四、仲間

 まずは軽い柔軟をして、それから有酸素運動を始める。今日はサイクリングマシンの気分次第。少しずつ設定を強めながら「ややきつい運動」の心拍数でキープ。最後に一分間のクールダウンも含めてきっかり三十分で終了。あとは筋トレ用のマシンを一通り。呼吸を意識しながら、ゆっくりと身体に負荷をかける。

 最後のマシンから立ち上り、身体が軽くなったように感じるこの瞬間が好きだ。しっかり汗を拭いて、透子と柔軟をして、着替えのために一度分かれる。

「お待たせ」

 スポーツウェアから普段着に着替えた透子と並んで歩き、自動ドアをくぐって一緒に外へ出た。

 桜並木からは花がほとんど散って葉桜になっていた。来た時も思ったが、それだけだというのに、ずいぶんと長い時間が経っているような気がしてくる。

「ちょっと間が空いたから、いつもより疲れた気がする」

 透子も「私も」と微笑む。

 間食が増えた割には体重は変わっていなかった。“むこう”での活動が身体に及ぼす影響をいまいちよくわかっていない。適切な食事量とか、今度店長に相談してみよう。

「やっぱり、定期的に行くようにしないと……」

 隣を歩く透子が可笑しそうにしているので、建前は尻すぼみになっていった。

「心配しなくても、ちょっと行かなくなったくらいでやめようなんて言わないから」

 なんだか自分がひどく子供じみたことをしている気がした。やっぱり、何事も素直に話してしまうのが一番いい。

「期待していたんだと思う。ファンタジーの世界に行けて。そこでヒーローになれるんじゃないかって。でも違った。ただの現実があるだけだった。そこには、頑張って働いている人たちと、悲しい思いをする人たちがいて……。怪物がいて、戦うための不思議な力があるってだけだった」

 僕が戦わなくても、それで世界が滅びるわけではない。今までがそうであったように、世界は回り続ける。僕が世界に及ぼせる影響は、自分の周りにいる人たちの少しの助けになれる程度でしかない。けれども、それで十分なのだと思う。きっと誰もが同じだ。

「だから僕も、一緒に戦いたいって思うんだ。これからも、ずっと」

 先にヘルメットをかぶって頬の紅潮を隠した。

 バイクにまたがると、後部座席に座った透子が腰に手を回してくる。その手つきが子供を撫でるように優しかったもので、気恥ずかしさなど易々と貫かれて、もたらされる強烈な安堵感に、何の抵抗もなく身を委ねることができた。

(僕にとってのファンタジーは、昔も今も透子だよ)

 背中の透子がぴくりと驚いた。キーを回してエンジンを掛ける。少々悔し気に、腰が細腕に優しくしめつけられた。やっぱり、素直に話すのはいいものだ。ゆるやかにスロットルを絞り、緑の桜並木を後にする。



 解放していた鎌を普段の姿に戻し、一息ついた。

「だいぶ続くようになってきたな」

 隣で見ていた道也さんがそう褒めてくれるが、今一つ納得がいかない。

「でも、動きながらだと長続きしないんですよね」

「一ヶ月でこのペースはかなり早いほうだぞ。練習の成果が出てる。……と、いうわけで次はもうちょっと難しい練習をしよう。俺を追いかけて、当てるときだけ解放する。解放している時間が短ければ短いほど消耗を抑えられるから、それだけ長く戦えるようになる。地味だけど、できるのとできないのとではかなり差があるから、覚えておいてほしい」

「それって、道也さんを斬るってことですよね?」

 たとえ練習であっても攻撃を当てるのは抵抗がある。しかし道也さんは挑戦的な笑みを浮かべた。

「当てられると思ってるのか?」

「確かに、それもそうですね」

 率直に答えると「おいおい」と道也さんは苦笑した。「まあ、とにかくやってみよう」と冑をかぶって手近なビルへなめらかに走っていった。

 道也さんはビルの眼前まで行くと、減速しつつ軽いスピンで体の向きを九十度横に変えた。右肩と右足の車輪を当てて、ビルを斜めに駆け上がっていく。フードをかぶり、天に上る道也さんが壁面を走っていく先。そのやや上、ビルの角を目掛けて跳躍した。

 かかとをつけ、次に土踏まずを角に引っ掛け、最後に足先を跳躍前には見えていなかった側の壁面へ。そうして勢いを殺しながらしっかりと踏みしめ、鎌を解放し構える――眼下の道也さんへ、壁面を蹴って落ちるように距離を詰め、振り下ろす。

「お、やるな」

 鎌の柄が甲冑の肩を打ち――そのまま道也さんと重なり合って一緒に地面に激突した。

 目測を誤った。解放に気を取られて、距離を詰める際の速度と鎌を振るタイミングが一致せず、振るのがわずかに遅れてしまった。

「すみません」

 下敷きになっていた道也さんからどいて起き上がる。急ぎのため、鎌を杖のようについて身を起こした。すると突如、鎌が鈍色の光となって飛び散り、消えてしまった。

「今ので武器が壊れたんだ。だいぶ練習してたし、中の魂がなくなりかけてたんだろうな。壊れたっていっても明日になればまた使えるようになるから心配しなくていい」

 起き上がりながら、「壊れた」という単語に反応し驚いていた僕を安心させようと諭すように言った。

「当てる練習はまた次にやるとしよう。代わりに防具の能力を練習して、今日はあがるか。武器と立ち回り優先で後回しにしてたから、そろそろやらないとな」

「はい」

「といっても、俺が教えられることなんてほとんどないんだけどな。基本的なやり方は武器の解放と同じだし」

「わかりました、やってみます」

 目を閉じて、防具の深い底へと自分を沈めていく。……陰に潜もうとする想い。泥棒かストーカーだろうか?あまりいい印象は浮かばない。

 防具全体に意識を張り巡らせると、肩に何かがあると感じ取れた。今まで無視していたことを謝るように触れると、それは受け入れられ、全容に手を触れるのを許してくれた。応じて、自分を注ぎ込むと理解できた。この何かは自身に取り付けられた異物などではなく、生まれたときからずっと存在していた感覚器官のひとつだったのだということを。

 薄いそれを無秩序に広げてみる。次は縮めて形を変え、マントらしく足元まで伸ばす。歩いてみると、動きに合わせて揺れる。その場で回ってみると、たなびいた。

「それがその防具の能力だ。自在に形を変えられて、想いを覆い隠せる。あと、黒い物に紛れて、目で見るタイプの魔物を欺くことができる」

「この能力で前回の魔物を倒すことはできなかったんですか?」

「今の俊じゃ、あれだけデカい魂を持ってた魔物は無理だな。すぐバレる」

「それなら、使いこなしてみせますよ。死神っぽくていいですね」

「その意気だ」とうなずく道也さんに笑い返そうとしたが、疲労が急激に押し寄せてきたためうまくいかなかった。

「新しいことを覚えると疲れるよな。近くでなんか食ってから帰ろう」

 霞のかかった頭でバイクを運転する気にはなれなかった。手ぶらだとなんだか気まずいな、と思いながら道也さんと一緒に“霧”を抜けた。



 真上の太陽が眩しかった。色彩に乏しい“むこう”から戻った直後はなんてことないビル街も絶景に見える。この建物に関わったすべての人に感謝を。

「俊は報告ってしたことあったか?」

「いえ、まだです。教わってはいたんですが」

「じゃあ今日やってみるか。手順は覚えてるか?確認しながらやろう」

「はい。まずは……」

 もっと早く自分から言い出すべきだったのではないかと内心冷や汗をかきながらアプリを立ち上げた。

「マップアプリを立ち上げて……位置情報を責任者……店長と共有して……」

 道也さんが顔を近づけてきて、横から画面を覗く。一工程ごとにうんうんと頷き、合っていることを示してくれた。

「“雲”の方角と状態のレベルをメッセージで送信……」

 道也さんが提案したのは僕が自分から言い出さないのに業を煮やしたからではないかと思えてきて若干声が震える。

「各レベルの定義は?」

 突然の質問に心臓が飛び跳ねたが、努めて冷静に答える。

「1が『白い“雲”の状態』。2が『色がついた状態』。3が『内部に向かって収縮が確認された状態』です」

 道也さんは満足げに大きくうなずき、親指を立てた。

 メッセージに方角と数字だけを入力し、送信した。

「あとはメッセージを送った先に電話して、今送った内容を口頭で報告して終了です」

「よろしく」

 十コールになるかどうかといったあたりで店長が出た。

「報告です。南西、レベル1。以上です。……はい……はい、わかりました。失礼します」

「店長、何か言ってたか?」

「今日が給料日なので口座に振り込んでおいたと」

「そういえば今日だったか。よし、お疲れ。行くか」

 すぐ近くにあったファミリーレストランに道也さんと入り、二人掛けのテーブル席についた。立てて置いてあった季節のスイーツのメニューを広げてしばらくふたりで眺めてから、ドリンクバーと、ちょうど食べたいと思っていたガトーショコラがあったのでそれをタブレットから注文。道也さんは意外にも何度か迷って、いざ注文を確定しようとすると注文の変更をして、それを三回やってようやく確定のボタンを押した。

 外は日差しが強く暑かったのでまずは冷たい物を飲みたい。アイスコーヒーとコーラ。店内を見渡してみると、平日の昼過ぎだけあって人はほとんどいない。

「だいたい一ヶ月くらいになったか。どうだ?仕事には慣れたか?」

「おかげさまで」

 ご機嫌取りでも定型句でもなく、本心からそう言えた。

「そうか、ならよかった。……何か訊きたいことはないか?気になってるなら些細なことでも遠慮なく訊いてくれ」

「はい、それじゃあ……」

「お待たせしました。苺のブリュレパフェはどちら様ですか?」

 道也さんが無言で手を挙げる。ガトーショコラの皿も置かれて、店員が去って行くまでふたりでじっと待った。

「この前の魔物、僕が倒せるように誘導してくれたんですか?」

「ああ。そうできないか事前に黒田さんたちと話した」

「やっぱり……」

「勘違いするなよ。やるとはいっても、できそうだったらとしか決めていない。無理そうだったら他の人が倒すことになってた。だから、最後のあの一撃はあくまでも俊の実力なんだ。俺たちができるって信じて任せた結果なんだから、それを疑ってほしくはないな」

「すみません。ありがとうございます」

「いいさ。そんなことより、他に訊きたいことはないか?なんだっていいんだぞ」

「そうですね……プロの人たちって普段はどんな仕事をしているんですか?」

「見回りと観測。まあ、担当しているのはバイトがいない場所だから、俺たちと比べてかなり広いけど」

「どこにでもいるってわけじゃないんですね」

「バイトってそこそこ人の多い所じゃないと成立しないんだよ。一人二人でやらせるには危ないから」

「でもプロはそうはいかないんですよね?」

「そうだな。基本一人で、バイトが倒せなかったやつも、異界のやつも倒せないとプロにはなれない」

「異界ってどんな感じなんですか?」

「こっちと同じような景色が、“むこう”にぽつんとある感じ。物の形が不自然だとか、文字が意味不明だとか、そういう不気味な違いがあったな」

「行ったことがあるんですね」

「何度かな」と道也さんはあまり話したくなさそうだったが、じっと目を見ていたら仕方なさそうに話し始めた。それを見て、自分の自制心のなさが恥ずかしくなった。

「俺、プロ試験を受けたことがあるんだよ。落ちたけどな。プロはひとりで強いのを倒せないといけないから、その練習で行ったんだ」

「プロを目指しているんですね」

「実は、今年は受けなかったんだ。受かるかどうかわからなかったから」

 道也さんが受からなかったということに衝撃を受けていると、道也さんは苦笑して「食えよ」とフォークでガトーショコラを指した。

「難しいんですね」

「難しいというか……まあ難しいんだけど。それ以外にも色々あって、そこで引っ掛かった感じ。機密だから何をやったのかは言えないけどさ」

「……ということは道也さんってプロじゃないと倒せない魔物にも勝てるんですね」

「一応な。前回はあれだったけど」と控えめに笑って道也さんはコーラに口をつけた。「俊はどうだ?プロに興味はあるか?」

「なくはないですけど、道也さんが落ちたのに僕が受かるとは思えませんし……そもそも僕が受けられるものなんですか?」

「所属する地域の管理者、うちなら店長に受けたいって言って、受験するだけの実力があると認めてもらえれば受けられる。何年もやってて落ちた人もいれば、入って半年くらいで受かった人もいる。だからつまり、頑張り次第ってことだ。ちなみに受けられるのは年に一回まで。手の空いた人が試験官をやるから、決まった日にちはない」

