目覚めの声


「ねぇ、フィアル、フィアルってば!」


 肩を揺すられた衝撃で、フィアル・ストレーンはふいの覚醒を果たす。

 オレンジ色の光が差し込む狭い部屋の中、フィアルは腰ほどの高さがある木箱の上に座っていた。


「え、ごめん。なんだっけ?」

「もー、大丈夫? 急にふらっと倒れそうになるんだもの」


 長い長い眠りから覚めるような、ぼんやりとする意識を揺すったのは同僚で、ルームメイトで大親友のリミーナの声だ。

 リミーナはかわいらしく頬をぷっくりと膨らませ、「もー」と牛の鳴き声のような声をこぼす。そのままフィアルの肩から手を放すと、肩まで伸びたダークブロンドの髪をその手で払った。

 リミーナの肩より下を覆っているのは修道女が着る濃紺色の服。大人用でも小さめサイズのそれは裾が地面に届いていて、整った顔立ちは今年十八にもなり立派な成年を迎えたというのに、まだやや子供っぽさを残している。

 腕を組みながら「まあいいけど!」と振り返った彼女は、フィアルに背中を向け中断していた何かの作業を再開しはじめた。


「こっちはわたしがやるから、休んでて」


 フィアルも同じ服装をしている。今は礼拝のときにかぶるベールは外しているけれど、フィアルとリミーナは教会に住み込みで働いている修道女だ。

 フィアルは胸元まで伸びた紅い髪をそっと手に取って、自分が何をしていたのか、思い出そうと頭を捻った。

 少し埃っぽい空気に顔をしかめながら辺りを見渡してみれば、場所はフィアルとリミーナが暮らしている教会の倉庫だ。レンガ造りの赤茶の壁に、天井付近に開いた小窓より夕陽が差し込んでいて、薄暗いながら片付けや探し物をする程度ならば困らない。


 そうだった、ここ――テレシアル大教会を取りまとめる修道院長、通称グランマから倉庫の整理と探し物を頼まれていたのだ。

 どこか他人事ながらに現状を理解しなおしたフィアルは、座っていた木箱より飛び降りて立ち上がる。


「でさー、酷いと思わない? わたしももう十八だよ? グランマに頼まれたからお酒を買うだけだったのに、店のおじさん、売ってくれなかったの! 『まだ子供だろうが』って頑固でさ、失礼しちゃうでしょ」


