君の欠伸すら愛らしく見えたから

甲池 幸

君の欠伸すら愛らしく見えたから

――ガシャン。

 ガラスのコップがつるりと彼女の右手から滑って床に落下した。それは昼下がりのリビングに響くにはあまりに異質で、思わずびくりと肩を震わせてしまう。薄手のカーテンで裏ごしされて柔らかく滑らかになった夏の日差しが床に散らばった青緑のガラス片を照らす。二人で最初に出かけたときに彼女がはしゃいで欲しがったもので、僕が格好つけたくて背伸びをしてプレゼントしたものだ。

 あの日、僕たちの関係がそれまでと変わることはなかった。

 その次の年、同じ日に同じ場所に行った。

 黒い砂浜も輝く海も吹き付ける風のちょっとしょっぱい感じも、何一つ変わらなくて、僕たちの関係性もやっぱり変わらないままだった。そこから何度、同じ海に出かけても、反対方向の遊園地に行っても、交わす言葉が気安くなっても、こんな風にどちらかの家に入り浸る週末が当たり前になっても。

 僕らの関係はずっと、変わらず友達のままだった。

 とっても仲が良くて、気が合って、ときどき喧嘩をすることだって出来る、最高の友達。

 僕はそこから先に踏み込む勇気を持てなかったし、彼女は絶対に僕を引っ張ろうとはしなかった。

「なんて?」

 コップが滑り落ちた形で両手も体も固めたまま、彼女は顔だけをこちらにむける。その表情はなんというか、驚いた、を全力で顔だけで表現したらこうなるんだろうな、というような、間抜けと愛らしさの中間に位置するものだった。いや、きっと、僕以外の人が見たら「なんて間抜けな顔だ」と笑うんだろう。でも、僕にはどうしたって、それが愛らしく見える。

「愛してる」

 僕はたぶん、微笑んで彼女を硬直させた言葉を繰り返した。くすくすと笑いの種が心の奥から湧き上がっていて、笑う以外の表情を浮かべるのが難しかった。本当はもっと、泣きそうだったり、切実だったり、真面目だったり、格好よかったり。待たせた時間に報いるだけの、葛藤と痛みと覚悟をにじませた顔をしなければ、と思うのだけれど。

 愛らしくて、愛おしくて、好きで。

 そういう気持ちが胸のなかに溢れていて、どうしたって笑ってしまう。

「ぁ、ああ、どうしよう」

 彼女が頬をそめて僕を見る。ちょっとだけ涙を浮かべたその顔は、僕に待たされた時間の分だけ悲痛だったり、困っていたり、怒っていたりするのではなくて、僕の微笑みと同じように、ただ嬉しそうだった。好きなひとに、好きだと言われて喜んでいる。そんな、当たり前の赤面で、にやけた笑顔だった。

「どうしよう」

 僕は静かに微笑みを浮かべる。ガラスを踏まないように彼女にゆっくりと近づく。

「わたし、いま、たぶん、ぜったい、世界でいちばん幸せだ」

 青緑のガラス片を踏み越えて、僕は彼女の頬に触れた。白くてやわくて、熱のこもった肌の感触がする。

「やばい、今おでこにニキビできてる」

「しってる」

「みないで」

「やだよ」

 僕たちは誰も聞き耳をたてていない二人だけのリビングでひそひそと囁くように言葉を交わした。きゃあきゃあと小さな声で隠しきれない喜びを叫ぶ彼女を僕はそっと抱きしめる。互いに早い心臓の音がうれしくて、心地よくて、やっぱり笑ってしまった。

「愛してる」

 ずっと、確信がもてなくて、言えなかった。

 縛ってしまうことが怖ろしくて、言えなかった。

 だってそうだろう。明日も生きていると約束されている生き物は存在しないし、百年経っても気持ちが変わらないと思えるほど僕は僕を信用できない。

 だから、言えなかった。言ってしまえば、彼女の人生に何か大きな影響を及ぼすだろうことには気が付いていたから。言ってしまえば、明確に何かが始まって、始まったらいずれ終わりがくるのだと、理解していたから。

 終わらせたくなかった。

 泣かせたくなかった。

 そうなることが怖くて、どこにも踏み出せなかった。

 でも僕の洗った食器を片付けながら、僕の話に欠伸をする彼女を見て。

 その姿を愛らしいと感じた自分に気が付いて。

 明日も百年後の心変わりも、ぜんぶがどうでも良くなって、気が付いたら口から言葉が滑り落ちていた。

 だって、他の人なら絶対に苛立つことでも可愛いなんて思えるこの気持ちが、愛じゃないなら、世界にあふれる愛なんてぜんぶ嘘だろう。

「わたしも、愛してる」

 そう言った彼女の顔は恥ずかしさと嬉しさと少し残った驚きが同居した、なんとも言い難い変な表情だった。たぶん、かわいくはない。僕の真剣な話を欠伸をしながら聞いているのと同じくらい、かわいくない。

 でもやっぱり、僕には世界でいちばん、可愛い顔に見えたから。

 だから僕は恐怖も迷いもかなぐり捨てて、胸にあふれる愛しさを最大限ににじませた声でそっと、彼女の名前を呼んだ。

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