懐かしい香り

 テレシアル王国は魔導技術を元に繁栄した国だ。魔導石まどうせきと呼ばれる特殊な力を秘めた石を元に、光や水や火――さまざまなエネルギーを生み出して、そのライフラインを基盤とし、繁栄を続けていた。

 テレシアル大教会はそんな王国の中心地、王都テレシアルから街道を進んで外れた海に面した岬に建っている。

 三階建ての大きな教会は何ものにも染まらない真っ白な石造り。屋根には大きな銀色の十字架が突き立ち、赤薔薇園と称され咲き誇る赤い薔薇の庭園の中でも存在感を放っていた。


 時刻は夕暮れ時、水平線の彼方へと焼けるオレンジ色の太陽が半分ほど沈んでいる。空は茜色へと染まっていて、それをキラキラと波に揺れる水面みなもが反射した。

 教会二階の廊下の大きな窓より外を眺めるフィアルは、ぼーっと、遠い日に見た同じ色をした空を思い出す。

 もうじき、夜がやってくる。


「ほら、フィアル、行くよ!」


 右腕に薄汚れた聖杯がしまわれる木箱を抱え込んだリミーナが、そっとフィアルの袖を引っ張った。


「え、うん……」


 いつも以上にぼーっとしている、と再三にわたってリミーナにも指摘されるけれど、フィアルにもその自覚はあった。

 目覚めてしまったからには、やらなければならないことがある。

 逃げようもない責任が背中に重くのしかかってくるようで、どうも全身がだるくも感じた。それは長い眠りの弊害であったのかもしれないけれど、これから先のことを考えたがゆえの、確かな気の重さでもあった。


 フィアルはリミーナに引っ張られるがまま廊下を進んで、二人は大きな両開きの扉の部屋の前で立ち止まった。

 コンッとリミーナが軽く扉を叩けば、中からは静かな落ち着いた声色で「どうぞ」と声がかかる。

 そこはグランマの部屋、修道院長執務室だ。

 返事を聞いて「失礼します」と声を上げたリミーナが扉へ左手を伸ばした。右脇には小さな体に不釣り合いな木箱を抱えたままだというのに、器用に扉も開けてフィアルのことまで気遣って扉を押さえるようにし、一歩先に部屋へ入っていく。

 フィアルもすかさずリミーナの後に続いて部屋へと入った。


 シックな落ち着いた雰囲気がある部屋は、いつ訪れても懐かしい香りを感じる場所だ。

 古びた木の戸棚にはグランマの趣味であろう不思議な形をした調度品や、背が焼けた分厚い本たちが納められている。柔らかい雰囲気を感じる深緑色をした絨毯が広い部屋一面を覆っていて、部屋の奥にはグランマのための大きなデスクが扉のほうを向いて、部屋の手前には応接間を催してソファが二つ、背の低い机を挟んで向かい合うよう並べられていた。


 グランマはデスクに向かい黒革の椅子に腰かけて、ぱちりぱちりと摘んだ赤薔薇の棘を小さなハサミで切っている。

 纏っているのはフィアルやリミーナが着ているものと同じ修道女の服。ベールをしていない頭の上で白く染まった髪をお団子状にまとめて、年老いながらも聡明な眼差しは輝きを失っていない。しかし、老眼のためか、鼻には愛用の眼鏡を引っかけていた。


 かつては国の繁栄を率いた歴戦の聖女と言えど、老衰には勝てないのだろう。

 そんな歴史も部屋に名残を落として、若き日のグランマの姿は肖像画として飾られている。

 王国に仕える証である紋章入りの軍師のローブを凛々しく着こなして、長い銀色の髪はしっかりセットされている。少し緊張した面持ちも当時の様子をそのままに描かれていた。

 それもかつての王に無理矢理にモデルをさせられたものなのだと、苦笑交じりにグランマが愚痴をこぼした様子はフィアルの記憶にも新しい。

 しっかり今も飾っているところを見るに、そう言いながらもグランマのお気に入りなのだろう。


「あら、見つかった?」


 ぼーっといろいろなことを考えてしまったフィアルだけれど、グランマは皴が走った目元を優しく細め、部屋へと入った二人のことを出迎えてくれた。


「見つかりました!」


 抱えていた木箱を机の上に下ろしたリミーナが元気よく手を上げて返事をする。

 そんなリミーナへ、孫へ優しい眼差しを向けるかの如く、グランマは「そうかい」と頷いた。

 そのままにこにことした調子で、埃をかぶって汚れてしまったリミーナの修道服の袖先に目を向けている。フィアルがその眼差しに気づいて笑うと、グランマもフィアルの顔を見て笑ってくれた。

