境界線の向こう側
鳥尾巻
真夜中の訪問者
真夜中を少し過ぎた頃。扉を叩く音がした。
風光明媚な緑の山々に囲まれた湖水地方のヌンドガウ王国。小国だが竜と月の神の子孫が治めると云われるこの国は、碧く美しい
山の向こうには獣人の王国が存在し、今でもヌンドガウと交流がある。月の美しい晩には、金銀の
だが、今夜は月に雲がかかり、安宿の風除けに雨粒の当たる音が聞こえていた。
こんな夜に訪れる客は碌なものではない。
ジャンゴ・カルロス・デルガトは、足のはみ出る粗末な寝台から体を起こし、栗色の巻き毛を乱暴に掻き毟った。安酒で無理矢理寝かしつけた頭がガンガン痛む。
それでも油断なく枕の下に忍ばせた
「あけて……あけてください……」
扉の外からはくぐもった女の声が聞こえてくる。湿り気を帯びた空気にも似た哀切な声音。一たび招き入れてしまえば、取返しのつかないことが起こるのは分かっていた。
ジャンゴは名うての剣士だった。孤児から身を立て、とある王国同士の戦争に従軍し、一時はかなりの地位まで登り詰めた。しかし仲間の裏切りに遭い、命からがら逃げだして
裏切りに次ぐ裏切り。ジャンゴは己の内側が擦り切れていくような感覚に苛まれていた。
「あけて……中に入れて」
女は執拗に扉を叩く。すすり泣く声が微かに聞こえ、ジャンゴは逡巡する。湿った床の上に下した素足の先を見つめ、唇を噛む。哀しげな声にどれだけ頭の中を掻き回されようと、開ける訳にはいかない。
しばらくすると啜り泣きは聞こえなくなり、彼はホッと肩の力を抜いた。
が、次の瞬間、扉は何の抵抗もなく内側に開いた。驚愕するジャンゴの視界に、廊下の灯りを背にした若い女の白いドレス姿が映る。
「な!?」
「ひどい、ジャンゴ様。どうして開けてくれないの?」
なじる口調であるのに、なぜか女の声は明るい。
ヒルダ・フォン・ミュラー。ヌンドガウ王国の王女付き侍女兼護衛である彼女は、肩までの黒髪をさらりと揺らし、悪戯っぽく笑ってみせた。
ジャンゴは慌てて立ち上がり、入口まで大股に歩いて行く。女性にしては背の高い彼女を見おろし、その冴えた美貌を覗き込む。
「どうやって開けた」
「姫様に貸していただいた魔法の鍵を使いました」
とんでもないことをサラッと言ったヒルダも相当に肝の太い女だが、彼女が仕える王女ロードピス・フォン・ヌンドガウもかなりのじゃじゃ馬である。あの主君にしてこの侍女あり、とジャンゴは頭を抱えたくなった。
「こんな時間に若い女が出歩くもんじゃない。送っていくから城に帰れ」
「いいえ、帰りません。姫様もお休みをくださったもの。ジャンゴ様はお城に居てくださらないし、泣き落としも効かないので強硬手段です」
仲間の裏切りに傷つき倒れていたジャンゴを見つけ、献身的に看護してくれたことには感謝している。
ひょんなことから共に王女の元で働くことになったのはいいとして、なぜか「結婚してください」と追い回されているのは解せぬ。こんな草臥れた中年男の何がいいのか。
しかもヒルダは先の任務中に大怪我を負い死の
「それに君は死にかけたばかりだろう。仕事がないなら今日は家に帰って休め」
「嫌です!あの時、恋人にしてくださるって仰ったじゃありませんか」
涼し気な黒い目に涙を溜めて見上げられ、ジャンゴは無意識に手を伸ばしかけた。本気の涙は見たくない。
愛情を全身で示す彼女を愛おしく思わない訳がない。彼女が死に直面した時、助ける為ならこの命を全て差し出してもいいと叫んだのは新しい記憶。
生きる為に必死だった仄暗い過去。血で穢れた自分は彼女に相応しくない。王女に解任を願い出て黙って去ろう。そう思っていた。
だがこの先もきっと彼女は主君の為に自ら危険に飛び込んでいくだろう。
ならばいっそ。
ふと見れば、彼女の握り締めた細い指先が震えていることに気付く。強気なことを言っていても、一人でここに来るのは勇気が要ったはずだ。
「……入れよ。だがその線を越えたらもう戻れないぞ」
ジャンゴは一歩退いてこちら側とあちら側を隔てる扉の境界を
束の間の沈黙。ぎこちなく踏み出された爪先。
扉が閉まるその直前。ジャンゴは細い腰を攫うように抱きかかえ、蠱惑的な唇にそっと口付けを落とした。
〈終〉
境界線の向こう側 鳥尾巻 @toriokan
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