にはそれが真実かどうかはいまや有耶無耶になってしまったというのが正しい)。

 物事の裏に潜んでいる思惑や陰謀といった類のものは、非常に厄介で扱いにくい。泥団子を作るみたいに、それを砂の上で転がしているうちに余計なものが勝手に後からひっついてくる。正当性に該当する都合のいい理由や、あるいは偶然辻褄の合ってしまう目的によっていつの間にかそれは形に変えられてしまい、気付いた時にはその核となるものを見失っている。それがいくら真っ当で立派な形をしていようとも、それはあくまで誰かの手によって見栄えがいいように脚色されたものであり、内側に潜む真実はもっと醜くて杜撰だったりもする。聖職者や教師に性犯罪が多いように、政治家の汚職がなくならないように、人は何を動機に生きていても結局はそれが浮き彫りにならなければ誰にも問題視されることはない。

 とはいえ、だからといって地面の下に隠されているものをわざわざ掘り起こすことほど、人生において無駄なことはないとも思っている。背景に目をやったところで、目の前の景色が何か変わるわけでもない。それでも見え方が変わったと言い張る人は、ただ一時的に変わった気がするだけだ。あるいは、その景色を自分の都合のいいように捉えているだけだ。たとえそこに大量のゴミが捨てられていようとも、富士山の見える高層マンションを人はお気に入りだと言うし、ゴッホがどういう思いでひまわりを描いたのかなんてほとんどの人が知らない。

 幸い、この世の中には円谷プロダクションが創り出した大怪獣は何処にも存在していないし、この国に限れば非核三原則を宣言している。つまりこの世界はある一部を見れば平和に映るし、かといって他の国を見渡してみれば、核や銃を使っていまだに陣取り合戦を繰り広げている。ある一部を見れば悲惨な世界とも言えよう。

 物事の捉え方は個人の裁量に委ねられてしまうものであり、正義や悪なんていう抽象的な概念は、いくら慎重に審判を下したとしてもそれが正確であるかなんて誰にもわからない。そんな男心と秋の空のように、立場や時間とともに不規則に変わってしまう可能性を孕んでいるものを、ハナから決めつけておく必要はない。

 だからこそ、千春は地面の下に埋まっているものに興味を示さない。動機や背景がどうであれ、ひとまずは迷うことなく生きやすい方を選択し、都合のいい方に躊躇なく手を伸ばした。凝り固まった道徳や倫理観に縛られることなく、自由に生きていくためにはそれが必要だった。正しくは、彼女が生きているこの時代(世界)はそれができた。

 朝起きてテレビを点けると、そこには今日も相変わらず世間が映し出されていた。SNSを中心に若者の支持を集めている女性タレントが巷で流行っているというスイーツを紹介し、万人受けする俳優や女優陣が面白みもないコメントで新CM発表会の取材を乗り切っていく様子が放送される。邦楽ヒットチャートにランクインした某人気アイドルグループの新曲を惜しみなく宣伝している。この中に千春の好きな俳優や歌手は一人もいなかった。どうやら私は世間とは遠く離れた場所に住んでいるようだ、と今日も自覚する。いつになったら彼らは私が住んでいる場所のニュースを流してくれるのだろう。芸能人の不倫を叩くコメンテーターは、ここぞとばかりに前に出る。議会で居眠りをした政治家に街ゆく人たちはみな不快感を露わにする。そして今度はスタジオの女性アナウンサーが神妙な表情を浮かべながら、先週末に起こった死体遺棄事件についての続報を紹介し始めた。どうやら、凄惨に顔を潰されて死んでいた被害者の身元が無事に判明したようだ。その名前を足利義仁よしひとというらしい。室町時代の将軍にいそうな名前だと思った。とはいえ、今更そんな情報を知ったところで千春には何の役にも立たなかった。知りたいのはそんなことじゃない。

