天地顛倒アイボリー

夕暮 瑞樹

本文

 澄んだ空、泳ぐ雲、掻き分ける鳥、それらを眺めていると、一刻なんぞ溶け込んでいってしまう。いつもながらに首を伸ばし空を見あげるるのは、背後に聳え立つ美術大学の生徒である高橋双葉たかはしふたばであった。彼は裸眼で空を見るのは勿論、レンズ越しにも空を愛していた。


 ある日、普段ならありえない光景を彼は目にする。空に、ベンチが落・ち・て・い・く・のだ。椅子だけではない。小さな木の枝を始め、鞄やラケット、人や車。ありとあらゆるものが空に落ちていく。


その光景を捉える為シャッターを切った瞬間、膨大な浮遊感が彼にも襲った。慌てて近くにあったバス停の時刻表に手をかけ落ちることは免れたものの、カメラは足元で小さくなっていく。いくら男子といえど体力に自信がなかった彼は、一刻も早く安全な場所に避難すべきだ。そう分かっていてもずっと足元の空を眺めてしまうのは、一種の週間病であった。


「おい双葉、こっちに移れ!」


声がした方向に目を向けると、そこには幼馴染であり親友の有村紺ありむらこんが大学の窓からこちらに手を差し伸べている。彼はその手を素直に受け止め、片方の手を離した。


 再び校舎に戻ると、そこはもっと悲惨な光景だった。教室にあった全ての椅子や机、教壇までもがひっくり返った状態で山を作る。あちらこちらに見える血痕はその山の中に人が巻き込まれた事を示唆する証拠となり、怪我した者の行先だってしっかり線を描いていた。窓の外からの叫び声は相変わらず廊下に響き、それを聞くものは絶望そのものを身体で表現しながら、沈黙を続けている。


「…お前は大丈夫か?」


それが他人のものなのか本人のものなのかは判別つかないが、血まみれの友人にそんな事を言われてしまっては、何の汚れもない彼は「大丈夫」としか答えようがなかった。親友はその言葉を受け止めると、何度か頷き廊下を進む。


「…これからどこへ行くんだよ。」


「そんなん知るか。取り敢えず歩いてるだけだよ。お前も付き合え。」


これは親友であるからこそ分かる、彼の癖だ。紺は昔から苛立ったり気分を損なう様な出来事があれば、すぐ散歩に出かける。要するに気分転換法なのだ。家が近所である為よく付き合わされていたが、非道い時には散歩ではなく旅行という域に入る程遠出をするもんだから、毎回彼が機嫌を損なう度にある程度の覚悟を強いられる。しかし今の場合は屋根の繋がる校舎のみが範囲となっている為、比較的気が楽だった。ただ、親友の気分転換を遂行したとて自分の気分転換にはならない訳で。双葉という男は、不運にも唯一の気分転換法を失ったばかりである。「仕方無いな」と小声で返答すると、床に散らばる蛍光灯の破片を敢えて踏み付け、前に足を運んだ。


 他の生徒いわば同級生や先輩、後輩達はただ黙って廊下を歩いて行く二人を目で追って行く。その視線を双葉は嫌った。絶望の真っ只中で体が動かないのは分かるが、その行動力を自分らに託されている気がしてならない。誰かが何かを言えばその場がどうなるか。その“誰か”を押し付けられている様なのである。こう言って仕舞えば自分もその立場になり得るが、正直な所、その“誰か”は自分じゃない。じゃあそんなに毛嫌いする必要はないようにも思えるかもしれないが、それは誤解であり、彼の理論では普段は行動力に満ち溢れる人物が、こういった局面において無力化する事を嫌うのだ。つまり自分は根っからの無力人間である為、あながち理論に精通している。


 二時間も経てば流石に親友の歩く後ろ姿を見つめるのは飽きるもので、やっとグロい光景にも慣れてきた。人間の瞳の構造の作用で、暗いところに長く居ると慣れが生じて自然と見える様になってくる、というものがある。それと同じで、グロいものを見続けると、意外と恐怖心が無くなってくるものだ。


