(2)

 連絡がきたのは日付を半歩ほど跨いだあとだった。自宅のベッドで横になっていた新山千春にいやまちはるはクローゼットからいつもの服を見繕い、それから知り合いの留守番電話にメッセージを一本残し、化粧もせずに家を出た。

 夜空には半月が浮かび、柔らかい光で地上を照らしていた。小さな収納ケースに大事にしまっていたプラスチックビーズを、誰かが床にぶちまけてしまったように散らばる星屑は、拾われることを諦め、寂しく泣いているようにも見えた。風が強く、肌寒い。冬が鳴りを潜めるのは、まだしばらく先のようだ。

 千春は大きい通りでタクシーを拾い、運転手には大雑把に行き先を伝えた。若い男性のドライバーだった。元力士だと打ち明けられても何ら驚く余地も残っていないほど彼はふくよかな体型をしており、両手に握るハンドルが小さなドーナツのようにも思えた。フロントミラー越しに目が合うと、彼はその小さな目を細め、わずかに口角を引き上げた。

 窓の外はいまだに賑わっていた。誰もが一日の終わりから目を背け、迫りくる明日の波を少しでも遠くへ押し返そうとしているみたいに、抗い、デモを起こしているようにも見えた。腰に手を回してホテルに消えていく男女二人組も然り、泥酔した千鳥足で通りを歩くサラリーマンも然り、肩を組み合いながら大声で歌を唄う大学生も然り、彼らはそれぞれその身を挺して自由を提唱し、出来合いの期待や希望に深く酔いしれていた。車はしばらくそんな彼らを横目に颯爽と街中をすり抜け、やがてその境界線に差し掛かった。

 大きな五差路の手前で一度だけ信号に捕まり、その後は車通りの少ない道のりを滞りなく走った。深夜帯の割高料金が記されたタクシーメーターは、意気揚々と膨れ上がっていく。

 目的地が近づいてくると、千春はその二百メートル手前で車を止めてもらい、キャッシュレス決済でその膨れ上がった料金を一括で支払った。運転手は窓の外をひとしきり見回したあと、それから不審がる表情を彼女に向けた。こんなところでなにするんですか。そんな風に責められているような気がした。

 あたりには飲み屋らしい店はなく、泊まれそうな宿もなかった。そこにあったのは、だだっ広いだけの道路と、配送用の段ボールをそのまま裏返して作ったような無機質で角ばった大きな建物だけだった。街から外れた廃れた工業地帯には人の気配がなかった。どうやらこの時間帯でも営業しているような景気のいい会社はどこにもないらしく、時代とともに必要とされなくなったブラウン管テレビのように、機能を失い、形だけを残しているようだった。すぐ近くには高速道路が整備されていたが、この時間帯の車通りはそれほど多くはないようで、川のせせらぎのような音が聞こえるだけだった。タクシーは暗闇の中で小刻みに震え、やがて千春を降ろすと一目散にその場から逃げるように立ち去ってしまった。

 帰りの手段はどうしようか──と、そんなことを考えているうちに、着信があった。調子はどうだ、と電話口で男が言った。千春はそれに「ぼちぼちです」と返し、そのあとはいくつか他愛もない話を披露した。彼女は通話を繋げたまま工業地帯の中をしばらく歩き回った。闇が深くなるにつれ、服装がやけに空気の中に溶け込んでいった。電話口に立っている(あるいは座っている)男性が、どれくらいこちらの話に耳を傾けていたかどうかは定かではなかったが、彼は適切なところへ適度な声量で相槌を打ち込んでいた。いずれにせよ、彼女が目的地にたどり着くまでは、この通話を繋いでおく必要性があった。

 やがて彼女が植え込みの近くで目的のものを発見すると、電話口の男性にそれを回収しておくように頼んだ。できれば日が昇る前がいい。いくらこの周辺一帯が廃れていたとはいえ、昼間に誰もこの場所を通らないとは言いきれなかった。

 それから彼女は通話を切り、スマホをポケットの中へ戻した。正直に言えば、それが本来求めていたものに該当しているのかについては、皆目見当もつかない。彼女は敏腕な鑑定士でもなければ、有能な監察医でもなかった。とはいえ、わからないながらも実物を確実に自らの目を通して確認する行為は、彼女にわずかな安心感をもたらした。