「そうなんですか」

 思わぬときに示された未知の進路に思いふけっていると、道也さんはグラスを大きく傾けて残りを飲み干した。

「俺のことは気にするなよ。俺がどうだったかなんて俊には全く関係がないんだからな。自分のことだけ考えて、がむしゃらになってやってみろ。できるかできなかったかなんてのは、終わってから決めることなんだからな」



 手近なビルに跳び乗って怜奈さんと二人、遠くの空を眺める。

「レベル1、南東」

 駅から見えるギリギリの位置。靄のような“雲”を見つめながら怜奈さんが告げた。

「あの辺りは国道ですね」

 美影市の東部には北から南にかけてまっすぐ国道が通っている。店舗や工場が軒を連ねていて、交通量が多い。大型車両も多く通るので好んで行くことはあまりない。

「だいたいどの辺か見て来ようか。“霧”があるかどうかもね。次の人が楽になるし、私たちの装備なら行って帰ってくるのも楽だし」

 怜奈さんの提案に「はい」とうなずいた。色彩に乏しいこの世界ではあっても、遠くにまで一気に駆け抜けていくのは楽しそうだった。

「あ、そうだ。あいつと実戦的な練習を始めたんだっけ?せっかくだから、移動のついでに私ともやっていこっか」

「はい、よろしくお願いします」

「追いかけながら斬る練習だったっけ?じゃあ私とは、避けながら目的地を目指す練習をしよっか。あそこに向かって行く俊を、私が銃で撃つ。建物を盾にするのはいいけど、止まって隠れるのは禁止。常に前進し続けること」

「はい」とうなずく。

「撃つ前に必ず防具の能力を使うから、それをヒントに避けてね。もうわかってると思うけど一応説明しておくと、より高く跳べるようになるって能力ね。……あ、実戦を想定してだから鎌は持ったままでね」

「わかりました」

 後ろ手に右手の指で大鎌の柄を弾いて一回転させ、構え、肩に担ぐ。固定を緩める技術を最近道也さんに教わった。この構え方は、背に固定する際、鎌の刀身は上のほうがいいか下のほうがいいか道也さんと議論した結果、上だという結論になり、ではそこからどう構えればかっこいいかという議論に発展した末の産物だった。

「……別に俊がいいなら何も言わないけど、あんまりあいつの影響受けないほうがいいよ。私もさあ、ライフルのレバーをコッキング?するときにクルッて一回転したら絶対かっこいいからって言われてるんだけど、そんな無駄な動きをしても隙になるだけだってのに」

 じっとりとした目を向けてくる怜奈さんにまさか僕も乗り気だったとは言い出せなかったので、開始の合図もしないで、逃げるように全力でその場から跳んだ。

 着地後も決して勢いを落とさないよう、地を全力で蹴り続け、怜奈さんとの距離を引き離していく。

 背後。強い想いが短く発せられた。僕にもわかりやすくするためにわざと強く発している。『もっと高く』。これは、克己心だろうか?戦いのなかで跳躍の前の玲奈さんから何度もかすかに感じ取れていただけの気配をようやくはっきりと知ることができた。位置は高い。急ぎすぎたので距離は曖昧になってしまったが、たぶん観測をしていたビルの上だ。

 振り返って頭上を確認すると同時、側面からリボルバーの発砲音が聞こえた。

 弾丸が、地面を蹴ろうとしていた足を正確に撃ち抜くのを、かろうじて目が捉えた。込めていた力が弾の衝撃によって暴発し、制御を失った身体が浮き上がって、飛び越えようとしていた真っ黒な何かに頭から激突してしまう。

「すぐに立て直す!」

 感触で何かを判別している暇もなく体勢を立て直して、再び地面を蹴って駆け出す。

 想いを感じた位置と玲奈さんが発砲した位置が違った。これは練習として成り立っているのだろうか?だが考えてみれば、能力を使った後は跳躍をしているのだから、それは当然のことだった。今、僕が導き出さなければならないのは、なぜ怜奈さんはそれをヒントだと言ったのかだ。

 さっきまでいた美影駅の西側は商業施設や歓楽街が主だが、東側は住宅街が主で高層ビルは少ない。それでも駅の付近にはオフィスビル等が建ち並んでいるので、それらビルの林は遮蔽物となる。

 怜奈さんは撃ってこない。これも何か意図があるのか。

 また、同様の強い想いが発せられた。今度は二回。

 聴こえた銃声も二回。頭部を側面から撃ち抜かれて、衝撃で身体が半回転してアスファルトに横転する。そして転がるのが止まった先で同じ個所をもう一度撃ち抜かれた。

 ここはまずい。ようやく気がついてビルの林を抜けようとするが、怜奈さんは容赦がなかった。

 遮蔽物がアドバンテージとなるのは怜奈さんも同じだった。ビルの壁面を蹴り跳躍。それを絶え間なく連続して行い、僕に姿を捉えさせることなく360度から多角的な射撃を繰り出してくる。

 撃たれて転がっては立て直し、また撃たれて転がっては立て直す。何度も体を撃ち抜かれているうちに、怜奈さんが銃を撃つ前には必ず防具の能力を使っていることにやっと気がついて、それが怜奈さんの用意してくれた攻略の糸口なのだと理解する。

 駅前を脱出して、戸建てと平屋の店、ぽつぽつとマンションがあるばかりの住宅地へと入った。どう攻めるか考えているのか、射撃が止んだ。ここだ。ここが集中するべきところだ。走りながら目を閉じて、怜奈さんの能力がどこで使われても感じ取れるよう、あとのことは考えずに限界まで意識を全方位に広げた。

 ……。……来た!位置は、今通り過ぎたばかりのマンション。間髪を入れずに焦点を合わせる。すると、想いが途切れる寸前に、動いた跡があることがわかった。ならば跡の先には玲奈さんが移動していて、そこから銃弾が飛んでくるはず。

(後ろか!)

 背後、上から発砲音。短くアスファルトを蹴って、逆走を心の中で詫びながら反対車線に移ると、さっきまで走っていた左車線に銃弾が鋭くめり込んだ。

 攻略の糸口を掴んだ達成感が湧き上がってきたのも束の間。走る力が不均一になりだしてきた。バランスが脈絡なく崩れて走りにくい。駅前で散々撃ち抜かれてきたダメージが大きかったか。

 前方に玲奈さんが現れて着地し、顔を隠していたスカーフを外した。今日はここまでのようだ。国道までは、まだ遠い。残念だが、足を止めて頭防具を外す。

「わかったみたいだね」

「はい。ただ発せられるだけじゃなくて、動きや意図に沿った流れみたいなのができるんだってわかりました」

「そう。それを読み取れるようになると安全に戦えるようになるから、しっかり覚えてね。ただし相手によってはうまく隠してきたりするから、注意して」

 ふと嫌な予感がしたので、違っていてくれと祈りながら恐る恐る訊いてみた。

「……能力を使うと想いを周囲に、ってことは、もしかして前回の僕は……」

「だ、大丈夫だって!なんかこう、若くて勢いのある感じでいいなって思った!」

 やっぱり駄々洩れだった。諦めて怜奈さんに苦笑いでうなずいた。

 全力疾走は危険なので、壊れかけの状態での扱いに慣れるのも兼ねてと軽いジョギングで目的地まで移動することになった。雑談できる余裕がある程度の軽い運動。それでも自転車くらいの速度は出るので、なんだか不思議な感覚だった。だがこれも、今までがそうだったように、きっとすぐに当たり前になる。

「今日はありがとうございました。その能力、便利そうでいいですね」

「私たちのはもともと高く跳べるから、最初はいらないんじゃないかって思ったんだけどね。でも使ってみたらすごい便利で。移動もだけど、狙われた時に簡単に距離を取れるのが私的にはポイントかな。そういうときって、うまくジャンプする体勢をとれなかったりするから、これで強化すれば普通に跳んだのと同じくらいになるし」

「装備の能力って魔物によるんでしたよね。どんな魔物だったんですか?」

「俊の武器は鏡。防具は形を変えられる影だったかな」

「あの、僕のではなく怜奈さんの……」

 怜奈さんは思い出したくないと言わんばかりの渋面だった。しばらくふたりのあいだに沈黙が流れたが、仕方なしに重々しく口を開いた。

「……バッタだったの」

「虫のですか?」

「そう、虫。おっきなね。人間よりもずっと。脚のギザギザしたトゲとか細かいところまでしっかり再現してるの。誰もそこまでやれって頼んでないのに。ていうか千崎さんあのとき絶対逃げてたよね。花のくせに。……俊も覚悟しておきなさい。虫は、ヤバい」

「すみませんでした」

 戦いのなかで何があったのかはわからなかったが、怜奈さんの凄味に圧倒されてとにかく訊いたことを謝罪するべきであると判断した。

 怜奈さんはほんの少しだけ乱れていた前髪を直して、表情を引き締めた。

「当たりすぎだったけど、気づいてからの動きが良かったから及第点かな。次は国道まで行くのが目標だからね。しっかりやりなさい」

「はい。ありがとうございました」

「ん」とうなずいた怜奈さんと並んで漆黒の道路をジョギングしていると、やがて一際広い道路に合流した。国道に着いた。“雲”はここからやや東寄りの南に見える。

「空港までは行ってませんよね」

「道路沿いっぽいし、そこまでは行かないと思うな」

 国道の東側には空港がある。もし空港に魔物が現れたらどんな被害が出るのだろうかと不安になった。

 無人の道路を駆ける。この速度で歩道は走りにくい。広々とした道路を他に誰も通らないとわかっていても、つい気が咎めて無言になる。それは怜奈さんも同じだったようだ。顔を見合わせて同時に苦笑いを漏らした。

「ちょっと訊いていいかな。この前あそこに一緒に来てた子って彼女?」

 見られていた。透子と見回りをしていたのはやはりよくないことだったか。

「あ、ごめんね。心配になって後をつけたんだ。ひとりで見回りしてるんだと思って。でも一回だけだよ?そしたら女の子といたからさ」

「付き合っているわけではないです。やっぱり、やめたほうがいいですか?」

「うーん……やめろとまでは言わないけど、何かあるかもしれないからね。あと、俊は大丈夫だと思うけど、時々いるの。そういうところに見えない人を連れて行って悦に浸るっていうか……。それが原因でケガ人が出たこともあって。だから、評価に響いてプロ試験を受けるのにマイナスになるかも」

「そうだったんですか……」

「それに、私たちのしてることって説明しにくいからね。下手に言い訳して仲がこじれちゃうかもしれないし」

「実はもう透子には全部話しているんです。“むこう”のことはまったく見えていないけど信じてくれています」

「あはははははは!」

 真顔で言ったから冗談だと思われたようだ。

 怜奈さんは会話ができない状態になってしまったので、今後透子とどう見回りするか考えることにした。すでに偶然通りかかったでは済まされない頻度になっている。あとで代替案を話し合うことにしよう。毎回一緒に行くのはやめにして、その場合はイヤホンで通話しながら、というのはどうだろうか。少し抵抗はあるけど、それなら透子が楽だし、オペレーターと連絡を取り合っているみたいでちょっとかっこいい。

 ほどなくして“雲”の下まで着いた。急制動をかけて足を止める。

 灰色の空を仰ぎ見る。まだ小さな“雲”だ。快晴であると断言するのを阻止するために嫌がらせとして出てきた雲程度の大きさでしかない。

「ここかあ……」

 怜奈さんが困ったように漏らす。僕も同感だった。

“雲”のほぼ真下には、漆黒の広々とした複数階建ての建物と、隣接する漆黒のがらんとした何もないスペース。おそらく、大型ショッピングモールとその駐車場だ。

「国道もですけど、ここも人がたくさん来ますよね」

「そうなんだよね。でも言ってても仕方ないから。あとは、“霧”がないか探そ」

 気にしたところで“雲”はこちらの思い通りになってくれなどしない。「はい」とうなずいて、もう一度まだ色づいていない“雲”を見上げてから怜奈さんと近隣を探索した。

 近くの建物内に“霧”を見つけた。僕の防具の状態を考慮した結果、人がいないことを祈りながらそこを通って帰ることになった。“霧”を抜けると薄暗く薄汚いコンクリート製の建物内に出た。締め切られた網入りの型板ガラスの窓から入ってくる光の量から察するに日が傾いた時間だというのに電灯が点けられていない。