「そろそろ休憩しよう。」


これは親友として、責任を持っての発言である。決して自分が疲れたからではない。親友が自暴自棄で歩き続け気が狂ったならば、それを落ち着かせてこそが親友だ。


 ただ、親友は休憩場を選ぶセンスが無かった。近くの教室として選んだらそこはいつも双葉が世話になっている作業室であり、普段から“危険”とされる機械や設備ばかりの場所だ。入った瞬間鉄の匂いが鼻を刺し、見渡してみればそこで作業をしていたのであろう恩師が、機会に押し潰され、右腕だけが手前に転がっているのを目にした。これまでの慣れは何処へ行ったのか、双葉は完全に顔色を変え意識を手放した。親友を助けるつもりが、逆に助けられる羽目になってしまったのは、実はこれで2回目だ。


「起きてるのか?」


無事意識が戻った時には一応整理したであろう保健室にいた。


ベットがあるのは保健室しかなく、怪我人は多いものの意識を失うという事態に周りが気を遣って譲ってくれたらしい。本人からすれば唯の失神に過ぎない為、慌ててベットを空けたのは言うまでもない。


 親友の失神をきっかけに一旦冷静になった紺は、双葉が正常なのを確認した後、「来てほしい所がある」と言い手を引いた。


 紺が導いた場所というのは、すっかり日が暮れ星空が下に広がる渡り廊下だった。上下反転しているため、上に柵はあるが、下に柵はない。紺は渡り廊下の床(正確には天井だが)から夜空に向けて足を垂らし、下を覗き込むように夜空を眺めた。双葉はまだ昼頃の光景が忘れられず紺をじっと見つめるだけだったが、遂には紺の横に並んで座った。


「お前、空見んの好きだったよな。」


紺の質問に一応頷くも、声を出し返事をする事は出来なかった。


「やっぱ苦手になった?」


「やっぱって何さ。」


「俺は、好きだった歩く事が嫌いになった。」


「僕が急に倒れたから?」


「違う。地面を歩けなくなった、上に空がなくなったからだよ。」


というか歩くの好きだったんだ。あれ好きでやってたんだ。双葉はその事にまず驚いた。二人とも親友という認識は通じあっているものの、全てを知っている訳ではない。小学生から13年間同じ学校に属しているはずなのに一度も同じクラスになったこともない。だからこそ仲が良いのかもしれない。もし同じクラスになっても、あんまり話しかけやしないだろう。なんだかんだ言って、双葉はこの距離感が好きだった。


 昨日の災害の中で特に多く取り上げられた事は、まず死者の数、そして安全の確保、地上の上を走る乗り物が地下通路を除いて使えなくなった、いわば空を飛ぶ乗り物は大変有能なのだが、屋外に出してあった物は落ちていった為メンテナンス中である程度の修理が必要なものしかないつまり救助が遅れるといった内容だった。元から避難場所にいた二人は問題なかったが、古民家や地盤の緩い土地にある住宅街の人々はきっとパニックだろう。そんな事を、体育館から漏れるラジオニュースを聴きながら双葉は考えた。


 双葉の隣で寝ている紺の隣に、カラスが止まる。まるで自分がこの災害に屈しない、最強の生物だと言わんばかりに羽を広げ、閉じる。確かに、鳥にとっては何の変わりもないのだろうな。有り得はしないがこれがもし人工的なものであれば、きっと犯人は鳥愛好家なのだろう。有り得はしないが。


 カラスの鳴く声で紺が目を覚ます。鶏だったら良かったのにと思ったが、カラスも中々悪くなかった。


「あれ…今何時?」


「10時半。」


「何で分かんの。」


「向こうの教室の時計が見える。」


「何で見えんのさ。」


君より視力が良いからさ。心の中でそう答え、双葉は立ち上がった。




 一ヶ月程経った今の変化といえば、建物同士で橋をかけ、ある程度の移動が可能になった事。紺もその内の一人だ。幸い大学近くに一人で越してきたマンションがかなりの新築で、「戻っても良い」と指示が出た。戻っても良いというのは双葉の解釈であり、厳密にいうと「これ以上学校に人が溜まるのも良くないから戻れ」という命令に近かった。双葉の家は遠く、田舎に住んでいる為橋を掛ける事も愚か、これまで自慢にしていた平坦な土地が荒手となって救助隊を困らせているらしい。二人同時に追い出され、流れで着いてきてしまった紺の家に泊まる事以外に選択肢はなかった。