 その後になってようやく千春にも役に立つ天気予報が流れ始めた。今夜は綺麗な満月が見えることでしょう、といかにも善人の顔をした男性の天気予報士が言った。

 千春は洗面所で顔を洗ってトイレで用を足し、リビングに戻って冷蔵庫に残っていた濃縮還元果汁100パーセントのオレンジジュース(これも実はストレートと濃縮還元とではまったく意味合いが異なる)をコップ一杯分飲んだ。それからお気に入りの革張りのソファーの中に腰を埋め、昨夜から動画配信サービスで一気見しはじめた韓国ドラマの続きをテレビに映した。今日は平日だが、彼女には今話題の恋愛コメディを呑気に眺めているくらいの時間の余裕があった。午後からは人と会う約束をしている。

 二話分ドラマを見たあたりで腹が空き、デリバリーで『特選オーガニックおもてなし弁当』を頼んだ。ひとつで三五〇〇円もした。使われている食材はすべて国産のようで、栄養バランスも十分に摂れそうなもの選んだ。常々、健康でありたいとは思っているのだが、この生活が健康的だとは決して思えなかった。

 配達員は二十分ほどでマンションの前に到着した。千春はエントランスの入口を解錠し、玄関ドアの前に荷物を置いてもらった。配達完了の通知がスマホに届き、三分ほど経ってからようやく扉を開けて荷物を回収する。誰とも鉢合わせしたくはなかった。

 彼女はリビングで相変わらず韓国ドラマを見ながら朝食兼昼食を摂り、その回の放送が終わったところでテレビの前から離れ、寝室のクローゼットで身支度を始めた。

 グリーンのニットに白デニムを合わせ、上着はベージュのチェスターコートを羽織る。デニムは太めのストレートを選び、裾はあえて大きく折り返した。手首にはゴールドの細い腕時計を巻き、足元はセピア色のパンプスを履くことに決めた。

 これからデートに出かけるわけでもないのだが、身なりにはそれなりに気を使わなければならない。設定は上品な貴婦人で、子供の習いごとや主人の愚痴、それから最近買ったばかりの高価なバーキンの自慢話でよく盛り上がる。そんな至るところで見かける女性を頭の中で作り上げていた。とはいえ、千春がこれからその役を演じようとしているわけではない。外部の目に映る自分の姿が、この世界にうまく溶け込んでいてくれればそれでよかった。


 約束していた表参道のカフェに千春が到着する頃には、すでに壁際の席には見慣れた老夫が座って待っていた。彼は窓の外を行き交う街の若者たちをじっと眺め、何かしら思いを馳せるように、手元にあるグラスの中でストローをかき混ぜていた。

 彼は店内でもグレーのハンチングを被ったままで、それと色を合わせた無地のニットをチェック柄の襟シャツの上から重ねていた。ブルージーンズがよく似合い、足元のニューバランスの996については以前会った時にも履いていたが、それはいささか彼の年齢にはそぐわない気もした。やはりこの日も正装ではない。

「お待たせしました」、千春が男の正面に回り込んで腰をおろすと、彼はようやくこちらの存在に気付いたように目を丸めた。その顎には少しだけ髭を残し、肌は干からびた地面のように水気がない。千春は彼の手元に置くグラスに目をやった。その側面には大量の汗をかいている。「何を飲んでるんですか?」

「アイスコーヒーだが」

「こんな寒い時期に?」

 男は肯いた。「冬にだってアイスは食べるだろう?」

「それは家が暖かいからで……ってまあ、そんな話はどうでもいいんです」、千春は短く息を吐いて近くの店員を呼んだ。そしてホットコーヒーとレアチーズケーキを頼んだ。

 店員は注文を聞き終えると席を離れ、しばしの沈黙が流れる。そのあいだに老夫はアイスコーヒーで喉を潤し、それからその沈黙を引き取るように口を開いた。

「ひとまずは手短に終えよう。きみに依頼されていた件についてだ」

「あ、じゃあその前に一つだけ」と千春は言って彼の話を遮った。それから意味ありげに数秒の間を置いて続ける。伏せ目がちに、そして上目遣いに彼の顔をチラチラと見る。「サシィ、ジョ、イムシンヘッソヨ」