 廃墟だとわかって安心して、だができれば出てくるところを見られたくはなかったので出口からそっと周囲を窺って人がいないのを確認してから出た。

「報告終わり、っと。じゃあ解散」

「え?……あ、はい。お疲れ様で……」

 てっきり、この後も食事に行くものだと思い込んでいたので思わず歯切れの悪い返事をしてしまった。怜奈さんは心なしか嬉しそうな表情でたしなめてきた。

「先輩と付き合いがいいのは偉いけど、私と一緒にいるところをその透子さんか知り合いに見られたらよくないでしょ?」

「えっと……」

 先程の透子とのことを説明し直したいが、うまい言い方が思いつかない。

 言葉を探しあぐねていると、怜奈さんの瞳に理解が宿った。笑みが更に深くなる。

「なるほど。その子のことで私に話したいことがある。つまり、そういうことね?」

「はい。違います」

「相談に乗ってほしいなら言ってくれればいいのに」

「あの」

「ふたりはさ、どこで知り合ったの?大学?」

「地元です……」

「地元のいつ、どこで?」

「幼稚園に入る前、実家の近所の公園で」

「そのあとは?進路はどうだったの?」

「幼稚園から大学まで同じでした」

「へえ……ってことは幼馴染なんだ?それだけ付き合いが長いと言い出しにくいよね。でもふたりだけで一緒に遊びに行くことはできると。ふむ……」

 怜奈さんはその後、最寄りの駅に着くまで、駅のホームに電車が来るまで、ずっと無言で考え込んでいた。切符を買わずに改札を通ろうとしたので、急いで券売機で二枚買った。

「わかった」

 帰宅ラッシュ直前のまだ人の少ない車内に並んで座ってしばらくすると、腕組みしていた怜奈さんは目を開いた。

「私なりに考えてみたんだけど、俊は今とても幸運な状況にいると思うの。そして、それは極めて危ういバランスで保たれている。動かそうとすれば崩れてしまうかもしれないし、かといって動かさないままでいてもやがて崩れてしまうかもしれない。動と静、このふたつをうまく乗りこなして……そう、俊が乗っているバイクのようにね。時に行儀よく、時に大胆に、必要性があれば」

 言うまでもなく僕の好意がとうの昔から、常日頃から、透子に伝わっているということを怜奈さんに対してどう言えばいいのかわからなかった。

「今の俊の腕ではそれを見極めるのは難しいかもしれない。だから……いえ、でも心配しないで。これからは私がいつでも相談に乗るから、遠慮なく頼りなさい」

「はい、ありがとうございます」

 他にどう答えようがあっただろうか。だが、怜奈さんの発言は的を射ていると思う。今の僕の置かれている状況を言い表していて、考えるべきことを示してくれている。申し訳なくはあるが、助言が欲しいときは相談させてもらおう。ほぼ僕一人の失態によるものなので、いつかその責をどうにかする必要はあるが。

 御影駅で怜奈さんと別れ、バイクを回収しにバスに乗った。帰宅すると早速透子が今日あったことを聞きたがったので話すと、怜奈さんみたいに大笑いされた。先輩とすれ違っているコントのような状況をか、今更関係を意識し直した僕のことをかはわからない。

「そんなの、誰にだって当てはまるよ」

 もしそうだったとしても、いいじゃないか。僕がそうだと思っているのだから。

 その日ずっと透子は笑っていて、一緒にいるうちに僕もただ笑うようになっていた。そうしているうちにふとあの大木の魔物を斬った瞬間を思い出して、似ていると感じた。研ぎ澄まされた想いとは、孤独からではなく、他者との関りのなかにこそあったのだと。ひらめきにも似たその感慨は胸いっぱいに広がって、今がかけがえのない愛おしい時間なのだということを教えてくれた。

 そして、その想いは言葉にすることなく透子に伝わる。



 駅から出てくる小宮さんと目が合う。こちらに気づくと軽やかな駆け足で近づいてくる。

「先に着いているとは感心ですね。良い心掛けです」

「恐縮です」

 威厳を出そうとしていても小宮さん本人の愛らしさが圧勝しており、こんな先輩がいたら仕事が楽しいのは当然だろうな、と自然と笑顔になった。

「では行きましょうか。私についてきてください」

 颯爽とパーカーを翻し両手をポケットに入れ、新しい現場へ歩き出す。所作自体は堂々としているが、ぴょこぴょこ揺れる二つ結びの髪のこの先輩には迫力というものが先天的に欠如している。直前にショッピングモールの方を行きたそうにちらと見ていたこともあって、その後ろ姿に従っているとどうにも微笑ましい気分になって気が緩む。

「ここですね」

 現場はさほど離れていない。広い駐車場の隣といっていい距離。解体されず残されたままの古い集合住宅。そのなかに“霧”がある。

 どの窓にもカーテンはかかっておらず、そこにはもう誰も住んでいないようだった。コンクリートの外観はひどく黒ずみ、所々ひび割れが目につく。門は外されて開け放たれており、雑草が伸び放題の狭い敷地に置いていかれた小さな滑り台と砂場が物悲しい。

 人や車の流れが途切れたのを確認してから小宮さんと敷地内へ侵入する。一階の踊り場には“霧”が充満していたので、「……も、もうここからでいいでしょう」と心なしかほっとした様子で小宮さんは決めた。荒廃した建物の不気味な雰囲気に呑まれている小宮さんを、怪物と戦えても怖いものは怖いのだろう、と見なかったことにして先に“霧”へと手を伸ばした。

 漆黒の建物内に出ると、隣に現れた小宮さんがものすごい速さで身を翻した。

 小動物が肉食動物から逃れるように小宮さんは漆黒の建物内から飛び出した。追いかけようとしたが、すぐに足を止めたのでその必要はなかった。純白の雑草が生え散らかる狭い庭で「ほう」と安堵の息をついている。

 近づくと小宮さんが振り向いた。するとなぜか「ひい!」と短い悲鳴を上げられた。

 頭に防具をかぶったままだったのを忘れていた。空いている左手で頭を払う動作をして外れるよう軽く念じた。出したり消したりしているうちに今どっちの状態だったかわからなくなっていた。小宮さんから警戒心が解かれるのを見て、今は顔が出ている状態になったのだとわかる。

(そういえば、これ見えないけど、どうなってるんだろう)

 鏡なのだから映るだろうか、と鎌に自分を映そうとしてみたが、鈍色の刀身は何も映さず、締まりのないぼんやりとした想いを浮かび上がらせるだけだった。

 気にはなったが、まだ青ざめながら「さあ、行きますよ」と震えながらも先輩としての威厳を保とうとする小宮さんにはとても訊けなかった。

「小宮さん、そっちじゃないです」

 見上げれば“雲”が灰色の空に浮いているというのに、小宮さんはショッピングモールとは逆の方向に歩き出していた。青くなっていた小宮さんの顔色が赤へと変わっていく。

「……先輩のミスをためらいなく指摘できるのはいいことです。三上先輩と良い関係を築けている証拠ですから。私の人間としての器の大きさが成せる業でしょうか」

 何故先輩と呼ばれているのか疑問に思ったが、やっぱり訊きにくかったので再度棚上げして、ずんずんと先へ進んでいく小宮さんの後についていく。

「レベル1。上。……近すぎるので、方角ではなくこのように入力します」

「わかりました」と答え、首を大きく曲げて灰色の空を仰ぎ見る。“雲”は怜奈さんと確認したときよりも二回りほど大きくなっていた。元がさほど大きくなかったので、わかりにくい変化ではあったが。

「さて、お仕事はこれで終わりですが、せっかく来たことですし、ちょっと道草でもしていきましょうか」

「いいですね、よろしくお願いします」

 背に納めていた大鎌を指で弾いて構えると、小宮さんは目を丸くして「え?」と訊き返してきた。練習に付き合ってくれるのだと思っていたので「え?」と思わず訊き返す。

 沈黙が流れる。ショッピングモールに行きたかったのだと気がついて「戻りましょうか」と提案すると、小宮さんは「頼まれては仕方ありませんね。後輩を指導するのは先輩の大事な役目ですから」と腰に両手を当てて胸を張り、駐車場へと歩きだした。

「あの、寄りたいんだったら僕は構わないんですけど」と申し出たが無視された。

「ここがいいでしょう」

 広い駐車場だ。遮蔽物は何もない。その中心、黒いショッピングモールと白い街路樹とのちょうど真ん中に向かい合って立った。

「私もそろそろ次のステップに移りたいと思っていたので、ついでに私の練習にも付き合っていただきます」

 小宮さんは小脇に抱えていた本を開いて、かた、かた、と硬質な音を立ててページをめくる。紙ではなかった。ページ一枚一枚も厚く、板と言っていい。

 ページをめくる手を止め、手のひらを上に開いて見せた。そこから赤く灼けた鎖が、引きずり出されるようにゆっくりと現れた。

「これは私が持っている魔法の一つ。ご存知のように、相手に巻き付けて拘束するのが主な用途です。熱を発生させて攻撃することもできます」

 鎖がジャラリと音を立てて現れた位置へと引き戻されていき、やがてその先端も飲み込まれて完全に消えた。

 小宮さんは開いた本から手を離した。落ちる、と思ったが本はそのまま小宮さんの前で浮いている。「こういう便利な機能もあります」とだけ言って、両の掌を開いて向けてくる。

「今から三上先輩の周りに鎖を出して攻撃するので、避けてください。でもこれだけだと怜奈先輩と同じなので……。そうですね、目を閉じてやってみましょうか。私はまだ離れた位置に魔法を使うのに慣れていないので、どこから来るか感じ取りやすいはずです」

「わかりました。いつでもどうぞ」

 目を閉じて、肩に担いでいた鎌を両手で持って構えた。振るうつもりはなくても、鎌は手にしていたほうが練習になる。

 意外にも、真っ暗闇のほうが正面に立つ小宮さんの輪郭をはっきりと捉えられた。敵を見据えることばかり意識していたので、視界を封じるのは盲点だった。五感を封じるとその分他の感覚が鋭敏になるという話をどこかで聞いたことがあったがそれはどうやら“こっち”でも有効なようだ。

 意識を小宮さんに向けていると、本から焼けるような熱を伴う想いが発せられるのがわかった。それが小宮さんの右手に流れ、集まっていく。ある程度大きくなると、それは虚空にひびを入れていくように、あるいは地に根を伸ばしていくように、こちらへとじわじわ伝ってきて――「んふふ」と小宮さんが笑いをこらえながら身悶えすると、霧散した。

 慌てて目を開け、体型がわかりそうなほど小宮さんにぴっちりと集中させていた意識を解いた。

「すみません」

「いいですよ、練習ですし。でもあまりじろじろ見るのもマナー違反ですよね。魔物にも察知されてしまうので、もっとさり気なくできるようにしたほうがいいかもしれません」

「どうすればできるようになりますか?」

「慣れるしかないので、とにかく練習あるのみですね。だから気にしないでください」

 小宮さんがフードをかぶった。これ以上のやり取りは気を遣わせるだけだ。雑念は捨てよう。もう一度目を閉じる。

 今度は、途切れることなく宙を伝って左側面までやってきた。そこから想いが突き破るように発せられるのを感じて、即座に背後へ跳んだ。

 左側面、宙から現れ襲い掛かってきた一本の鎖が空を切り、アスファルトを叩いた。

「いいですね」

 次は左側面を通り越して背後へ回り込んできた。そうしてまた突き破るように想いが。

 さっきとは違い発せられてもまだ宙を伝ってきた熱のひびがまだ残ったままだったのが気になった。なので前方ではなく、右へ跳ぶ。読みは的中し、現れた鎖は二本だった。一本目は直前まで立っていた場所の背後から。二本目は気になっていた左側面から、残っていたひびが集束していって、そこからも鎖が。正面に跳んでいたらこれを受けていた。

