三、義憤

 自分は有能ではない。だが決して無能などではない。そう信じていた。

 ある日、社長が朝礼で要領の得ない話をし出した。周囲が首をかしげるなか、それがリストラをちらつかせているのだと私は即座に理解した。

 翌月までには四人が辞めていた。一人辞める度に、昼休憩は静かな大盛り上がりを見せた。侮蔑と嘲笑を隠しもせずに彼らがいかにクビを切られて然るべき人物であったかを証言し合う、魔女狩りのあとのような様子だった。

 それから、急激に残業が増えた。

 社内には愚痴が蔓延するようになった。増えた、というわけではない。そもそもの総量は変わってはいない。変わったのは、自己を顧みることのできない醜悪な連中の悪感情を中和してくれていた、無償の明るさが失われてしまったからだった。

 彼らが社内のあらゆる負担を減らしてくれていたのだと、居なくなってようやく知った。

 必要とされる人間は一つの所に固執しなくても生きていける。その気になれば、どこへだって行ける。

 無能などではない。滑稽だ。それこそ無能の物の考え方だというのに。有能であることを目指さず、下を見て、自分が無能だという事実から目をそらしていたから、こうなる。

 リストラが大企業にのみ起こる現象だと何故か思い込んでいた。世間知らずな自分を心から恥じ、呪った。

 毎日の通勤が苦痛になった。運転の安全のために遊園地のメリーゴーランドがどうしても視界に入ってしまうのも理由の一つだ。通るたびに思い出す。自分の最も古い記憶。あれの馬車に両親と乗って、上下する白馬に手を伸ばそうとする、というものを。

 初めての出勤日にここを通ったときはもういない両親と肩を並べたような気がして「大人になったな」と感慨深かったものだ。

 あの場所は「未来は希望に満ちている」と悪びれもせずに騙る。薄汚れたスピーカーから流れる、ぼやけた音質の嫌に明るいテーマソング。アップデートする気のない、古臭いままのデザインのフードとドリンクの紙容器。気づこうとすれば、いつでも気づけたというのに。

 仕事と人間関係に打ちのめされても、癒し、英気を養ってくれた思い出が、今は憎い。

 無責任に「あなたにはこれから素晴らしい出来事が待っている」と無知な子供を騙すあの場所が憎くて仕方なかった。そこで笑う子供たちも、同罪だ。



 魔物役をしている小宮さんが鎖を鞭のようにしならせて振るう。

 五十里さんはそれを、離れすぎない範囲で前後左右に動きながら両腕ではじく。

 そんなふたりの立ち回りに合わせて、常に魔物役の背後をとるようキープし続ける。

 金城さんはそのずっと後ろに位置取っている。僕が加わると射線をどんな感じで遮るのか確認するためだ。

 フォーメーションの練習を始めたばかりの頃は散々だった。僕の突撃と射撃がかち合ってフレンドリーファイアになってしまう場面が何度もあった。反省会の結果、金城さんが常に僕を視界に入れるポジショニングを基本とすることになった。それによって金城さんの行動が制限されている。僕はその分を埋め合わせる以上の働きをしなければならない。

 緊張感が弛緩してきて今日の練習の終わりを予感させるようになったあたりで、小宮さんが見たことのない動きをした。右手を、突き刺すように地面へつけた。

 五十里さんと対峙したままの体勢だが、しかし意識がこちらに向いているのを感じる。

 跳躍してその場を離れると、さっきまで立っていたところに雷が地を這って走り、街路樹に当たって電撃が爆ぜた。

「むう」と小宮さんが不満気な表情で両手の親指を立てた。ここ数日、魔物役として斬られたり撃たれたりしてきたのだから、仕返しにまだ知られていない魔法で不意打ちのひとつもしたくなるのも無理はない。これが練習にかこつけたじゃれ合いであればいいが。小宮さんとは今に至っても会話が二言しか続いたためしがなく、嫌われていやしないか心配だった。なので、そういった類のコミュニケーションはとてもありがたい。

「そろそろ、切り上げるか」

 一瞬、『そろそろ』が“雲”のことを言っていると勘違いした。

 頭上の灰色の空に浮かぶ、どす黒く深い緑色をした“雲”。色がついた状況はレベル2。ここからレベル3に移行して、その後に魔物が発生する。

 あの“雲”からは執着心、年月をかけて醸成された憎しみの念を感じる。よくよく底を探ると根っこの部分には確固とした愛情を感じられるのが、なんとも救いようがない。

 もう一つ“雲”には問題があった。規模が大きすぎる。首を真上に向けると、不快感を催す緑一色が視界を占める。昨日よりもまた少し広がった。迷い込んだときに見た“雲”とは比べ物にならない。先輩たちによると、美影市の傾向ではもうレベル3の収縮を始める状態になっていてもいい時期を何日も過ぎているとのことだった。

 あれが魔物化すればどれだけの悪影響が出るのだろうか。被害が出る前に素早く倒してしまうべきだ。そのための準備は怠っていない。合格点とはとても言えないが。

 目を閉じて、手にした鎌の全身を意識で満遍なく包み込む。何度も繰り返してきたことによって手に馴染み、今ではその形をくっきりと捉えられる。潜る際に反発を感じなくなった。奥にあるものも、わかる。鏡だ。触れた者の想いを映す、鏡のような性質の想念がある。そこまでわかってはいるのだが、どうしてかそれ以上の進展がなく手詰まりなまま時間だけが過ぎていた。焦りや不安に苛まれているときに見る夢のように、前進しようといくら試みても決して距離が縮まらない。

「何かアドバイスできればいいんだけど、この手の感覚は似ているようで一人一人微妙に違うんだよな。想いの性質も一つ一つ違うし。だからアドバイスをしても却って逆効果になることが多くて……まあ、急がなくていいさ。できないってことは、今はしっかり悩む必要があるってことだ。余計なことは考えずにただ悩めばいい」

 笑顔を作ってうなずく。

 だが、この魔物が現れる前にはできるようになっておきたい。前回の戦いでこれができていれば相手の固さなど物ともせずに斬り裂けていたかもしれない。そうだったなら先輩たちに嫌な役目をすべて押しつけることになんてならず、いくらか肩代わりできていたはずだったのに。僕は現状に対して、すでに大きく遅れている。

「ちょっと気分を変えるか。せっかく見た目が死神っぽく統一されてるんだし、それらしい構え方を考えてみるのはどうだ?」

 気を遣われているのだと思う。ここ最近は練習中も終わった後の休憩でも言葉少なになっていた。先輩たちの不安を晴らすためにもここは乗っておくべきだろう。

「新人で遊ばないの。三上くんも、嫌だったら遠慮しないで断っていいからね?」

「いえ、確かに最近は根を詰めていた感じだったので。気分転換にやってみます」

「そっか」とどこか安心したように引き下がる金城さんに、正しい返答ができたのだとほっとする。

 それぞれの記憶を頼りに、見てきたフィクションを元に提案と議論がなされた。意見を取り入れながら、次々とポーズを変えていく。

 いくつか試して、ポーズそのものよりも所作のほうが肝心なのだという結論になった。効率を考えて細かな動作で素早く動こうとすると、せかせかしていて余裕がなさそうに見えてくる。大鎌という全長が大きな武器を手にしていると更にそれが強調される。非効率的で戦闘に使えるとは思えないが、ゆったりと、重々しく動いて見せることで迫力が出て外見にマッチするのだとわかった。

 遊びのようでいて実際に振る際の視点も聞き入れてくれたので、フォームの矯正もできて意外と参考になった。自分では気がついていなかった無駄な癖も直せたので、時折飛んでくるあからさまに冗談だとわかる要求にも笑顔で応じられた。

「いいねいいね!次はもっとセクシーな感じで」

 真面目に付き合わなくていいと言わんばかりに金城さんがライフルのストックで五十里さんの脳天を叩いた。



「また来たの?毎日ありがとうね」

 何か変わったことはなかったか訊きたかったが、不審に思われそうな気がしたので笑って会釈するだけにとどめておいた。

 売店でホットコーヒーとソフトクリームを買って、透子の向かいに座った。

「お疲れ様」

 空になった紙製のカップを両手で包みながら、こちらをじっと見つめている。透子の言いたいことはわかる。わかるから、何も言わずソフトクリームをかじった。

 昨今の物と比べて生乳の味が淡泊ではあるが、さっぱりとしていてこれはこれでいい。回復のためにと口に運んでいたらつい配分を忘れてもう半分以上食べてしまった。埋め合わせに、やたら熱いコーヒーにおそるおそる口をつける。作り置きで香りが濁り雑味もひどいが、ソフトクリームの甘みが口に残っていたおかげでさほど気にはならなかった。

