最期の花火

わだつみ

最期の花火

 「綺麗な花火…」

 その言葉を貴女の口から聞く事。そして、窓の遠く向こうの夜空を染める花火を見る貴女にお仕えする私の、この夏の別荘でのただ一つの楽しみだった。

 その言葉を聞けるのが、今年の夏が、最後になるなどとは…!

 体の弱いご令嬢の貴女の世話を、女中の私は彼女の父親から託されていた。夏の頃には深緑の緑が周りを取り巻き、空気を吸い込めば、肺胞の一つ、一つまで全て洗い流してくれそうな程に空気の綺麗な、この別荘地に、貴女と共に私は毎年夏には訪れた。貴女の家が持つ、この別荘で、時折貴女の両親が様子を見に訪ねてくる以外、来る人もいない、二人きりの夏の日々は、派手さは無くても、私にはかけがえのないものだった。

 密かに恋慕っていた貴女と、二人きりになれるのだから。

 貴女も主人としてではなく、姉のように私を慕ってくださった。

 夏、窓の外を見れば、海水浴やら行楽に出かけていく、別荘地らしい光景が沢山見られたけれど、貴女は病弱だったから、いつも、夏らしい事はあまり出来なかった。貴女は、水浴びをしただけでも、風邪を拗らせてしまうような方だったから。

 だから、日差しの眩く、波音が心地よい、夢のような別荘地にいるというのに、私と貴女はいつも、夏は窓の鎧戸まで締め切り、貴女に沢山の本を読み聞かせた。ベッドに横たわる貴女の側で。でも、貴女は鎧戸の向こう、微かに聞こえる歓声に、いつも夏らしいものを渇望していた事を私は気付いていた。

 別荘の外に出られない私と貴女。そんな二人が唯一、外の人達と平等に楽しめる「夏」が、花火だった。楽しい夏を見たくなくて、いつも鎧戸を閉ざす貴女が、窓を開け放ち、花火を見ている時だけは、夏を楽しむ少女となってくれた。

 「ねえ、見て。花火が今年も綺麗ね」

 「ええ、お嬢様」

 「私は別荘の外には出られないから、海にも行けないし、夏らしい事は何にも出来ない。だから、他の人が皆幸せそうな夏が、普段は嫌い。だけど…今夜だけは、夏が好きになれそうよ。花火は、別荘の中にまで、夏を届けてくれるのだもの。弾ける音に、幾重にも折り重なった、色彩豊かな火が一瞬描く、大きな花。この世には、こんなに色があったんだって、花火を見ているといつも思うわ」

 貴女は、病に臥せている間、本を読むか、私に読み聞かせてもらう事を好んだから、そんな文学的な言い回しを好んだ。

 「私もそう思います。花火とは火が作り出す万華鏡のようですね。色が幾つあるのか、想像もつきません」

 花火を見て、無邪気に驚いてみせたり、美しさに息を呑んだりして、日頃見せてはくださらない表情を、貴女は、窓の外、遥か向こうに見える花火を見ながら、幾つも見せてくれた。

 この、一時間にも満たない花火大会の時間。祭りの場には行けずとも、二人きりで花火を見られる時間がずっと続けば良いのにと、私は思った。

 夜空で、見た事もない種類の色彩で美を描く花火は、愛しい貴女の睫毛を振るわせ、目を見開かせ、唇を薄く開けさせ、私が日頃見られない貴女の、無邪気に夏を楽しんでいる普通の少女の顔を引き出してくれるのだから。

 花火の色彩が数え切れない程あるように、貴女の愛しいお顔、尊きお顔にも、まだ、これ程おそばに仕えてきた私も見られていない表情が沢山あるのに違いない。その全ては無理でも、お仕えしている限りは、貴女のまだ見ぬ表情を一つでも、もっと多く知りたいと、私は願っていた。花火の音を聞きながら。

 -それなのに、「綺麗な花火…」と、去年までと同じ感想を、別荘から遠く向こうで始まり、下界に広がる野山を照らし出す花火を見ながら呟いた貴女は、もう、来年の花火は生きては見られないという。