 グランマは手にしていたハサミをことりと机の上に置いて、棘を切ったばかりの薔薇を花瓶に挿す。そうして鼻にかけていた老眼鏡も机の上に置くと、ゆっくりと立ち上がってリミーナが持ってきた木箱へと近づいた。


「ずいぶん、埃をかぶっちゃっていたのねぇ」


 木箱を開けて中身の聖杯を確認するグランマが、しみじみと言葉をこぼす。


「でも、きちんと見つかってよかったわ」

「それはもう、倉庫の箱の下のほうにあって、かわいそうな感じでしたよ」


 リミーナが「ふふん」と笑いながらこたえれば、グランマはそれにも「そうだったのね」と優しく微笑んでこたえていた。


「フィアルもお疲れ様。ありがとね」


 顔を上げたグランマがフィアルの顔を見上げている。

 歳のためか年々腰が曲がっていくグランマは、フィアルやリミーナを拾ってくれた十二年前と比べたら段々と小さくなっていくようで、フィアルはそれにもどこか虚しさを覚えるようにぎゅっと自身の服の裾を掴んだ。


「いえ、わたしは何もしてなくて。整理もほとんど、リミーナがやっちゃって」


 そんな気持ちを隠すように笑ってフィアルがこたえれば、グランマは「そうかい?」と目を細めて、まるでフィアルの気持ちを見透かそうとするかのように笑う。

 昔からグランマに隠し事はできなかった。

 だが今は、知られるわけにはいかない――わたしがもう、ことを。紅き乙女として目覚めた宿命を、決して知られるわけにはいかないから。


「何に使うんですか? 今日の買い出しもそのためですよね?」


 リミーナがのんきに口を挟めば、グランマは「そうだったねぇ」と話を切り替えたかのように近くのソファへと腰を下ろした。胸の前で手を組んだグランマに、リミーナはうきうきとしたように飛び跳ねて向かいのソファへと座る。

 フィアルは立ったまま、ぼーっと二人の間に挟まるようにして、グランマが木箱から古びた聖杯を取り出す様子を見つめていた。


「近々大きな礼拝があるって言ってましたよね」


 首を傾げたリミーナが思い出したかのように言う。

 グランマは「そうよ」と大きく頷いて、フィアルの顔も一瞥してから話を続けた。


「二人が来てからは、なかったことだったわねぇ」


 戦災孤児となった五歳、教会に連れて来られたのはそれから一年後だった。

 フィアルが教会での日々を思い出すように頷くと、グランマは静かに言葉を続ける。


「王国の騎士団が近々大きな遠征に出る話は知っているかい?」

「知っています! 街でも噂になってましたよ」


 リミーナが当然だ、とばかりに返事をした。

 リミーナは相変わらずの噂好きで、人の話によく聞き耳を立てている。だからというわけでもなかったけれど、フィアルも知っているくらいには、最近その話を耳にすることが多い。


「遠征って……戦争の準備、ですよね」


 胸が痛くなるのは気のせいではないだろう。フィアルが聞き返せば、グランマも「そうだねぇ……」と、どこか寂しそうに視線を落として頷いた。


 テレシアル王国と隣国であるガズバンダ王国との関係は、この二十年ほどずっと険悪だ。そのための小さな戦火は絶えず、フィアルが幼少期を過ごした村が焼かれたのも、ガズバンダ王国が攻撃を仕掛けてきたからこそである。


「……和平を実現するためのことでもあるのよ」


 グランマは静かにそう言った。かつては戦線に参加していた軍人としての想いでもあるのだろう。

 だが、フィアルはその想いを理解することができなかった。

 人間とは――どこまで行っても、いつまで経っても、変わらず争うものである。人の争いは世界の均衡を乱す。だから、自分のような紅き乙女なんてものが生まれたのだろうとすら思ってしまう。