「どうだった?」

「どっちも変わらない。“雲”は順調に大きくなっていて、例の人たちも音沙汰なし」

「そっか。……その人たちってさ、何がしたいんだろうね」

「あんなことをした理由はまだわかっていない。掲げている目的は、魂を独占して不老不死になることなんだってさ」

「そんなことできるの?」

「店長は無理だって言ってた。なんだけど、聞き入れずに各地で灰色の大樹を切り倒そうとしていて……あれは陽動のためにやったんじゃないかって」

 過去には局員やアルバイトを殺害したこともあったと言っていた。

「……やっぱり、辞めない?なんだか思っていたより危ないみたいだし」

「訊かなくてもわかってるよね」

「わかってるから言ってるの」

「局の人が来て調べているそうだから大丈夫だよ。……そんなことより、これからここで何かが起きるかもしれないんだから、それを防ぐほうが大事だよ」

 前回の戦いの後、店長に頭を下げられた。「辛いことをさせてしまって、本当にすまなかったね」と店長は謝っていたが、むしろそう言われたことのほうが辛かった。自分で選択したのだし、何より、そもそもまったく役に立てていなかったのだから、戦いに参加していたとは言い難い。

 コーンをかじりながら口に詰め、最後に残っていたコーヒーを一口。

「今日も見回り、がんばろっか」

 さっきは辞めないかと提案していたが、それでも付き合ってはくれる。感謝や申し訳なさももちろんあるが、それ以上に今の僕の心を占めているのは「当然」だった。聞く人が聞けば怒り狂いそうな傲慢で甘えた表現だが、結局のところ透子はこれを一番喜ぶ。

 目を惹きつける色とりどりのアトラクションの間をふたりで歩く。平日ではあっても利用客はそれなりにいるものだ。少々遠慮がちでうら寂しさを感じなくもないが、楽しそうな声がほぼほぼ途切れることなくどこからか聞こえてくる。

 隣に透子がおらず、連日ひとりでここをうろついていたら不審者にしか見えていなかった。連日遊園地に訪れている二人組の男女、という現状でも怪しい気はするが。

 あまりキョロキョロせず自然体を装って、時に園内をゆっくりと歩いて回り、時に“霧”の前で立ち止まるかベンチに座って雑談しながら異変が起きないか監視する。

 過去に友人たちが遊びに行く先として挙げた際に冗談じみた言い方をしていただけあって、規模は大きくなく所々古さを隠しきれていない。しかし遊園地特有の賑やかで明るい雰囲気はいざ実際に訪れてみると中々に良いものだった。

 だが、スピーカーから流れる明るい音楽では拭いきれない暗い雰囲気がどことなく漂っている。泣いている子供と、苛立ち叱りつけている余裕のない親。楽しくなさそうにぼんやりとしている学生たち。笑顔に生気がないスタッフ。“雲”の影響なのか、問題が起こりそうな前兆がそこかしこに見て取れて、不安を感じずにはいられなかった。



 暗い緑色の巨大な“雲”に変化が起こった。

 風もないのに、じわじわと内側に動き出す。緩慢だが、直に触れれば押し潰されてしまいそうなほどに重々しく。渦巻く雪崩のように。

“雲”は中心に向かって集まって、凝縮していき、やがて色の濃い渦となる。

 見るものがあれば、変化のたびに増す、発せられる怨念に不吉を感じずにはいられなかっただろう。

 貪り喰われるように、急速に渦は縮んでいった。更に中心へと色が凝縮される。

 流星のごとく光の雫が地面に落ち、“雲”は色を失い宙に散った。まばたきにも満たない一瞬の最中、その様はまるで一本の光の木のよう。霧散した“雲”は辺りに広がり“霧”となって漂う。

 地に触れる直前、光の雫は魔物へと形を変えていた。始めからその姿で空に在ったと言わんばかりに、音も、何の演出もなく。

 現れたのは園内を一望できるほどの巨木だった。柳のように細く傾いだ幹と、垂れ下がった葉のない枝々。果実なのか、枝にはメリーゴーランドが無数に成っている。

 灰色の空の下、漆黒に塗り潰された園内に、魔物から流される音が響き渡る。子供じみた悪意をもってわざと音程を外したような聞き苦しい音楽を、魔物は静かに奏でている。

 聴く者は、今はまだ誰もいない。


「ダラダラ詰まってたけど、出るときは一気だったな」

「その言い方やめて。三上くんもさ、こういうの嫌だよね?」

 ミニバンから降りて早速言い合っている五十里さんと金城さん。そんなふたりのそばで他人の振りをしている小宮さん。戦いの前の緊張感がいい具合にほぐれる。

 入浴中にメッセージが届いた。最後に確認したときはレベル2だったので、レベル3になるまでまだ猶予があると思っていたのだが、やはり不測の事態は起こるものだ。今時の若者らしく常にスマホを近くに置くようにしていたので、先輩たちを待たせずに済んだ。

 この時間は駐車場が閉まっているので仕方なく路肩に停めた。悪いとは思うが、交通量は0に近いし、人を襲う怪物を倒さないといけないので大目に見ていただけないだろうか。

「こういうこともあるんですね」

 返答に困ったのであいまいに笑ってごまかした。その印象は当たっている。透子は基本的に僕のあらゆることに対して寛大だが、下ネタに関してはとても厳しい。ちょっと頭に思い浮かべることすら許してくれず、そのたびに修正されてきた結果、今では発想そのものが出てこなくなった。

「自然を相手にするようなものだからな。セオリーみたいなものが確立されてはいても、こっちの思い通りに動いてくれるとは限らない」

 五十里さんの喩えに「わかりやすいです」と答えて三人と一緒に歩き出す。

 山道だけあって街灯が少なく辺りは真っ暗だ。たまに車が通るくらいで人通りはない。

 遊園地の入り口を通り過ぎてその先の、山の頂上へと続いている道を登る。

「緊張しているか?」

 夜の闇を歩きながら訊いてくる五十里さんに「はい」とだけ答えた。

「ずっと練習頑張ってたじゃないか。大丈夫だ」

 出かかった否定の言葉をとっさに飲み込む。五十里さんの言葉は事実だが、しかしそれだけだ。頑張ったとは言える。だが戦力として数えられるかと訊かれれば、答えは否だ。それは練習に何度も付き合ってくれていた五十里さんも理解しているはずで、緊張を解こうとするためには敢えてその点には触れないようにする必要があったと暗に示している。

 じわりと染み出てきたその不満をうまく言葉にできず、「はい」と努めて同じ声色になるよう口にした。

(早く戦えるようになりたい)

 未だ新人の域を出ない。当然といえば当然だ。それが現実なのだから。しかし自分自身を「現実を見ろ」と抑えつけるごとに染み出てきたものが水溜りになっていって、いずれ決壊するまで増えて外に溢れ出してしまうのではないかという気がしてくる。

 五十里さんに他意はない。もちろん悪意も。

 わかってはいるが、わかっているからこそ、このくだらない幼稚な不満を口にするのははばかられるのだと、確信が深まっていく一方だった。



“霧”を抜け、木々の生えた坂を上って園内に侵入すると、フレームとゴンドラが無い支えだけとなった観覧車が出迎えた。日中に動いていたからか、観覧車の特徴的な部分は反映されていない。開園直前の時間ならば観覧車の姿を拝めるのだろうか。

 この世界には昼も夜もない。灰色の空の下は、闇夜と違って物がよく見える。明るさに目がくらむこともなかった。不思議に思うが、この距離からでも視認できるほど巨大な魔物と、魔物から放たれている憎しみの念が、質問をしている猶予をくれなかった。

 巨木の姿をした魔物を見上げる。“雲”を観測していたときとそう変わらない角度で首を曲げないといけないほどの巨大さだ。巨木の枝から釣り下がっている無数のメリーゴーランドという非現実的な不気味さに気圧されかけるも、両の瞳と、鎌を握る右手に力を込めて振り払う。

 葉が一つもない枝に成るメリーゴーランドのうちのひとつが、とりわけ強い気配を放っている。おそらくあれが魔物を形成する核だ。あれを僕が斬るか、金城さんが大砲で破壊すれば、それで終わりだ。

 五十里さんが、盾のように幹を覆い隠すメリーゴーランドの群を指差す。

「あれの数が多すぎるな。一斉に来られたら対処しきれそうにない。なるべく少しずつ釣って一個ずつ減らしていこう。フォーメーションはいつも通りに」

 金城さんと小宮さんが同意する。僕も異論はなかった。複数のメリーゴーランドで囲まれ、挟まれてしまえば身動きがとれなくなるのは容易に想像できた。

 戦闘態勢に入る。銘々が武器を構えた。

 五十里さんが漆黒のコンクリート歩道と純白の芝生の上を疾駆し、魔物が枝を振り下ろせば届きそうな距離まで接近する。視線は、巨木との間の、僕も目を付けたメリーゴーランドのひとつを捉えている。

(やっぱり先輩もわかっている)

 予想が一致したことで自信が深まる。外見通り、幹からはこれといった強いものを感じない。むしろ本体をまぎれさせているフェイクのメリーゴーランドひとつひとつのほうがまだ大きな魂を宿していた。

 魔物には、その体を形作り、維持し、どう動くか指示を出している箇所が体内のどこかにある。脳と心臓の機能を併せ持ったその器官へのダメージは致命傷となる。いかに強大な魂を有するこの魔物であってもそれは例外ではなかった。

