恋愛未満

ももも

恋愛未満

 攻め込まれたことのない城と攻め込んだことのない兵士。

 処女と童貞はしばしばそのような比喩表現で語られることがある。

 ではもし「私のヴァージン、もらってくれませんか」と女の子から言い寄られたら?

 それは城が開門しながらやってきたようなものではないだろうか。

 突然振ってわいた出来事を前に、俺は狼狽える一兵卒でしかなかった。



 三月中旬、高校生でいられる期間は残りわずか二週間を切っていた。

 心残りはたくさんあった。ありすぎてもう諦めるしかない境地で、ぼへーっとするしかなかった。

 青春がしたかった。恋愛がしたかった。

 なまじ進学校だっただけに、学校が大学進学率を上げるのに躍起になった結果、文化祭も運動会も簡素なクソつまらない催しでしかなく、ラブコメで繰り広げられるハチャメチャドキドキ空間なんてなかったし、そもそも男子校であった。

 男子校はそれなりに楽しかった。共学のドロドロの恋愛話を聞くたびに、そういうの全然なかったし男しかいない方が気が楽だわーとうぶいた。嘘だった。心の底で羨ましいとずっと思っていた。

 男子校だから出会いがなかった、なんて言えば「彼女がいる子はいるよね」と姉貴に瞬殺される。学校の外へと飛び立つ勇気がなかったから未だ俺は童貞だった。

 童貞を捨てたかった。あたりまえだ。

 早い奴は中学の時点でもう捨てている。

 同級生、幼馴染、SNSを通じて出会ったOL。

 修学旅行の夜、脱童貞武勇伝を拝聴する立場に甘んじる己を恥じ、人知れず涙で枕を濡らした。


 二年生から通い始めた予備校で女性と接する機会はもちろんあった。

 でも他校の女子なんてハードルが高すぎて、安全圏から一歩踏み出すことなく哨戒に徹していた。

 そもそも時間がなかったのだ。要領がよくない俺にとって、第一志望の大学に受かるためにはひたすら勉強するしかなかった。

 いや、逆だったのかもしれない。時間がないから恋愛ができなかったのではなく、恋愛をしない言い訳のために勉強をしていた。

 恋だの愛だのうつつを抜かしている輩より絶対いい大学に行ってやる。

 そうやって執念やら怨念に近い感情をずっと燻らせ勉強に打ち込んだ結果、無事希望大学に合格し、今日はお世話になった予備校に最後の挨拶へきていた。


 帰り際、廊下から自習室をのぞくと未来の受験生たちがゾンビのような顔をしてテキストを読み込んでいた。がんばれよとつぶやきながら、多分、ここにくることはもうないだろうという想いが込み上げる。

 高校をホームとするなら予備校は受験という、ただ一つの目標に突き進む通過駅だ。予備校にも友達がいたけれど席を取り合うライバル意識もあってやや淡白な間柄で、これから会うことはほぼないだろう。

 名残惜しさを感じながら歩いていると、女の子が一人、廊下へ出てくるところであった。こちらに気づくと、はっとした顔をして肩にかかる黒髪が揺れた。文系コースの柳原さんだ。特進英語クラスを同じ教室で受けていたぐらいの接点しかなく、個人的に話した記憶はない。けれど教室の隅で黒縁メガネをかけて物静かに参考書を読む姿がよく目に入り、文学女子っぽい子だなと自然に名字を覚えていた。

