あの日見た、涙の向こう側に
二人が街へと出てシレイスに会った日の夜。
前日寝ていなかったこともたたってか、フィアルは今まで感じたことがないほどの睡魔に襲われていた。
「フィアル、すっごい眠そうな顔してる」
シャワーを浴びて夕食を済ませ自室へ帰ってきたところで、リミーナにそう心配されるほどの顔をしていたらしい。
「うん……疲れたのかも」
「今日はいっぱい歩いたし、買い出しは荷物重かったし。帰ってきたら帰ってきたで、明日に向けて、本堂の掃除も手伝っちゃったし。忙しかったもん!」
腕を伸ばして欠伸をするリミーナはそう言いながらも、まだフィアルよりは元気そうだった。
フィアルは部屋着に着替え「そうだねぇ……」と返事をするのがやっとで、そのままベッドにばたりと顔面から倒れ込んだ。
昨晩はどれだけ眠りたいと願おうと全然眠れなかったのに、人間の体というものは不思議だ。
頬が押しつけられた枕から慣れ親しんだ自分の髪の匂いがして、視界を覆うように垂れた紅い髪を払う余裕もなく、瞳は自然と閉じられた。
「あはは」と笑うリミーナの声が遠くなる。
「おやすみ、フィアル」
優しく声をかけてくれるリミーナに、フィアルはなんとか「おやすみ」とだけ呟いて意識を手放した。
今日はちゃんと返事をすることができた。
◇◇◇
紅き乙女として眠る間に夢を見ることはない。
ずっと、ずっと、暗く冷たい
だから、フィアルとして見ている目の前に広がった光景に、懐かしいと感じながらもどこか戸惑ってしまった。
目をそらすことはできなくて、俯瞰的に思いながらも流れる情景を受け入れた。
「やーい、紅髪!」
フィアルより少しだけ背の高い孤児の一人が、フィアルの頭を指してそう言い放つ。
まだ小さかった十三年前のあの頃、それは、フィアルが戦火で家族を失ってすぐのこと。
「ここが今日からあなたの家だよ」と連れて行かれた孤児院は、王都テレシアルの外れにある少し大きめの一軒家を改装して繕われた場所だった。
当時、関係が悪化していた隣国との状況は今よりも悪く、そのため国境付近では小さな争いが勃発していた。酷ければ村や町ごと全滅、王都から離れた場所で暮らしていたテレシアル国民たちは住む家を失ったり家族を失ったりと、行く当てを失くした者も多かった。孤児も多く生まれたのだろう。
そのため急ごしらえで孤児院や避難施設が建てられた、とフィアルも後から聞いて知った。
フィアルが連れて行かれたのもそんな孤児院のうちの一つで、世話をしてくれる王国直属の組織から派遣された二人の寮母と、三十人あまりの子供たちが暮らしている場所だった。
「言い返したら、どうなんだよ!」
「赤ずきん!」
フィアルはまだ五歳。女の子にしては体も大きいほうではあったけれど、それよりは一回り体が大きい男の子二人を相手にしてしまえば、言い返すこともできなかった。
赤ずきんとは、白いケープを頭からかぶっているフィアルにつけられた蔑称だ。
フィアルは明るすぎる自身の髪色を恥じて、当時はそれを隠すため、焼け焦げた跡が目立つお気に入りのケープを常に頭からかぶっていた。
テレシアル人の髪色は、ブラウンかブロンドに近い色がほとんどで、フィアルのような真紅の髪は珍しい。
言い伝えを信じる大人たちの間で幸運の色だと称される紅髪も、そんなものを信じていない子供たちの無邪気さに当てられてしまえば、ただの異様なモノ、自分たちとは違うモノに映ったのだろう。
「ボロ布で隠すなよ」
「紅髪を、隠すなよ!」
暗い金髪をした子と、吊り目をにやりと細める取り巻きの子がフィアルに詰め寄った。フィアルの震える肩口を、男の子の手ががっしりと掴む。
孤児院に連れて来られてから数日、こうして絡まれることも珍しくはなくなっていた。先に孤児院に住んでいた子らが、新入りいびりで鬱憤を晴らすようにしていて、そのターゲットをフィアルへと定めたのだ。