 老夫は眉間にしわを寄せた。「なんだ、それは一体どういう意味だ」

「実は私、妊娠したんです」

 老夫はさらに顔をしかめた。そしてそれが冗談だとすぐに気付いたのか、片方の眉を吊り上げ、小首を傾げ、千春の目の前で遠慮なく深いため息をついた。「私はきみとふざけ合うためにここへ訪れたわけじゃないんだ」

「韓国ドラマはお嫌い?」

「嫌いではないが、あいにく私にはあんなに長々と続くドラマを観ている時間もない。きみと違って忙しいからね」

「あなたは私と違ってちゃんと働いているものね」と千春は言った。若干の皮肉を込めたつもりだが、そんなもの彼にとっては痛くも痒くもないのだろう。

「ああ、そうだ」と老夫は肯いた。

 そのやりとりがあまりに面白くなくて、千春はふんっと鼻を鳴らした。テーブルに肘をつき、手の甲に顎を載せて窓の外を見る。

 通りを歩いているサラリーマンたちはこちらの存在に気付いていない様子で、そそくさと急いだ様子で店の前を歩き去っていた。彼らにはそれぞれ責任と権利が与えられ、それを決して手放すまいとブリーフケースの持ち手を力強く握りしめている。なんとも従順な生き物だ。彼女はその光景をしばらく見つめながら、「おーい」と何の気なしに小声で彼らに呼びかけてみるが、当然立ち止まってくれる人は一人もいなかった。定職に就いていない私のことなんて眼中になかったのか、あるいは気付いていたものの変な人に絡まれたと察して無視を敢行したのか。ともかく、彼女は無意味な疎外感を勝手に感じ、少しだけ傷ついた。

 老夫は何も言わず、感情が読めない瞳で外を向く千春のことをただじっと見つめていた。

 やがて店員がホットコーヒーとレアチーズケーキをテーブルに運んだ。そのあとで店員は少しのあいだ、テーブルを挟んで見合わせる二人の顔を交互に見定めていた。その組み合わせに納得がいっていないのか、あるいは違和感を覚えたのか。恋人にしては年が離れすぎているし、親子だとしても若干腑に落ちない雰囲気がそこには漂っている。当然のことだが、顔のつくりも似ていない。店員は困惑の表情を浮かべたまま席を離れた。

「どうしますか、あの子。念のために彼らに頼んでおきましょうか」、千春が老夫にそう尋ねると、彼は首を振った。そして彼は店内を見回し、さっきの店員の背中を見つけるとその動向を少しのあいだ目で追っていた。

「そこまでする必要はないだろう」と彼は言って正面に顔を戻し、汗だくのグラスに手を伸ばした。「とにかく今は依頼の件だ。それ以外の話をしている時間はない」、反対の手に紙ナプキンを一枚取り、濡れた側面を丁寧に拭き上げる。

「何かわかったんですか?」と彼女は尋ねた。暖かいコーヒーを啜り、口紅のついたカップの縁を指で拭う。レアチーズケーキを一口食べた。

 それからしばらくは返答が返ってこなかった。老夫は自分の順番が回ってきていることに気付いていないのか、ストローを咥え、残っていたアイスコーヒーをゆっくりとくまなく吸い上げていた。やがてそれが終わるとグラスを静かにテーブルに戻した。不意に遠くを見るように目を細め、その視線を千春の顔に当てた。やがて興味がなくなったのか、彼はまた目を逸らし、窓の外を眺めながら潤いのない頬を人差し指でぽりぽりと掻いた。

「あれはおそらくはマカロフのコピー品だろう」と老夫は言った。「性能が良い割に安価で輸入しやすい。ヤクザや暴力団に好まれている」

 千春は何も言わずに続きを待った。

「結論から言うと、あの場に残されていたものはきみの探し求めていたものではなかった」、そして老夫は繰り返し復唱するように続けた。「きみの探し求めていたものではなかったが、あれはかつて私のもとで働いていたものだった」