 最も私が恐れて、憎んできた、貴女に巣食う病魔は遂に、貴女の繊細な心臓を、鷲掴みにして、奪い去る事にしたらしかった。貴女のご両親、つまり、ご主人様とご夫人の嘆きぶりは筆舌に尽くしがたい程だった。私も、涙が枯れるまで泣いた。

 貴女のまだ見ぬ表情が沢山あるのに。幸せになった貴女の顔を結局見られぬままに、貴女は逝ってしまわれるのか。二人で見る、最期の花火。その花火も大詰めを迎えた頃に、感極まって、私は涙声で貴女にそう言った。

 貴女は、花火の遠い青色に、その、真夏を感じさせない、雪原の如く白い肌を照らされて、ひと雫を頬に溢した。ああ、そのような表情は見たくはないのに。

 貴女の唇が開き、こう告げる。

 「じゃあ…貴女の力で、せめて、花火が終わるまで、幸せにして。私が貴女に見せた事のないような、幸せな表情を、貴女の力で、私にさせてよ。その為なら、貴女がする事は、私は、なんだって受け入れるわ…」

 貴女は花火から、その涙に濡れた瞳を私に向けて、真っ直ぐに見据えた。

 「さあ。貴女の望んでいる事を、私にして。今夜の事は、墓までの秘密にするわ」

 「…本当に…、何でもよろしいのですか?お嬢様…」

 私はそっと、ベッドから上半身を起こしている、寝間着姿の貴女に近づいていく。貴女の唇に…、その、もうすぐ散る事など信じられないような、生き生きとした赤い色の花びらに、私の目は吸い寄せられる。貴女は、そんな私を見て、私が何を望んでいるのか、すぐに悟ったようだ。

 遠くの花火の色彩が、赤が中心になる。それに貴女の頬は照らされていたが、花火が無くても、きっと貴女の頬は赤に染まっていた事だろう。貴女は、そっと瞼を閉じる。

 私は…、貴女のその赤く、柔らかな花びらに自分の唇を重ね合わせた。花火の音とお互いの鼓動だけしか聞こえない。

 そっと唇を、私から離すと、貴女は顔を一面、紅に染めて…照れ臭そうに、しかし、幸せそうに笑っていた。

 「こうなる事、ずっと私も待ち望んでいたわ…。口づけをありがとう。私に、大好きな人と、口づけが出来て、最高に満ち足りた表情をさせてくれて、ありがとう…」

 貴女の、その時の顔を、私は生涯忘れはしないだろう。貴女が生涯で、この夜だけ見せてくれた、満ち足りた色の表情の、貴女を。

 それから、私と貴女は何度も、花火の音を聞きながら口づけを重ねた。

 私も貴女も、最後の頃は、泣き笑いのような表情になっていたと思う。貴女のそんな表情を見るのも、私がそんな表情をするのも、これが最後だと分かっていた。

 最後の口づけが終わって間もなく、最後を飾る花火の一発が打ち上がるのが、息を荒くしていた私と貴女の二人からも見えた。豪奢な光のシャンデリアを、火で描いたように二人からは見えた。到底、すぐに散るようには見えないその花火でさえも、やがて、宵闇に溶け込んで、消え去ってしまった。


 夏の積乱雲が過ぎ去り、秋の羊雲が空に散らばるようになった頃、貴女は急激に容態が悪くなり、そして、貴女という花火もまた、散っていった。

 -貴女がいた家を去って、別の家の女中として働き始めてから、何年も経った。

 家族揃って健康な家で、花火が打ち上がる夏祭りの日には家族総出で出かけ、私は留守を託された。

 花火が打ち上がる夜は、一人にしてもらえるのは有り難かった。あの、貴女が秘めていた幸せの色の表情を咲かせてくれた、最期の花火の夜。遠くに打ち上がり、弾けて、散っていく音を一人聞きながら,その夜を、好きなだけ、私は思い出そう。

 

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