「むう」と悔しさを滲ませながら小宮さんがうなる。このような楽しい不意打ちを仕掛けくるのは歓迎だ。いい練習になる。

「もっとやってくれていいんですよ」

 余裕があるように装ってはみたが、実際には本当に左側面からも攻撃が来るか確信が持てていなかったので回避に移ったのはかなりギリギリだった。慌ただしく逃げるような様だったので、滑稽なことだろう。だが、こちらとしては小宮さんの不意打ちはありがたかったのだという意思をちゃんと伝えておきたかった。

「……受けて立ちましょう。後悔しないでくださいね」

 顔は見えないが、笑っている。乗ってくれた。以前言い出せず気掛かりだったことが解消できたので大分気が楽になった。

 目を閉じると、今度は三本、莉緒から発せられて、拳を振り上げて握りしめているかのように宙で一度静止し、こちらを威嚇してくる。

 これからどんな攻めを見せてくれるのか。果たして先に音を上げるのはどちらか。答えはわからないが、そこへ飛び込むのに恐怖は微塵もなく、ただただ挑む高揚感があるだけだった。



「……今日は……このくらいにしておきましょう」

「……ありがとう……ございました」

 鎌の柄をついて体を支えながら膝をついた姿勢でどうにか一礼すると、似たような状態でどうにかがんばっていた小宮さんはついにぱたりと前のめりに倒れ込んだ。

 こちらも意地を張るのはやめて、尻もちをついた。空を仰ぎ見る。薄い白い“雲”があるだけの灰色の空はどんよりとしていて、あまり清々しい気分にはなれなかった。

「……ちょっと……休憩してから帰りましょうか。……新しいことを覚えるのは、思っている以上に疲れるので……無理しないほうがいいですよ……」

 疲労で頭の中は霞がかかっているかのようにぼんやりしていた。素直に従って、一緒によろよろと立ち上がり、ゾンビじみたふらふらとした動きで“霧”を抜けた。

 報告を入力しながらショッピングモールに向かって歩く。青空と太陽の下で大きく伸びをして少し元気を取り戻した小宮さんは「ながら歩きは危ないですよ」と言って前に陣取って、入力する間、先を歩いて目の代わりと盾になってくれた。

 小宮さんが行きたがっていたのは、ショッピングモール内にあるクレープ屋だった。

 生地の甘い熱気が香り、期待をくすぐる。最後にクレープを食べたのはいつだったかと記憶を掘り返して、小学生の時に地元の同じ系列のショッピングモールで食べたのだったと思い出した。久々だったため、いざメニュー表を前にするとどれも美味しそうに思えてきて注文に迷う。

「そろそろ決めてください」

 待ちかねた小宮さんが無情にも選択を迫ってくる。時間にして数秒の間、考え抜いてストロベリーを頼んだ。小宮さんは魔法使いらしくつらつらとトッピングの呪文を唱えた。大物の予感に戦慄していると、小宮さんは「さっきのにも同じトッピングを」と店員に言い放った。そして異論を挟まれる前に「会計は一緒で」と畳み掛けた。

「甘い物、苦手でしたっけ」

「いえ、好きですけど、自分で出しますよ」

「次からはそうしてください。今日は私のおごりです」

 薄く伸ばされた生地が焼ける甘い匂いを嗅ぎながら言い合っているうちに、店員からクレープが受け渡された。

 フードコートには人がまばらに座っていた。人目を避けて奥の誰もいない辺りに腰を落ち着ける。小さくちゃちな作りのテーブルは座る前に想定していたよりも、向かいに座る小宮さんとの距離が近い。

「疲れたあとは甘い物です」

「そうですね」と相づちを打って、重量感のあるクレープを端からかじって着実に削っていく。小宮さんは大きく口を開けて大物をものともせずに食らっている。豪快な食べ方の割に口元は一切汚れていない。

「どうです先輩。お仕事には慣れましたか?」

「おかげさまで」

「そんな決まり文句を聞きたいわけじゃありません。私はハラスメントとは無縁な同僚なんです。先輩は遠慮せずに職場の悩みを話す権利があり、私はそれに耳を傾け、必要ならば明瞭な回答をする義務があるのです。さあさあ、どうぞどうぞ。もちろん秘密は守りますので、内容が漏れることは決してありません」

「小宮さんは……」

「あ、それ今日ずっと思っていたんですけど、莉緒でいいですよ。敬語もいりません」

 馴染みつつあった口調を変える抵抗感は、さほどでもなかった。気持ちの切り替えひとつでもう過去のことになる。

「莉緒はなんともなかった?……あ、さっき魔法を使っていたときのことなんだけど、あれって想いが体を通っていたから。負担とか悪影響はないのかなと」

 あることはあったが、とっさに質問内容を変えてしまった。それを訊くのは、ひどく残酷で無神経に思えたから。

「ご心配には及びません。そんな考え方もあるのかな、という程度でしかないので。人によっては気分が悪くなることもあるそうですが、私は何ともありません。こう言うと他人の心の機微に鈍感なのかと思われかねないので私の名誉のために弁解しておきますが、私は大変繊細で、人を見る目があるんです。だから隠そうとしても無駄ですよ。おとなしく素直に話してください。訊きたいのは、そんなことじゃないですよね?」

 クレープを食べるのを止めた。崩れてしまわないよう形を整えるのにばかり腐心していたせいでせっかくの全部乗せをあまり楽しめていなかった。

「この前の、人がなった魔物。莉緒はどう思っているのかなって」

「なるほど、そう来ましたか……」

 莉緒は少しだけうつむいて考え込む。

「正直言って、まだ私の中では結論が出ていないんですよ。罪悪感はありますが、かといってあのまま見過ごしていれば誰かが襲われかねない状況でした。まあ、私たちアルバイトは本来そこまでしなくていいんですけど。でも、そうして逃げて余計な被害が出ていたとしたら、私は続けていく自信をなくしちゃっていたんじゃないかなって思ってます」

 莉緒は両手で持っているクレープをじっと見ている。

「私は、魔物は魔物だと思っています。元が何であれ。でも、もし……もし私たちのしていることを皆が知るようになって、罪に問われるようになったとしたら、多分、どんな刑でも受け入れると思います。……あのひとのご家族から責められたとしたら、きっと立ち直れないでしょうね」

「ごめん。無神経だった」

「ちゃんと聞いてくれたからいいですよ。何も話さないまま、ずっと悪いほうに誤解されるのは嫌ですから」

 莉緒は顔を上げて、慰めるような、たしなめるような微笑をした。

「僕はほとんど戦えてなかったから実感が薄かったし……先輩たちが倒してくれて、正直ほっとしてた」

「だから、あのあとやらかしちゃったわけですね」

「早くちゃんと戦えるようになりたい、早くあの魔物を倒さないと、って焦ってた。今では反省してるよ」

「戦いのなかで新しい力に目覚めるのは勝利フラグですからね」

「やめて……」

「反省してください。あんな無茶は二度としてはいけませんよ」

「あとで聞いたよ。あのとき莉緒が気にかけてくれていたから戻ることになったんだって。だからずっとお礼を言いたかったんだ。……ありがとう。おかげで無事に帰ってこれた」

 ふへへ、と莉緒が照れ笑いを浮かべる。

「実は私、入ったばかりの頃は結構困った子だったんですよ。怜奈先輩たちに色々と迷惑をかけて、それでも助けてもらって。だからこの先、先輩も後輩ができて、その方が困っていたら、同じように助けてあげてくださいね」

『助けたかった』ではなく『助けてあげて』と言ったところに莉緒の本質を感じた。

「できるといいけど」

「私ができたんだから、先輩にもできますよ。前回、先輩が倒したあの魔物もいつか誰かの装備になります。ひょっとしたらこれから後輩になる人が使うことになるかもしれません。……実は先輩が使っている武器って、私が倒した魔物なんですよ。そうやって、今までもこれからも、ずっと続いていくんです」

 驚いて目を見張った。目の前の少女の器の大きさと、今や自分の体の一部と化した鎌の誕生に関わっていたのだという新たな事実に。考えてみれば莉緒は先輩であるのだから、技量も経験も先を行っているのは当然のことだ。改めて自分の人を見る目の未熟さを反省し、莉緒に対する認識に強い敬意を付け加えた。

「私たちリーパーは助け合いです。いつだって、お互いに力になり合えるから、関係が対等なんですよ」

 その落ち着いた表情を見つめて、改めてリーパーになれたことを心から感謝した。

「ありがとうございます。莉緒先輩」

「いえ、先輩はそっちです」

「僕も今日ずっと気になっていたんだけど、どうして僕のことまで先輩呼びなの?」

「それはですね、人生の先輩だからです」

「……。いや、年齢と勤続年数は別ですよね」

「うるさいですね……私が倒した魔物の武器を使ってるんですから、そっちが先輩ということでいいじゃないですか」

「それを言われたら……。いや、もう何が何だか……」

 強く否定するまでではないがかといって納得したわけでもない、なんとも形容しがたい気分だったが、得意げな表情で苺が乗っているクレープを嬉しそうに頬張る莉緒を見ているうちに段々とむきになる意味がわからなくなり、どうでもよくなってきた。

 残りを食べなければ、とふと手元に目を向けると、クレープにまだあったはずの苺が、指で拭い取られた跡を残して、ごっそりと消えていた。

 指先をクレープの包装紙で隠して口元を動かしながら、莉緒は目を合わせようとしない。思い返せば莉緒が注文したものには苺が乗っていなかった。

 先程の発言は莉緒の本心だっただろうし、きっとこれはその照れ隠し。しかしそれにしても無駄に見事な陽動だった。

 こっそりと舌を出して指先を舐めている莉緒を見て、やっぱりこんな先輩はどうなんだろう、とか、実は自分より近接武器に向いているのではないか、などと、そんなことを考えながら苺の酸味を失った多彩な甘味の塊をかじった。

「ごちそうさまです」

 先に食べ終えた莉緒は席を立ち、冷たい水を持ってきてくれた。

「ありがとう」

「どういたしまして……ところで先輩、今日もバイクで来ていましたよね。私、乗ってみたいので、ご迷惑でなければ帰りは後ろに乗せていただきたいのですが……」

「ああ、うん……いいけど、その髪型だとヘルメットをかぶれないから……」

「それもそうですね!では少々お待ちいただけますか!」

 返事も聞かずに走り去っていってしまった。これはもう断るのは無理そうだ。

「お待たせしました。これでどうでしょう」

 クレープを食べ終え水を飲んでいると、髪を一本に結び直した莉緒が戻ってきて、パーカーの内側に収納して見せてくる。

 後ろには透子以外の人を乗せたことがなく抵抗感があったので、察して諦めるのを期待していたのだが、これから楽しいことが待っていると確信した様子の莉緒には、そのような浅い駆け引きは見向きもされなかった。

 外に出て、普段は透子がかぶっているヘルメットを手渡すと、莉緒はプレゼントをもらった子供のように目を輝かせて眺めていたが、こちらがかぶったのを見ると慌ててすぐさまそれに倣った。ベルトの留め具に四苦八苦していたので、それは手伝った。その次は手の置き所に困っていたので「肩で大丈夫だよ」と助け船を出した。

 エンジンを掛けてゆっくりと発進させると、少しずつ後部座席の緊張が緩んでいき、やがて運転に支障が出なくなる程度にまでなっていったことに安堵する。国道へ入って信号を二つ三つ過ぎる頃には、それももう過去のものになったと言っていいほどに莉緒はリラックスしきっていた。

 帰り道、莉緒は感極まって「うひょう!」や「やっほう!」などと珍妙な鳴き声を何度も上げていた。あれだけの経験をしていてもバイクに乗るのは楽しいものなのかな、と思う。思ったので、改めて、視界いっぱいに広がる景色を走り抜ける爽快感、似てはいてもひとつひとつ微妙に違う風の匂い、慣れでいつしか麻痺していたそれらを、後ろで楽しそうに周囲を見回している莉緒を通して意識し直してみた。