 彼女もお別れの挨拶に来ていたのだろう。

 会釈して彼女の横を通り過ぎようとしたら不意に袖をクイっと捕まれ、えっと顔を横に向けると、まっすぐ俺を見つめる柳原さんと目があった。

「吉岡くんも来ていたのんですね」

 まさか名字を覚えられていたとは思わずどきりとする。

「あ、うん、最後だし」

 気になっていた女の子に声をかけられて、あからさまに喜んでいるのがバレないよう冷静な声を出そうとして、まるでダメだった。普通に声が上擦っていた。

「このあと、時間ありませんか」

 これはご飯の誘いか。センチメンタルな気分を柳原さんも感じたに違いない。それに受験が終わった者同士、話したいことは山ほどある。

「もしご飯なら他の奴らも呼ぼうか。すぐ来そうな奴がちらほらいるし」

 正直、二人だけでは会話が途切れた時に非常に気まずい。スマホを取り出そうとした俺の手を、そっと柳原さんの両手が包み込んで制止した。

「いえ、大丈夫です」

 握られた手の温かさに心臓が飛び跳ねる。スマホを落としそうになって慌てる俺を見て彼女は一瞬、固い表情をしたあと、意を決した顔をした。

「あの……私のヴァージン、もらってくれませんか?」




「どうして俺なん?」

 何度目かの疑問を目の前のクリーム色の壁に向かって吐いた。

 気分的には「どうして俺なん!!!」と叫びたかったが、先ほどシャワー室へと向かった柳原さんに聞かれるわけにはいかないので、ボソボソの音量で言うしかなかった。

 柳原さんに誘われるままノコノコとラブホテルまできてしまった。

 いや、ノコノコではなくボコボコだ。すでに満身創痍である。

「〇〇駅」「未成年」「ラブホ」で調べた無人ラブホテルに辿り着くまでの道中、「兄弟はいますか」「はい、姉がいます」「同じですね」「……」「……」といった質問と返答と沈黙のループがひたすら続いてだいぶ辛かった。なんとか話を続けようと焦って空回りしまくって、きちんと受け答えができていたか怪しい。雲がかかって月も見えない寒空の下、隣を歩く柳原さんの表情がはっきり見えなかったのは幸いだったかもしれない。

 そもそもだ。こういうのは告白してお互いの意思を確かめ合って、映画や遊園地デートをして親睦を深めて、到達しうるものだと思っていた。こんなにも唐突にポップするようなイベントじゃない。

 何かフラグはあっただろうか。

 柳原さんが俺に一目惚れしたから、なんてほざけるような人生ではなかった。

 そんなものはバレンタインデーという地獄イベントで小学生の時点で薄々感じとって、中学で決定的に分からせられる。余った友チョコ回収係でしかなかった俺にとって、高校は男子校でよかったと思える数少ない利点であった。

 もしかして忘れてしまった遠い昔、俺と彼女の間に何かあっただろうかと考えてみたが思い当たる節はない。

 どうして俺なのかという疑問は尽きないし、俺でなくてはならない必要性を知りたかったけれど、理由を探るようなマネをして、やっぱりやめたと言われたらイヤだと考えるぐらいには下心があった。

 ここまできたのだ。これからのことに集中しよう。十八年目にして、ついにこの日がきたのだ。もう後戻りはできない。

 ゴムをつけるのに手間取って萎える奴は超萎える、という姉の愚痴を聞いてから、つける練習だけは積んできた。

 あとは行為に至るまでの脳内トレーニングだ。

 まずは愛撫。手の甲でお尻をソフトタッチして、太ももをねっとりと這い回るように撫でて、そして丸いヒップを揉み込んで……待て待て待て、これでは痴漢だ。普段どんなAVを観ているのかバレる。

 じゃあどうすればいい? 文明の利器スマホ人類の叡智インターネットに頼ろう。

 だが検索しても何の具体性もないマウントアドバイスばかりでまったく役に立たない。人類なんてそんなものだ。もうだめだ。おしまいだ。やっぱり早すぎたのだ。

 起死回生の策はないかと悩んでいると、背後からドンっと何かが落ちる音が聞こえて、体が縮み上がる。

 シャワー室の方からだ。柳原さんがシャンプーを落としたのだろうかと考えたところで、はたと気づいた。これからのことで頭がいっぱいで、音という音を無意識にシャットダウンしていたが、よくよく考えれば一度たりともシャワーの音が聞こえなかった。

「柳原さん、何かあった?」

 ドアの前に立ちノックをするが返事はない。目まいとか急な腹痛とかで倒れていないだろうか。ドアノブを回すと、くるりと回った。

 入るべきか、入らざるべきか。それが問題だなんて言っている場合ではない。裸だったらごめんと詫びをいれながら扉を開ければ、トイレの前で柳原さんが座り込んでいた。

「柳原さん!?」

 真っ青な顔をして体を震わせている柳原さんに駆け寄ると、彼女は下を向いたまま首を横に振った。

「ごめんなさい……やっぱり無理。こわい」

 期待感がみるみる萎んでいく。

 開門していた城はいつの間にかピタリとしまっていた。



 柳原さんはベッドに座り、うつむいたまま泣き続けていた。

 女の子がいきなり泣き出したらとりあえず黙って見守っていろ、という脳内姉貴の助言のもと、飲み物を渡したあとはベッドの片隅に座って今週のジャンプのことをぼんやり考えていた。