 紺はミニマリストだ。薄々気付いていたし、本人からも聞いてはいたが、彼の部屋に入った瞬間それが確かな情報だという事が分かった。双葉は、上下が一転しているのだからもっとグチャグチャに散らかった様子を想像していた。しかし入ってみれば、凄く綺麗だ。唯一の家具であろう椅子とテーブル、ベットは、ひっくり返ってはいるもののそれこそアート作品の様にも思えた。流石にキッチンの食器棚は一枚一枚の皿が暴れていたが、それでも綺麗な方だ。


 早速双葉の部屋を決めようと部屋を回ろうとしたが、そういえば此処はワンルームだ。紺が言うには、「自分は潔癖症でもないし家具屋に行く機会が無かっただけで家具の多い部屋も悪くはない、逆に経験してみたい」だそうだ。なんと気の利いた言葉、しかも紺が家具多めの部屋が好みだという事を踏まえてくれている。君が親友で良かったと感謝の気持ちを込め、押し入れを借りた。具体的には、押し入れの上段に敷布団を敷き、下段は荷物入れ、扉を外し押し入れに沿わせる様に紺のベットを置けば、上手い具合に部屋が拡張する。そこを個人的な部屋とし、その他は共有スペースにした。基本、本をよく読む双葉は、本棚を脇に置き、本を並べた。その上にパソコンや課題書類が置かれてある。一番の問題は電気だった。紺の案で電球を吊るし応急処置としているが、正直暗い。夜型の双葉にはきつかった。


 そんなこともあって何度目かの模様替えを考えていると、玄関のインターホンが鳴った。


「こー?居るー?」


それは紺の姉である有村佳奈ありむらかなであった。


「姉ちゃんなんで来たの?」


「何でって安全確認以外何かあると思う?」


「あると思うよ。研究所はどうしたのさ。母さんと父さんは?何で連絡がつかないのさ。」


「携帯落としたからだってさ。今は老人ホームに避難してるよ。」


紺の両親は共に市役所に勤め、佳奈さんは理系の大学で何やら研究をしているらしい。実は、同じ研究所に双葉の両親も所属している。互いに、何の研究をしているかは言ってくれないが。


「あの、僕の両親とも連絡がないんですけど何か知りませんか?」


「高橋さんらねー…ごめん分かんないなぁ。」


「そうですか。」


会ってないことはないはずなんだけどな、と思いながらもはっきりさせる事はしなかった。


 それから夜まで三人で座談会を開き、これまでの出来事やこれからの予定を確認し合った。お姉さんは夜からこの付近で別の予定があるらしく、さっきから頃合いを探っている。紺は久しぶりの再会に饒舌が止まらず、遂にはお姉さんから直に双葉に向けてアイコンタクトが送られた。仕方なくお姉さんが帰る流れまで持って行くと、玄関を出る時にお姉さんのスマホが鳴る。お姉さんが鞄を漁り、一度スマホを取り出したかと思ったら、すぐさまそ・れ・を仕舞い込みまた別のスマホを取り出した。双葉には見えた。そ・れ・が何なのか。お姉さんは何もなかったかのように「またね」と言いながら家を出ていく。お姉さんの姿が見えなくなっても、双葉は動くこと無く突っ立っていた。そ・れ・は、間違いなく母のスマホだった。


 その日の夜、双葉はどうしても寝付けなかった。紺のお姉さんが何故母のスマホを持っているのか。あの時のお姉さんの顔を伺っておけば良かった。“これからの用事”とはなんだったのだろう。考えれば考える程目が覚め頭が冴えてくる。こうなっては仕方ないと、深夜三時にも関わらず双葉は家を出た。大学は、未だ避難所の役割を担っている為閉まることはない。折角だから寄ってみようかと足を運んだ。