面倒だと思い相手にもしなかったのだが、それが余計に相手の気に障ったのだろう。今ならば言い返すこともできただろうけれど、あの当時は受け止めきれないショックのほうが大きすぎて、そんな元気もなかった。
別に悪口を言われることくらい、小さかったフィアルにとってはなんでもなかった。
それよりももっと痛く、失くしてしまったモノのことを考えると、胸の辺りがきゅっと縮こまるように辛くなったから。
だから肩を掴まれたところで、フィアルは首元でケープを握って、ギッときつい目線を向けて睨み返した。
「な、なんだよ」
暗い金髪の男の子は怯んだような顔を見せる。今では名前も覚えていない彼は、それでもフィアルの握っていたケープを引き剥がそうと手を伸ばしてきた。
触らせたくはなかった。お母さんが
フィアルが抵抗しようと試みるがそれよりも早く、フィアルへと伸びてきた薄汚い手は、何者かの手によって掴まれ制止した。
「やめとけよ」
赤茶色の髪に、冷たい藍色の瞳。
フィアルはその時、彼の顔を初めてまじまじと見た。
いつも朗らかに笑いながらもどこか遠い目をしていて、孤児院の子の輪の中にいたけれど、そこにいないような不思議な印象を覚えた彼。
たしか名前はシレイスだと、フィアルは連れて来られた日に紹介された名前を覚えていた。
「シレイス、邪魔すんなよ」
取り巻きが騒ぎ立ててもシレイスは微動だにせず、冷たい藍色の瞳をじろりと向けるだけ。シレイスは静かに荒立てることもなく手を放すと「ふん」と鼻で笑った。
シレイスにそうされれば二人ともが一歩下がる。邪魔されたことに苛立ったのか、暗い金髪の子は「くっ」と悔しさを噛み締めたように顔を歪め、取り巻きも「ちっ」と舌打ちを鳴らす。
「騎士気どりってか」
そう言われようともシレイスは相手にもしていないような涼しい顔をしていて、フィアルは何が起こったのか現状が理解できず、ぼーっとそのやりとりを眺めていた。
ただ、その次に取り巻きの子が吐いたセリフだけは、こうして夢に見てしまうほど鮮烈に覚えていたのだ。
「守ってもらえたからっていい気になるなよ、焼けた燃える髪! 火の魔女が!」
無邪気ながらに、子供ながらに飛び出した、相手からしたらなんてこともないひと言だったのだろう。
だが、フィアルにはそのひと言が決定的に、致命的なほどに突き刺さった。
「魔女なんて、言ってはいけません!」と、ようやく騒ぎに気づいた寮母が駆け寄ってきて、叱っている声が聞こえている。シレイスが二人に向かって何かを言っていて、寮母がそれにもまた何か続けるように口を開いて言葉を発していた。
だけどフィアルにはもう、目の前で何が行われているのか、耳を傾けている余裕もなかった。
そんな騒ぎに乗じて騒ぎはじめた他の子たちの雑踏に紛れて、ただただ目の前の光景が流れ過ぎ去っていく。
自分自身へ静かに向けられている藍色の瞳に気づいてしまって、フィアルはそれから逃げるようにしてそのまま部屋を飛び出し、孤児院を飛び出した。
裸足のままに孤児院の裏手に回って、すっかり夕暮れ時のオレンジ色の空からも隠れるように、建物の陰に積まれていた木箱の一つによじ登った。
夕陽の輝きもまるで降り注いでくる火の粉のように見えてしまって、そんな風に考えたら綺麗な色をしていたはずの夕空も、全てが焼けているような光景に見えてしまった。
『焼けた燃える髪』――そう言われた瞬間に、フィアルは失ってしまったモノのことを思い出した。
世界が灼けるように村が焼けていく。
もう皆が寝静まった時間に、急に騒ぎ立てはじめた村の人たち。お父さんに慌てて起こされて、お母さんに連れ出されて家から飛び出した。
お母さんがお気に入りだったケープを頭にかけてくれて、それから言われたままにフィアルは走った。森の中を必死に走って、けれど、その後のことはあまりよく覚えていない。