 まあアレだ。無理と言われた瞬間、やっぱりなと思った。そんなにホイホイうまくいくわけがないし、なんとなくこうなるんではないかと薄々思っていたから落胆は大きくない。だてに長年、童貞をやっていない。童貞卒業した場合より、童貞残留が決定したパターンばかり考えてしまう。

 それに今まで貯めに貯めたこのドロドロの情欲をぶちまけたい、というほどには、今の俺には必死さとか泥臭さとか、何もかもが足りなかった。

 もし滑り止めすら受からず浪人が決定していたら、こうも冷静でいられなかったかもしれない。でも、なんというか現状に満足していて燃え尽き症候群で、感情のまま動くにはやけに冷静な自分がいて、本能より理性が勝ってしまう。


「なんでなんもしないの」

 ジャンプ二号分ぐらいの回想が終わったあたりで、背中越しに柳原さんの小さな声が聞こえた。

 ――このパターン、下手なことを言ったら噛みつかれるぞ。言葉を選べ

 脳内姉貴がいよいよ具現化してきた。このままずっと横にいて欲しい。

 だが言葉を選べと言われても無理と言われた直後に、なんでなんもしないのって聞いてくる思考回路がどうなっているのかまるで分からず、言葉が何も出てこなければ選びようがない。

 姉貴、どうすればいい? とりあえず柳原さんの方へと振り返ってみたものの何をしていいのか分からない。

 ――うーん、なんかめんどくさくなってきたわ。まぁ頑張って

 脳内姉貴はそう言い放つとどこかへ行ってしまった。

 しまった。脳内姉貴をイメージ通り思い描いた結果、飽きっぽいところまで忠実に再現してしまった。それにこの姉ときたら弟が窮地にいたらゲラゲラ笑って見捨てるような人だった。

「私ってそんなに魅力ないかな」

「そ、そんなことないよ! 同じクラスを受けていた時から、ずっと気になっていたし」

「そうなの?」

 柳原さんはようやく顔をあげ、弱々しい笑みを浮かべた。とっさに口からでた言葉は正解だったようだ。

「受験でいっぱいいっぱいで恋愛らしいこと何もしてこなかったから、そういうこと言われたの初めてかも」

 顔にかかる髪をさらりと耳にかけながら、柳原さんはため息をついた。

「私さ、一番行きたかった大学に落ちちゃったんだよね。諦めたくなかったけれど、女の浪人なんてありえないって親に言われて滑り止めのところにいくんだ。努力と比例して偏差値がアップするなら文句はないけれど、全然そんなことないじゃん。こっちが色々やりたいこと我慢して勉強している間に、要領はいい子はカラオケとかデートとかしながら、私が行きたかったところにさらっと受かっちゃうんだよね。不公平だよ」

 そういうものだよ、なんて言えるわけない。

 俺だって最初に目指していたのはもっと上の大学だった。悲惨な模試の結果を見て、自尊心がへし折られて、偏差値をどんどん落として、ギリギリ受かるラインの大学を第一希望にしただけだった。

「俺も国立にいきたかった」

 つられてボロリと本音が漏れた。満足しているなんて嘘もいいところ。これだけ努力したのだから、第一志望に受かったんだって満足したい。そんな強がりでできたハリボテだ。

「分かる。行きたかったよね。この短期間で七科目できる人間って何なの? どういう時間配分したらいいのか理解不能」

「ほんとそれ。でも世の中には共通テスト全教科満点のやつとかいるんだよな。どういう頭してるのか分からん。ケアレスミスをしないなんて無理」

「ケアレスミスはただの実力不足です。ケアレスミスしてしまったと言っているうちはまったく減りません」

「耳がタコになるくらい言われたわ」

「私も。でももう、言われることないんだよね」

「そうなんだよなあ」

 あんなに早く終わってくれと願った受験は泣いても笑っても、もうやり直しはできない。結果を受け入れて進むしかない。

「ていうか吉岡くん、思ったよりしゃべるじゃん。なんだったの、あの道中」

「男子校だったから女の子に慣れてないんだよ。柳原さんこそ、さっきからキャラ違うし」

「う、うるさい。こっちだって男性免疫がなくて緊張していたの。何年、処女やっていると思っているんだ。手を繋いだことすらないわ。あーもう高校でヴァージンを捨てられない女なんて女として終わっている」