 フィアルは冷たい目をし、自身を拾い育ててくれたグランマのことを見つめていることに気がついてしまった。

 ぎゅっと握り込んだ拳の中で自分の手のひらに爪を立てる。

 そんな気は決してグランマに悟られてはいけない。

 深緑色をした瞳もぎゅっと閉じると、フィアルとして意識を改めたように、もう一度目を見開く。


「そういう遠征のときはね、教会が協力して祈りを捧げるものなのよ」


 幸いなことか、グランマはリミーナを見つめながら話を続けていて、フィアルのほうへ顔を向けることはなかった。


「それが、大きな礼拝?」

「えぇ、そうよ。『銀の聖杯に、勝利のさかずきを。紅き乙女が勝利を導く兆しを届けん――』てね」


 そこでグランマは片目を閉じて、合図を飛ばすようにフィアルへと顔を向けた。

 呆然と表情を強張らせたフィアルは、無意識に自身の耳元へ手を伸ばし、紅い髪を掴む。

 グランマの瞳は優しく細められている。何も正体がバレたわけでもないけれど、図星を衝かれたような、鋭い眼差しを一瞬感じてしまう。

 何かこたえないのも不自然だろうと、フィアルはできるだけ平常心を装って手を下ろし、口を開いた。


「……そのために、わたしを拾った?」

「ううん、そういうわけではないのよ。でもほら、ちょうどあなたの髪の色は幸運だから」


 女性の紅髪を幸運の証だと誰が言い出したのかは、フィアルも知らない。

 ただこの色は、戦を勝利に導く戦乙女、勝利の輝き、そんな風に例えられることがあるというだけの話だ。


「なーんだ、フィアルだけずるい!」


 口を尖らせたリミーナが不機嫌そうに、だけど、ちょっぴり楽しそうに声を上げている。


「わたしも紅髪がよかったー!」

「ふふふ、リミーナの髪色も綺麗だけどねぇ」

「そ、そう? だったら嬉しいけど」


 フィアルはまたもやぼーっと、二人の会話を聞いているだけになってしまう。


「えぇ、それはもう。そうだったわ、リミーナが見つけてくれたこの聖杯、しっかり磨いてあげないとねぇ」


 箱から取り出した両手大の銀色の聖杯を机に置いて、グランマはソファから立ち上がった。

 机の上で薄汚れた銀色の聖杯は鈍い輝きを放つ。

 儀式に使われるものであるからと言って、別に特別な力を持っているわけでもない。

 しかし呆然としていたフィアルは、その鈍い輝きに意識が持っていかれそうになった。


「あ、そうだったわ。フィアルにはもう一つ、大事な話があるのよ」


 横を通り過ぎたグランマが、その際思い出したかのようにフィアルの肩へ触れた。

「え?」と思わずフィアルが振り返れば、グランマはにこにこと笑みを絶やさずに言葉を続ける。


「騎士団のほうからの礼拝のお願いとは別にね、フィアル個人にも礼拝のお願いが届いているの」


 フィアルが「一体誰から、そんな?」と考えている間にも、ソファから飛び跳ねるように立ち上がったリミーナが、何か知った風な雰囲気でにやにやと笑みを浮かべていた。


「ほら、シレイスくん。初めての遠征になるでしょう? フィアルに個人的に、祈りの儀式をしてほしいみたいよ。やってみる?」


 騎士や兵士に捧げる旅立ちの祈りには特別な想いが込められる。教会で働く修道女として、その意味をフィアルも学んで育ってきた。

 リミーナは事前にシレイスから相談されていたのだろう。そんな表情を見ればフィアルにも想像がつく。

 フィアルは「はぁ」と大きく息を吐いて、渋々とグランマに向かって「わかりました」と返事をした。


「祈りの作法は大丈夫?」

「はい、覚えています」


 それもまた逃れようもないことなのだろう。

 フィアルは少し照れて恥ずかしくなりながらも「やってみます」と、自分の役割に準じるよう微笑んでこたえた。



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