「先輩はどうしてバイクに乗ろうって思ったんですか?」

「好きなヒーローが乗ってたから」

 莉緒は馬鹿にしたニュアンスを一切含めることなく「ああ!」とただ納得した。

 目の前いっぱいに広がる景色を、風を切りながら走り抜けていく。やっぱり、バイクに乗るのは楽しい。



「悪い。遅れた」

 隣に停まったSUVから黒田さんが出てきた。今日黒田さんが来るとは誰からも聞いていなかったし、アプリのメッセージにもそのような連絡は来ていなかった。

「い、いえ、大丈夫です」

「仕事終わりにあいつらと遊んでるって聞いたんだよ。今日は俺と遊んでもらうぞ」

 そう言ってずんずんと廃墟へと歩いていく。

 何を教えてくれるのだろうかと若干不安に思いながら駆け足で追いかけて黒田と並び、そのまま無言で二人“霧”を抜ける。影響は懸念されるが、幸い“霧”はあれから勢力を広げて駐車場の奥まった陰まで来ていたので廃墟に侵入する必要はなかった。

「レベル2ってとこか」

 血のような赤色に染まっていた“雲”を見上げて、けだるそうに黒田が言う。

「報告は頼む。やり方は教わってるよな」

「はい。わかりました」

「おし、やるぞ」

 黒田さんは腰に納めていた片手剣を抜いて、頭部前面を覆い隠すヘッドギアのようなマスクをかぶった。

「……何をですか?」

「タイマン。遊びだよ、リーパーのな。先に相手の防具をヤったら勝ちっていう」

「戦うってことですか?」

「そうだ。ルールは三つ。一つ目は、範囲を決める。場外負けがありかどうかもな。今日は……そうだな、この駐車場内にするか。広すぎる気もするが、わかりやすくていいだろ」

 まだやるとは言っていないのだが、黒田さんは話をどんどん進めていく。

「二つ目は、使う武器を見せ合うこと。魔法もな。解放と、能力はいい。そこは読み合いの醍醐味だからな」

 剣を横に持ち、見せてくる。剣だ。博物館の展示品やモニターの向こうの作り物とは違う、斬り裂く機能を備えた武器。僕の鎌と同様の……そうだ、こちらも武器を見せないといけないのだった。黒田さんが同じ姿勢のまま無言でいるのは、待っているからだ。

 最近は指で弾いて構えるのが一連の流れとして定着していたので、失礼かと思って腕を背中に回して外そうとしたら思いの外手間取ってしまった。

 横に持って見せるのはリーチを確認させるためなのだろうか。鎌の柄尻の辺りを右手で掴んで、刀身もよく見えるようにして突き出した。重心の悪い持ち方だが、鎌はとても軽いので腕が疲れてプルプルするようなことにはならない。

 黒田さんは鎌を「ほう」と呟いて眺めると、すぐにうなずいて剣を下ろした。僕も鎌を肩に担いだ。……見るのに夢中になって、剣のリーチを把握するのを忘れていた。

「三つ目は、やりすぎないこと。相手が痛みを感じるまで攻撃するのは反則だ。やられる側も、意地になってそんな状態になるまで粘らない。こんなところだ。じゃあ、やるぞ……って気分じゃなさそうだな」

「すみません。リーパー同士で戦うことに意味があるとは思えなくて」

「まあ、無いな。強くても周りにマウントとれるくらいしか意味ないし。……それなら、やる気が出そうなことを教えてやろうか。この前の、元人間の魔物に関係がある話だ」

「あれからどうなっているんですか?」

「その辺はお前のほうが店長と顔合わせてるから詳しいと思うぞ。俺は昔一回だけそれっぽいのと出くわしてやり合ったことがあったくらいで……まあ、クソ弱かったから多分他のとこのバカが無断で入り込んだだけだと思うけどな」

「襲われたんですか?」

「ああ、向こうから攻撃してきた。お前、プロになりたいんだって?なら、そういう連中にも対処できるようにならなきゃやっていけないぞ。バイトに負けてるようじゃプロは務まらないし、いつか、あれの元凶と戦うことだってあるかもしれないだろ」

 軽い気持ちで興味を持っただけの自分の認識の甘さを痛感せずにはいられなかった。もし仮に、彼が魔物にされようとしている現場に居合わせていたとしても、今の自分では何もできない。説得するにしても制止するにしても、具体的な手段が思い浮かばない。人間と戦う覚悟。口頭でやめるように言っても聞き入れてくれない相手ならば、それはなくてはならないものだ。そんなこと、考えもしなかった。

「んな固い顔すんなよ。バレるかもしれないだろ?気楽にいけよ。遊びなんだからな」

 きっと、たしなめてくれているのだろう。緊張感を持つのは大事だが、常に気を張り続けていては体に余計な力が入って疲れてしまい、却って学習の妨げになる。

「ダルい話だったな。体動かして忘れるとするか」

 黒田さんが剣を片手で構え、半身の体勢をとった。頭装備をかぶり、肩に担いでいた鎌を黒田さんへ見せるように両手で持って構える。

「よろしくお願いします」

 要するに、これから先、必要になることを教えに来てくれたのだ。結果が伴うかどうかなど厭わずに。ならば遠慮せずに胸を借りるのが教わる側の礼儀というものだ。今の自分の全力でぶつかることが、感謝を伝える何よりの手段。

「おう」と黒田さんは短く応じて、体勢を変えることなくすり足でじりじりと距離を詰めてくる。

 僕の側からは、黒田さんの頭部、剣先とそれを握る右手、右足しか視認できない。

(……どうすればいいんだ?これ)

 武器を手にして戦意を滾らせる人間、というものに生まれて初めて相対した。結果それがもたらしたものは、理解不能な事態と出会った生物の本能、硬直であった。

 銀色の鉄の板が眼下に迫るのを見てから、鎌の柄を持ち上げて粗末な受けの姿勢のようなものをとった。そのときには黒田さんの剣は僕の首を突き抜けていて、それが首から引き抜かれてようやく自分が攻撃を受けていたのだと理解する。

「避けられないもんだろ?」

 突きという動作の視認性の低さも理由のひとつだが、それ以上に、僕自身が人間から暴力を振るわれる耐性を持っていなかったのが最大の原因だった。実力を測るためか黒田さんの突き込みの動作は、経験による最適化された無駄のないものだったが、緩慢だった。なのに避けることができなかった。傍目には首を剣で突かれるのを受け入れているかのようだっただろう。それは、僕の脳が、自分に武器を向けられる現実を認められず、対処を拒んだからだ。棒立ちのまま殺されたのは、ふさわしい結果だったといっていい。

「こういうのは慣れだ。下手でいいから、とにかく必死にやってみろ」

 言われた通り、脳に邪魔されつつも、繰り出される黒田さんの攻撃に懸命に反応だけはして見せた。黒田さんの振るう剣は、ひとつひとつが次の動作への繋がりがあって、無駄がない。

 恐怖は感じなかった。長年の実戦経験の結晶。洗練された技術を感じ取って、ひとつ斬られるたびに敬意を抱かずにはいられない。それをどうにか欠片でも掴み取るべく、莉緒から教わった通りに黒田さんへ意識の焦点を合わせた。

 練習時間を少しでも長くするために防具のダメージを減らそうと、鎌の柄で剣を受けようと試みる。現時点では鎌を振るう余裕すら見いだせなかった。後ずさりながら払いのける。黒田さんの加減もあってそれなりには形になってはいたが、当然隙を見逃してはもらえず何度も踏み込まれて斬撃を受ける。

 防具より先に自分自身が限界を迎えた。痺れるような疲労感が頭を真っ白にしていく。

 黒田さんが攻めの手を止め、剣を腰に納めた。

「やってみて、どう思った?」

「逃げるだけで精いっぱいでした。……あと、僕の武器って、今みたいなせめぎ合いには向いていませんよね」

 不慣れを差し引いても、鎌を振るい黒田さんに当てるイメージを形成するチャンスがほとんど見いだせなかった。リーチの差というアドバンテージはあったのだが、黒田が振るっていた剣と比べて鎌は打点が歪で、それを黒田さんは先程のやり取りではほぼ完璧に潰す立ち回りを取っていた。

 人間と魔物の違いを痛感する。特に、動きの読みにくさが段違いだった。どれだけ集中しても魔物や魔法のときのように気配を感じ取ることができなかった。

「使いにくいって言われていた理由がやっとわかりました。今更ですけど」

「チェンジしたくなったか?」

「したくはないですけど、もっと扱いやすい物にしたほうがいいのかなとは」

「そいつの良い所はなんだ?」

 黒田さんが大鎌を指差す。

 鈍色の刃を見つめ、答えた。

「切れ味を活かした一撃の威力です」

「そうだ。今やったみたいな踏み込んで斬り合う俺のとはスタイルが違う。相手の土俵に上がるなんてお人好しでいる必要なんてない。自分の土俵を作って、相手を引きずり込め。人間同士の戦いってのは、なんだってそういうもんだ」

 黒田さんが剣を抜き、背後に大きく跳んで、担ぐように片手で肩口に構える。力強く踏み込んで距離を一気に詰める攻撃的な構えか。

「相手と、武器の打点を意識しろ。それがお前の距離だ」

 黒田さんの迫力に負けないよう、残りの気力をかき集め、のしかかっていた倦怠感を振り払う。

 予想通り、彼我の距離は一瞬にして詰められた。速い。頭部を叩き割らんと大振りで振り下ろされる黒田さんの剣を、背後に跳んで回避する。今度は黒田さんだけではなく、背後にも意識を回して障害物がないか探る。

 そこからはステップの応酬となった。追い詰めるように踏み込んでくる黒田さんの足さばきを注視しながら、振るう際の隙を考慮して鎌の打点からやや遠い距離を保つ。時にそれは不格好な様になってしまうが、柄で受け流す工夫を交えながらどうにか維持する。

 距離を保ったことで鎌を振るう意思を示す余裕が生まれた。技量で圧倒できる黒田さんがそれを警戒する必要はまったくないのだが、このやり取りはあくまで練習なのであり、黒田さんは僕の実力に合わせて攻撃を単調化させ、対峙したのは初見だとする体で動いてくれている。構えた先に振るわれるであろう刃を避けて動く立ち回りは、僕に攻撃のタイミングとそのメリットを指導するためのものだ。棒立ちのまま一方的に相手から攻撃を受け続けることがいかに悪手極まりないか解ると、脳は渋々拒絶をやめて前を向くようになっていった。

 防具のマントも意外な活躍を見せてくれた。直接攻撃には使えないが、広げて前面に展開すれば黒田さんの視線を遮られるだけでなく、わずかだが動きを阻害することもできた。踏み込まれそうになっても、自分自身を覆い隠すか黒田さんの顔面を覆うように広げれば逃げ道を確保できたうえに、そうなる前に鎌と併用して牽制にも使えるとわかったのは収穫だった。

 何度目かのステップで、力を込めた足から宝石が割れるような音がして、黒色の光の飛沫が漏れ出た。受けたダメージから考えるともう少しいけると思っていたが、まだ慣れていない能力を使いすぎて消耗していたのか、予想以上に早く限界が訪れた。

「ここまでだな……まずはここから出て休憩するか」

 黒田さんはそう言って剣を納め、頭装備を外した。

 両膝が崩れそうになるのをこらえながらどうにか頭だけは下げる。集中が途切れると、前方だけでなく背後にも集中しながらの立ち回りによる疲労がどっと押し寄せてきた。

“霧”を抜けて駐車場まで戻ると、黒田さんは「乗りな」と助手席のドアを開けた。素直に従うと、黒田さんは車のエンジンをかけて「ちょっと待ってろ」とどこかへ行ってしまった。目を閉じてシートに身を預けているとすぐに戻ってきて、運転席に座り「ほら」と冷たいアルミ缶を差し出してきた。

