地獄で鬼と遭遇する

海沈生物

第1話

 仕事が嫌になったので職場の同僚の女と心中したら、地獄に堕ちた。しかも、一緒に心中した女はなぜか天国に逝ったというのに、私だけ地獄に堕ちたのである。あまりの理不尽に閻魔大王……ではない、なんか名前のまどろっこしい地獄の裁判長的な人に『なんで一緒じゃないのか!』と怒った。でも、無駄だった。


『死を惑わした者は地獄行、その惑いに釣られた者は天国行。これは昔から連綿と続く規則なのである。その裁定を変えることはできん』


 眉間に皺を寄せ、疲れた顔をした裁判長的な人は真っ黒な容器に入ったエナジードリンクをストローで「ちゅー」と吸いながら、ため息をついた。せっかく仕事が嫌で地獄にまで逃げてきたのに、地獄まで仕事の苦痛に満ちている光景を見せられるなんて、全く憂鬱なものである。


 結局の所、現世もあの世も「私が私のままであろうとする」限りは「地獄」であることに違いはないのかもしれない。いっそ、アイデンティティーとか自我とか呼ばれるものを手放して、ただの能無し頭空っぽ自我無し生物として生きていくことがこの世でもあの世でも、最も楽に手段なのかもしれない。


 そんな鬱屈とした悩みを持て余している時だった。足裏への痛みから意識がぶち飛びそうな針の山を越えた先にある休憩所のベンチで水を飲んでいると、金棒を持った女型の大きな鬼が私の隣に座った。黄色いパンツとブラジャーのみのほぼ裸姿の鬼は笹の葉に包まれたおにぎりを一つ、ひょいと大きな口を開いて食べると、まるで会社に入ったばかりの新入社員が初の昼ご飯を食べた時のような、そんな精気の溢れた「あぁ~!」という良い声を漏らした。


「美味しいそうですね、そのおにぎり」


 精気の溢れた声に釣られて声をかけると、女型の鬼は目を丸くして私を見下ろした。彼女は焦ったような顔をすると、ささっと笹の葉に包まれた三つのおにぎりを私から遠ざける。


「あ、あげませんよ? このおにぎりは地獄に服す穢れた豚ではなく、私が食べるためのモノなんですからっ!」


「あはは……食べませんよ。どうせ食べた所で既に死んでいるので、お腹、膨らみませんから」


「それは……そうか。そうです、よね。死んだ人間は空腹を感じることもなく、喉の渇きを感じることもなく、ただ生きているんですよね」


「めちゃくちゃ酷い言いようですね」


「事実を事実として言っているだけなので、そんなに酷くはないですよ! それに地獄に来ている以上は貴女は現世でろくでもない罪を犯した豚なんですから。そんな穢れた豚に同情してやる余地はないです」


 彼女はぷんすかと鼻息を漏らすと、残り三つのおにぎりを一口で食べようとした。豪快な一口だと感心していると、普通に喉を詰まらせた。もごもごと苦しんでいるので、ちょうど意味もなく飲んでいた水を彼女にあげた。一応監視対象であるはずのからなぜか「施し」を受ける彼女看守の姿に、なんだか不思議と笑みがこぼれてきた。


 おにぎりを水で流し込むと、彼女は酒を飲んだおっさんみたいな「ぷはぁ!」という野太い声を出した。さすがは鬼である。いくら女型であったとしても、その本質は人間ではない、凶暴な生き物であるらしい。


 彼女は水を渡した私にぺこりと頭を下げると、はぁと息をついた。


「ありがとうございます……と、一応お礼だけ言っておきます」


「不服そうですね」


「当たり前でしょ? 罪を犯した豚から施しを受けるなんて、屈辱でしかありません。……うぅ、いっそ仕事をやめて、現世に人間としてでも転生した方がマシな気がしてきました」


「転生した結果がになったとしても?」


「夢も幻想もないことを言わないでくださいよ。現世の人間が死後の世界に勝手な夢を見るのなら、死後の世界の鬼が現世にちょっとぐらい夢見ても別に良いじゃないですかー!」


 鬼は金棒を私に振り下ろすフリをして、ぷんすかと怒ってくる。それはフリではあったものの、それがあまりにも「高身長人外に襲われる」というある種の人々が歓喜の声を上げそうなシチュに思え、つい頬を綻ばせてしまう。


 彼女は振り下ろした金棒を元に戻すと、私に怪訝な目を向けてくる。


「……もしかして、変態なんですか?」


「人間ですからね」


「まったく答えになってないと思うのですが……」


 私のくだらない返答に彼女が今日二回目のため息をつこうとした時、ガンガンガンという鐘の音が聞こえてきた。どうやら、この休憩の終わりを告げるものらしい。私と彼女はベンチを立ち上がると、お互いの顔を見つめ合う。


「どうやら、お別れの時間のようですね」


「”また来週!”とかそのあとに続くんですよね、ニュース番組とかだと」


「……? 何の話をしているんですか」


「ごめんなさい、めちゃくちゃ恥ずかしいので忘れてもらっていいですか」


「良いですけど……その、まぁ……なんでしょ。多分この広い地獄の中でまた出会うことはないと思いますが、水をくれた豚として記憶の中に残しておいてあげますね。ありがたく思っておいてください」


 女型の鬼はそう言い残すと、遠くにいる上司らしい鬼から「早く来いよー! 遅れるぞ、新人ー!」と呼ばれ、去っていった。取り残された私はただ、仕事を始めたばかりの頃の自分を彼女と二重写しにする。

 

 彼女もいつか、私のように仕事に病み、好きな相手と心中……もとい「転生」をしようと思う日が来るのだろうか。あるいは、彼女は私と「違う」運命を辿るのか。彼女の人生の主役ではない私には、「可能性」に満ちた彼女の人生の顛末は分からない。


 ただ一つ分かったことがあるとすれば、私にはもう彼女のような「可能性」など、最早ない。胸の内にある鬱屈とした感情と共に、ただ一切を生きていくしかないという事実だけであった。

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