プロローグ

「――横、良いか?」

 今晩は母が泊まっていくことになった。明日の仕事のことを言っても、「午前中はゆっくりだから」と返されてしまった。

 どうせ別室なのだから、帰って休んでくれた方が、こちらとしても気が楽なのだが。

「あの、でも、フェロモンが……」

「ああ。田所医師せんせいからは少しだけって言われてる」

 里安君も泊まるつもりらしい。里安さんが連れ帰ると思っていたのだが。

「――悪かった。一緒に帰るべきだったのに」

「いえ。この程度で済みましたし」

「それ、やられたのか?」

「いえ。転んで窓にぶつけたんです」

「…………」

「何もされてませんよ?」

 里安君の声は小さく、それに伴って体も、なんだか小さく見える。

「……俺なんかがバディでいいのかな」

 絞り出すような声で呟く里安君は、窓の外を見ている。

「俺――」

「――他の人なんて考えられませんよ」

「――っ!」

「今以上に良い状況、自分には考えられないです」

 自分も窓の外を見ている。暗くて殆ど何も見えない。

「……もっと、欲張ってくれよ」

 声が震えているような気がした。

「お前に、直してほしいところ。駄目じゃないけど、凄いと思うけど、でも、何でもかんでも受け入れ過ぎだ」

 里安君は依然、窓の外を向いている。

「俺は――」

 続きを紡ぐために開かれた口が閉じ、そしてまた薄く開いた。

「俺は、お前のことが見えなくなりそうで、怖い」

「…………」

 特に何を遠慮しているつもりもないのだが。寧ろ何をしていなくても「我が強い」「図に乗っている」と言われたことさえあるのだが。

「そうなったときは、そうなったときですよ」

 或いはそうなることこそが、自分の望みなのだろうし

「――――」

 里安君が弾かれるようにこちらを振り返った。自分はまだ窓の外へ顔を向けている。

 そうだ。こんなものは寧ろ、見えない方が良い。

 視界の端に、里安君が再び窓の外へ顔を向けたのが映った。

「裏庭さ、スペース余ってるだろ?せっかくだし何か植えないか?練習にもなるし」

 声が少し明るくなった。

「いいですね」

「もうすぐゴールデンウィークだし、そのときに、買いに行こう」

「はい」

 起きてしまったことは今更どうしようもない。なかったことには出来ない。

 大事には至らなかった。今回はそれがすべてだ。

「――勇魚君、そろそろ」

 ノックが小さく木霊し、田所医師の声が面会の終わりを告げる。

「はい!――じゃあ、また明日」

「はい。ありがとうございます。……おやすみ、なさい」

「――ああ。おやすみ」

 そして静かに扉が閉められ、病室に静寂が満ちる。

「…………」

 発情期に近い状態、と言われたものの、寂寥感は感じられない。

 ただ部屋の温度が、幾らか下がったように感じられた。

 他に人の居ない部屋はひどく楽だ。

 誰も傷付けなくていい。

 誰に傷付くこともない。

 たった一人のこの空間に、きっと心など存在しない。

 これが

 きっとこれこれこそが、自分のあるべき形だ。

 自分の本当の望み。

 死のその先。

 自分にまつわるすべてが消えて無くなること

 無。

 今、ここはひどく理想的だ。

「…………」

 これが正しく実現されたとき

 きっとこの胸の軋みからも解放される。

 ベッドに背を預ける。目を閉じる。

 望みが叶うようにと願いながら。



 名前:喜多島穣

 年齢:十六歳

 性別:女

 職業:学生

 疾患:二次性決定症

 備考:精神疾患(解離性同一性障害)の疑いあり。

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くまのみ @udemushi

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