 背中を向けて話しながらも「これはどっちだっけ?」と首を傾げるリミーナの後ろ姿を見つめて、フィアルは「あはは」と苦笑いを返した。

 リミーナは見掛け通りだ。街に買い物へ出たところで、まだまだ子供に見られたのだろう。店先でおじさんと口喧嘩をしているリミーナの姿までもが、フィアルには想像できた。


「それで、どうしたの? 結局、買えはしたんだよね?」


 近々大きな礼拝がある、とグランマが言っていたことをフィアルも思い出す。酒はその際に使用するものだろう。買い置きがなくなった、とも言っていたはずだ。

 まだ霞んだように思考は鈍るけれど、リミーナの元気な声を聞いていると段々と意識がハッキリとしてきた。


「たまたま近くを通った騎士の……ほら、いつものおじさんが助けてくれて、その場はなんとかなったけど」


 リミーナはがさごそと箱をどかしながら次の木箱を開けて、背中を向けたままにこたえてくれる。


「いつものおじさん?」

「そう、シレイスの師匠の、ちょび髭を生やした優しそうな目のおじさん」

「あー、あの人かぁ」


 シレイスは二人の幼馴染でもある青年、見習い騎士の一人だ。

 度々シレイスと一緒に教会を訪ねて来る、リミーナが言うところの『いつものおじさん』をフィアルも見たことがある。

 名前は何だったか、聞いた覚えはあるけれどよく思い出せない。リミーナもそんな風に呼んでいるところを見るに、あまり印象的でもなかったのだろう。

 ただ、フィアルが聞いた覚えのある印象はリミーナのそれとは少し違っていた。


「あの人、怒ると怖いんだって。厳しいらしいよ」

「えー、あんなに優しそうな目をしているのに?」


 話をしながらもリミーナは片付けと探し物を一人で続けていて、すっかりフィアルが手を出す隙もない。

 フィアルはその背中を見つめながら、聞いた話を思い出そうと思索する。


「うん、たしか。シレイスがそんなことを言っていたかな」

「あー、それは優しさの裏返しってやつでしょ。シレイスのためだから厳しくするんだよ」


 人の優しさとは、そういうものだったか――。

 首を傾げてしまったフィアルに、そっと振り返ったリミーナが同じように首を傾げ、心配そうな眼差しを向けてきた。


「フィアル、まだ寝ぼけてる?」

「そういうものなの?」


 互いに発した言葉が重なり若干の気まずさを覚えて、フィアルは「あはは」と困り笑いを浮かべ、「そうかも」とこたえておいた。

 リミーナは特に気にした様子も見せず、「ならいいけど」と再び振り返って、開いた木箱の中に手を伸ばしている。


 フィアルはただその背中を眺めていた。

 のことが、今となってハッキリと意識させられてくる。


 フィアル・ストレーン――それは、わたしの名前だ。

 テレシアル王国、テレシアル大教会で働く修道女の一人。

 歳はリミーナと同じ、今年十八になったばかり。

 リミーナやシレイスとは幼馴染。家族はいない。子供の頃、隣国との戦争に巻き込まれ、国境付近の村から逃げて生き延びた、いわゆる戦災孤児だった。行く当てを失くしたフィアルはそうして拾われた孤児院で、同じような境遇にいた二人と出会ったのだ。


 振り返って考えてみれば、それからの生活はそれなりの平和の上に、それなりの安寧の元にあった。

 孤児院を取りまとめていたグランマに誘われて、修道女としてリミーナとともに教会で暮らすようになった。シレイスは国の平和を願って騎士となることを目指し、見事その実力を認められ、見習い騎士の一人としてテレシアル王国に仕えることになった。

 突然家族を奪われた境遇の元に平和を夢見た三人は、ともにそんな世界があることを祈った――のだろう。


 フィアル・ストレーンの十八年はそれなりの幸せの中にあった。

 だが、今となってはそれもただの遠い日の記憶でしかなくて、色褪せ渇いてしまったように感じてしまう。


 そっと上げた左手を開いて、手のひらを見つめる。

 そこに感じた熱は、灼けつく世界が消えていく微かな匂いで、人の命を握り潰したような感触で、同じように持ち上げた右手に感じる重さは、世界を灼く者の証を背負ったときのモノだ。


 フィアルは眠りから目覚めてしまった。

 目覚めたくなかったと願ったところで、この世界の上ではそうして起こされる。

 それがルールだから。どうしようもなく、どうしてもこなさなければいけない責任の上に成り立ったものだから。

 目覚めたということは、前回の眠りから百年経ったということなのだろう。

 それをどこか他人事のように自覚して、フィアルはそっと天井を見上げ、開いた小窓からその先の空を見上げた。百年前と変わらない色をしている、空を。


――フィアル・ストレーンとしての十八年は、確かにわたしの中にある。


 目覚めたばかりの時は大抵その時々に、二つの意識が混濁こんだくとするものだ。

 紅き乙女として世界を灼く宿命を背負っていたとしても、この世界の中で生まれるモノの一人としての意識は残る。


――わたしは……わたしとして、この世界を灼くことになるんだ。


 どうしようもなく自覚させられて、逃げようもない苦しさがきゅっと胸を締めつけた。

 だけど、そんな感情も一時のものだとフィアルは知っている。求められればその役目を果たすだけだということを。紅き乙女として、世界を灼くだけだということを。


「フィアル、あったよ! 誰だろう、大事な礼拝に使うってのに、こんなところにしまったのは」


 ぼーっと小さな空を眺めてしまったフィアルは、またしてもリミーナの声で現実へと呼び戻された。


「どうしたの? 本当に眠いの?」


 いつの間にか振り返っていたリミーナは、両手で持ち上げた銀色の聖杯を得意気にフィアルへ向けて見せつけてくる。

 ただ、その瞳は心配したように揺れていて、フィアルの意識を揺さぶり続けた。


「今日は何だかいつも以上にぼーっとしてるね、フィアル。寝ても寝ても寝足りないってやつ?」

「……うん、そうかもしれない」


 すっかり埃をかぶって汚れてしまったリミーナの修道服の袖が目に入り、フィアルはそれをリミーナらしいと感じて薄っすら微笑んだ。

 リミーナはフィアルのそんな笑顔を見るや、あれもそれも気にした様子はなく、「ふふん」と鼻を鳴らす。


「すっかり埃かぶっちゃってるよ、聖杯。いつ以来なんだろう、こんなところにしまわれちゃってさぁ、かわいそうに」

「……ひょっとしたら百年かもね」

「百年? そんなわけないでしょ! それじゃあ、グランマだって生きてない時だよ」


 冗談めいてこたえたフィアルに、リミーナは倉庫に響き渡るような大きい声を上げて笑う。

 フィアルはどこか遠くを見つめるような眼差しで、リミーナが手にする薄汚れた聖杯を見つめていた。



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