 巨木には顔がなく、人型でもないため、動きからは感情が読み取りにくい。ただ、こちらを認識しているとだけはわかる。警戒や敵意の念が発せられている。

 小手調べを望んでいるのは魔物も同じだった。一本だけ、枝を鷹揚に振り上げてぶら下がっているメリーゴーランドごと五十里さんへ叩きつけた。

 質量の大きい金属塊が凄まじい力で地面に激突する音の迫力に耳が震える。

 五十里さんはすでにそこにはいない。即座に弧を描いて加速して回避し、地面に埋まりかけていたメリーゴーランドの土台に後ろ回し蹴りを放った。四人全員で乗ってもまだまだ乗り物に空きがあるそれが浮き上がって、横転する。沈黙の後、ゆっくりと引き上げられていき、元の位置に収まるように空中で止まった。

 魔物から流れる耳障りな音楽のテンポが速さを増していく。それに伴いメリーゴーランドが刈払機のごとく高速で回転し始めた。

 今度は叩きつけるのではなく、手のひらで押し出すようにその武器を突っ込ませてきた。五十里さんは横へ逸れて躱す。だが、魔物の体躯は巨大だ。ただ横にずらすだけで楽々に当てることができた。

 両腕で受けたが、高速で回転する柵と土台が甲冑を削る。銀色の光が散った。

 後退する五十里さんへ、魔物は幹をかがめ、更に枝を押し込んで伸ばし追撃をする。

 もうこれ以上は伸ばせない。確信すると同時に、メリーゴーランドを吊る、糸のように細い枝を斬るために、跳んだ。

 魔物に焦りが走った。枝を引っ込めようとして追撃を止めたが、もう遅い。

 空中で半身を捻って構え、溜めた力を解き放つように大鎌を横薙ぎに振るう。練習で何度も繰り返してきた動作が、実戦で寸分の狂いもなく再現された。その瞬間、何かが噛み合うのを感じた。実戦の緊張が最後のピースだったのか、足りなかったものが埋まり、自分は今まで何を理解していなかったのかをついに理解できた。

 乾いた硬質なひも状の物体を断ち切る感触と音がして、メリーゴーランドが地に落ちる。意思のない死骸となって、重く、力ない落下音を色彩が失われた園内に響き渡らせた。

 魔物は戦力を小出しにするのをやめたようだ。枝を二本、腕のように構えた。人間を思わせる動きにほんの一時だけためらいがよぎるも、繰り出される複雑かつ広範囲になった攻撃を前にしてそんなことはすぐに考えていられなくなる。

 覆いかぶさってくる枝に成っているメリーゴーランドの数を五つ数えたあたりでそれ以上数えるのを諦め、回避に専念して急ぎ距離を取った。いくつか直撃しそうな物があったが、金城さんが大砲で的確にそれらを撃ち落としてくれた。

 枝の届かない位置まで皆と下がって、一息つく。

(勝てる)

 練習の成果があった。フォーメーションが機能している。僕も問題なく動けている。そして、懸念もたった今解消された。もう何も負ける要素はない。着実に魔物を追い詰め、今日中に倒して、被害を未然に防げる。誰も襲われることはない。

「これは無理そうだな。撤収しよう」

 聞き間違いかと思った。

 金城さんは腰にライフルを下げ、小宮さんは開いていた本を閉じて小脇に抱え、安全圏から更に後退していく。突然の撤収宣言に戸惑っていると、五十里さんに軽く肩を叩かれ退くよう促されたので、しんがりを守ってもらいながら、仕方なく後に続く。

 入ってきた“霧”まで戻ってきた。途中、魔物がこちらへの視線を切ったのが感じられた。敵意が消え、圧力のように体へかかっていた負荷がなくなり、肩が軽くなる。

「もう逃げるんですか?」

「ああ。あいつの攻撃で俺のギアと防具が結構削られた。あれをヘヴィ以外が食らうとやばい。リスクがでかすぎるから、あとは局の人に頼もう」

「来るのにどのくらいかかりますか?」

「たぶんまだいるだろ。すぐじゃないか?」

「その間に人が襲われたら……」

「ちょっと」と割って入ろうとする金城さんを、五十里さんは手で制した。

「三上が言いたいことはわかる。あれを落とせば終わる。そう判断しているんだろ?」

「はい」

「俺は、あれは罠だと思ってる。“雲”の大きさから考えるとあれはちょっと小さすぎる。おそらく本物は俺たちにはわからないよううまく隠している。もちろんその見立てが正解の可能性だってある。けど、俺たちだけだと、それを確かめる前に持たなくなって誰かがやられる危険性が高い。だから悔しいけど、今回は諦めよう」

「……それは、僕がいるからですか?」

 金城さんの視線が痛かったが、それでも訊いておきたかった。

「そんなことはない。さあ、戻ろう」

 五十里さんが肩を叩いて慰めてくる。首肯し“霧”を抜けて、戦いはひとまず終わった。



 見えないベールをかぶせられたかのように、広がっていた感覚が遮断されて閉じた。最近“むこう”から戻ると感じるようになった。バイクの開けた視界が当たり前だった自分が初めて車を運転したときの感覚と似ている。二つの世界の魂の量の差によるギャップなのだそうだ。連日の練習を通してすっかり慣れていたはずだったのだが、今は何故か、不当に力を取り上げられたかのような不快感があった。

 夜道の坂を下る。背後の“霧”から一歩離れていくごとに「まだやれたのではないか」という後悔が大きくなっていくので、店長に電話をかけている五十里さんの声に聞き耳を立てることで平静を保つ。

「……え、そうなんですか?……はい……はい、わかりました」

 五十里さんが通話を切った。

「早くて明後日の午後、遅くても三日後には来るってさ」

「すぐには来られないんですか?」

「ちょうどここでの調査を切り上げて、各地で溜まってた要請を処理しに行ったんだってさ。順番だから仕方ないな。タイミングが悪かった」

「……やっぱり、戻りませんか?」

「もう頼んじゃったからなあ。それに、そもそも俺たちバイトは無理してまで倒さなくてもいいんだよ。特徴や戦い方を伝えるだけでも十分なんだ。あとは相性のいい装備の人が来て秒殺してくれるよ」

「でも、まだいろいろとやりようはあったと思います。金城さんが狙撃するとか、小宮さんの魔法で攪乱するとか」

「どっちもあれにガードされるだけだと思うな。多すぎだし、先にこっちがエネルギー切れになるのがオチだ。学習されたら後から来る人の迷惑になるし」

「また人が襲われるかもしれないんですよ」

「いい加減にしなさい」

 金城さんの声には苛立ちがこもっていた。切れ長の大きな瞳が怒りに曲がっている。対立したくはないが、かといって引き下がりたくもなかったので目を逸らさなかった。

 その後ろにいた小宮さんとも目が合った。表情からはこちらをどう思っているのかは見て取れない。ただじっと見つめてくるその瞳に透子に似たものを感じてつい目を逸らした。

「まあまあ。いいじゃないか」ととりなしてくる五十里さんに、これ以上何を言っても無駄だと感じて、無言で軽く会釈して返事も待たずにバイクにまたがりその場を去った。

 ある程度走らせてから路地に入り、エンジンを止める。

 時刻は深夜。付き合いや行事の都合上やむを得ない場合はあったが、うるさくて迷惑になるので、普段この時間にバイクを走らせることはない。なので、来るときは横切る家々に申し訳なく思っていたものだが、今はまったくそのような感情は湧いてこなかった。

(まだ、やれたはず)

 あの魔物は確かに強大で、恐ろしく広い範囲を一度に攻撃できる。だが巨体のせいか予備動作も含めて全体的に動作が緩慢で、攻撃のチャンスはいくつもあった。付け入る隙はまだあったのに、試すことなく諦めるのは早計だったのではないか。

 路地の隙間から五十里さんたちの乗ったミニバンが通り過ぎるのを確認した。ハンドルを切って、戦えるのは自分だけなのだと覚悟を決め、来た道を引き返す。

 公園で子供が襲われていた、あのときの感情が蘇ってきた。

 あの魔物も、今回の魔物も、根底にあるのは同じものだった。

 不快感に吐き気が込み上げてくる。たまらずうつむいて、胸を抑えたくなる。

 荒い呼吸を何度か。夜の静寂と風が乱れかけていた思考を鎮め、怒りを冷たく研ぎ澄ましていく。

「なんで、そんなことを想うんだ」

 今なら、斬れないものはない。そんな気がした。



 火花のように生じた警戒の念は、徐々に悠然とした余裕へと変化していった。

 反感は湧かなかった。むしろ当然の反応だと認めた。どのみちここで僕に始末されるのだからどう思われようと、とも。

 冷え固まった怒りが、感覚を研ぎ澄ます。

 見せびらかすように、魔物が枝とその下に成るメリーゴーランドをかかげた。「やれるものならやってみろ」と言わんばかりの挑発だった。

 後ろ手に大鎌を構える。

 一拍置いてから、可能な限り全力で跳躍した。最も強い気配を放つメリーゴーランド、それを吊り下げている枝めがけて。

 鎌を振るう寸前、近くにあった別のメリーゴーランドが素早く割って入ってきて弾き飛ばされてしまう。予想を超える速さの敵に慌てて対応したからなのか、追撃は雑だった。激しく転がりつつも受け身を取って態勢を立て直して、軽々とそれらを避けられた。