 生来、彼女は自分以外の誰かをきちんと信じたことがない。きちんと、という表現がどこまでを含んでいるのかもわかっていないまま、いずれにしても、この世の中に心から信じられるものなんて一つも存在していないことを彼女は理解し、受け入れていた。

 こういう時、彼女は決まって一時的な温もりを渇望した。その相手は誰でもよくて、年齢や性別は問わなかった。とはいえ、ある程度肉付きのいい若者の方が好ましい。過去には若者向けの出会い系サイトへ登録し、そこでちょうどいい人材を調達していた時期もあった。だが、そのプラットフォームに棲みついていたのは、時として自らを偽り、他人を欺き、自身の欲を満たそうとしているだけの傲慢な人間ばかりだった。それと比べると、時間内であればこちらの要望に誠意をもって応えてくれるセラピストの方がずいぶんとマシだった。

 千春は頭の中で過去に訪れたことのある風俗店(もしくは最近できたばかりで気になっていた風俗店)を幾つか見繕い、それをもってその場をあとにした。彼女は来た道を引き返すように、工業地帯を抜けて通りに出た。徒歩で街中へ繰り出すにはあと一時間ほどかかる。到着した頃にはおそらく歓楽街も寝静まっていることだろう。彼女は近くのタクシー会社を検索し、電話をかけた。そして、五百メートル先に見えたコンビニまで迎えに来てほしいと頼んだ。

 電話に出たのはおそらく初老を迎えた男性の運転手で、彼は「これから準備して向かいますので、十分ほどお待ちいただくことにならと思いますが」と丁寧な口調で断りを入れ、それから通話が切られた。

 彼女は結局、コンビニの前で十五分ほどタクシーの到着を待っていた。

 そのあいだに、千春はある一人の女性に声をかけられていた。その女性は千春に一人であるかどうかを確認し、もしよかったらこのあと一緒に飲みに行かないかと誘った。仕事帰りなのか就活帰りなのか、一目ではうまく判別がつかない。ともかく、女性は美味しいワインを提供してくれるバーをこの近くで知っていたらしい。それから女性は自然な流れで自身の名前を名乗った。五千円札に載っていそうな名前をしているなという感想がふと頭の中に浮かぶと、それを瞬時に見抜いたのか(あるいは同じような感想を抱かれることに慣れていただけなのか)、変な名前ですよね、と自嘲した風に笑みを浮かべていた。物腰が柔らかく、胸の形が綺麗な女性だった。

 しかし千春はその魅力的な誘いを丁重に断った。どうしてですかと寂しそうな顔をするその女性に、これから一人で行きつけの風俗店に向かおうとしていることは、恥ずかしくて口が裂けても言えなかった。「少しだけでもご一緒したかったです」とあからさまに残念がる彼女は、捨てられた子犬のような眼差しを千春に向けた。

 だが、こればかりは千春も譲れなかった。たしかにその女性の後ろをついていけば、美味しいワインに舌鼓を打ちながら、彼女と楽しい夜を二人で明かすことができたのかもしれない。しかしながら、千春が求めていたのはあくまで、名目上ではなく実質的な人肌の温もりを自身に与えてくれる誰かだったし、目の前の女性が最終的にそれを与えてくれるとは到底思えなかった。女性は程よい肉付きをしている若者だった。顔も整っていて、見るからにセックスにも慣れていそうだった。つまりはモテそうだということだ。貞操観念が緩いと言いたいわけじゃない。

 手放してしまうにはあまりにもったいない人材ではあったのだが、千春は最終的にその判断を余儀なくされた。ほどなくしてタクシーは到着し、彼女はその後部座席に一人で乗り込んだ。窓の外からこちらへ手を振る女性は、最後まで悲しそうな顔をしていた。タクシーが出発すると、千春は惜しいことをしたと深く後悔した。


