水面下戦争(No.16)

ユザ

(1)

 寒空の下で飲む生ぬるい酒は妙に身体に染み渡る。

 世間はバレンタインだなんだと期待と不安で渦巻き、でも結局はいつも通りの浮ついたような賑わいを見せ、街には世界中のチョコレートが所狭しと並び始めた。普段から流行りやTPO(時・場所・場面)など気に留めない三ツ谷秀雄みつやひでおは、パッケージの装飾の感じと自身の気分が合うものを手に取る癖があった。甘いものをツマミながら辛口の日本酒を飲むことが多く、この日も彼はこの公園に来る途中に立ち寄ったコンビニで、紙パックの鬼ころしと一つ三十円の黒と黄色のパッケージに包まれた小さなチョコレートを二つ買った。いつもなら三つ買うところを、二つにとどめたのは単純に財布の残金が足りなかったからだ。ショッピングモールで特売日に買った牛革の財布の中には、一円玉があと四枚しか残っていない。今朝はたしかに一万円札が十枚は入っていた。それを日が落ちる前にすべて溶かしてしまったのだから、今日はツイていない。こんな状況では、酔いたくても──なんちゃって。笑いにも到達していない短い息が漏れ、そのぶん足りなくなった活力を補充するかのようにストローを口にくわえた。

「いつもあんな風にパチンコ屋に入り浸ってるんですか」

 錆びついたブランコが揺れる音の隙間を縫うようにして、女は疑問符をつけない声で尋ねた。彼女は年甲斐もなく懸命にブランコをこいでいた。宙に持ち上げられた身体を少しでもその場にとどめておこうと、膝を曲げ、重心を後ろにかける。その後、身体が振り戻されるタイミングで曲げていた膝を伸ばした。みるみるうちにその乗り物は加速していき、地面すれすれを通って空に打ち上げられた。彼女の目の前には低い青空が広がっている。雲は薄く、太陽はいまにも住宅街にのみこまれてしまいそうだった。彼女はまた襟首を掴まれるように後ろへ引き戻される。錆びついた鎖は悲鳴をあげていた。

「いつもじゃない。たまに、だ」と秀雄は言った。それは見え透いた嘘だった。強がりと言ってもいいのかもしれない。負けた時ほどそれは顕著に姿を現す。意識する間もなく、彼はそれに自然と支配された。ストローから口を外し、半分ほど中身の残った紙パックを彼女に差し出す。「要るか?」

 前後に揺れる彼女は何も言わずに首を振った。要るわけがない。そんな風に彼女は顔をしかめているように見えた。幸い、はっきりとこの目にその表情を捉えることはできない。いずれにしろ彼女は全力でブランコをこいでいた。年甲斐もなく、懸命に。

 秀雄は遠くを眺めながら今日一日を振り返る。一時間ほど前までパチンコ店の前で憔悴しきっていた彼は、目の前を通りかかった女にいきなり声をかけられた。その彼女がいまや隣でブランコを必死にこいでいる。不思議な巡り合わせもあったものだ、と彼はふっと息を吐いた。

「お金、欲しくないですか?」、人探しに協力してくれるならそれなりのバイト代を払ってあげるつもりですよ、と一時間前の彼女は口にしていた。

 ぱっと見、彼女は地元の女子高校生だと思った。眉毛の位置でまっすぐに切り揃えられた前髪に、その下から覗く分厚い涙袋をぶら提げたつぶらな瞳、なだらかだが決して平べったくはない鼻梁。丸っこくて均一に膨れた頬の輪郭は横の髪で隠し、控えめに(でも確実に)主張してくるその小さめの口は、物言いたげな姿勢でこちらの様子を窺っているようだった。しかし彼女は地元の高校の制服ではなく、黒いリクルートスーツを身に纏い、その上から茶色のトレンチコートを羽織っていた。就活生かなにかだと予想したが、それにしては不自然な格好をしているなと秀雄は思った。彼女はバッグらしいバッグを持っていなかったし、スカートから伸びる細い脚には厚めの黒タイツを穿いていた。足元は底の低い黒いレザーのパンプスを履いている。サイズが合っていないのか、足の甲が異様なまでに盛り上がっていたのが印象的だった。

 就活生ならではの溌剌としたフレッシュさはまるでなく、直近で誰か身近な人でも亡くしたかのような悲壮感すら窺えた。しかしそれはかえって秀雄を惹きつけた。童顔な彼女の見た目と、かしこまったようなその格好が組み合わさると、まるでそこには人面魚でも見ているかのようないびつさが残った。

 そのときも彼は「仕事ならじゅうぶん間に合ってるよ」と強がった。決して嘘ではないのだが、お金には困っていた。「あんたみたいに若いお嬢ちゃんに雇ってもらうほど、おれは落ちぶれちゃいないんだ」