 不用意に接近してきた敵を追い詰めようと、魔物は枝をしならせるのを止めない。

 だが攻撃が当たることはなかった。

 巨体故にあらゆる動きが鈍重で、予備動作から次に仕掛けてくる攻撃を容易に予測できたからだ。枝同士が絡まらないよう操っているので動きも単純かつ単調。色が鮮やかでメリーゴーランドについ目が行ってしまいがちだが、その上の枝がどう動くかを見ていれば立っていてはいけない場所が簡単にわかるのだと気づくと、更に余裕をもって回避できるようになった。

 魔物が繰り出してくる攻撃は大きく分けて三種類。縦の振り下ろし、横あるいは斜め上からの薙ぎ払い、押し込んでくるような突き出しだ。手札はそれで出し尽くしてしまったようで、攻撃パターンがそれ以上発展することはなかった。

 とはいっても、反撃にはなかなか移れない。敵を排除せんと高速回転しながら押し寄せてくるメリーゴーランドの数が、単純に多すぎる。踏み込めば隙ができ、大挙して襲い掛かってくるあれらに飲み込まれてしまうだろう。

(なら、一撃で決める)

 狙うは魔物と対峙した当初から目をつけていた、特に強い気配を放つメリーゴーランドだ。回避運動の都合上視界から外さざるを得ない場合はあったが、それがどこにあるかは戦いの中で常に意識し、なるべく捉え続けていた。何度も目と感覚で追っているうちに、あれだけが細かい汚れや傷、塗装の剥げがあるというどうでもいいことに気がつく。

(あれを斬れば終わりだ)

 一撃での決着を望む理由はそれだけではない。

 魔物の攻撃が、こちらの逃げ道を塞ぐよう意図した動きになってきたからだ。明らかに建物の位置を把握したうえで、回避された先に壁を作るよう枝を振るってメリーゴーランドを置き、迫らせてくる。

 砕かれた建物の破片も魔物の味方となる。回避を阻害されるので建物が次々と倒されて消えていくのは好都合だと思っていたが、広範囲に散らばる破片というより塊といっていいそれらに足を取られて体勢を崩しかけたことで、ようやく自分が劣勢に立たされつつあるのだと理解した。

 魔物は喜悦の念を発しながら、思い出の地を砕き、敵を追い詰めていく。この地のどこに何があるのかをつぶさに覚えているからこそ可能な、知性ある戦略的な暴力。

 大きく背後へ跳ぶ。枝はここまでは届かない。

 距離を取って敵を見据える。それは魔物もまた同じだった。

 右手で持った鎌を水平に、一直線にして構える。

 手首をひねって、刀身を敵へ見せる。獲物に、これから起きることを目に焼き付けるがいい、と。

 僕は大きく認識を間違えていた。手にした武器に、変わるよう追い求めるのではない。異物ではなくただ自分の一部として認め、受け入れればよかっただけだった。

 穢れのない美しい鏡が、僕を映す。今なら何だって斬れる。確信だけが互いを占めた。

 鈍色の光が大鎌を包み込む。変化は一瞬。光が消えると、そこには禍々しい姿の、漆黒の大鎌があった。

 大鎌を、再び後ろ手に構える。

 初見で対処された攻めを再度試みる敵を前にして魔物は迷いを発した。より強力になった攻撃を同じ型で放つのか、それともフェイントに利用して別な角度から攻めるのか。

 僕は前者を選択した。わずかだが先の全力を超える速さの跳躍で、瞬時に彼我の距離を詰める。

 魔物もまた、同じ動きを見せた。うまくいった。力任せに大きく身をひねって、防御のために現れたメリーゴーランドのほうへと大鎌を振るう。

 屋根ごと真っ二つに両断し、ぶつけられる前に落とした。

 思わぬ反撃に魔物はその先にあった『本体』を遠ざけた。だが逃がしはしない。

 着地した僕の前に立ちふさがるように二つのメリーゴーランドが路面に叩きつけられた。それぞれが内側に向かって高速回転し、轢き込んで粉砕してやろうと接近してくる。

 両足で強くアスファルトを踏みしめ、渾身の力で大鎌を振り抜いた。

 疑いの余地なく二つとも同時に柵と土台が斬り裂かれ、半壊した。跳躍ついでにバランスを崩して絡まり合っていた二本の吊り糸を断ち切って、更に後を追う。

 四つのメリーゴーランドが横一列に並んで、振り子のように襲い掛かってきた。

 鎌を振るい、刃を当てるも、今度は魔物の側が上手だった。ひとつに刃が刺さった瞬間に大きく持ち上げられて、鎌ごと体を宙に浮かされてしまった。地に足がつかない無防備な状態では当然回避はままならず、別方向からの攻撃をもろに受ける。防具から黒い光が飛び散った。

 武器から手を離してはいけない。止まってもいけない。前回は先輩たちに助けてもらえたが、単独の今それは死に直結する。そして、死を乗り越えるためには最早眼前の敵を倒す以外に道はない。

 幹が近くなると魔物の攻撃は激しさと複雑さを増していき、回避に専念せざるを得なくなる。解放を維持するためにいくらかの集中力を割き続けなければならないのも大きい。

 何度目かの回避の失敗で異変が起きた。

 防具の中で宝石が割れるような音がした。

 最初はメリーゴーランドのたてる金属音だと思った。思いたかった。しかし跳ぶために足へ力を込めたそのとき、決定的な違和感があった。だがそのまま足を止めて魔物の攻撃を受けるわけにはいかないし、考えている余裕もなかった。

 大地を蹴り、違和感の正体を理解する。想定の半分にも満たない跳躍に、驚愕した。

 片足が回転に巻き込まれてあらぬ方向へ弾かれた。動きが鈍ったなか押し寄せてくるメリーゴーランドに背筋が凍る。どこへ跳ぶべきか逡巡していると、見つけたいくつかの逃げ道の先に『本体』があることに気がついた。

(やるしかない)

 狙いを隠すことなく『本体』を追った。跳躍の距離と速度は不安定になってしまったが、幹に近いここでは同士討ちを避けようとして攻撃の手が緩んで予測しやすくなるという僥倖もあった。まだ戦える。加えて、最初に見せつけた急接近を恐れて半数以上のメリーゴーランドを盾として割いているので、攻撃の手がこれ以上増えることはなかった。

 力を込めるたびに防具から黒い光を飛び散る。しかし諦めずに目標との距離を縮めていき、ついに辿り着く。次の一手で『本体』を両断できるというところまで。

(これで終わりだ)

 道連れにするつもりなのか、せめてもの脅しなのか。魔物がその奥でメリーゴーランドを振りかぶっていた。「それを斬ればお前も無事では済まないぞ」と言わんばかりに。

 ためらうことなく跳んだ。これで倒せるのならば、その後に何が起ころうと構わない。

 この戦いのなかで最適化されていった横に振るう動作で、ずっと追い焦がれていた吊り糸を、ついに斬り落とした。解放され切れ味が増していた大鎌はその感触を伝えることはなかった。

 あとは魔物が倒れるのを見届けるだけ。気を緩めかけたそのとき、目を疑う。魔物は倒れることなく何事もなかったかのように攻撃を続けていた。

 五十里さんの「罠」という言葉が硬直しかけていた体を動かしてくれた。迫りくるメリーゴーランドをダメージ覚悟で蹴飛ばし、なんとか距離を取って躱すことができた。

 認めたくない敗北感が大鎌を飾り気のない姿へと戻した。限界は驚くほど早く訪れた。

 あの勝利の確信は何だったのか。地面に転がる敵の残骸はたったの数個。その十倍はあると思われる数の戦力を敵はまだ有している。今更ながら、呆れたことに、ここまでしてようやく、己の実力というものを知れたのだった。

 宝石が砕け散るかのような音と共にブーツからクイスにかけて何度も黒い光のひびが走り、そこから黒い光が漏れ出る。

 蹴りを放った右足に鈍い痛みを感じた。

「走ったり跳んだりするのが難しくなってきたら危険信号。痛みを感じるようになったら、限界だ。もしそうなったら絶対にそれ以上攻撃を食らうな」

 この数日の練習中に五十里さんから聞いていた警告が頭をよぎった。

 背筋が凍る。こうなるよう誘導してきた魔物の知性と、それを上回れなかった自分の弱さと、考えの甘さに。

 戦いに臨む際、肝心な事を想定に入れていなかった。自分が敗北する可能性を。敗北が死に直結するという現実を。ともすれば、そこから目をそらすことで自分が敗北や死を超越した存在であるかのように思い込もうとまでしていたのだと、今ならわかる。

 認識を歪めたところで、支払わされる代償は何一つ変わらない。

 巨大な鉄の塊が飛んでくる。防具は、もう機能しそうになかった。

 ぶつかる直前、疾風のごとく躍り出た銀色の騎士が、迫りくるメリーゴーランドを蹴り飛ばした。勢いよく宙に浮いたそれは他のメリーゴーランドと衝突し合い、吊り糸が絡まり合ってこんがらかった。