 彼女は移動中に幾つかの女性用風俗店のホームページを見回り、そのうち好みの男性セラピストが出勤していた派遣型の性感マッサージ店に目星をつけた。彼女はさっそく、繁華街の中にある外観からすでに清潔感が滲み出ているビジネスホテルを一室予約し、それから店に電話をかけた。指名するには二千円の追加料金がかかったが、そのくらいの出費は厭わなかった。

 指定したホテルのドアを叩いたのは短髪の似合う三十代半ばの男性だった。千春は服を脱ぎ、バスローブを羽織ってベッドに座って待っていた。

 愛らしい笑みでトモヤスと名乗った彼は、おそらく店の中では最もふくよかな身体をしていた。とはいえ、一般的な三十代男性と比較すればきっと痩せているグループに分類されるに違いない。なにしろ、その店のホームページに掲載されていた男性はみな、定期的に彫刻刀で無駄な肉を削ぎ落としているのかと疑ってしまうほどに、腹部は当たり前のように六つに割れ、上腕二頭筋やふくらはぎからは太い血管が浮き出ていたからだ。そんなラインナップの中で唯一、トモヤスは腹筋が割れていなかった。実際に近くでその身体を見せてもらうと、薄らとへそに向かって縦のラインは入っていたものの、それは目を凝らさないと気付けないほど浅い溝だった。

 トモヤスは千春の隣に静かに座り、店のマニュアルに従ってまずはカウンセリングから始めた。そして適度なアイスブレイクを挟み、施術に移った。指圧マッサージとオイルマッサージで全身の筋肉を程よく弛緩させたのち、彼の肉厚の指はゆっくりと優しく性感帯の周りを刺激した。

 乳房のまわりを撫でるように触り、乳首の上で指を転がした。やがて陰唇にも手が伸び、思わず吐息が漏れてしまう。それを始まりの合図とするかのように、トモヤスは人差し指と中指を膣の中に挿入した。そしてその中で何かを探すようにじっくりと指を動かし、千春の反応を頼りに、ものの十数秒でそのスポットを見事に探し当てた。

 つい下半身に力が入り、自然と腰が浮く。膝を曲げ、彼のことを迎え入れるように股を開いた。それがしばらく続いたあと、千春はお金をちらつかせ、店には内緒で彼自慢の陰茎を挿入してもらった。それは丸太のように太く、焼き石のように熱く、鉄のように硬く滑らかで、鞭のようにしなやかだった。

 トモヤスはそのうち自らの職務を忘れてしまったかのように、とろけた虚ろな目を浮かべ、耳元で息を荒げ、それから激しく腰を振った。たまにその勢いが余って痛かったりもしたが、決して嫌な気はしなかった。それは終始、彼が独りよがりではなかったからなのかもしれない。彼はあくまでプロとして、随所に優しさと気遣いを散りばめ、千春を愉しませてくれた。

 千春は彼のほとばしる精液を腹の上で受け止め、終わりに溺れるほど深いキスをした。

 二人は狭い浴室でシャワーを浴び、そこでも一度だけことをなした。今度は彼の最期を口で受け止め、千春はそれを快く飲み込んだ。彼はまた終わりにきちんと深いキスをしてくれた。自分の精液を執拗に飲ませようとしてくるくせに、それを飲んだ途端にキスを避けようとする男がたまにいるが、千春は彼らのことをまともな人間だとは思っていなかった。たとえその男がいくら見た目が良くても、多くの友人に囲まれていても、会社で多大なる功績を残していても、日常的にボランティア活動を行っていたとしても、その些細な拒絶反応ひとつで彼らに対する印象は大きく変わった。そのたった一瞬には、彼らの根底に植え付けられている人間性が詰め込まれているような気がしてならなかった。

 二人はしばらくキスをしたあとでようやく互いの身体を入念に洗い流し、適度に互いの陰部を触り合った。先に浴室を出たトモヤスは服に着替え、ダブルベッドの上で胡座をかいてテレビを眺めていた。隣の部屋に気を遣って音は消音にしているらしく、その液晶画面に映るフライパンのテレビショッピングを、小さな歓声と拍手を交えながら観賞していた。子供みたいだ、と千春はその横顔を見て思った。