 そうですか、では他をあたります、とすぐにその場を立ち去ろうとした彼女に、なぜか秀雄は慌てて声をかけていた。「まあ待て。こんな機会だ。ちょっとおれの話を聞いていかないか」

 なんですか、とあからさまに面倒臭そうな反応を示した彼女に、彼はたまたまその時に持ち合わせていた行きつけの焼肉店のクーポン券を差し出した。「この店、よかったら行ってみるといい。なんていったってカルビが旨いんだ。それなりに値段は張るが、食べておいて損はない」と言うと、彼女は「いえ、間に合ってますので」と丁重な口調でそれを断り、受け取ろうとしなかった。そしてまたその場から立ち去ろうとする。

 まてまてまてまて。

 どうしてそこまでして秀雄は彼女にその場を立ち去って欲しくなかったのか、あるいは執着していたのかについては自分でもよくわからなかった。彼はただ、目の前の女ひとりに惨めで可哀想な人間だとは思われたくなかった。たとえそれが、初めて出会った童顔で似合わない格好をした誰だか知らない女であったとしても、このまま別れてしまえば後味の悪さだけが残ってしまう。そうなってしまえば、本当に自分がそういう惨めで可哀想な人間であるという烙印だけがそのあとも背中にくっきりと残り、これから誰かとすれ違うたびに、彼は後ろ指をさされてしまうような気がした。それ以上に特別な深い意味はなかった。もちろんナンパでもない。どちらかといえば、彼女の顔は彼の好みではなかった。

 秀雄は彼女に色々な話をしてみせた。現役で東大に入学したことや、卒業後は警察庁に勤めたこと。順調な出世コースを辿り、同期の中では最も早く管理者に上り詰めたこと。ただし四十歳を手前にあることがきっかけで退職し、いまではある依頼人から定期的に頼まれる仕事をこなし、いわゆるフリーランスのような働き方をしていること。そしてその報酬は法外的に良質であること。自分にはそれだけ全幅の信頼を寄せてくれる人がいるということ、というところまでを余すことなく語った。いつのまにか、話していいことといけないこととの境界線の見分けがつかなくなっていた。彼にしては珍しい失態だった。とはいえ、どうせこんな話をしたところで誰も信じないだろうと半ば開き直っていた。

 しかし、彼女は思いのほか話の内容に食いついてきた。

「あなたも、もしかしての方ですか?」

 不意にそう尋ねられたのは、秀雄がある程度身のうち話を語り終え、最後に名前を名乗ったその矢先の出来事だった。

 彼の表情はみるみるうちに強張っていき、どうして彼女がその存在を知っているのかと疑問に思った。脇の下から嫌な汗が噴き出し、たちまち鼓動が警鐘を鳴らす。やってしまった。彼は数分前にパチンコで十万円以上溶かしていたことがどうでもよく思えてしまうくらいに焦っていた。あいにく上着のポケットには財布しか入っていない。十分な口止め料さえも払えない。

 実は私も同じようなものなんです、と彼女はその直後に口にした。それから彼女は釘貫冴くぎぬきさえと名乗った。

 秀雄はぽかんと口を開けたまま動けなかった。

「まだ最近始めたばかりなので、右も左もわからない新人ですが」と冴はどこか恥ずかしげな表情で秀雄に軽く頭を下げた。「これからは同業者同士、ぜひ協力して動きませんか?」

 ──それからいまに至る。

 冴を載せたブランコは、怪物が悲しく泣き喚くような音を響かせながら前後に振れていた。彼女はパンプスを爪先で引っ掛けるように履き、かかとを宙にむき出しにしていた。そのまま遠くまでパンプスを蹴り飛ばしそうな雰囲気すらある。

 秀雄はその様子を見つめながらひと口酒を飲む。残り少なくなってきた紙パックは外の圧力に潰されるように縮こまり、彼がストローを離すと大きく息を吸ううように膨らんだ。それから彼女に尋ねた。「あんた、さっき新人だって言ってたけど、いったい誰に雇われてる」

 冴は足の動きを止め、こぐのをやめた。ブランコの振れ幅が次第に小さくなっていく。その途中でちゃんと履いていなかった靴が脱げ、彼女はタイツのまま地面に足をついた。靴を拾い、足裏についた砂を手で払って靴を履いた。彼女は足の甲を丸く収納させ、靴の中に足をねじ込んでいた。