「大丈夫か!」

 返事を聞かれることなく五十里さんに抱え上げられた。五十里さんは自分の背を盾にしながら魔物から遠ざかっていく。

 頭上を、無数の細い物体が煙を後に残しながら魔物へと飛んでいった。魔物に当たったそれらは小規模な爆発を次々と起こし、追撃の手を断った。

 魔物が、破損したメリーゴーランドを労わるようにゆっくりと手元に戻す。

 五十里さんの走る先、“霧”の入り口で金城さんと小宮さんと合流する。金城さんが肩に担いでいたハチの巣のような形をしたミサイルランチャーが光になってショットガンへ姿を変えた。

「帰るぞ」

 五十里さんに先に行くよう促される。これから待っているであろう展開に暗澹とした気分といくらかの怯えを抱きながら“霧”を抜けた。


「なぜあんな無茶をした?」

「……戦っている最中に武器を解放できるような気がしたんです。それで……」

「けど、さっきはそのことを提案しなかった。自分でも実はわかっていたんじゃないか?付け焼刃の必殺技はあてにならないって」

 買い被りだった。実際は、やってみて、死にかけてようやく理解したという有様だ。

「悪いが、没収だ」

 それが正しい。バンドを外して五十里さんに手渡した。

 期限はいつまでなのか、訊く気力が湧かなかった。それとも永久になのか。だとしたら、いっそそのほうがいいか。

「しばらく頭を冷やすんだな」

 怒りも嘲りもない。極力感情を込めないよう努めたからこその声質だった。

 それ以上は何も言わず、三人は去って行った。

 一人取り残される。

 右足の痛みは少しずつ引いていっていて、今はもうほとんど感じない。

 誰もいない暗い夜空の下は静かで、穏やかに吹く風が寒かった。



「……さて、どうしようか?」

「どうするかなあ」

 運転席に座る道也は宙を見つめて考え込んでいる。こういうときは邪魔になりたくない。

「莉緒、よく気がついたね」

「ええ、まあ。なんとなくですけど」

 莉緒がシートベルトを締めると、それを待っていたかのように道也はキーを回してミニバンを発進させた。

「最初のと今回のと、ろくでもないのが続いたのが大きかったんだろうね」

 肩に道也の手が置かれた。前回の魔物に触れなかったからだ。いつも思うが、この男は私とは違ってこういったことに察しがいい。

 ……それはそれとして。未熟な者は魔物の影響を受けやすい。新人の時期に相対した魔物への印象をいつまでも引きずるケースは珍しくない。独断行動を許すわけにはいかないが、まだ魔物との対峙、その影響に慣れていないという事情は考慮したい。そこは誰もが通ってきた道なのだから。

「はい。それはあるでしょうね」

 莉緒は、窓の外のヘルメットをかぶろうとしている三上くんをじっと見ている。余計な小言が頭に浮かびそうになったので、前に向き直った。

 しばらく無言のままミニバンは走り続ける。独断行動への苛立ちが収まってくると、急に三上くんがちゃんと自宅へ無事に帰れたのか心配になってきた。無理やりミニバンに乗せて一緒に変えるべきだったと自身の狭量さに嫌気が差す。

「一緒に帰ったほうがよかったかな」

 気が短い自分に内心では呆れつつも、耐えきれなくなってつい口にしてしまう。ここまで来ておいて今更また戻るのもどうなのかとわかっていながら。

「大丈夫ですよ」

 莉緒が断言する。

「今はひとりのほうがいいと思います。自分が未熟だって思い知らされましたから、今は私たちと一緒にいるといろいろと気を回しすぎちゃいそうですし」

「はっきり言うんだね」

 やんわりと否定されてほっとしている自分にまた嫌気が差す。

「はい。私のときもそうだったじゃないですか」

「……そうだったっけ」

 記憶を掘り返してみるが、莉緒が問題行動を起こしたことは過去に一度もなく、これといって思い当たる節もない。加わったばかりの頃は口下手で遠慮がちなところがあって会話することはあまりなかったが、莉緒自身の礼儀正しさに助けられてすぐに打ち解け、以来現在とそう変わらない関係を続けてきた……はず。どちらかというと、問題があったのは……。

「そうですよ」

 見えない表情にわずかな寂しさが浮かんだような気がして、考えなしに発言したのを悔いて、いや、考えてこれなのだと自分の無神経さにまたまた嫌気が差す。

「……それで、どうしようか?」

「勝手にひとりで戦った三上先輩が悪いので、そこは反省していただきましょう」

 可愛らしく怒りをあらわにする莉緒に、自然と笑みがこぼれる。

「先輩……そうだな。先輩たちに頼るとするか」

 道也が前を向いたまま告げる。

「やる気があるなら三上にも参加してもらう。これを返すのは先輩たちに頼もうかな」

「それがいいかもね。私たちがやるよりスムーズだし、顔合わせにもなるし」

「私もそう思います。三上先輩って、まだ私たち以外だと店長とエリさんにしか会っていないですよね」

 話がまとまって、車内の空気が緩んだ。ふと道也が疑問を口にする。

「そういえば莉緒。なんで三上のことを先輩って言ったんだ?」

 できれば名前で呼びたい。苗字だとみから始まるので道也とかぶる。

 後ろを向いてみると、莉緒は眉尻を上げて得意げな表情で答えていた。

「それはですね、人生の先輩だからです」

「へえ、そう」

 いつもの、時折口にするよくわからない理屈だった。真面目に付き合って話を合わせたところで結局よくわからないので、別にどうでもいい。

「で、誰に行ってもらう?ああでも、都合がつくかどうかもあるから今は無理か」

「俺は黒田さんがいいと思ってるけど、やっぱ訊いてみないと何とも言えないよな」

「絶対黒田さんがいいって。音川さんは本人がいいって言ってもやめておきなよ?」

「なんでだよ音川さん良い人だし良いところだって沢山あるんだぞ」

「いやいやいや音川さんだと伝わらないから。絶対何言ってるかわからなくて混乱するから駄目だって」

 無視していたら、得意げだった莉緒の眉尻が下がっていた。見たらつい笑ってしまうくらい、可愛くてちょっと情けない顔になってる。カメラを向けて撮ろうとしたら頬を膨らませてそっぽを向かれてしまった。「えー、取らせてよ」「嫌です」ああもう可愛いな。

 三上くんとも早くこんな仲になりたい。怒ってばかりなのはやっぱりよくないと、心から思う。



 玄関のドアを開けると灯りがついていて、出るときはいなかった透子がいた。

「おかえり」

「ただいま」

 その理由は訊くまでもなかった。

「何があったの?」

 何から話すべきか。しでかしてきた失態についてか、それとも約束を破ったことか。

「……何か食べよっか」

 透子に肩を掴まれ、座らされる。ベッドに入って寝てしまいたかったが、柔らかな細い指の感触に抵抗する気が消え失せたので、素直に従った。

 透子は鍋を温め直し、冷凍していた白米を解凍しておにぎりを作った。

 キッチンから温かい味噌の香りがしてくる。丸いおにぎりが乗った小皿と、味噌汁の入った椀を乗せた盆がテーブルに置かれた。

「さ、どうぞ」

 おにぎりから手に取った。かすかな白米と海苔の匂いを鼻がしっかりと感じ取って、自分は今空腹なのだと自覚する。

「いただきます」

 一口かじると、舌が海苔と白米の味に喜ぶ。子供の頃は白米をまとめるための物でしかないと思ってた海苔だが、最近は不思議と美味しく感じられる。

 急ぎ咀嚼し飲み込み二口目をかじると、新しい味が。強烈な酸味と、アクセントの塩気と甘みが舌に刺さる。具は梅干しだった。酸っぱさが、ぼんやりとしていた頭の疲れを和らげていく。

 空いた左手でみそ汁の入った椀を持ち上げる。具だくさんのそれは重みがある。一口すすると口内に残っていた梅干しの酸味がほどけて喉の奥へと消えた。夕飯に作ったものなので時間が経って味噌の味がぼやけているが、それが野菜のダシの甘みを強調していて悪くなかった。温かいものが喉を通り抜けて、腹を温める。思いのほか体が冷えていたようだ。暖かな安息感が体を包み込む。

 一口分減っただけで、うずもれていた具が氷山の一角のように姿を現す。鶏つみれ、薄くイチョウ型に切った大根とにんじん、キャベツ。箸でつみれを割り、それら具のひとつひとつと一緒に口へ運んでいく。鶏肉の旨味と野菜が組み合わさった味を堪能しながら。