 校舎に着くと、そこは見違える程綺麗に清掃されていた。一ヶ月前は在校生の靴が散らばり、相変わらず蛍光灯の破片や窓硝子の破片が散らばるといった酷い有様だったはずだ。しかし今となっては下駄箱ごと無くなり、受付センターの様な場所が設けられている。緊急用グッズなんかも売っちゃったりして、大学らしさが一切残されていない。確か下駄箱はかなり大きかったはずなんだけど、どう処分したのだろうかと疑問に思ったが、空に落とせば良いのかとすんなり解決してしまった。そう思うと、よくここまで綺麗に出来たなという感心の一方、宇宙ゴミ問題を無視してまで地球の清潔感を守ろうという人間の大胆な性質さえ浮かんでくる。双葉がもし、今一番欲しいモノは?と問われたならば、それは「素直に綺麗だと感じる心」だと即答できるだろう。それ位、双葉の頭の中は濁ってしまっていた。


 長い廊下を歩き教室を回ってみる。星空の明るさにより陰が足元にくる為、少し歩きづらくはあったが、靴のおかげで何とか足を怪我せずに済んでいた。その時、下から音がした。生活音というよりかは何かの衝撃音の様に感じられた。大学は四階まである。今双葉が居るのは三階。今の状態では地下何階という計算になる為、必然的に音の発生源は四階となる。こんな時間にどうしたのだろうかと急いで四階に降りて見たが、廊下は特に何も起こった様子は見られなかった。となれば教室以外考えられない。一つずつ中を確認しながら進んで行くと、問題の部屋は見つかった。


 双葉がコンピュータ室を開けると、パソコンが一つだけ起動している。画面を覗くと、唯のホーム画面なのだが、機械類が得意な双葉からすればこんなフェイクには引っ掛かる事なく、本来此処に居た人物が見ていたであろうサイトを見つけ出した。それは、とある研究所のホームページ。とある研究所が、両親が通う、つまり紺のお姉さんが通う研究所と一致したのは、ホームページを見てすぐの事だ。研究所を再検索してみると、『〇〇研究所に隠された、闇の研究』『これは天災ではなく、人災か⁉︎』といった記事が出てきた。


「何してるの?」


ふと、背後の暗がりから声をかけられた。振り返っても逆光で誰なのか判別がつかないが、声色やこの状況からしてきっと紺のお姉さんなのであろう。


「貴女こそ、僕の母のスマホを持って何をしているのですか。」


「質問を質問で返すのは礼儀がなってないんじゃない?」


「貴女こそ、他人の私物を鞄に潜めるとはどういった礼儀が当てはまるのですか。」


言わずもがな、沈黙に包まれる。正直、こういった言い争いは好きではない。普段ならこちら側から謝って立ち去るのだが、目の前の相手が自分の両親について何か秘め事があるとすれば話は別だ。影が近づいてくる。双葉は、硬直したまま動けなかった。


「このスマホの事、教えてあげても良いけど条件がある。まず今から話す内容を一切口外しない事、勿論紺にも言っちゃダメ。次に、私の指示に従う事。この二点、貴方は守れる?」


まさかの条件に動揺するも、両親の事が知れたら後はどうでも良いという思考回路に流され、首を縦に振った。



「佳奈、これどう思う?」


「もーアンタ研究室でそれやるなって言ったでしょ?」


「いや、でも面白いじゃん。」


佳奈と話しているのは、櫻井梅さくらいうめという佳奈と同い年の後輩だ。後輩より同い年の方が意識が強い櫻井は、初対面の時から佳奈にはタメ口を使っていた。


「だからそれ周りの研究用品も浮くんだからやめなって、ほら、降りな。」


彼女は他の教科は知らないが、理数の頭脳は頗る高く、今彼女が操縦しているのも、彼女が一人で開発した発明品である。丁度ティッシュケースを二つ平らに並べた程のサイズの機械で、ボタンを押せば重力が反転する様になっている。本人曰く、地球に備わる重力を上手く遠心力に変換し、一定の範囲の物体にかかる重力を空へ向けるんだというが、彼女が書く公式を見ても、いまいち理解が追いつかなかった。しかし出来ているものは認めざるを得ない、実際彼女はコウモリのように逆さになっているし、周りに置いてある資料や筆記用具も同じように天井に吸い付いている。初めて見せられた時は研究員の誰もが彼女を称賛し、尊敬し、憧れを持った。しかし彼女の悪いところは気の短さであり、皆から何度も説明を求められると同時に「分からないからもっと分かりやすく」と言った要求にも応じなければならず、まだ完成段階ではないのに世に広められるかもしれないという恐怖から、研究の内容に関する取材を度等に断っていった事を覚えている。彼女が目指す完成段階というのは、この重力を、自由に操れるようになる事だ。今はまだ上下が反転するといった極端な選択しかできないが、これを上手く仲裁し合い自由に操ることが可能になり、更に応用を加えれば、大変面白い発明品となるだろう。


