(3)

 依頼はいつも突然送られてくる。主な伝達方法は使い捨てメールで、毎回それを送るために、わざわざ海外のサーバーをいくつも経由しているらしい。発信元を特定されないためだ。うちの主人──つまりDは、極端に用心深いと業界内でも有名だった。

 そこには件名や挨拶文など余計なものは一切記されておらず、数字の羅列だけが記されていた。その数字は都内にあるどこかの駅の座標を示しており、我々従者はただちに指定された駅へと向かい、そこに記された下三桁の数字から、構内にあるロッカー番号を特定しなければならなかった。ロッカーの中には正式な依頼書が残されている。そこには依頼内容や報酬額の他に、依頼完了時の報告手段等も記されていた。報酬については後日、主人が依頼の成功を確認したのちに現金で支払われた。その方法についてもまた、同様に使い捨てメールで知らされる。ある時はひと気のない深夜の公園に呼び出され、ベンチの下に残されていたボストンバッグを持って帰るよう指示された。またある時は、現金がパンパンに詰められた茶封筒がいつの間にか玄関のポスト受けに投函されていたこともあった。

 その金額には目を見張るものがあり、一般的なサラリーマンが真面目に働いて稼げる額をはるかに超えていた。依頼によっては、以前まで警察官として働いていた秀雄の年収を、たった一回の報酬で上回ることもあった。しかしその代わり、依頼については例外なく命の危険が伴うものであり、漏れなく法律から逸脱したものだった。人を殺したことだってある。それも一度や二度じゃない。

 秀雄は警察官時代に構築していた特定の密輸ルートから、拳銃をいくつか調達していた。ただし、それを他の誰かに売りさばくようなことはしなかった。あくまでも護身用であり、依頼を潤滑に遂行するための脅迫材料として活用していた。やむを得ない場合のみ、それを相手の脳幹めがけて射出した。一度たりとも的を外したことはない。拳銃の扱いには慣れていた。

 それらの行為がこれまで罪に問われたことは一度もない。それは従者や主人の存在が、長年この国の政権第一党の座を守り続けている国民自由党(民自党)──とくにその中でもある一定のラインを超えた偉い人たち──の間で容認されていたからに他ならない。数多くの保守派で構成されていた彼らは、何か自分たちに不都合なことが起こると、主人にその後始末を頼んだ。

 若くて勢いのある革新的な政党が世間の支持を集め、頭角を現し始めた際には、彼らの不正を捏造するように主人へ依頼し、その依頼を我々従者が請け負った。そして標的となった政党は見事に術中にハマり、彼らの信用は瞬く間に失墜した。民自党の偉い人たちは、自分たちの権威を守るためなら手段を選ばなかった。仮にもこんな殺人鬼が野放しにされていることを世間が知れば、裁判所へ駆け込んで問答無用に死刑を要求するだろう。あるいは大規模なデモが各地で起こるかもしれない。しかし彼らは、そんな殺人鬼が政府によって守られていることにすら気付いていない。

 仮に政治家たちを顧客とするならば、主人はいわば大手派遣会社のようなもので、従者はその派遣会社に登録している派遣スタッフに該当した。法の番人であるはずの警察や検察ですら、その存在をみすみす見逃した。あるいは、見て見ぬ振りをしていた。なにしろ、実質的な警察のトップである警察庁長官にいたっては、主人の中でも最も権威のあるAの名を旭日章の裏に隠し持っていたのだから。司法が正常に機能するはずがなかった。

 秀雄が警察官を辞めたのは、そんな衝撃的な事実を偶然知ったことがきっかけだった。同期の中で最も早く出世した彼は、見たくなかった現実を誰よりも早く目撃してしまった。それはこの世の中が公正にできていないことを教えてくれた。彼は築きあげてきたキャリアを守るためならば、犯罪を取り締まることを生業にしていながらもある特定の不正は見過ごし、世間の見えないところで犯罪に加担していた。長官はそれを「御国のため」だと言った。当時は警察官として比較的真面目に働いていた彼にとって、それは耐えがたい苦悶の毎日だったが、水風呂に浸かるようにその感覚はみるみるうちに麻痺していき、やがてそれは日常に組み込まれていった。徐々に物事の善悪が見分けられなくなっていき、何が正義で、何が間違っているのか、そして自分は誰のために働き、誰の日常を守っているのかすらわからなくなってしまった。

