独り言

sasada

独り言


 この世にあるものには全て名前がある。

 貴方はこの一文を読んだ時に違和感を覚えるでしょうか。違和感がある、と思ったそこの貴方、もしかすると国語のテストが得意だったのではありませんか。「全て」という言葉を見かけた時に、すぐ勘繰ってしまう傾向にある貴方は少し不幸な人生を送っているのかもしれませんね。けれど、私も同じ気持ちです。「全て」という言葉以上に胡散臭いものはないと思います

 では、こういう言い方ならどうでしょうか。


 この世にある、私達が知覚できるものには全て名前がある。

 これなら先ほどまで首を傾げていた貴方も、少しは首の角度を鈍くできると思います。「長い」と思った人もいらっしゃるでしょう、妥当な指摘だと思います。言葉というのは不便なもので、「表現を限定」と言うと少し堅苦しいですか、伝えたい情景を一言一句違わず表現しようと思うと必ずと言って良いほど冗長になります。

 日常会話における、「そんなに細かく言わなくてもわかる」というやつですね。

 これには、私達それぞれの共通理解というものが深く関わってくるのだと思います。


ちょっと失礼、それを取ってくださいます?


 今、私の隣に座っている若い男性が砂糖を取ってくださいました。ありがとうございます。「それ」という言葉を使っただけなのに、よく分かるものですね。

 私は「それ」をありがたく頂戴して、さらさらと芳ばしい香を放つ黒色の液体に注ぎ掛けます。次に、飲み物を混ぜるためだけに作られたマドラーと呼ばれる細い棒でくるくると掻き混ぜます。

 ここまで書いたところで、私は一体何処にいるでしょうか、なんて愚問ですよね。私に貴方を騙そうとする意図がない限り、もしくは貴方に私の虚を突こうとする考えがない限り、その答えは「喫茶店」に限定されると思います。加えて、私が左手でくるくると攪拌しているこの飲料が珈琲と呼ばれるものであることもご存知かと思われます。


 にしても、近年の酷暑は凄いですね。中高生のころは暑さに強いことを、冷房を真夏まで付けないことを自慢に生きてきたのですけれど、もう我慢なりません。外で待ち合わせするなんて堪ったものじゃありませんから、こうして喫茶店を使って寝坊して予定をすっぽかした馬鹿野郎を待っている訳です。

 ころころと話が変わって御免なさいね、あまりに暑かったものですから。店に入った時はもう、暑くて暑くて上に来ていたシャツのボタンを開けていたのですが、今になって熱波に対抗するような冷房が効いてきたのかもしれません、少し寒くなってきました。初めてこういうタイプの服を着た時はあまりにボタンが留められなくて辟易としていたものですが。はあ、あれから何年経ったものですかね。時の流れは早いものです。


 そういえば、シャツのボタンの付き方が男女で逆になっているということは一般常識なのですかね。え?私ですか。私は親が右手を骨折してしまった際、衣服の着用を手伝った時に初めて知りました。ああ、こういうことかと。世界にはまだまだ知らないことが多いですね。


 知らないこと、という訳で本題に戻りましょうか。私たちは知らないものに名前をつけることができない。いいえ、名前というものについて意識しようとしないのです。貴方は昆虫が好きな少年でしたか?小学生時分に甲虫を通った少年は多いのではないでしょうか。あの光沢、蠢く六本の足、嗚呼、気味が悪い。あれらの名前を私は知りません。故に、この話はそもそも「私達」を主語とすると齟齬が生まれるのです。


ふふ、主語と齟齬ってちょっと似てますよね。


 細かく分類され、名前が付いているはずの甲虫たちも、興味がない人にとってはあくまで甲虫という括りでしか知覚されないのです。甲虫なんて言い方もしないですよね、ただの虫です。けれど、それらが好きな人、とりわけ少年たちは細かい名前までもよく知っていますよね。私はコーカサスオオカブトしか知りません。三本ツノが特徴なんですよね、確か。貴方は知っていましたか?

 木々に樹液に似せた甘い液体を染み込ませた布を日中に仕掛けておいて、早朝にその様子を見に行くと甲虫が沢山。なんて話を田舎に住む祖父が電話で言ってましたかね、私のことを何歳だと思っているんでしょう。そもそも幼少期から虫が苦手だったことも、もう覚えてないのでしょうか。時の流れは残酷なものです。

 

 カランカラン、と誰かの入店を告げる軽快な鐘の音が私の意識を思索から引き戻しました。おっと、私の友人が到着したみたいですね。ぴょんと寝癖が三本立っているのが見えます、コーカサスオオカブトじゃん。残ったコーヒーをしっかり飲み干して、机に滴った水を拭き取っておきましょう。こういうところより品位が磨かれてゆくと良いなと思いつつも、結局店員が布巾で拭うのですから自己満足に過ぎないのでしょう。私は伝票を持って、これより勘定に向かいます、ではまた。

 

 さて、ここまで読んでいただいた皆さん。私は女性ですか?それとも——なんて言ってみたりして。いえ、特に隠すつもりは無いのですが。

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