第9話 歯車

 陽子の残したマニュアルには、看守として仕事をしていく上での注意点、施設内部の地図など、それらが記されていた。


『蕾くんの部屋は私たちが最初に会った場所を使ってくれ。今ある物以外に家具を増やしても良いし、何でも自由にしてくれたら良いよ』


 そう書いてあるのを見て、伊坂と蕾はお互いに顔を見合わせる。伊坂がこれ訝しげに眉を下げる中、蕾は表情は変えず、ほんの少しだけ首を傾げた。


 二人の表情は全く違うが、どちらも思っていることは同じだろう。


「「 家具…? 」」


「今ある物って……ソファとローテーブルの他には何もありませんよね?」

「いえ、飲みかけの珈琲が入った少し使用感のある古いマグカップ、それと。私がつい先程まで着用していた服ならあります」


 伊坂は「珈琲……?」と戸惑いを隠せない様子だ。それもそのはず、彼が見たのはただただ白い部屋、そして白いソファとローテーブル。今思えば、あそこには灯りもなかった。


 まさかとは思うが。伊坂はそう考えつつも、心の裡では「あの人のことだから」という自分がいることを隠しきれずにいた。


「……見てみます?」

「確認しましょうか」


 そう言いながら、蕾と伊坂はついさっきまで自分と陽子がいた部屋の戸を開く。


「うわ、何だこれっ!? 」


 目を見開いて驚く伊坂と、常に半開きの瞼を少しだけ大きく開ける蕾。両者の反応には温度差があるが、少なくとも、目の前の光景に驚いていることに関しては同じだろう。


 開いた瞬間に感じたのは、洋館などで感じることのあるどこか埃っぽい雰囲気。そこには、あの白を徹底したような箱はどこへやら、ラグジュアリーな光景が広がっていた。


 床に敷かれたペルシャ絨毯。アンティーク調のキャビネットと書斎机、そしてクローゼットに、カントリー調の棚付きベッド。ご丁寧なことに、壁紙まで貼られている。


 天井にはステンドグラスで作られたペンダントライトが幾つか付けられており、壁には天文時計が掛けられていて……


 これでは、部屋の真ん中にある白いソファとローテーブルが完全に浮いているではないか。こんな物まで適当に持ってきたのだろうか。


「家具を増やす必要はなさそうですね」

「気にするところ、そこなんですか? 」

「自由に使ってもいいとのことですので、ありがたく使わせていただくとしましょう」

「何でそんなに落ち着いているんですか……」



 「看守の掟」に記載されているスケジュールによると、蕾の業務が始まるのは二千二十三年の四月二十三日からと書いてある。具体的な予定はこうだ。


8:00

蓮田はすだ いとと言う子がいるから、彼女に会ってくれ。彼女はだいたい食堂付近をうろうろしているよ。彼女に施設を案内してもらってくれ。功も連れていくこと』



「ふむ……功さん、今日は何日ですか?」

「ええっと──四月の二十二日ですね」

「なるほど」

「明日から早速仕事ですね、頑張りましょう!」

「はい」


 にしても、所々にインクの滲んでいる箇所があったり、棒線で消している部分があったりと、少し作りの粗い箇所があるのは、彼女が全て手書きで作ったからなのだろう。


 最後のページに「ここまでしたんだから頑張ってくれよ」と書いてあるあたり、一応は気遣っているつもりなのだろう。興味のある人物に最低限の餌を与えているだけなのかもしれないが。


「……功さん」

「はい、どうかしましたか?」


 伊坂が蕾の呼びかけに応じると、蕾はマニュアルのページを開いたまま、ぐいっと伊坂の前に差し出す。そこには当然スケジュールが書いてあるのだが。


「朝の、8時以降の予定が……他の日付の予定も、何も書いてありません……」

「──ははっ……」


 呆れや怒りなど、あらゆるものを通り越した結果出たのは。ほんの一瞬だけの、悲哀からくる笑いであった。




─── ─── ─── ─── ───


 その日の夜、伊坂は地下二階、職員寮の自分の部屋に帰っていき、蕾は陽子から与えられた部屋で休息を取っていた。


 あの後、二人は律儀にマニュアルを最後まで読み込んだ。大事なところが抜けていた割には量だけ多く、それを読むのに時間を食ってしまったため、一度別れて休息を取ることにしたのだ。


「はあ……今日は本当に酷い目にあった……」


 伊坂の部屋は清潔感のあるシックな内装なのだが、これと言って個性があるわけでもなく、ただ休むことだけを考えているような部屋である。


 スーツを脱いでハンガーラックにかけると、着替えることもせずにソファに体を沈めてしまう。それもそのはず、彼にとって、今日は色々とありすぎたのだ。


 考えれば考えるほどに疑問が増えていく。なぜ蕾の護衛に自分が選ばれたのか。陽子がカルトロンを放ったとして、それが試験だとしても、それ以上の意味はあったのか。


 今回はカルトロンが小型であったから、ただの拳銃でも太刀打ちできた。だとしても、もしあれがもっと大きければ。


 今回だけではない。これからもカルトロンは生まれてくる。その中には当然、今回のものとは比べ物にならないくらい強力な──


(……やめよう。今日はもう眠らないと)


 そうして、伊坂は目を閉じて眠りについた。


「──さん、きて──さい」


 誰かに体を揺さぶられている。


 ──この声は──


「功さん、起きてください」

「蕾さん……? どうしてここに?」

「カルトロンが出現したとの連絡がありました。我々が出動しなければならないそうです」


 四月二十三日、午前二時十三分。伊坂と蕾は、たった二人で大型のカルトロンを相手にすることになる。

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ジトラステア〜罹患する非情な世界について〜 架空 心理 @kaku_shinri

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