「ごちそうさま」

 きれいに平らげ、小皿と椀をシンクに下げた。洗い物を済ませると、食べているのをにこにこしながら見ていた透子の前へ腰を下ろす。

「落ち込んでたね」

 先に透子が切り出してくれた。現金なもので、空腹が満たされると余裕がいくらか戻ってきて話を聞いてもらいたいという欲求が顔を覗かせていたので、甘えることにした。

「さっき、魔物が出たんだ」

 透子は、相槌を打つことも、表情を作ってうんうんうなずいて見せることもせず、僕の目をじっと見つめながら聞いている。

「すごく強かった。先輩はやめておこうって言ってたのに、できると勘違いして勝手にひとりで行動して……死にかけた。先輩が来てくれなかったら、たぶん……」

 透子が手を伸ばしてきて、頬を軽くつねられた。

「それで、しばらく謹慎になった」

 頬から手が離れる。透子が立ち上がった。次は何だろうと思っていると、隣に腰を下ろし、両腕が背に回され、抱きしめられた。

「最近、珍しい顔をよく見る。やりたいこと、見つかったからかな?」

 あまり見ない一面が表に出たのをただ純粋に嬉しく思っている表情だった。

「それだけ本気になれたってことだから、私はいいと思うな」

「約束、破っちゃったけど」

「罰ならさっき受けてもらった」

「あれで?」

「だって、無事に帰ってきてくれたから」

 今まで受けてきたどんな言葉よりも痛かったのに、突き刺さる感触は暖かかった。

 そっか、とうなずいてふと先程の透子の言っていたことが気になった。

「さっき珍しい顔って言ってたけど、前にもそんな顔してたときあった?」

「あったよ。ここを受験するのを親に断られた、って」

「あのときか……」

 取り立てて今の大学に入りたかったわけではなかった。成績や偏差値的に手が届くから。透子が受験すると言っていたから。親元を離れて暮らしたかったから。隣県で、実家から離れすぎていないので親を説得しやすいのではないかと考えたから。そういった個人的な希望を総合しただけのことだった。

 両親に受験したい旨を切り出すと、うんざりする長話の末に、表向きは僕の意思で諦めたかのような雰囲気を作り上げて、話を打ち切った。世間知らずな息子を説き伏せる識者ぶった顔の下で、チラチラと上目遣いにねめつけてくる父親。「近くの大学でいいんじゃないの」と心配するふりをして、ただ我が子を近くに置いておきたいだけの母親。

 却下されたことよりも、歳を取るごとに徐々に目に付くようになった両親の嫌な部分が自分の思い違いでなかったと証明されたことのほうが辛かった。

 諦めていたとき透子から、繰り返し説得を続けるよう助言された。

「あのときも励ましてもらったね」

 二度三度と続けていくうちに、難色を示す両親を支えていた見えない何かが失われていった。近所の人にどこを受験するのかと訊かれて率直に答えた翌日、父は折れていて、母もまるで自分は最初から反対などしていなかったかのような素振りで賛成に回っていた。

「どういたしまして」

 微笑む透子に少し申し訳なく思う。あのときも、落ち込んでいると透子のほうから現れて、自然と話を聞いてくれたから。

「僕だけ一方的にもらいすぎてる」

「このくらい、いいのに」

「でもなあ」

「返せるときに、返せばいいよ」

 抱擁が強まる。「ふふ」と透子の口から笑みが漏れた。

 やはり一方的だ。そう思っていると、叱るように、優しく両腕が絞めつけてくる。

 諦めて、力を抜いて楽にすると、それでいいと言わんばかりに頭を撫でられる。

 最後の抵抗に、勢いよく立ち上がった。危ないので、やむを得ず透子の腰に手を回して支える。そして、ベッドにそっと倒れ込んだ。

 掛け布団は透子がうまく引っ張ってきてくれた。

 リモコンで部屋の明かりを消して、目を閉じれば、世界に存在するのは透子だけ。

「先輩たち、怒ってないかな」

「怒ってないよ」

「僕はまだ、続けられるかな」

「これからも、ずっと」

 スマートフォンが短く鳴った。確認しようとする前に透子から手渡された。

 五十里さんからメッセージが届いていた。明日の午前六時、再挑戦するという。何のためらいも後ろめたさも感じずに『参加します』と返信した。



 起きようと思っていた時間より少し早く目が覚めた。透子を起こさないようそっとベッドから出て眠気覚ましに軽くシャワーを浴びる。

 買い置きのパンを何個か腹に入れ、靴を履いていると、透子が眠そうに目をしばたたかせながら顔を出してきて「いってらっしゃい」と手を振った。

「いってきます」

 バイクにまたがり、朝の澄んだ空気のなか、昨日と同じ道を行く。



 開園時間まではだいぶあるので駐車場はまだ閉まっている。邪魔にならない適当な場所にバイクを停めて、五十里さんたちにどんな顔をすればいいか考えながら、昨日と同じ場所の“霧”まで歩く。

 その一角にはすでに人が集まっていた。

 視線を巡らせていた小宮さんと真っ先に目が合う。大きくぶんぶんと振られる手に、こちらも手を振り返して応える。それに気づいた金城さんと、話していた三人の見知らぬ女性が手を振ってきた。五十里さんと、そして残りの三人の男性(一人は何故かポーズを決めて)もこちらの方を向いて手を挙げた。

 参加の返信をしていた人数と一致する。あの人たちが、先輩たちの先輩。余裕を持って出たつもりだったが、新人が一番遅く来てしまった。

 一人、こちらへやって来る。毛並みの良い黒豹のような印象の長身の男だ。

「おう」とどこか野性味を感じさせる低い声で呟いて、五十里さんに預けていた腕時計を差し出してきた。

「俺は黒田。あいつらの先輩」

「三上俊です」

 手に持ったままでいると、黒田さんは感心と呆れが入り混じった笑みを浮かべた。

「真面目だな。気にしないでさっさとつけちまえばいいってのに」

「昨日、勝手なことをしてしまったので……」

「いいだろ別に。でかいのとひとりでやったんだって?むしろ、すげえよ」

 意外な評価だった。嬉しくないわけではなかったが、それ以上に驚きのほうが大きい。

「なんだよ、その反応。……まあ、その後あいつに助けられたってのはよくないけどな。勝手に突っ走ったなら、負けても、逃げるところまではひとりでうまくやれよ?」

 照れ隠しか、返答も待たずに「ほら、行くぞ」と背を向けて行ってしまう。その背中に五十里さんと同じものを感じて、ああ、やっぱり先輩なんだな、と思った。

 左手にバンドを巻いて腕時計を身に着ける。あれからまだ六時間しか経っていないが、フレームの中にある大鎌と漆黒の革鎧はどの程度回復しているのだろう。

 一団に合流して、軽く会釈した。名乗ろうとすると、金城さんと話していた女性たちが寄ってきて「千崎です」「私は渡来」「佐藤です。よろしくね」と自己紹介を始め、間を開けずに「装備は何使ってるの?」「いつ入ったの?」「どこまでできるようになった?」「休憩のときに何食べるのが好き?」などと次々まくし立ててきた。どうにかひとつひとつ返事を返していく。

「あの、そろそろ行きませんか?」

 小宮さんに怒られた。五十里さんが「人が来る前に入っちゃいましょう。作戦会議は“むこう”で」と皆を促した。それを聞いて美影市のリーパーたちは賑やかに“霧”の向こうへと消えていく。小宮さんと金城さんもそのなかに混じって行ってしまった。

 ここでもしんがりを務める五十里さんと目が合う。できれば戦闘が始まる前に五十里さんたちには一度謝っておきたかったが、今はその暇はなさそうなので“霧”の前に立つ。

 隣で五十里さんがうなずいた。言わなくてもわかっている、と。

 うなずき返した。それでもやっぱり、この戦いが終わったらきちんと謝ろう。

“霧”を抜けると、色鮮やかなリーパーたちが立っていた。その頼もしい光景に、息をのんだ。

「では、作戦会議をしましょう」

 背後から“霧”を抜けてやってきた、銀の甲冑を身にまとった五十里さんの声に、集まったリーパーたちが従う。

「ここからも見えるように今回の相手は巨大な木です。枝からメリーゴーランドがいくつも吊り下がっていて、今のところ確認できている攻撃手段はこれをそのままぶつけてくるか、高速で回転させて走らせてぶつけてくるか。これだけです。まずは、相手の攻撃手段を減らしたいと思います」

 銀色の手袋とブーツをはめた白い軍服の、渡来と名乗っていた女性が手を挙げた。

「ひとつだけ強そうなのがあるんだけど、あれが本体?」

 昨日斬り落としたはずのそれは健在だった。再生したのか、それとも繋ぎ直したのか。

「あれは一度斬り落としてフェイクだと確認されました。落とされたことで、もしかしたらあれに本体を移している可能性もなくはないですが、それなら減らしているうちに倒せるので問題はないでしょう」

「わかった、ありがとう」

「受けられる人が前に出て、攻撃を引き付けてください。俺、鈴木さん、音川さんでいきます。回転している状態だと思ったより削られるので、そこは注意しましょう」

 五十里さんと一緒にいた人たちが応じた。鈴木と呼ばれた男性は、宇宙服を想起させる丸みがあってどこか現代的な印象の白い甲冑、というより装甲を身にまとい、左右の手にそれぞれ盾を持っている。音川と呼ばれた緑色で主張の強い髪型の男性は、近未来的なデザインのテカテカした白いコートを着ている。手にした巨大なエレキギターの弦を指でなぞって短く高音を鳴らすと、その音に反応してコートが暖色系のオレンジ色に一時染まって、白に戻る。謎の決めポーズを取っているのが気になったが、誰も触れる者はいなかったので、僕も何も言わないことにした。