 しかしその計画は中断を余儀無くされた。それは、高橋夫妻によるものだった。高橋夫妻は、櫻井の計画書をコピーし、何とか理解しようと分析本を作成していた。彼らと櫻井は、同じ研究室を使用するも研究グループは別。つまり高橋夫妻のグループに当たる研究員の中には、櫻井の研究を具体的に知らない人だっている。さっきも言ったが、櫻井は取材の多くを断り、世に出す事を一切禁止している。高橋夫妻は偶然櫻井が忘れていった研究書類を見つけただけで、他の研究員が知っているとは限らないのだ。となると、この後に起こる厄介事は想像が付くだろう。そう、高橋夫妻の分析本と櫻井の計画書を見た他の研究員が、高・橋・夫・妻・の・研究本だと解釈してしまったのだ。運も悪く、高橋夫妻のグループは新聞記者との関係が深く、拡散技術に長けている。そのまま世に広めてしまったのは彼らにとっては自然現象の様なものなのだ。勿論、高橋夫妻は櫻井が目指す完成形を知らない。世に出す事を拒絶する櫻井姿なんぞ想像外であり、何故早く発表しないのかと不思議にさえ思っていたらしい。


 そういった理由で、高橋夫妻に計画を散々に扱われた櫻井は、自身の研究を諦め、怒りに任せてあの天災に見掛けた人災を企てたそうだ。あの日、高橋夫妻と笑って話す櫻井を、珍しげに見ていた。彼女は、彼らを大学の中庭に誘い、彼らの頭上に何の障害物も無くなった事を確認した後、何処かに仕込んであった起動装置を押したのであろう。当時は何も知らなかった佳奈は、目の前で重力の反転と同時に空へ落ちていく高橋夫妻と裏で笑っていただろう櫻井後ろ姿を目撃する事になった。櫻井が去った後、奇跡的に残っていた高橋夫妻のうち妻の方のスマホを、佳奈が回収したのだという。


「貴方のお母さんのスマホに、そういった記録が保存されてあった。勿論一つ一つの情報を繋げて読み取っただけだから、全てこの通りとは限らないけれど、大体こんな感じ。」


双葉は黙っていた。かといって何か考え事をしている訳でも無く、何の感想も持ち合わせてなかった。恨むべき相手は誰なのか。きっと、素直な心の持ち主なら櫻井だと答えているかもしれない。しかし、大きく分類したとして同じ作り手の双葉からすれば、両親の罪の方が何十倍もの重みを抱えている事を知っている。認めたくないが、脳に否定される感覚は、どうも気分を悪くする。


「これ、君が持っときたいっていうなら渡すけど、出来れば私に譲って欲しい。一応お世話になった仲だから。」


「…下さい。」


「…。」


お姉さんはスマホを渡してくれた。するとそのスマホを受け取り次第廊下の方に駆け寄ると、勢いよく窓を開けスマホを投げた。お姉さんは、高橋夫妻が落ちていったあの光景がフラッシュバックされたのか、顔を床に向けていた。


「研究所に、案内してもらっても良いですか。」


「何しに行くの?」


「櫻井さんに直接会いたいんです。」


「…分かった。」


それから二人は研究所へ向かった。




 研究所には、誰一人として気配を感じなかった。構造や雰囲気は違えど同じ大学のはずが、避難所ではなく廃墟と化している。


「最初は避難所になる予定だったんだけどね、ここだけの話、双葉君の両親がこの人災を起こした犯人だって事になっているから、巻き込まれたくないと言って全員出ていってっしまったの。まぁ真犯人は梅ちゃんだから、勘違いしなくても逃げていたと思うけど。」