「ありがとうございます」

 ベージュ色の缶。カフェオレだ。微糖の。普段はまず飲まないが、疲れ切っていた今は甘味が心地よく、とても美味しい。

 黒田さんもプルタブを開けた。同じ物だ。これが黒田さんの好みなのかな。それとも自販機の前で訊き忘れた僕の好みを想像しながら買ったのかな。

「どうにか掴めてきたって感じか。防具の能力を使う発想は良かった。ただ、相手が強いと隠れても見えているから頼りすぎないようにな」

 それは黒田さんも含んでいるのだとわかり、「はい」とうなずいて肝に銘じた。

「使っているところを見ていて思ったんだが、もっとハッタリを効かせるといいかもしれないな。その見た目は武器になる」

 そういえば、この前莉緒が怯えていたな。

「でも、この能力にはダメージがないですよ」

「お前はそうだと知っていても、相手はそうじゃない。触っても安全かどうかなんてわからないんだから、とりあえずは警戒しないといけないだろ?俺が言いたいのは、もっと堂々としていろってことだ。食らいつこうとする真面目さはいいんだが、それだけだと敵が仕掛けておいた罠に自分から飛び込んでしまうことになりかねないからな。余裕を見せつけて、駆け引きを優位に運ぶメリットを今の時点から理解しておけ」

 前回の魔物もそうだった。そして道也さんたちとの練習後にやっている『大鎌にふさわしい所作』。少し光明が差したような気がする。即座に長所と短所を見極め、具体的な案をはじき出してくれるのは本当にすごい。頼る側としてはただただありがたい。

「悪くはなかったが、遊び相手としてはまだまだ足りない。次は今日より楽しませろよ」

「はい。ありがとうございました。またよろしくお願いします」

 悔しさは皆無だった。ただ自分の未熟さだけを見据えて、隣の黒田さんに頭を下げた。



「位置について……用意、ドン!」

 目の前を遮る“霧”を、短距離走ではなく障害物競走だったか、などと余計なことを考えながら走り抜ける。灰色の空の下に出ると、そこにはすでに銀の甲冑を身にまとった道也さんが待っていた。

「俺の勝ちだな。後でおごりよろしく」

「わかってますよ」と肩で息をしながら笑う。飛ばすまでもなく伝播したふざけ合いがやたらと明るい空気を形成している。

 道也さんは「ひゅー!」と開始の合図もなしに大声を上げながら、壁を突き破らんとするかのような勢いで漆黒に染まったショッピングモールへ疾駆した。道也さんの装備は壁を上る際、体を横か上に向けて車輪を当てる必要があり、それが一瞬の減速と隙を生む。

 だから、鎌を解放し、道也さんが壁に触れる瞬間に合わせて横薙ぎに大きく振るった。

 しかし禍々しい姿の鎌はむなしく空を切った。道也さんは一切減速することなく、凄まじい瓦解音を立てながら壁を突き破り、ショッピングモール内に侵入していった。

「ええ……?」

 予想外の行動に驚きながらも壁に開いた穴をくぐって、「ははははは!」と高笑いしながら遠ざかっていく道也さんを追いかける。

 通路沿いの自販機を倒しながら逃走する道也さんを咎めるように、跳躍して鎌を振るった。道也さんは振り向いてそれを仰向けに倒れてかわし、そのまま倒れたままの体勢で天井を見ながら四つの車輪を駆動させて離れていく。

 マントを展開して鎌ごと全身を覆い隠し、跳ぶ。狙いは道也さんではなく、今まさに道也さんが駆け上がろうとしている、停止したエスカレーターだ。幅が足りないから手すりにぶつかって止まるかもと思っていたら、速度を落とすことなく両側の手すりを粉砕しながら駆け上がっていった。仰向けになった道也さんを跳び越えて、止まった階段を両断する。

 道也さんの反応は迅速だった。残っていた上昇の勢いを利用してこちらに向かって跳ね、宙で鎌を振るった後の両腕を掴まれた。

 ふたりで横倒しになって見合ったままショッピングモールの二階を滑るように疾走する。ギアを身に着けている道也さんと違って、床に直にさらされているので防具が削られる。

 両腕を掴まれながらも、エスカレーターを斬ったと同時に姿を戻していた鎌を再度解放して床に突き立てた。薄く柔らかい紙であるかのように床を切り裂いていくのを確認すると、元の姿に戻す。刃の切れ味の変化が疾駆に歯止めをかけた。衝撃に、ふたりの身が揺れて浮き上がった。

 鎌の柄が手からすべり抜ける。しかし道也さんはこちらの腕を掴んだまま離さない。何度か一緒に床を転がり、僕が不利な体勢になった瞬間、道也さんは手を離し、床に刺さって柄を上に向けている鎌に向かって走り出した。

 急ぎ体勢を立て直して全力で跳ぶも、紙一重の差で道也さんに先に取られてしまった。勢い任せで着地は考えていなかったので、道也さんの脇腹にタックルをかまし仲良くフェンスを突き破って一階に落下する結末となった。

「また俺の勝ちだな。ポップコーンも追加で」

「そんなルールでしたっけ」

 お互いに未だ笑いが収まらないといった様子で立ち上がる。道也さんが懐からスマートフォンを取り出して時間を確認した。

「そろそろ始まるな。駐車場からそこそこ歩くから急がないとまずい」

「行きましょう」

「あ、レベルは2な」

 道也さんはけたたましい駆動音をモール内に響かせながら。僕は全力の跳躍数歩で。足並みを揃えて“霧”を抜けた。その甲斐あって、ドリンクとポップコーンを買っていってもギリギリ間に合った。予告が終わろうとしていたところだった。

 一番大きなサイズの容器から時折ポップコーンをつまみながらスクリーンに映る世界に浸る。上映が終わった後はフードコートに移動して、劇中のアクションシーンについて熱く語り合った。

「今日は付き合ってくれてありがとな」

「僕もこの映画見たかったので」

「あいつ、映画に誘いづらいんだよ。フィクション全般が好きじゃないみたいで。何見ても真顔で『え?なんでそうなるの?ありえなくない?』っていちいちストーリーとか世界観とかにつっこむからさ」

 口調に不満は一切含まれていない。ただそれを事実として愛おしんでいる。それだけだった。だからこちらとしては、いい先輩たちと出会えたことに感謝して、気楽に応じていればよかった。

「いいじゃないですか。そういう疑問を一緒に考えるのも楽しそうで」

「なるほど、そういうのもアリか。……見終わる頃にはかなり疲れてそうだけどな」

「今まで誘うのを避けられてきた不満もあるでしょうし、そこは甘んじて受けないと」

「ああ、そうか……やっぱそういうのって積もり積もるもんだよな……」

「……はい」

 一度たりとも見逃してくれなかった。ただし透子はそこに嘘を一切混入させないので、関係が修復不能に至るようなことはない。僕さえ正直であれば。そして、複雑に絡まった紐を正確かつ丁寧にほどいていけば、透子はその労力に対して心からの感謝を示す。

 それからはとりとめのない雑談を交わし、気がついたら時間も遅くなっていたのでショッピングモール内で一緒に夕飯を済ませることにした。ふたりで楽しく食事をしているとアプリにメッセージが入ってきたので立ち上げて見てみると、怜奈さんから「報告は?」とだけあった。簡素な文面が却って恐ろしく、胃が縮み上がった。すぐに報告を上げると「よし」と返信があったので、ほっと胸をなでおろした。



 前回、ストップがかかった場所を通り過ぎた。

 高速で駆け抜けていても、固まるよう意識し続けていればマントの形はまったく崩れない。目立たない隙間を作って現在地を確かめながら、全身を覆い隠して走る。

 国道までたどり着くと銃撃が止んだので足を止めた。被弾が目に見えて減った結果に満足しながら、マントを肩に収める。

「それ反則じゃない?禁止禁止」

 どこからともなく表れてそばに着地した怜奈さんが不満気にリボルバーを腰に収めた。マントを広めに展開させてその中で、まっすぐではなく、軸を左右にぶらしながら走ることで狙いをつけづらくする作戦は驚くほど効果的だった。

「……え?あ、はい」

「ちょっと。何が言いたいの?」

「いえ、なんでもないです」

「言いなさい」

 銃口を突きつけるような迫力を伴う笑顔に気圧されてつい口をすべらせる。

「黒田さんが、強い人なら隠れていても見えるって……」

 笑顔はそのままに、怜奈さんの瞳から光が消えた。これに“雲”が触れたらどんな恐ろしい魔物が生まれるのだろうかと背筋が冷えた。

「そう」

 それだけ呟いて怜奈さんはリボルバーを抜いた。

「先程の発言は撤回します。どのような手をお使いになってもよろしいので、全力でお逃げになりなさい――できるものなら。先輩の威信というものを教えて差し上げましょう」

 できればこの場で謝罪するか踵を返して逃げてしまいたかったが、最終的にはそちらのほうがより恐ろしい結末を迎えることになるような気がしたので、半ばやけになって走り出し、先程と同じようにマントを二重に展開した。

 そこから怜奈さんは驚異的な集中力と命中精度を見せつけてきた。

 国道の広い道路はろくな遮蔽物がなかったことも大きい。

 マントなど最初からなかったかのように立て続けに銃弾をマント越しに当ててきて、これでは却って視界を遮るだけだと思ったと同時、ショッピングモールにたどり着くずっと前の地点で防具を破壊された。

「こういう場合はどうすればいいんですか?」

「もっと能力を強く静かに発動できるようにする。そして、相手もそれを破れるようになるために俊のことをもっとよく観察してくる。いたちごっこね。勝ちたいなら、日頃からの練習は決して欠かさないように」

 防具から宝石が割れるような音を立てながら、怜奈さんの講釈に時折返事を返しつつショッピングモールまでまたジョギングで移動した。

「レベルは2ね」

 前進したようなそうでもないような気持ちで“霧”を抜ける。これで今日の仕事は終わりか、と思っていると怜奈さんが不満そうに「ちょっと」と声をかけてきた。

「あれから全然連絡来ないんだけど。危機感がないんじゃない?」

 そういえば、そんな約束もしていた。今まで透子との仲を他人に相談したいと思ったことなどまったくなかったので、つい忘れていた。

「本当に心配。いい?こういうのってちょっとした、本人は失言だと思っていないような何気ない一言が致命的になるものなの。聞いてる?先輩としてはね、後輩にはそんなつまらない失敗なんてしてほしくないから、こうして心を鬼にして苦言を呈しているわけで」

 そのまま同じ電車の隣の席に座り、その間ずっと口を動かし続けていた。電車を降りたらカフェまで連行された。

 怜奈さんのおごりの夕飯を食べながらカウンターの店長に無言で助けを求めたが、温かい目で苦笑を返されるだけだった。そういえば、何でも相談に乗ると言っていたので、近いうちに先輩の長話に付き合わされる苦労でも相談しようか。そんなことをぼんやり考えながら、デザートのケーキをフォークで切った。



 熱い想いが周囲をぐるぐると回り攻撃の機会を伺っている。その稲妻のようなひびは、しかし速度だけは似ていない。目を閉じて、問題なく追える。

 何度か練習しているうちに熱の奥にある本質に触れることができた。執着だ。焦がれ、相手を束縛したいという想い。どんな人が、どんな時に、どんなふうにこの想いを抱いたのだろうか。確かめる術はなく、残された魂から自分の裁量で推し量るしかない。

 小さな光の瞬きが三つ、残された。そこから鎖が一本ずつ、若干タイミングをずらしながら現れる。射るように迫ってくるそれらを、途中で向きを変えないか――一度だけ、意表を突かれて片足を捕らえられて宙吊りにされてしまったので――警戒しつつ、なるべく最小限の動きでかわしていく。

 想いはまだ宙に残っている。三本目の鎖をかわすのに体勢を低くしたのを狙って、頭より少し上の高さ、四方向から追撃が現れた。そこに変則的な意思を感じて回避後も気を緩めずにいると、四本の鎖はアスファルトにぶつかる直前に向きを変えてこちらへ一直線に伸びてきた。

 それ以上の意図は感じなかったので、片足で軽くジャンプしてひょいと避けた。

 鎖が伸びるのをやめてピタッと止まる。もう周囲を回る想いはなかった。四本同時の操作は消費も多かったようだ。先端と出現場所だけは辛うじて宙に止まったままだが、その間の鎖は力を失ってだらりと垂れ落ちて、大縄跳びのような状態になった。

 ここからどうするのだろうと思っていると、「ぐぬう……」と莉緒が小声で唸るのが聴こえてきて、アスファルトに落ちていた鎖がジャリと音を立てた。まだ終わりではない。

「ふん!ふん!」と気合を入れるたびに鎖が一本ずつ跳ねて宙を揺れた。おそらくもう拘束するだけの力はないのだが、練習なのできっちりひとつひとつ小さくジャンプして避ける。やはり力は残っていないようで、大縄跳びのように一回転はできず、ブランコみたいに揺れて戻るのが精一杯なのがどこか物悲しい。