「黒田さん、渡来さん、千崎さん、三上はメインのアタッカーを担当してもらいます。基本的には俺たちより前に出ない位置を保って、隙を見てメリーゴーランドを吊っている紐か枝を切ってください。余裕があったらいくつか引き付けてもらえると助かります。その際はかわすのを優先して、なるべく攻撃をもらわないよう気をつけてください」

 深い紫色の簡素な軽鎧を着た黒田さんが黒い鍔と柄の片手剣を掲げて「集合」と呼びかけたので、鎌の刃が他の人に当たらないよう背から取り外して肩に縦に担ぎ直して集まる。鮮やかなピンク色の花を模したドレスを着た千崎さんが隣に。どこかで見た気がするデザインだったが、思い出せない。千崎さんはコスモスの形をした短いステッキを手にしているが、渡来さんは手に何も持っていない。渡来さんは僕の視線に気づくと、親指で胸元の勲章をとんとんと叩いてみせた。どうやらそれが彼女の武器であるらしい。

「それ以外の人は広がってアタッカーより下がって、アタッカーが狙われたら各自援護してやってください。長丁場になるかもしれないので、少しでもダメージを減らすために味方への誤射はゼロを目指しましょう。この時点では範囲の広い攻撃は禁止ということで。アタッカーが戦えなくなった場合は、一人減るごとに一人前に出て、アタッカー役を引き継ぐようお願いします」

 金城さんと小宮さん、そして群青色の外套と中折れ帽を身に着け、澄んだ青透明の弓を手にした佐藤さんが「了解」とそれぞれ首肯し「最初は誰が前に出る?」と打ち合わせを始めた。

「最後にもう一つ。押し切れると判断した場合は、各自全力で、遠慮なくやっちゃってください。その判断と合図は黒田さんが解放したら、ということで」

 集まった皆の視線に動じることなく黒田さんは「おう」と短く答える。見逃さないよう気をつけないと。

「以上で作戦会議というか確認を終わりますが、何か質問があれば……なさそうですね。では、行きましょうか」

 皆が、晒していた顔を防具で覆い隠す。僕もそれらに倣った。

 掛け声を合わせたり、円陣を組んだりといったことは特にせず、先輩たちは歩いていく。正式な戦いの前には実はそういった儀式やルーティーンがあるのではないかとひそかに期待していたので多少拍子抜けしたが、すぐにそれは誤解だったと改めることになった。

 この世界は魔物だけではなく、人間同士の想いも伝える。だからそのようなものは必要なかった。共に征く仲間たちの想いが、士気を、一体感を高めていく。

 巨木を前に仲間たちと肩を並べる。今度の「勝てる」という確信は前回とは比べ物にならないほど確固としていた。

 数を増やして戻ってきた敵に対して魔物はかつてない警戒の念を放っている。

 五十里さんと鈴木さん、そして弦を短くつま弾いて音川さんが先頭に立つ。

 音川さんが右手を高く掲げ、エレキギターを鋭く鳴らした。戦いの火蓋は切られた。

 五十里さんもまた鋭い駆動音を響かせ、魔物へと疾駆する。それに続いて鈴木さんがどすどすと。よく聞き取れなかったが何か叫びながら音川さんが駆けていく。

 彼らは致命傷狙いではないとリーパー側は知っているが、魔物の側はそうはいかない。迎撃のために巨大な枝を急ぎ動かす。

 魔物は様子見ではなく、一挙に敵の数を減らすことを選んだ。五十里さんたちの正面へ迎撃用にいくつか並べただけでなく、側面と背後からも挟撃して押し潰そうと、器用に緩急をつけて更に別の枝も大きく振るい上げている。

 それらを斬り落とすべく跳躍の構えを取るが、黒田さんに手で制された。

「心配するな」

 黒田さんの言う通りになった。メリーゴーランドの群が一斉に激突して耳を覆いたくなる暴力的な金属音が叩き出されるも、渦中の三人はびくともせずに攻撃を受け止めていた。

 黒田さんが手を下げた。一拍の間も空けずに跳躍し、五十里さんたちを飛び越えながら密集する吊り糸を鎌で断ち切った。制御を失った鉄の塊が倒れ伏す音は三つ。近くに黒田さんが着地した。渡来さんは自分が切り落とした獲物の上に着地し足蹴にしていて、また動き出す気力があるか値踏みしている。

 魔物から動揺が伝わり、五十里さんたちが受け止めているメリーゴーランドが高速回転を始める。五十里さんたちは下がって距離を取る。だが何故か追撃は行われず、メリーゴーランドはただその場で狂ったように回り続けていた。

 目に見えない壁に上から押さえつけられているかのように、少しずつ地面にめり込んでいく。花のドレスを着た千崎さんが宙に浮いていて、ステッキの先を向けていた。ああいう武器もあるのか。その能力をすでに知っていた黒田さんと渡来さんが跳び、動きを封じられたそれらを繰る吊り糸を切断した。黒田さんは片手とは思えない力強さでなめらかに剣を振って。渡来さんは、描くように手で宙をなぞると、その跡に現れた銀色の光の刃が吊り糸へと飛んでいって。

 幹に近づいたことで僕たちも魔物の攻撃対象に入った。黒田さんと同時に、それぞれ逆の方向へと跳躍して狙いを引き付け、五十里さんたちが前進する道を広げる。

 五十里さんたちが幹へ近づいていくのを横目に、今は回避に専念する。武器のリーチが長い渡来さんは刃を放ってそれらを斬って落とし、援護してくれてもいた。

 鎖の鳴る音が聴こえた。頭上を鎖が飛んでいって、輪っかを作って吊り糸をまとめ、締め上げる。魔物は枝を持ち上げて引き千切ろうとするが、すでに十分すぎる隙ができていた。鎌を振るい、易々と落とす。……黒田さんと同時に。タイミングがかち合ってしまった。必要なかったかな、と思っていると黒田さんは空いている手の親指を立てて、称賛の念を送ってきてくれた。

 輪投げが有効と判断した小宮さんはどんどん鎖を投げつけ始めた。あまりの手際の良さにこちらの手が回らない物が出てくるくらいだったが、それらには白い光の矢が何本も撃ち込まれてちぎれ落ちていった。遠いので確かめている余裕はないが、矢ということは弓を手にしていた佐藤さんだろう。吊り糸はかなり細いのだが、あの距離から同じカ所に何度も当てられるとは、相当な技量だ。

 目まぐるしく攻守が入れ替わる乱戦の最中に何度も轟音がとどろいていた。大砲を抱えた金城さんが遠くからメリーゴーランドを狙撃している。味方に爆風の衝撃が当たらないよう狙うのはある程度距離のあるものだけだが、それが魔物の一手先を潰し、多角的な攻撃を繰り出せなくなくしている。回避に余裕が生まれ、反撃に転じていられる時間が大きく伸びているのが実感できる。

 盾となりつつ幹へと歩を進めていく三人の立ち回りを見ているうちに、音川さんの装備の能力をなんとなく理解した。メリーゴーランドの攻撃を受ける際には低音を。ネックを握りしめてギターのボディで鉄の塊を引き裂く際には高音を出している。低音が防具の強度を、高音が武器の威力を高めているのだろう。音に合わせて白いコートが様々な色へ鮮やかに移り変わる。

 戦力を大幅に失った魔物がついに幹と枝の生え際を守るために控えさせていたメリーゴーランドを投入してきた。カーテンのレールでもついているかのように枝を吊り糸が滑って、先端側へと移動した。

 魔物にも変化が起こった。飾りを無くした幹周辺の枝から吊り糸がひりだされている。やがてそれが止まると、先から水滴のような丸い粒が出てきて徐々に大きくなっていく。まるで木に実る果実だ。

 再生しようとしている。

 黒田さんから漆黒の閃光が走るのを見た。合図だ。解放機能のある防具か。黒田さんは漆黒の重々しい甲冑を身にまとい、刀身が黒に変わった両手持ちの大剣を肩に担いでいた。そして、五十里さんたちに加わって共に前へ出た。

 突進してくるメリーゴーランドに合わせて、黒田さんは大きく振りかぶった大剣を縦に叩きつけた。屋根から土台にかけて叩き割られたそれは回転してなおも戦う意思を見せていたが、土台に刺さっていた黒田さんの大剣から突如放たれた暗黒の光がファンシーな塗装を真っ黒に侵して、内側から崩れていった。

 鈴木さんも右手に持っていた盾を解放した。左手の盾で高速回転を受けると、たちまちメリーゴーランドが黒く染まり動きが鈍く重いものになっていく。満足に動けなくなったそれを、鈴木さんは右手の槍のように変化した盾で突き、崩していく。音川さんも自身の熱い心を掻き鳴らしながらギターを振り下ろして解体作業を手伝う。

 光の矢が、メリーゴーランドを形成しようとしている果実たちのヘタへ打ち込まれていく。刺さった光の矢は佐藤さんが手にしていた弓と同じ水色の結晶となって固まった。すると途端に、果実たちはそれ以上大きくならなくなった。