「誰が真犯人だって?」


自分たち以外の声がして、慌てて振り返る。そこには一人の女性が、本来の重力の向きに立っていた。つまりこの人こそが、櫻井梅だ。思ったより子供っぽい体格で、髪にメッシュが入っている様な一見研究家らしくない見た目だ。


「あの子、誰。」


「高橋双葉です。」


「高橋さんらの息子さん。」


「あ、そう。何しにきたの。」


櫻井の口調は穏やかで、怒っているのか平常なのかそれとも喜んでいるのか全く分からない。


「謝らせてください。母さんたちの事。」


「…その子に話したんだ。」


櫻井は佳奈を見つめる。声色から、少しだけ悲しそうな感情が読み取れた。


「私は君の事には興味無いんだよね、謝るなら本人の口から聞きたい。まぁ、落ちてったけど。」


「そんな事言わずに…」


「私が言ったよね、“あの子”って。君の事じゃないよ。」


つまりそれはもう一人、この施設に人がいる事を示す。


「…佳奈達の連れじゃないんだ。誰だったんだろう。」


「そんな事より、今の状況を考えて。まだ間に合うかもしれない。」


「…何の事。」


「元に戻そう。いずれ特定される。一ヶ月もなれば、ネットも動き出してる。」


お姉さんも伝えたい事を用意していたらしい。さっき見た記事はそういう心配か。当事者にしか分からない不満を、お姉さんは櫻井にぶちまけた。


「…今更遅いよ、もう壊しちゃったし。研究、嫌いになったんだよね。いっそ見ない方がましかなぁーって思ってさ。だからもう手遅れだよ。そもそも、今戻したところで死んだ人らが帰ってくるとでも思っている訳?馬鹿じゃないの、折角交通整備もこの世界に順応してきてるのに、もう一回混乱を招く事になるだけだよ。」


櫻井は素っ気なく返した。


「そうだとしても…。」


佳奈さんは口論においては双葉よりも弱いかもしれない。そう思ったのも束の間、少し浮遊感を覚えたのは気のせいだろうか。此処に来てからものの五分で当の目的を拒否され任務を失った双葉は、この空間から抜け出すスキを見ていた。僅か三分程で抜けだせたものの、角を曲がる瞬間に櫻井と目があった気がしてならなかった。


 兎に角抜け出せたのには変わりはない。双葉は急いで施設内を周った。するとまたあの浮遊感を感じた。今度は間違いなくはっきりと。それに反応したのか、双葉以外の足音が鳴り始める。その足音を頼りに双葉もお姉さん達と合流し、同時に目的地へと辿り着いた。そこは両親が使っていたであろう研究室がだった。何故分かったかというと、手前の机にメンバー表があったからだ。


「さっきの何なの?まだ何か企んで…。」


「うるさい。」


櫻井はズカズカと中へ入って行く。続けて二人もついて行ったが、止められる事はなかった。


 中は、一ヶ月間放置していたからか所々にホコリが溜まり、四箇所程蜘蛛の巣が見られた。少しアレルギー体質の双葉は咳が止まらなかったが、櫻井はお構いなしに進んでいく。着いて行く途中、双葉はあるメッセージに気が付いた。研究室の一角の机に置いてある計算式が羅列して書かれた紙が、やけに綺麗な状態で置いてある。その数式を見るなり、双葉は違和感を感じた。数式じゃない。これは、昔ある一定のグループにだけ通じるよう紺が発案した暗号だ。あやふやな記憶を辿り少しずつ訳していく。実は、この暗号というのは五文字を使って一文字表す、といった何ともしょうもない暗号の為、一見長々と文字続くようだが、たった一五文しかない。




ー双葉君へ。


 あの時の事を覚えてますか。確か双葉君が幼稚園だった頃、皆で海に行ったでしょ?あの時、私見てたんです。貴方のお母さんとお父さんが、涼太を沈めてる所を。私はこの二十年間、ずっと言おうかどうか迷っていました。これが、私が出した答えです。貴方は、海へ行ってください。そして涼太を助けてあげてください。


