サマー・ホワイト
藤野悠人
サマー・ホワイト
今年は最悪だ。とことんツイていない。薬局から出て、痛いほどの夏の日差しに焼かれながら、私は溜息をついた。
一月には財布を落とし、二月にはスマホが壊れた。春先に風邪を引いて気管支炎になり、先日は階段を踏み外して左足首を骨折した。いま、左足はギプスで固定され、松葉杖を突いてひょこひょこ歩きだ。
「はぁ、もう……。ホントやだ」
帰宅すると、私の足を見た姉がギョッとしていた。
「ちょっと、どうしたの
「骨折してた」
私がそう言うと、姉は気の毒そうに眉根を下げていた。
翌日出勤すると、同僚たちも似たような顔をしていた。ご迷惑おかけします、と私は頭を下げる。
本当に、今年は最悪だ。とにかくツイていない。
夕方になっても、全然涼しくならない季節。ケガのせいで歩くペースが遅くなっている私には、最寄り駅と自宅の間さえとても長く感じた。
ある日の帰り道。私は、一匹の猫に出会った。
「わぁ、真っ白!」
思わず声が出た。日陰になっているブロック塀の上に、雪のように白くて綺麗な猫がいた。くりくりした大きな金色の目が、じーっと私を見つめている。手を伸ばして撫でたいけれど、松葉杖と鞄のせいで両手は塞がれている。
「はぁ……、ほんとツイてないなぁ」
そうぼやいていると、なんと白猫の方から私に寄って来てくれた。軽やかに地面に着地して、右足の方へすりすりと体を擦りつけてきた。
白猫はほっそりとスタイルが良く、尻尾も体と同じくらい長い。ずいぶんと人馴れした様子だ。首輪は着けていないけれど、誰かに飼われているんだろうか。
「ねぇ、あなた散歩中?」
なんとなく声を掛けてみる。白猫はちょっと上目遣いになって、そうだよ、と言うように一声鳴いた。その声もずいぶんと美声だった。見たところ、性別はメスらしい。育ちの良いお嬢様みたいな猫だ。
「そろそろ帰った方がいいんじゃない? 飼い主さん心配するよ」
私がそう言うと、彼女はちょっと小首を傾げて私の足元から離れていく。飽きちゃったのかな。名残惜しくて眺めていると、少し先で立ち止まって、私の方を振り向く。尻尾を少しだけ振っている。
「気を付けてね」
そのまま通り過ぎようとすると、白猫はまた近寄ってきて一声鳴いた。こちらをじーっと見つめている。そして、また私から少し離れて、振り返ってこちらを見る。
……まさか、と思って、私は杖を突きながら白猫に近付く。すると、彼女はゆっくりと歩き始めて、また少し先で私を振り向いた。
信じられない。この子、私を呼んでいるみたい。そう思ってまた少し近付くと、彼女は少し歩いて振り向き、また近付くと少し歩いて振り向いた。そうして私たちは付かず離れず、どこかに向かって歩いて行った。
しばらく歩くと、ある路地の中にやってきた。初めて来る場所だ。白猫は、ある扉の前で座り込むと、開けて、と言うように小さく鳴いた。扉の脇にはプレートが掛かっていて、こう書いてあった。
『
大丈夫かな、と思いつつ、ゆっくりと扉を開けた。小さなドアベルの音と、ふわっとしたコーヒーの匂い、ほんのり涼しい空気が迎えてくれた。白猫がするりと中に入っていく。
そこは木目調の、優しくてほっとする色合いのお店だった。いくつもの木の棚には、ハンカチやタオル、ペンに手帳にトートバッグ、花瓶や便箋が並んでいた。壁には大小様々な時計が掛かっていて、みんな好き勝手な時間を示している。一番奥には、椅子の並んだ小さなカウンター。そこにひとり、店員らしい女性が座っていた。
「あら、いらっしゃい」
「あ、どうも」
思わず会釈を返す。私をここまで連れてきてくれた白猫が、彼女の隣の椅子へ軽やかにジャンプした。店員の女性が、白猫の頭を優しく撫でる。
「あの、このお店、まだやってますか?」
私が訊くと、店員の女性はにっこりと笑った。
「えぇ、ゆっくりしていってください」
彼女はカウンターの奥に歩いて行く。松葉杖が棚に引っ掛からないように気を付けながら、私は椅子に座った。
「あの、私、この子のあとを付いてきて……」
隣の椅子の上では、白猫が長い尻尾をぺたん、ぺたんと動かしている。
「あぁ、やっぱり。たまにいるんですよ、
「この子、小雪ちゃんって言うんですね」
「はい。雪みたいに真っ白ですから」
彼女はカウンターの奥から、お
「何か飲まれますか?」
私はさっとメニュー表に目を通した。
「えっと、アイスコーヒーで」
メニュー表にはコーヒーがいくつかと、『日替わり、もしくは店長ツバキの気分次第で小さなスイーツ』と書かれてあった。
「もしかして、ツバキさんってあなたですか?」
私は目の前に女性に尋ねる。
「はい、ツバキの花の
「あ、どうも、
「あら、お互い冬繋がりですねぇ。椿も冬の花ですから」
椿さんが淹れてくれたアイスコーヒーは、熱い中を歩き回った後ということもあって、染み渡るように美味しかった。一息ついたところでふと思い出して、私は椿さんに聞いてみる。
「そういえば、小雪ちゃんはここで飼ってるんですか?」
「いえ。実はこの子、野良猫なんですよ」
椿さんは困ったように笑った。
「ちょっと前にやってきて、ここが気に入ったのか、すっかり居着いちゃったんです。猫なのに散歩好きで、たまに冬子さんみたいにお客さんを連れてきてくれるんですよ」
椿さんはそう言って笑うと、小雪ちゃんの顎を撫でる。小雪ちゃんはゴロゴロと小さく喉を鳴らしていた。
棚に並んだ品物を見ると、店名にちなんでか、どれもあちこちに可愛らしい猫がいた。どれも可愛くて、目移りしてしまう。
その時、再びドアベルが鳴って、別のお客さんが入ってきた。
「あら、いらっしゃい」
「どうも」
私と同年代くらいの、男の人だった。
「ちょっと寄りました。あ、どうも」
私に気付くと、彼は軽く会釈をする。慌てて会釈を返した。
「そういえば、
「そうでしたね。もしかして……」
二人の視線が私に向く。
「あ、はじめまして、
「へぇ、俺もなんですよ。
井上さんは人懐こそうな笑顔を浮かべて、空いていた私の隣の席に座った。
今年は最悪だ。とことんツイていない。さっきまでそう思っていたけれど、意外とそうでもないのかも。
小雪ちゃんが私を見て一声鳴いた。
「けっこういい所でしょ?」
そう言ったように聞こえた。
サマー・ホワイト 藤野悠人 @sugar_san010
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