「え、そうなの?」

「そうなの。私の周りで処女じゃないの私しかいないし。だから大学行く前に手っ取り早く処女だけでも捨てたかった。勢いでやれはできると思っていたけれど……でも、やっぱり怖い。本当にごめんなさい」

「この際、なんで相手が俺だったのか聞いてもいい?」

「何となく知っている予備校だったから。もしクラスメイトだったら後から噂が立つかもしれないし、アイツ、処女捨てたいから焦ってやった、なんて絶対に言われたくなかった。何年か後に同窓会であった時に気まずいし」

「学校のやつじゃなければ誰でもよかったってことかー」

「誰でもってわけじゃないけれど、あ、でも吉岡くんに気になったって言われて嬉しかった。ちょっと自信もてたよ。ありがとう。それと、私の変な意地に付き合わせちゃってごめんね。お金をだすぐらいしかできないけれど」

 柳原さんは俺が何かいう前に立ち上がり、ドアへと向かっていった。

 多分、もう会うことはない。本来は交わらない点と点同士がちょっと衝突しかけて反発しただけだったのだ。柳原さんは可愛いし、きっと大学で初めての恋を見つけると思う。

 でもよかった。

 なんてことはない。女の子のことがよく分からなくて怖いと怖気付いて、城を築いていたのは俺の方だったのだ。障壁なんてないと分かれば、こうして話せる。それを知れただけでも満足だった。彼女の背中を見送りながら心から思う。

 ――本当にそうか?

 そうやって今までどおり、満足だと自分に言い聞かせているだけではないのか?

 失敗したくない、打ちのめされたくないと殻にひきこもって自分で引いた線を越えようとしてこなかったのは誰だ?


「や、柳原さん!!」

 いきなり叫んだ俺に、柳原さんはびっくりした顔をして振り返る。俺は勢いのまま、その場で五体投地した。

「な、なななな何??」

 ドン引きしているのが声で分かる。こっちだって無茶苦茶に恥ずかしい。でも構わない。

「俺と……俺と付き合ってください!!」

 恋の駆け引きなんて分からない。だって本当に恋愛なんてしたことがない。だからストレートを全力で投げるしかない。

「え? いや、でも、勢いで言ったとはいえ、いきなり処女もらってくれって言う女、どう考えても地雷だよ? やめた方がいいよ?」

「今日ほぼ初めてしゃべったのに、内面なんてわかるはずないじゃないですか。俺は柳原さんのこと、本当にずっと気になっていたんです。それに今、このチャンスを逃したら俺はこの先、一生童貞かもしれないんです! いや、今すぐやりたいってわけじゃなくて、もっとお互いのことを知って、相手が俺でも嫌じゃなかったら、その時……俺の童貞をもらってください!!」

 柳原さんは硬直しているのか、何も動きがない。いや、めっちゃ気持ち悪いこと言ってんなコイツと気づいたら嫌な汗が穴という穴からダラダラと流れ始める。現在進行形で黒歴史が刻まれている。叫んで走って逃げたいとパニック状態の頭をツンツンと突かれた。恐る恐る顔を上げれば、泣き笑いをしている柳原さんの顔があった。

「私、恋愛経験ほとんどないから人との付き合い方、分からないよ」

「お、俺もです。皆無です」

「お互い様だね。じゃあ、一緒にゼロから始めようか、恋愛」

 差し伸べられた手をつかむ。どちらの手もしっとりと汗ばんでいて、何とも言えない感触にお互い苦笑いをした。


 これはもしかしたら、やけっぱちから始まった、恋愛なんて何も分からない二人の、恋とは言えない何かかもしれない。でも実体なんて後からかたどっていけばいい。

 ようやく踏み出せた初めての一歩。ここから始めよう。
















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