 彼はバスローブ姿で浴室から出てきた千春に気付くと、手招きをして自身の股の間に挟むように彼女を座らせた。そしてそのままドライヤーで髪の毛を乾かしてくれた。こうしていると恋人同士で小旅行にでも来ているのかと錯覚に陥ってしまうが、おそらく彼はこういうことを日常的に行っているのだろう。その手際の良さと自然な振る舞いは、普段からやり慣れていなければ説明がつかない。

 無音のテレビショッピングが終わり、やがて画面は早朝のニュース番組に切り替わった。時刻は五時十五分を示していた。閉め切ったカーテンの隙間からは、まだ外の明かりが部屋の中に漏れてきていない。一日の終わりとも始まりとも言えそうなこの時間帯に、いまだベッドの上で目を覚ましているのは、おそらく二人とは状況が似通ったような人たちばかりなのだろう。あるいは、これからことをなそうとしている者たちだ。

 千春はトモヤスに三時間分の規定料金を支払い、それとは別途に一万円札を三枚渡した。彼はその金額に驚き、最初は「そんなに多くはもらえない」と断っていたが、千春が何度も説得するうちに彼も渋々折れるかたちでそれに納得し、報酬を全額受け取った。

「あなたにはそれほどの価値があるのよ」と千春は彼に言った。嘘やお世辞ではなく、彼女はトモヤスによる一日の締めくくりに心の底から満足していた。「また機会があったら指名してもいいかしら?」

「もちろんだよ」と彼は言って肯いた。そして優しい手つきで、千春の身体を抱き寄せた。「俺の方こそ、千春ちゃんにはたくさん愉しませてもらったからね」

「ちなみになんだけど、年はおいくつ?」、千春は彼の腕の中で尋ねた。

「今年で三十六になる」

「それにしては随分と元気なムスコさんを携えているのね」

「千春ちゃんのおかげで普段よりも力がみなぎったみたいだ」

「あら、嬉しいことを言ってくれるのね」

 二人はそんな冗談を言い合いながら、しばらく甘ったるくて生温い時間の流れに酔いしれ、トモヤスの腕の中で軽いキスをした。

 彼は千春よりも先に部屋を出て行き、彼女はその背中を静かに見送った。それから彼女はベッドの上に少しだけ横になり、身体の疲労感に従うように目を瞑った。まぶたの裏に映るのはやはり先ほどの彼との濃密なセックスの映像で、それ以外のことはしばらく考えられなかった。

 彼女はトモヤスの頭のてっぺんからつま先までを、その細部にわたって頭の中で再構築した。決して太ってはいないが大して割れてもいない腹筋。血管の見える気配のない厚みのある腕。下を向くと首の中に顎が埋没する丸い顔。眉の上で切り揃えられた前髪。若干しゃがれている低い声。そのどれもが三十六歳の彼には相応しく見えた。とはいえ、おそらくは彼が四十歳だと言い張ればそう見えただろうし、反対に二十代後半だと言われても、それほど疑わなかったに違いない。現在の彼の見た目は振れ幅が大きく、年齢の境目が擦り切れるほどに曖昧だった。千春はなんとなく、自分の方が歳下だということは最後まで彼に言い出せなかった。

 時刻が六時半を回り、千春は帰り支度を済ませてホテルを出た。近くに見つけた二十四時間営業のカフェに立ち寄り、モーニングセットを頼んで空腹を満たした。食後のコーヒーを飲んでいる間、ガラス張りの壁に映る自分の姿があまりに不審者すぎてつい笑ってしまう。自身の手を汚してしまった人間はきっとこんな風に呑気にコーヒーも飲めないんだろうな、と出会ったこともない誰かを気の毒に思った。

 店を出る前に千春は着信に気付き、電話に出た。

 もしもし、と応えると男は電話口で少し黙り込み、来週の木曜日は空いているかと千春に尋ねた。ひとまず詳しことを調べ上げるためには、早くても三日ほど時間が必要なのだと彼は説明した。だが期待はできない。加えて、私用が立て込んでいるからさらにもう二日だけ会うまでに猶予が欲しい、と彼は続けた。千春はそれを了承し、「では、来週の木曜日に。いつもの場所で」と男は言って、向こうから電話を切った。

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