気付いたら近くまで遠征に来ていた王国の騎士団に救出されて、あの村でフィアルだけが助かったことは後から聞かされた。
何が起こったか理解できなくて、泣いて泣いて泣き喚いても、誰もフィアルには見向きもしてはくれなかった。
それは、孤児院に連れて来られたところで変わらない。
燃え広がる炎の恐怖を思い出し、フィアルは身を丸めるように膝を抱えてその間に顔を
泣きたくはないと、もう泣かないと決めたのに、と想い続けても、溢れる涙が止まらなかった。
子供ながらに決心した想いもあったのに――と当時の想いは今もなお、こうして夢に見るほど胸に焼き付くよう覚えている。
もう振り返ってもどうにもならない。失ってしまったモノは戻ってこない。大好きなお母さんを失くした気持ちは埋められない。
そんなことは、悪夢のような炎に包まれた日から数日も経てば子供ながらに理解した。
だから、孤児院に来てからは泣かないようにと我慢していたのに。
だけれど、ぽたぽたと溢れ出す涙に視界が滲み、想えば想うほど余計に辛い気持ちが溢れ出す。
思い出が燃えていく。お母さんが綺麗だと言って髪を梳かしてくれた鏡台も、お父さんと笑い合った食卓も、優しくフィアルに笑いかけてくれた人々がいた村も、全て紅く染まって燃えていってしまう。
それが先ほど言われた、あのひと言をきっかけに結びつくようで――。
同じような赤色をしていたお母さんの髪。長くてサラサラでいつも手入れを欠かさず綺麗だった。その感触を、フィアルは失ってしまった今でも覚えている。だからこの髪色も大切なモノだったはずなのに。
かぶったケープの中に押し込まれた紅い髪が飛び出さないようにと手を握れば、ぶわっと溢れ出す涙が止まらない。
どうして自分だけが助かってしまったのか。どうして、どうして――と問うてもこたえてくれる人はいなくて。
それは
フィアルとして忘れられないそれが邪魔をしているから、こんなものを見せられた――。
紅き乙女としてそう考えてしまった時、沈んだような意識を掬い上げてくれたのは、夢の中の優しい声だった。
「いた、こんなところに」
十三年前のあの時、そんな悲しみに沈んだフィアルの意識を起こしてくれたのも、優しい彼の声だ。
まだ幼さを残す声、身長もフィアルとそう変わらない。
フィアルが顔を上げれば、木箱よりやや低い位置より見上げているシレイスの顔がすぐそこにあった。
赤茶色の髪に静かな藍色の瞳。口を一文字に結んでいて、何を考えているのか、フィアルからはわからない。
「……どうして?」
そうフィアルが問えば、シレイスは「んっ」と右手のひらを差し出してくる。
フィアルが首を傾げると、シレイスはもう一度「んっ」と手を前に出した。
涙でよく見えなくて、フィアルは顔をごしごしと腕で拭いその手を取る。
そうすれば、そのまま引っ張られるように建物の陰から沈みはじめた夕陽が当たる場所まで連れ出された。
フィアルが戸惑って顔を上げると、シレイスはフィアルの頭に手を伸ばしてきて、かぶっていたケープに触れる。
だけど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「そんなこと、ないのに」
シレイスはぽつりとこぼす。
フィアルは「え?」と呆然と目を見開いて固まってしまった。
そうしている間にもシレイスは優しくフィアルのケープを取り払う。
フィアルが「あっ」と声をこぼして手を伸ばせば、シレイスは朗らかに笑っていて、フィアルは慌てて涙で赤くなった目元を両手で隠して俯いた。
すると、ぽんっと、頭の上に小さな温もりが乗せられる。
「綺麗なのに。隠す必要なんて、ないよ」
彼の優しい声にフィアルは顔を上げることもできず、ただされるがまま動けなくなった。
優しく、優しく髪を撫でてくれる小さな温もりをただ感じている。
「綺麗な色だね。どんな赤いモノよりも、綺麗だ」