「どういうことかしら?」

 老夫は小さく首を振った。「私にも詳しいことはよくわからない。ただ一つわかることは、いまだに私たちを取り巻くこの状況は何も変わっていないということだ」

 彼女はコーヒーカップを手に取り、それをしばらく顔の前でとどめた。かすかな鼻息で白い湯気が宙に揺らぎ、水面が小さく波打った。そこに映し出される自分の顔がどこか怯えているようにも見えて、彼女はさっさと熱々のコーヒーを一気に飲み干した。当然、軽く火傷した。それからカップをソーサーの上に置き、麻痺した口内を労うようにチーズケーキを食べた。あまり味がしなかった。

「気をつけた方がいい。いくら注意してもしすぎることはないからね」と老夫は言う。

 千春は何から目を逸らした方がいいのかもよくわからないまま、自然と老夫の視線を辿るように窓の外を向いていた。その先に見覚えのある顔を見つけて思わず声が漏れる。老夫は不審がるようにこちらを見た。

 視線の先にいた女性は行き交うサラリーマンの荒波にまんまと溺れ、助けを呼んでいるかのようにこちらに手を振っていた。千春は安全なところからそちらに向かって手を振り返す。

「知り合いかい?」と老夫が尋ねた。

 千春は彼の方を振り向き、小さく首を振った。「知り合いというか、一度だけ会話したことがあるっていうだけだけど」

「きみが私以外の誰かと仲良くするなんて珍しいじゃないか」と老夫は言った。その口元には皮肉めいた笑みが浮かんでいる。

「あなたと仲良くなったつもりはこれっぽっちもないんだけれど」

 窓の外にいたその女性は急流に流されないように力強く足を前に踏み出し、少しずつこちらに近づいた。窓の目の前で立ち止まり、千春の正面に座っていた老夫を一瞥する。軽く頭を下げると、彼はそれを無視するようにハンチングを深く被って顔を隠した。

 女性は人差し指で外から窓を軽く叩くように店内を指差し、そっちに行ってもいいですか、というサインを送った。千春はそのメッセージを受け取り、とくにそれを断る理由も見つからず、首を縦に振っていた。すると女性の顔は日が差したようにパァっと明るくなり、足早に入口の方へと回り込んだ。

「じゃあ、私はこれにて失礼するよ」と老夫は言って席を立った。

「あと一杯くらい付き合ってくれてもバチは当たらないと思うんだけれど」と千春が説得を試みるも、彼がそれを聞き入れるつもりはないようだった。「あなたの仕事はそんなに重要かしら?」

「当たり前だ」と彼は言った。「私には御国の安全を守る義務がある」

「あなたには御国の安全を守る義務がある」、千春は繰り返すように言った。

「ああ、そうだ」と老夫は肯き、財布から五千円札を抜いてテーブルに置いた。それから彼はもう一度ハンチングを深く被りなおし、出口へ向かった。

 その途中で女性と鉢合わせになり、彼女は何か声をかけようとしていたようだが、老夫はまたしてもそれを無視するように颯爽とその場を通り過ぎて行ってしまった。

 千春は遠ざかっていくその背中に目を向けながら、しばらく考えごとをしていた。何を以ってこの国の安全が守られていると言えるのか、そしてそれは一体、誰にとっての安全を指し示していたか──結局のところ、そんな複雑で難しいことはいくら考えても彼女の理解には及ばなかった。

「まさかこんなところでまたお会いできるとは思っていませんでした」

 その声に引き寄せられるように千春は女性の顔を見上げた。以前会ったときは暗くてよくわからなかったが、首元には爪で引っ掻かれたような痕が残っていた。それからふとテーブルに残されていた五千円札に視線が向く。老父が置いていったものだった。

「会えて嬉しいです」、どこか遠慮がちな声でそう言った一葉かずはは、妙にまっすぐな目で千春の顔を見下ろしていた。

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