 魔物が枝を持ち上げて盾にした。後ろを振り向くと、灰色の空へかかげた小宮さんの手のひらの先、宙に、魔物をすっぽりと捕らえられそうなほど大きな鎖の輪が作られていた。

 さながらカウボーイのように小宮さんは輪から伸びる一本の鎖を手にしてゆっくりと振り回す。だが、投げるのは小宮さんではなかった。

 金城さんの両足に力強い想いが込められていき、解き放たれたと思ったら、金城さんはすでに魔物を大きく跳び越え上空にいた。小宮さんが作った巨大な鎖の輪っかを手にして。

 金城さんが輪っかから手を離し、リボルバーを抜き、解放した。両手で持たなければいけないほど巨大なガトリングガンから豪雨のごとく降り注ぐ弾丸が魔物の動きを封じた。

 落ちてきた鎖の輪が、弾丸から幹を守ろうとしゃがみ込むようにしていた枝ごと巨木を締め上げる。魔物は引き千切ろうと身をよじりかけていたが、小宮さんが全身から光を放ち、その身に凄まじい量の雷を蓄える姿を見せつけられると、動揺を見せた。

 防具から金色の光を飛び散らせながら、小宮さんは左手で鎖を掴んだ。

 放たれた雷は龍のように太く、鎖を伝って、魔物を打ちのめした。

 意識が飛んだのか魔物の想いが途切れ、そのすべての動作を停止させた。

「いけ!俊!」

 五十里さんの叫び。撃墜数こそ稼いでいなかったが、中核となって戦況をコントロールし、この戦いに最も貢献していたその姿に敬意を抱いていた。そして今、挽回の機会を与えてくれた。心からの感謝を添えて、鎌を解放した。

 鏡に映る自分の想いはただただ澄んでいた。力を込めてアスファルトを踏みしめ、漆黒の大鎌を、三度後ろ手に構える。もう、阻むものは何もない。

(斬れる)

 確信と共に跳んだ。

 全身の力を乗せて大きく振るった刃が、幹の根元を斬り裂いた。

 魔物は死の恐怖を感じることなく、灰色の空を仰ぎながらゆっくりと静かに倒れていって、周囲のアトラクションを押し潰しながら、大地を揺らした。

 魔物はもう動かない。音川さんが大きくギターを鳴らして勝ち鬨を上げた。聞き覚えがあると思ったら、ここ何日も見回りで聴いてきたこの遊園地のテーマソングだった。

 五十里さんが倒れている魔物へ近づいてくる。封印するのだと思っていると、五十里さんは目の前まで来て、懐から箱を取り出した。

「倒した人がやるんだ」

 戸惑っていると、五十里さんは振り返って仲間たちに同意を求めた。それに応じて、遠慮する新人をはやし立てるような歓声が投げつけられてきた。音川さんは声を上げるだけでなく、キレのある短いフレーズを素早い指さばきで何度も繰り返している。

 観念して箱を受け取り、切り倒された魔物へと掲げた。

 切り株も幹も枝もメリーゴーランドも、どす黒い緑色の光の奔流となって箱へ吸い込まれていく。仰々しい神秘的な現象は、花火のように余韻を残して終わった。

「あとはそいつを店長に渡して完了だ」

「はい」とうなずいて箱を防具の下の腰ポケットにしまった。

 待ち構えていた全員とハイタッチして、まだ解放したままの黒田さんを含めたヘヴィアーマー組に胴上げされてから“霧”を抜け、漆黒に染まったテーマパークを後にした。



 空がいつもよりきれいに見えるのは、開園・通勤前に倒せたからだろう。

「終わりました。全員ケガもなく無事です。俊が持っています。え?ええ、そうです。……はい……はい、では失礼します」

 五十里さんが通話を切った。話しかけようとしたら、派手に立てた緑色の髪の男、音川さんに捕まってしまった。彼の主張の強い髪型は戦いへ赴く緊張による見間違いとだということにしていたが、そんなことはなかった。

「新人くん……さっきの戦い、よかったよ。インスピレーションを受けたのでね。君の曲を作らせてもらおうと思」と言いかけたところでシャツの襟を渡来に掴まれて「はいはい空気読んでね」と車に連行された。先輩の先輩たちは挨拶もそこそこに二台の車に分かれて乗って行ってしまった。窓から手を振っていたのでこちらも手を振り返そうとしたがやめて、深々と頭を下げた。

 頭を上げると肩を五十里さんに叩かれた。「よう」とは言ったものの言葉を探している五十里さんに、「はい」と答えて同じように立ち尽くす。

 言いたいことは沢山あった。相談もせず勝手なことをして、すみませんでした。危ないところを助けてくれて、必要なときに叱責をくれて、背中を押してくれて、ありがとうございます。さっきの戦いでは一番かっこよかったと思います……どれも適切でないような気がして、次の言葉が出てこない。

 五十里さんが、握りこぶしを突き出してきた。

「これからもよろしくな、俊」

 同じく握りこぶしを突き出して、五十里さんと合わせた。

「はい。こちらこそよろしくお願いします、道也さん」

「さん付けか」と笑う道也さんに笑い返す。いいじゃないですか。呼び捨てにする気にはなれず、どうしても敬称はつけたかった。先輩では少し固いし。

「今日はいい天気だ。店長に箱を提出したら、ちょっと寄って行かないか?」

 遊園地の入り口に目を向ける道也さんに「いいですね」と同意した。怪物を倒した後、平和になったその場所を歩くのは定番中の定番だ。「何ふたりで盛り上がってんの」とあまり乗り気でなさそうな金城さんに、「オチは爽やかな展開がいいだろ?」と同意を求めてくる。やはり道也さんはよくわかっている。



 小宮さんもついてくれたことで金城さんは渋々折れた。開園時間はまだだったので、店でモーニングを頼んで休憩してから遊園地に戻った。

 前日までのどこか暗い雰囲気が嘘のように今日の園内は明るい。何の迷いもなく一日フリーパスを購入し、時間を忘れて全アトラクションの制覇をした。もう一度何に乗るのがいいか話し合っていると道也さんと小宮さんが「メリーゴーランド」と声を揃えて「趣味が悪い」と金城さんを辟易させた。

 構わずふたりは係員にフリーパスを見せに行ってしまい、金城さんの不満気な目を一途に受けることになった。「そこで待っていましょうか」とベンチを指差すと、ほっとしたように「うん」とついてきた。「あ、じゃあ撮っててくれ」と道也さんがささっと戻ってきてスマホを手渡してきたので、一瞬だけ、もし彼女に渡していたら握り潰されてしまいそうな表情になっていたが。

 メリーゴーランドの全体が映る構図で録画ボタンをタップした。

 土台が回転して白馬にまたがる道也さんと小宮さんが現れ、手を振ってくる。そのときはズームして、顔がしっかり映るように。

「そういえば、音川さんって音楽関係の仕事をしているんですか?」

「……え?ああ、ううん。全然。趣味でやってるだけの人。あれはキャラ作ってるんだって。そういう人、意外といるみたい。私はよくわかんないけど」

 会話が途切れる。金城さんは何か言いたげだった。身に覚えがあったので先に切り出すことにした。

「昨日はすみませんでした。勝手な行動をしてしまって」

「あー、先に言わせちゃった。……えっとね。私、謝りたいことがあるの」

「何かありましたっけ?」

「あのとき、当たりキツかったでしょ?」

「そんなことはなかったと思いますけど」

「あれ?もしかして気にしてなかった?」

「ええ、まあ……そもそも僕が悪かったわけですし」

「そういうのは人間関係で一方的に損するだけだからやめなさい」

「はい、わかりました。……でも、行き過ぎだったとは思いませんでしたよ」

「うーん……そっか」と金城さんがほっとした表情で肩を落とす。

「よかった。感じの悪い先輩だなって……し……ししししし、俊が――」

 真っ赤になった顔を手で覆ってしまった。なんとなく抱いていた印象からかけ離れた意外な姿に言葉を失う。

「なんだか先輩としての威厳がすごい勢いで失墜してる気がする」

「そんなことないですよ。よくあることですし。……あ、今日なんてすごいかっこよかったですよ。狙いがどれも正確で」

「いいの気を遣わなくて……」

 手が少し下に下がった。褒められたからか目元が少し緩んでいるように見える。

「……その、すみません。驚いただけなんです。意外でした、というと失礼ですけど」

 取り繕うのを諦め、吹っ切れた様子で金城さんはぽつぽつと話し出した。

「私さ、人と話すのが苦手なの。昔はそうでもなかったんだけど、でもあの頃って常識を盾にして逃げてただけだったんだよね。嫌な子供だったな。今はそういうのやめて、リハビリというか……ようやくハイハイ歩きができるようになったところ」

 ばつが悪そうに怜奈は立ち上がって「つまり私も、これからもよろしくねってこと」と言ってスマホを持って行ってしまった。柵に寄りかかって、道也さんと小宮さんに手を振りながら撮影を再開した。さすが夫婦なだけあって、怜奈さんもよくわかっている。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 ベンチから立ち上がって、白馬から降りた仲間たちを迎えに行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る