 小学校の体育の授業でなわとびをしていた時のことをふと思い出した。初日は数回跳ぶだけでも満足にこなせなかった。二回目三回目と授業を重ねても成長の兆しが見えなくて、そんな自分自身に落胆したものだった。

 複雑に揺れて左右に行ったり来たりする四本の鎖を両足の上げ下げだけで避ける。そんな自分が何故いつの間にか二重跳びも楽にできるようになっていたのか。とびなわを隠すようにランドセルを奥へ押し込んだ帰り道、透子に手を引かれて近所の運動場で練習をしたのだった。それは努力の習慣の原点となって、今もこうして生きている。

「どうです?疲れていませんか?」

 鎖が赤い光となって消え、頬を膨らませた莉緒がとてとて駆け足で近づいてくる。

「まだまだいけるよ。おかげでだいぶ慣れてきた」

「いい傾向ですね。でも今日は終わりにしましょう。そろそろ……」

 莉緒と空を仰ぐ。そこには血のように黒味がかった赤に染まりきった“雲”がある。中心に小さな渦が形成され始めていた。

「……レベル3。いつでも戦えるよう余力は常に残しておきましょう」

「そうだね」

 首を戻して“雲”から目を背ける。あの赤色を眺めていると、この世はどこにでも危険が隠れているのだという事実を突きつけられているようで不安になってくる。潜ませた恨みの念。その暴走による凶行は、本来どこででも起こり得るものなのだと。

「あれも、いつか誰かが想ったことなんですよね」

「……何かあった?」

「いえ、ただちょっと考えただけです。魔物って、見ていて幸せな気持ちになるより、こういう嫌な気持ちになることのほうがずっと多いんですよ。たまたま偏っただけなのかもしれませんけど、もしこれが正確な割合なんだとしたら……って」

 これまでの魔物たちとの戦いを回想する。暗く、悪意に満ちた想いを。

「今は、どんなふうにしているんだろうね」

「こんなこと、もう忘れちゃって楽しそうにしているといいですよね」

「そうだね」

 いつか残した誰かの想いを斬るという行為は、勝利の快感ばかりをもたらしてくれはしなかった。悪しき侵略者と割り切れていれば、ただ楽しいだけの時間になっただろう。だが現実は複雑で、敵は多彩な背景を持っており、自分の心はそれらを前にして意外な反応を見せ、戦いの後には混沌とした結果が付着していて、未だ剥がれてくれない。

 決して分かり合えない存在から振るわれる暴力と想念。それに対してどう決着をつければよいのかわからないまま、莉緒と灰色の空をしばらく仰ぎ見た。



 ショッピングモール前の駅の出口から意外な人物が現れた。挨拶を忘れて驚き、その人がこちらに気づいて近づいてくるまで、どう反応したものかと呆然と立ち尽くす。

「待った?」

「はい」

 長い赤味がかった金髪を雑にヘアピンとゴムでまとめたエリさんが間近で手を振る。

「ごめんね。バタバタしてて見ておくの今日になっちゃったんだ」

「ああ、“雲”をですか?」

「そう。やっぱり空にあるときにも見ておかないと理解の深さに差が出るの。インスピレーションにも繋がるし。そんなことに時間をかけてないで一つでも多く作るほうが大事だって人も多いけど、フィールドワークを疎かにするのは感心しないわ。たとえそれがどんなに優れた作り手であったとしてもね。私としては……」

「行きましょうか」

 話を切って俊は先に歩き出す。失礼だったかと内心冷や冷やしたが、エリはさん気にした様子もなく「そうね、まずは仕事をしないと」と言ってついてきたので安堵した。だがちょっと歩くと「私っていつもこうなのよね。小さかった頃から『あなたは口を動かすより先にやることがあるでしょ』っていつもいろんな人から言われてて……」と話し始め、それは“霧”を抜けて“むこう”へ渡るまで続いた。

「面白いものを見せてあげる」

 そう言っていたエリさんの髪型が大きく変化していた。所々痛みが見られた髪は、艶やかで美しいストレートロングになっていて、赤と金色に鮮やかに輝く。来ている服もそれに合わせた和服。それも一着一着手の込んだものを重ねて着た、いわゆる十二単。“霧”の前でアピンとゴムをすべて外していたのはこういうことだったのか。

「どうかしら」

「似合っています」

「ありがとう。よかった」とエリさんは優雅にゆるりとその場で回ってみせた。

「見た目は大事よ。使う人のモチベーションにもなるから。リソースを割かずにどれだけ装飾を施せるかが作り手の腕の見せ所ね。といってもこれはさすがにやりすぎて防具としての性能は少し落ちてるけど。……こういう話は、あんまり興味なかったかな?」

「すみません」

「極端な話だけど、本当に性能だけを追求したら光の全身タイツになっちゃうの。どんなに性能重視の人であってもそれだけは絶対に選ばないから、やっぱり見た目は大事なんだなって思う。デザインが気になったらいつでも言ってね?ご要望にお応えするから」

 特に不満もなく、気に入っていたので「はい」とだけ答えておいた。なさそうだが、もし変えてみたいと思ったら、そのときは相談するとしよう。

 エリさんが“雲”を見上げた。邪魔をしないよう、目を閉じて、静かに刀身に意識を合わせる練習をすることにした。次はなるべく、気取られないように能力を使いたい。

 しばらく集中していてもエリさんから何の声もかからないので目を開けてみると、すでにエリさんはこちらをじっと見ていた。待っているつもりが、却って待たせてしまった。

「その鎌の調子はどう?気に入った?」

「はい、とても。黒田さんに稽古をつけてもらって扱いにくいってわかったんですけど、変えるつもりはありません。よく斬れるという長所は魅力的ですし、リーパーといったらやっぱり鎌かなと」

「嬉しい!あなたはきっと最高のリーパーになれるわ。その鎌にはね、私の理想が詰まっているの。最高の武器を作りたいっていう理想がね。武器に必要なものって何だと思う?それはね、使い手と対峙する敵を倒す力。聞いていると思うけど、その鎌のコンセプトは一撃必殺、つまりなんでも一振りで斬れるということ。もちろん今の技術ではなんでもなんて神がかったことまではできないけれど、可能な限りそこに近づけられたのが、元になった魔物の『他者の想いを映す』性質。それを能力に転用して、使い手が心から斬れると信じていればその通りになるようにしたの。普通はどの刃付きの武器にも衝撃強化を併せて搭載して斬りやすくするのが常識なんだけど、この武器はそれをオミットして刃の切れ味だけに特化させていて……」

 何度目かの「へえ……」とあいづちを打った直後、頭を押さえつけられるかのように降り注いでくる不穏な気配を感じて、エリさんとその源泉、“雲”を見上げる。

 風が吹いていないのに動いていた。一時停止していた動画を再生したかのように。渦は重々しくゆっくりと中心へ集束していく。そうして小さくなっていくごとに、どす黒い赤と、潜ませた恨みの念が強みを増していった。

 赤い一本の光が落ちて、色を失って白くなった“雲”が“霧”となって散った。ほんの一瞬だったがその様はまるで一本の木のようで美しく、消えてしまうまでの間、心を奪われてぼうっと立ち尽くしてた。

 音も、爆発もなかった。消えてしまった光の木の根元、ショッピングモールに面した国道には、まるで最初からそうであったかのように魔物がたたずんでいた。

 その魔物は蜘蛛のような姿をしていた。蜘蛛であると断言するのをためらわせるのは、甲羅のような腹部と、そこからなだらかな曲線を描いて生える八本の肢が甲殻をまとっていたからだ。なるたけ地面から遠ざかろうとするその姿は虫らしからぬ印象を感じさせる。

 黒光りする外見からは“雲”のときには感じていた、何か危うげなものを忍ばせている不穏な気配が一切発せられていないのが気がかりだった。

 頭部はない。だが確実にこちらを注視しているのだと、魔物から警戒の念が伝えられる。では、どこで?と疑問に思っていると、死角になっていて見えていなかった甲羅の上側から伺うようにそろそろと巨大なひとつの眼球がスライドしてきて、腹部の表面を自在に泳ぎ、疑問に答える。目が合うと、あの想いがジリ……と照射されて、不快だった。

 僕とエリさんに当座の危険がないとわかると、魔物は眼球をせわしなく、裏も表もなく泳がせて何かを探しだした。

 やがて眼球は一点を見つめて止まる。確信と使命感、そしてわずかながらの喜悦と共に。

 想いの主も魔物も何を見つめているのか、それはわからない。ただ、この状況を前にして、自分がどう思うのか、どうしたいのかだけは、はっきりとわかった。

「僕がここで足止めします。エリさんは先輩たちを呼んできてください」

「……わかった。でも、すぐに来られない場合は戻ってくるから、そのときは一緒に退きましょう」

「はい。ありがとうございます」

 フードをかぶると、エリさんに肩を軽く叩かれた。“霧”のある方へと走っていく。

 魔物はちらと眼球を動かして去っていくエリさんの姿を追ったが、進行方向とは重ならないこともあってか問題にはしなかった。八本の肢をかさかさと、その巨体からは考えられない速さで小刻みに動かして国道を北上していこうとする。信号機よりも背丈が高い巨大な虫が動く様は本来の小さな姿とは比べ物にならない生理的嫌悪感を掻き立て、以前怜奈さんが言っていた「虫はやばい」に心底同意せざるを得なかった。

 一撃で倒せるのならばそれに越したことはない。奇襲を試みようと、手近な漆黒の建物の陰に移動した。だがこの時点で魔物からのジリジリとした視線を感じた。失敗を予感しながらもマントを展開して自分を覆い隠す。

 すると、魔物がピタッと虫らしく動きを止めた。

 建物の屋上に跳んで確かめてみると、眼球が背面に移動していて、こちらを凝視していた。ためしに前後して位置を変えてみると眼球は正確に追跡してきて、マントの下など見透かしているのだと冷たく突き付けてくる。見失うのを懸念して、見えなくなってからも姿を捉えていたから気取られてしまったか。僕にはまださりげなさが足りない。

 これ以上は無駄に防具を消耗させるだけだと判断して、マントを羽のように広げて姿をさらし、威圧する。果たしてこんなぐだぐだな流れで効果があるかは不明だが。

 警戒から敵意へと魔物の意識が移行する。眼球が一回り大きくなった。カサカサと八本の肢を動かして向きを変える。違いがわかりにくいが、あれが正面のようだ。

 時間稼ぎが目的なので今はまだそれ以上魔物との距離を縮めない。眼球を睨み、そこを狙っているのだと威圧するために、両手で柄を大きく持ち上げ右肩に乗せるようにして上段に構え、振り下ろして斬る体勢をとって見せる。

 膠着状態が続く。エリさんは戻ってこない。先輩たちが向かってきているということなのだろうか。できればそうなるまでこの状態が続いてくれればいい。

 不意に、最も近い二本の前肢が消えた。その意味を考えるより速く、左に跳んだ。

 頭の右横で二つの杭が空を切る。生身で受ければ人間の頭部など簡単に肉片になるであろう速度と質量。あの肢は伸ばすことができたのか。

 甲殻は伸び切った肢すべてを覆えてはいなかったので、その隙間を狙ってカウンターで肢を斬り落としたかったのだが、構え直している間に肢は縮んで戻ってしまっていた。

 互いに次の手を模索し、見合う。魔物の甲羅の中の眼球は動きを止め、正面に立って見下ろす僕をじっと警戒している。

(逃げたがってる?)