 機械は壊してはいません。涼太を助けたら、何時でも元に戻して構いません。貴方に任せます。


 先に感謝を述べておきます。貴方が涼太を見つけてくれる事を信じて。有難う。 


ー櫻井梅




それをぶつぶつと呟きながら双葉は読んでいく。お姉さんは、櫻井に着いていくのかと思っていたが、双葉を心配して隣で待ってくれている。しかしこの手紙を読見終わった双葉からすれば、一刻も早く櫻井を追ってほしかった。


「お姉さん、櫻井さんを追って!」


「何かわかったの?」


「良いから!早く!」


双葉はお姉さんを連れ走った。向かう先は、中庭だ。


「櫻井さん!!」


櫻井の後ろ姿を見つける。やっぱり、櫻井の目的地も、中庭だ。櫻井は何も言わない。こちらにも向かない。彼女が今何を考えているのか、双葉には何となく分かる。分かるのだけれど、何と声をかけて良いのだろうか。


 涼太というのは双葉の実の兄であり、双葉が幼稚園の時に亡くなっている。あまり記憶が鮮明ではないが、兄が溺れているのを助けようと、自分も海へ潜って溺れかけ、その時も紺が誰よりも早く駆け寄り助けてくれたのだけは覚えている。後に覚えているのは、折角の旅行が葬式に変わったというなんとも純粋な感想だけだ。メンバーは、叔父さんが集めたはずだから、双葉が知るはずもない。文脈からしたら、櫻井はきっとあの場にいたのだろう。そしてこれも今だからこそ分かる双葉の予想だが、櫻井は兄の事が好きなのだろう。それなら、母さんと父さんを恨む理由も分かる。両親を殺された身からすれば少し同情し得ない立場ではあるが、たとえ生きていたとしても、これまでの話を聞く限り、しっかり親子の関係を保ちながら生涯支え合うのは難しいだろう。良かったとも言えないし、悪かったとも言えない。


 そんな複雑な感情を、どう助言すれば前向きになるのか。きっとならないだろう。隣のお姉さんに関しては、状況すら掴めていないのにも関わらず、空気を読んで深刻な顔をしてくれている。


「双葉君ら、悪いけど席、外してもらえるかな。」


この状況で外すわけがない。でも、それを口にする事が出来ず、微妙な沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、その場にいた誰もが想像もつかないかった人物だった。


「涼太君に、直接会わなくて良いんですか。」


櫻井がやっと振り返り、その人物を見る。


「実はこの前姉ちゃんに会いに行こうと思って此処に来たんだよ。それで、あの手紙を見た。それから近くの港に行って、確認してきたんだよ。港では、漁業ができない代わりに下に沈んでくる遺骨の鑑定でいっぱいだった。その中にあったんだよ。“高橋涼太”の名前が。」


その人物とは、紺だった。櫻井は紺の手元にある骨壷を見るなり、泣き崩れてしまう。紺が側へ寄り、骨壷を櫻井に持たせると、そのまま櫻井の背をさすってあげる。何も言えないのは紺も同じだったが、寄り添うという形での対応は、充分に櫻井を温めた。


 紺の登場により事が治った後に、櫻井はこの世界を戻す事を彼らに伝えた。そしてまたあの部屋へ戻ってきた訳だが、今一つ、まだ説明の付かない出来事がある事を思い出す。そう、度々感じた、あの浮遊感についてだ。


「あのさ、もう一つ言わなきゃなんない事があるんだけど…この機械、動かないよ?」


紺の言葉に、他三人が口を開ける。


「計画書は?」


とお姉さんが言ったが、申し訳ない、アレはただの暗号文だ。


「あ、ごめん。無いわ。」


「へ?」


「アレ、適当に書いた計画書で、しかもあの機械も、適当に作ったやつだし。」


櫻井は明らかに動揺していた。それもそのはず、彼女の予定ではついさっき死ぬはずだった為、計画書がどうだとか気にする必要はなかったが、生きているとなると、戻さずには不便すぎる世の中である。ついでだが、メッセージに書いてあった『戻しても構わない』という言葉は、凄く良い加減に書いたのだなということに双葉は気付いた。計画書も無く、開発者も作り方を覚えていなければ、どうやって戻せというんだ。僕らは、仕方なくこの世界に慣れる他なかった。

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天地顛倒アイボリー 夕暮 瑞樹 @nakka557286

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