「誰に雇われてる、と言いますと?」と彼女は言って、またブランコに座った。

「あんたの主人は誰なのかって尋ねてる」と秀雄は言った。「もしかして、あんたもDか?」

 冴ははじめ驚いたように目を若干見開き、それから納得したように元の表情に戻った。「あんたも、ってことは三ツ谷さんもそうなんですか?」

 公園にたどり着くまでに、互いの簡単なプロフィールについては教え合っていた。その際に秀雄は年を五歳ほど誤魔化し、身長についても三センチほど盛っていた。彼女は新卒の就活生でもなければ葬式の帰りだったわけでもなかった。年齢は意外にも三十を超えていた。

「まあな」、秀雄はそう言って肯いた。「とはいえ、この辺りの管轄はだいたいDが請け負っているはずだから、だいたいの予想はついていたよ。でもまさか、こんなところで同業者と顔を合わせることになるとは思わなかった」

「Dと面識はないんですか?」と冴は尋ねた。

 秀雄は顔をしかめて彼女を見た。「発言には気をつけた方がいい。あんた、知らないのか? おれたち従者が主人のプライベートを詮索のはご法度だ。第一、会いたいと思って会えるものでもない。特におれたちのは徹底的に素性を隠したがる」

「それでもEとFに関しては、わりと広くにその素性が明らかになっていた」

 秀雄は首を振った。「あのふたりの場合は特例だと考えた方がいい。いわば表の世界と裏の世界を繋ぐ役割を果たしていたようなものだ。まあ、だからこそになったのかもしれんが」

 冴はそれについて何かを考え、しばらくのあいだ口を噤んでいた。

「とはいえ、いくらあんたが新人だったとしても従者であるなら軽はずみな発言は控えた方がいい」と秀雄は言った。「余計なことをペラペラと喋ったおれに言えたことではないが」

「すみません。私もこんな機会は滅多にないので、つい興味本位で聞いてしまいました」

 冴はそう言って、片方の横髪を耳の裏にかけ、鼻を啜った。その何気ない仕草に秀雄はつい見入ってしまう。自然と胸元に目が移り、その膨らんだ服の上から中身を想像した。不意に彼女と目が合い、とっさに視線を逸らした。何かいけないことをしたような気になってしまったのは、一瞬だけ彼女のことを性の対象として捉えてしまったからなのかもしれない。ふた回りも年下の彼女を相手に秀雄はいくぶん浮かれていた。それもこれもバレンタインのせいなのだろう。彼が最後に女性と肉体関係を持ったのは、もうずいぶんと昔のことだった。

 ふたりの間にしばらく沈黙が流れた。

 秀雄はその持て余した間を埋めるように、コンビニで買ったチョコレートをひとつ口の中に放った。それから軽く咳払いをして、再び冴の顔を見つめた。肌がきめ細かく、日頃の入念な手入れがそこから窺えた。長い睫毛は上向いていて、目の周りはほんのりと赤く化粧が施されていた。

 秀雄は思い立ったように、大型犬が喉を鳴らすような低い声で、下を向いていた冴に声をかけた。

「なあ、あんた」

 彼女は顔を上げた。なんですか、とはその目が言っているようだった。

「さっき、あんたはおれに協力しようと言ったが、主人の依頼する内容は従者によって種類や規模が異なり、従者は原則的にそれを誰にも話してはいけない」

「もちろん心得ています」、冴はそう言って小さく肯いた。彼女の座っていたブランコが揺れ、ぎいと鎖から不穏な音が鳴る。

「とはいえ、今回は非常事態だ。聞くところによると、この一帯に駐在している従者連中には、みんな同じ内容の依頼が送られているらしいじゃないか」、秀雄はストローで酒を一気に吸い上げ、空になった紙パックを手の中で押し潰した。ポケットに残っていたもうひとつのチョコレートを手に取り、それを冴に向かって放り投げる。「報酬もこれまで以上にかなりでかい。協力関係を結ぶからには、どちらがを始末したとしても、報酬は山分け。それでいいんだよな?」

 宙を舞うチョコレートを見事に手中に収めた彼女は、すぐには返事をしようとせず、心なしか困惑したように眉の端を下げた。それから彼女はチョコレートを口に含み、控えめな声で言った。「あの、奴というのは……」

「もちろん蜘蛛だよ、蜘蛛」と秀雄は言った。「奴はいま、おそらく主人たちから最も恐れられている存在だろう。だからこそ一億もの懸賞金が出てる。それくらい上の人間たちも必死ってことだよ」

 外でその名前を口にするのは少々憚られたが、幸い、いまこの公園にはふたりの他に誰もいなかった。たった半日で十万を溶かした四十代後半の男と、童顔の三十過ぎの女が、初々しさもなければ甘酸っぱさもない雰囲気の中でブランコに隣り合わせで座っている。誰かにこの話を盗み聞きされる心配もなかった。

 秀雄はまた冴の胸元に目を向ける。やはりそれは綺麗な形をして膨らんでいた。

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