 この魔物からは凄味といったものを感じない。攻撃性はあるが、積極性を感じない。

 だがそれは魔物をこの場に留めておきたいこちらとって好ましいことではなかった。このまま見合った状態を続けたり、可能かどうかは別として、大きなダメージを与えたりするなどしたら、なりふり構わず逃走してしまうかもしれない。そうなった場合、追いつけない速度で逃げられるのだとしたら、阻止することは叶わず見失ってしまうだろう。威圧したのは失敗だったかもしれない。覚えたての技を考えなしに試して痛い目に遭ったばかりだというのに僕ときたら。

 判断に迷っていると、魔物はまた二本の肢を消した。心なしか、今度は少しゆっくりと。魔物が肢を折りたたむ一連の動作を目で追いながら、その意図を図った。

 今度もまた左へ跳ぶ。しかし、それで終わりにはせず、全力で切り替えして体勢を低くし、屋上のふちに足を引っ掛けて壁面を蹴り、魔物の腹下へ飛び込んだ。

 頭上を二本の杭が空を切る。そして、遅れて更に二本が。先の失敗した攻撃から学習したフェイントだった。同じ避け方をして左に跳んだままだったら追撃を受けていた。

 飛び込んだ勢いを乗せて、肢の、甲殻の隙間の関節部分を狙って斬りつける。

 腹下をくぐり抜け、素早く身を翻す。魔物は痛みに驚いていて、反撃はなかった。眼球がこちらを追ってこない。斬られた肢を凝視していた。

 逃げるかと思ったが、魔物の眼球は再び僕を捉えた。ひくひくと震えている。

 感じるのは、怒りというほど強いものではない。邪魔者への苛立ちといったところだ。

 自分から言い出しておいて情けないが、こうして独り魔物と対峙して敵意を向けられるのは、怖い。前回の魔物に特攻した時にはあった、恐怖を麻痺させる、燃え滾る義憤は、今はもう無い。全身の肌が粟立ち、身がすくんで固くなる。

『そういうときはね、怖いでからだをいっぱいにするの』

 なにそれ、できないよ。

『怖いはどこにある?』

 ここ。

『怖いをぎゅっとしないで、あたま、からだ、ゆび、つまさきに、ぶわってやって』

 こう?

『そうしたら、てをぐってにぎって、おおきくいきをすって、はいて』

 うん……。すう、はあ。

『いっぱいになった怖いが、あったかくなって、力になってくれるから』

 幼かったあの日のことを思い出しながら、深呼吸をひとつ。恐怖を抑えつけず、全身に巡らせて、満たす。そう、透子は出会った時からずっと、嘘をつかない。冷たくなっていた指と足に熱が戻った。柄を握りしめ、アスファルトを両足でしっかりと踏みしめる。

 魔物がアスファルトをひかえめに踏み鳴らしながらカサカサと突進してきた。見た瞬間に数えるのを諦める速さで地面に打ち込まれるあの肢たちにかかればあっという間に防具を破壊されてしまうだろう。横に跳んで躱すしかない。

 だが魔物はその程度の回避を歯牙にもかけず、即座に横移動で追い続けてくる。いちいち体勢を整えずに次の攻撃へと移れるその体の造りは少しだけ羨ましい。

 背後に意識を広げて障害物を探ながら、こちらを押し潰さんと迫る魔物と距離を取りつつも、しかし離れすぎないよう、『倒せそう』な適切な距離を保ったまま避け続けた。

 何度も跳び退るなか、手にした大鎌をそのときの体勢に合わせて構え直し反撃の意図を魔物に見せてみるも、実際にそれを振るうことまではしない。

(そう、それでいい)

 反撃覚悟で鎌を振るえば当てることはできた。と思う。だが、命の危険がある以上、無理はしない。今の僕の役目は魔物を倒すことではないのだから。それに何より、もし死んでしまったら、約束を破ることになるし、何度も助けてくれた先輩たちと、僕を信じてここを預けてくれたエリさんに申し訳が立たない。

 魔物は現状を自身の実力によるものと誤認した。このまま押し切ればあと一歩で倒せる相手と思い込み、攻撃の手を緩めないどころか熱に浮かされ冷静さを欠き、肢が多少もつれるのも構わずに突撃の速度を上げていく。

(……あれか?)

 先輩たちと積み重ねた練習の成果によって、魔物が隠し持っていた『核』を見抜くことができた。こちらから見て左側の一番奥の肢、その先端部に“雲”から感じた想いが凝縮されている。

 突如、灰色の空の下に鋭い駆動音が響き渡り、魔物が連続してアスファルトを穿つ破砕音を破った。魔物は動きを止め、眼球を音のした方へ向ける。

 遅れて来たヒーローの登場だ。果たし終えた役目の誇りから、自然と笑みが漏れた。

 銀色に輝く騎士が空を駆けながら現れ、魔物の尻を凄まじい衝撃で蹴り飛ばした。魔物はとっさに身を回して『核』のある肢を道也さんから遠ざけようとしたためうまく避けることができなかった。それでも八本の肢によって打撃の威力を分散させ、多少ぐらつきながらも体勢を保った。

「左の一番後ろの肢だな?」

 新手を警戒する魔物を悠然と見据えながら道也さんがそう言った。たった一度のやり取りだけで見抜いてしまった先輩に「そうです」と苦笑するしかなかった。

「毒か何かだな。あれに当たると一発で防具を壊されるかもしれないから気をつけろ」

「わかってますよ」と笑っていつでも跳べるよう腰を低く構える。「肢をまっすぐ伸ばして攻撃してくるので気をつけてください」と付け足すと「わかってるよ」と道也さんはうそぶいた。

 防具の下で笑みを交わし合って、魔物と対峙する。

 下がろうとする魔物に、道也さんは逃げる暇も与えず駆動音を高鳴らせながら一気に距離を詰める。僕は流れ肢に当たらないように、それと魔物の意識を割くためにマントをまとってその場から離れた。

 これまでとは違う敵の挙動に虚を突かれた魔物は苦し紛れに二本の肢で突きを繰り出す。しかし道也さんはその程度では止まらない。左右の腕で受け流して前進を続ける。魔物は逆転してしまった立場を覆すために、隣の前脚も逐次投入した。先程より距離が近い。渾身の力を込めて、叩き潰すように敵目掛けて肢を伸ばす。

 衝撃は道也さんの前進を止めた。だが道也さんは両腕で受け切っていて揺らがない。未だ伸びていたままの肢を両脇にそれぞれ二本ずつ抱えてがっちりと捕まえ、動揺する魔物を余所に道也さんのギアが鋭い駆動音を上げ、押し込むようにして再度前進を始める。

 肢でアスファルトを削らされている魔物は拘束を解くために切り札を使う決心をした。左側の一番後ろの肢がサソリの尾のように鎌首をもたげる。

 それを待っていた。まとっていたマントを脱ぎ捨て、道也さんが急停止して狙いを定めやすくしてくれたそれめがけて駆ける。

 突然の背後からの奇襲に魔物は尾の先端と眼球を前後に迷わせた。だが脅威の優先順位はすぐに定まり、光栄なことに背後つまりこちらへ向けて突くように伸ばしてきた。

 ここで斬ってしまいたかったが、何もチャンスは今だけではない。退いて、フェイントということにして魔物の意識を引き付ける。

 距離を取った僕に、魔物が尾を向けて牽制してきた。四本の前脚を抱える道也さんと僕を眼球がせわしなく警戒している。

 だから魔物は上空を横切る二つの影に気づかなかった。そのうちのひとつ、白い影は、頭上に向かって落ちてきているということにも。

 莉緒がレイピアを抜いて、柄を両手で包むように持ち、真下の魔物へと先端を向ける。あの細い刀身で甲羅を貫けるものなのかと疑問がよぎったが、レイピアが光となってランスへと姿を変えたのを目の当たりにしてそれもすぐに吹き飛んだ。

 莉緒は落下の勢いを乗せて、体躯に見合わない、先端が紅い槍を魔物へと深く突き刺した。痛みに魔物の肢すべてがピンと広がる。

 甲羅の上で莉緒は「ぬあー!」と戦いにそぐわない可愛らしい雄叫びを上げながらずぶずぶと槍を押し込んでいく。槍の先端から焼けるような気配が発せられている。先端に熱を発生させることで魔物の体内を焼き進んでいく設計のようだ。

 伸びていた尾がずりずりとアスファルトを這い、身を起こした。せめてもの道連れにと弱々しく頭上の莉緒に照準を合わせようとする。

 莉緒は逃げなかった。確信に満ちた信頼を送ってくる。そのときにはもうすでに、僕は跳んでいて、鎌を解放し、大きく振りかぶっていた。莉緒と同じ想いを刀身に乗せて。

 手応えはなく、阻むものなど何もなかったかのように刃が通り抜けた。

 魔物の尾が切れ飛び、宙を舞って漆黒のアスファルトに落ちる。莉緒のランスがついに腹部を突き破った。大きくビクンと震えて魔物は完全に力を失い、残った肢を放射状に広げて倒れ伏した。眼球は動かなくなり、濁りきって、もう誰も見ていない。

 莉緒は甲羅から槍を引き抜いて、灰色の空へ高らかに掲げた。道也さんとハイタッチしていると、レイピアに戻して魔物から飛び降りて、両手を開きながら走り寄ってきた。三人でハイタッチしていると怜奈さんが「私のこと忘れてない?」と言いながら現れた。莉緒は怜奈さんの首に抱き着いてぶら下がり、怜奈さんを苦笑させた。

 怜奈さんも両手を開いて見せて、僕と道也さんとそれぞれハイタッチを交わした。



 手を繋いで歩く息子がまたしても唐突に「あ!」と大声を上げた。今度は何をねだりだすのかと思いきや、こちらの手を引き、目を輝かせて道路のほうを指さす。

「おにいちゃんがいる!」

 おにいちゃん。その一言で伝わるほど、ここ最近はその話題ばかりだった。「へえ、どこどこ?」と素っ気ない返事をするとむきになって「あっちだって!」と何度も何度も信号待ちをしているライダーを指さす。「失礼でしょ」と言ってそっと手を重ねて下ろさせる。

 お化け騒動とヒーローのおにいちゃん。

 あの日は市民公園で子供たちを遊ばせがてら、懇親会の事前の打ち合わせをしていた。

 世間話や雑談を交えつつ、うまくやっていけそうだなと安心して和やかに話していたと思ったら、林さんがいきなり、私が子供たちから意図的に目を離したと難癖をつけてきて、それが母子家庭の嫉妬によるものだと見下した発言をし出したので、むっとして睨み合いになってしまった。

 井上さんが人工滝のほうを見ながら何か言いたげにしているので、一時休戦して皆でそっちを向いたら、若い男が倒れ込んでいる息子の腕をつかんでいて、血の気が引いた。思わず叫び声をあげそうになったが、男は息子を池から引き上げていたので、異常は息子の側にあったのではと思いとどまった。

 その後男はなぜか自分も池にはまり、抜け出たと思ったら驚くほど素早く林のほうに走っていった。何をしたかったのかはよくわからなかったが、ともかく息子たちの元へ駆け寄ると、息子たちは口を揃えて「オバケがでた」「あのおにいちゃんがたすけてくれた」と騒ぎ立てた。

 妙にリズム良く引っ張られていた手が止まる。騒ぎ出すのが急なら静かになるのも急だ。

「いっちゃった……」

 息子たちの言い分をくだらない嘘だと取り合わなかったあのときと同じ顔をしている。

 あの日の夜、林さんから謝罪の電話が来た。まるで憑き物が落ちたかのように委縮し、平謝りしていた。もしもあの電話がなければこじれたまま物別れに終わって、打ち合わせが進むことはなかったかもしれない。懇親会が中止になっていたら今後に悪影響が出ていただろうし、最悪の場合は市からの心象も悪くなりかねなかった。

 自分たちが収まる箱庭の危機を知らずにいられる息子を少しだけ羨ましく思う。呆れる一方で、しかし自分もかつてこうして親を困らせていたのだろう、と昔を懐かしむ。だからなのか、それともこの一ヵ月間嫌になるほど聞かされ続けたからか。つい息子に調子を合わせしまい、普段ならば決して口にしそうにない言葉がこぼれおちた。

「じゅんちゃんを助けてくれたみたいに、お化けからみんなを助けにいったのよ」

「そっか!」

 一転して表情が明るくなる。親の気も知らないで、無邪気なものだとつくづく思う。

 バイクが去っていったほうをなんとなく目で追う。ぐずつく子供をなだめるために、とっさに口を突いて出ただけだったのだが、不思議と急にそんな気がしてきて、なんだか可笑しくなって、自然と口元に笑みが浮かんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ソウル・リーパー 山内真弓 @yamauti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