 御国のため。そんな大義名分は、ある種、従者として依頼を遂行する秀雄のことをどこかで肯定し続けていた。彼は間もなく警察官を辞め、のちにDが統括している現在の管轄に従者として配属された。

 主人は一人ひとりにアルファベットが割り当てられ、Aに近づくにつれて重要な管轄を任されていた。また、その手は全国各地にまで広げられ、地方ごとにおよそ二、三人の主人が配置されていた。なかでもAからFについては通称「トップシックス」と呼ばれ、東京都内を中心に活動し、政界に直接的な影響を及ぼしうるような重要案件ばかりを取り扱っていた。彼らは人によって在り方が異なり、主人であることを微塵も隠そうとしない者もいれば、Dのように極端に人の目を嫌って素性を隠そうとする者もいた。だが、彼らはいずれも顧客のために尽力し、与党が与党であるために手伝った。六月下旬には衆議院議員総選挙が控えている。すでに水面下では、次の激しい覇権争いが始まっていた。

 例年通りであれば、今回も民自党が最も多くの議席数を獲得し、与党として今後もこの国を表と裏の両面から動かしていくことが予想された。

 しかしながら、ここにきてとある問題が発生していた。もちろんそのほとんどは表沙汰になっていない。ただ、もともと世間から顔が知れ渡っていた大物歌舞伎役者のE、それから大手飲料メーカーの社長に就任していたFの急逝については、大きなトピックとして各メディアに取り上げられた。

 報道によると、彼らは渋谷区の大規模なビル火災に巻き込まれたらしい。速やかに消防による救助活動が行われるも、発見されたときにはすでに息を引き取っていたという。各局メディアはそれを不運な事故として処理しようとしていたが、こちら側の業界ではそうもいかなかった。その前の月には横浜市内でGが、二ヶ月前には千葉でHが、三ヶ月前には群馬でIが、それぞれ何者かの手によって立て続けに殺害されていたからだ。偶然にしてはあまりに出来過ぎている。

 誰の差し金なのかについては、すでにおおよその特定ができていた。民自党の対抗馬といえば、いまやこの国にひとつしか存在していなかったからだ。大和革新やまとかくしん党はここ十年ほどで急激に力をつけてきた新興勢力で、その組織の内情についてはいまだ謎が多く、西日本最大級の暴力団組織である天神会が裏で糸を引いているのではないかと囁かれていた。というのも、党首を務めていた樋口隆夫は、過去に天神会で幹部を務めていた経験があるという黒い噂が業界人の間では流布されていたからだ。

 それが真実であるかどうかについては定かでないが、もはや、その真否についてはあまり重要ではなかった。ここ数ヶ月のあいだに起こった出来事を照らし合わせてみれば、深く考えずとも想像に容易かった。四ヶ月で五人もの主人が死んだのだ。しかも彼らは五人とも関東圏に配属された上位メンバーで、EとFにいたってはトップシックスのメンバーだった。明らかに、犯人はアルファベットを後ろから遡っていくように、順番に彼らのことを仕留めている。となれば次に順番が回ってくるのはDに違いない。

 死体となった彼らは、いずれも手の中に蜘蛛の死骸を握っていた。あるいは、犯人によって握らされていた。それは同一犯であることを示していたが、それ以上は有力な手がかりが見つけられていなかった。

 唯一わかっているのは、どこかの現場で発見された27センチ相当サイズ(秀雄とまったく同じ)の足跡がひとつだけ。その他にもいたるところを調べたようだが、どこもかしこも指紋は丁寧に拭き取られ、髪の毛は一本たりとも落ちていなかった。また、周辺の監視カメラや聞き込み調査を行ったものの、怪しい人物は誰ひとりとして出てこなかったらしい。のちに犯人は「蜘蛛」と名付けられた。