そう言ってくれた彼がどんな顔をしていたのか、フィアルは顔を上げて見ることができなかった。
頭の上から彼の手が離れて、代わりにケープがふわりとかぶせられる。フィアルがそっと顔を上げたときには、彼は背中を向けて沈む夕日を見上げていた。
そうした時に、溢れ出していた涙が止まっていることにも気がつく。
不思議と胸のうちが温かい。お母さん以外の人に初めてそう言われた言葉は柔らかくふんわりと、フィアルを想って包み込んでくれるような優しさを伴った言葉だった。
言い伝えを知っている大人たちにも、この髪色を綺麗だと称されたことはなかった。
きっと皆、恐れ多いと一歩距離を取るのだ。髪色のせいで、そういったことにも子供ながらに慣れていたのに。
フィアルが呆然とシレイスの背中を見つめていると、そんな二人の元へ駆けて来る影がもう一つ増える。
「あっ! こんなところにいた! もうすぐ夕食の時間だからって!」
彼女はダークブロンドの髪を揺らしながら、そう言って自然とフィアルの手を取ってくれた。「なんで裸足なの?」と笑った顔は今も昔も変わらない幼さを残したもので、フィアルはきょとんと彼女の笑顔を見入ってしまった。
「そっか、もうそんな時間か」
振り返ったシレイスは普段通りの穏やかな顔をしていて、結局フィアルはあの日、彼がどんな表情をして頭を撫でてくれたのか、知ることはなかった。
「わたしはリミーナだよ。シレイスと、フィアルだよね?」
二人が孤児院の中にいないことに気づいて呼びに来てくれたのだろう。笑顔でそう顔をのぞき込まれては、フィアルも目をそらすことができなくて「うん」と頷いた。
「危ないよ、フィアル。裸足で外に飛び出したら」
きっと目が赤いことなんかリミーナにもお見通しだっただろうに。
だけど彼女は特別何か聞いてくることもなく笑っていて、それは今でもフィアルの横で明るくいてくれる親友のものだ。
フィアルの想いも自然とほぐされていくようで、素直な言葉が口から出た。
「うん、少し擦り剥いて、痛いや」
フィアルが恥ずかしくもなり笑ってこたえれば、シレイスとリミーナが笑ってくれたことが少し嬉しかった。
その日をきっかけに、フィアルはシレイスとリミーナとともに過ごすようになっていった――。
◇◇◇
フィアルが胸苦しさを感じて体を起こすと、そこは普段通り変わらない自室のベッドの上だった。
――久々に、夢というものを見た気がする。
まだ朝日も昇っていない時間なのか、カーテンの向こうも薄暗い。部屋を包んでいる静けさは夜中のものとは違う、朝を感じさせる少し冷たい空気だ。
隣のベッドにはすやすやと寝息を立てているリミーナがいる。
そんな寝顔ですらどこか懐かしく感じてしまって、フィアルの口元から「ふっ」と渇いた笑いが飛び出した。
――懐かしくも感じる夢だった。もう、あの頃のわたしはいないのに。
だけど、そこには否定しきれないフィアルとして覚えた喜びの感情も確かにあった。
鮮明すぎる情景が寂しくも遠ざかる。見ていた夢が忘れられてぼやけていくようにして、余計なことを考えている余裕も次第になくなっていく。
――今日は……いよいよ礼拝の日だ。
紅き乙女として、決断しなければいけない日も近いだろう。
――なら、最後くらいは……きちんとシレイスを送り出したい。
それは、フィアルとしても、紅き乙女としても、決断した想いだ。
そう決めたら次第に目が覚めてきて、フィアルは一人、ベッドの上で頷いて気を引き締めた。
ぎゅっと握り締めた手は汗ばんで、そうすればそうするほどに、フィアルとしての想いが溢れ出す。
すっかり目は覚めてきたというのに、揺れる不安がフィアルの胸のうちには広がっていく。もう一度眠る気にはならず、朝日が昇りはじめるのをただ待っていることにした。
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