 蜘蛛はどこに潜んでいるのかわからない。主人や従者だってそうだ。立場は違えど、彼らは同様に水面下を好み、物陰の中でうごめき、秘密裏にことをなした。その事実を世間は知らない。一生知ることもないだろう。彼らは一見して区別がつくような存在ではなかった。むしろ、世間が作り出したある種の固定観念のようなものが、かえって彼らを煙に巻いているような雰囲気すらあった。国民の安全を守っている警察のトップの人間が、裏では従者に殺人を促していると誰が想像していただろうか。多数の人気ドラマで名バイプレイヤーとして活躍していた歌舞伎役者が、国内トップシェアを誇る飲料メーカーの社長が、裏で政治家と多額の金銭のやりとりをしていたことを誰が知っていただろうか。ときとして、スーツの似合わない童顔の彼女が従者であったように、いまにもパチンコと酒で身を滅ぼしてしまいそうな気配のある秀雄が実は優秀な従者であるように、人の本質とは見た目と到底かけ離れたところにあったりするものだ。得体の知れない存在が身近なところに潜んでいたとしても、それはなんら不自然なことではない。世間が作り出した不自然という固定観念は、そもそもが根本的に間違っていたりするものなのだから。


「お腹空きませんか?」と冴はふと思いついたような口調で尋ねた。彼女はブランコから降り、秀雄の顔を見下ろした。それから公園の時計台に目を向け、再び視線を戻す。「せっかくなんで奢りますよ」と彼女は言った。

「それならさっき紹介した焼肉店はどうだろう」、秀雄はポケットに手を入れ、一度は冴に拒否されたクーポン券をもう一度取り出してみせた。「ここの特上カルビが絶品なんだ。一度きみにも食べてもらいたい」

「いいですね」と彼女は言って肯いた。先ほどまではあれほど冷たい眼差しを向けていたのに、と秀雄は思った。

 秀雄はその反応を下から見上げる。視線はやはり無意識のうちに胸元を経由していた。その形と大きさは絶妙なバランスを保ち、白いシャツを程よく膨らませている。一度でいいからそれを触ってみたいとは思う。しかし、その欲望は一度抽斗の奥にしまった。願わずとも、その機会は自然と向こうからやってくる。

 彼は言った。「あらかじめ伝えておくが、おれはいま持ち合わせがない。つまり支払いは全部あんたに任せることになる。それでも構わないか?」

「ええ、構いません」と冴は返事をした。大抵の一般的な女性はこの辺りですでに険しい表情をみせるものだが、彼女は秀雄の提案をさほど気に留める様子なく、その後も会話を続けた。「ちなみに、その店に個室席はありますか?」

「それならたしか、掘りごたつの席がいくつかあったはずだよ」と秀雄はそう答え、それから重い腰を持ち上げてその場に立ち上がった。飲み干した紙パックの鬼ころしは小さく潰し、クーポン券と一緒にポケットの中へ収納し、公園の出口へ向かって歩き出した。その足取りは不思議と軽かった。他人の金で焼肉が食べられると確約されていたからかもしれない。後ろを冴がついてきた。

 店に着くまでのあいだ、二人はとくに会話を交わすことなく道のりを歩いた。ときおり吹く凍えるような北風が行く手を阻み、バレンタインに浮かれる街の僥倖が二人を道路の隅に追いやった。人々はこちらの存在になど全く気付いていない様子ですれ違い、たまに肩をぶつけては互いに目もくれることなく謝り合った。彼らは何も知らない。秀雄がこれから、ふた回りも年下の女性に焼肉を奢ってもらおうとしていることを。そして彼女もまだ何も知らない。秀雄がこれから企てていることも、これまで何人もの人間を淡々と殺めてきたということも。

 彼はふと道の途中で立ち止まり、空を見上げた。お役御免となった太陽はすでに舞台袖へと消え、上弦の月が遠くで出番を待ち構えていた。来週になれば綺麗な満月を見ることができるかもしれない。満月の夜はたいてい不吉なことばかりを連想させるが、一週間後にこの国が滅んでいるなんていう最悪な事態が起こるとは到底思えなかった。とりわけ、表向きの世界ではおそらく何も変わっていないだろう。いつも通りの平凡な日常が流れているに違いなかった。いずれにせよ、重要な出来事はいつだって世間の見えないところでしか起こらないのだ。

 後ろを振り返ると、冴は秀雄のずいぶんと後ろを歩いていた。その顔にはどことなく苦悶の表情が浮かんでいる様な気がした。どうしてなのかはわからない。声をかけようとすると、彼女はちょうど顔を上げて何事もなかったかのようにこちらに微笑みかけた。

 結局、秀雄は声をかけるに至らなかった。それから再び前を向き、歩みを進めた。その際、彼は少しだけ歩調を緩めた。

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