二、初陣

 また右目が痛んだ。

 後頭部まで突き抜ける、深く根を張っているような痛みが起きるたびに、ふたつの世界が切り替わる。

 ひとつは、元いた世界。

 もうひとつは、今見ている、白と黒と灰色の、誰もいない世界。

 ひとりで、ずっと歩いている。

 両親は車に乗って行ってしまった。すぐ隣で何度も何度も呼んだのに、声が聞こえていなかった。何度も何度も手を伸ばしたのに、手は両親をむなしく通り抜けた。

 真っ白になった木や地面は触ることができた。この色の少ない世界にある物だけは、元いた世界でも触れた。……けど、それだけで、動かすことはまったくできなかった。

 まるで、二つの世界の間に落ちてしまったみたいな。

 どうしてこんなことになったのか、わからない。

 帰りたい。

 早く、家に帰りたい。

 走りたいけど、どうしてか足がうまく動かせない。

 帰りが遅くなって、またお母さんを怒らせてしまう。でもきっと、いつものその顔を見たら、この心細いのもすぐに吹き飛んじゃうと思う。



 やけどに注意しながら恐る恐るコーヒーに口をつけたが、熱くはなく、適温だった。

 美影駅に隣接する高層ビル。その中のテナントのひとつ『たかみね珈琲店』のバックヤードの一室。ホワイトボードといくつかの長机と椅子があるだけのこの部屋で、ひとり待たされている。

 コーヒーは、普段口にしているインスタントのものと違って雑味がなく、後味が複雑で舌に残っても不快感がない。店で出している豆なのだろう。入り口で量り売りもしていたので帰りに買っていってもいいかもしれない。

 真っ白なカップとソーサー、中身の黒い液体。数日前に訪れたあの世界を思い出しながら口をつけていると、出入り口のドアが開いて三人の男女が入ってきた。

「悪い。待たせたな」

 先頭で入ってきた体格の良い長身の男が爽やかな笑顔でそう言った。

「いえ」ととっさに椅子から立ち上がる。「今来たところです」という返事が頭に浮かんだが、それはどうかと思って「少し早く来ちゃったので」と続けた。

「いいことだ」と男が目の前までやってきて右手を差し出した。

「俺は五十里道也だ。よろしく」

 交わした握手から道也の力強さが伝わってくる。

 肩幅が広く大柄な体格だが、圧は感じられず、安心感や頼りがいといった印象を真っ先に与えてくる。髪は長めのスポーツ刈り。着ている服はフォーマル寄りのカジュアルで、意外性のある落ち着き。しかしよく見るとどれもその場ですぐ運動に移れる機能性に優れた物だとわかる。靴は革靴だが、底が分厚くクッション性がありそうだ。

「私は金城怜奈。よろしくね」

 ショートカットの女性が手を差し出してくる。爪まできれいな細い手指に、自分が触れていいものなのかと戸惑いながら握手した。

 知的さと快活さが調和した雰囲気の女性だ。身長は僕とそう変わらない。明るい色で清潔感のある服の着こなし。目立った装飾があるわけでもないのに華やかに見えるのは、当人の整った顔立ち、大きなやや切れ長の目によるところが大きい。右の耳にひとつ。左の耳にふたつ、小さな石をはめ込んだピアスをつけている。

 蛍光灯の光が反射して、左手の薬指の指輪が光った。シンプルな模様が刻まれただけの銀色の指輪だ。五十里さんも同じ物を左手の薬指にはめていた。

「……小宮莉緒です」

 長めの髪を二つに結んだ、無表情な少女の小さな手と握手する。目を逸らされた。

 仕草のひとつひとつが小動物然としていてどこか微笑ましい。まん丸で大きな目に、ピンク色のフード付きのパーカーがよく似合う。身長から察するに、この少女が白いローブを着ていたのだろう。

「三上俊です。先輩方、よろしくお願いします」

 三人に向かって頭を下げる。下げる直前「先輩」のあたりで曇っていた小宮さんの表情が少し明るくなったのが見えた。

「他にも人はいるんだが、まあそのうち顔を合わせるからいいか。よし、それじゃあ研修を始めよう」

 着席するよう促される。小学校の遠足当日、バスに乗る直前のような気分で席に着く。

 五十里さんがホワイトボードの前に立って、ペンを手にした。金城さんと小宮さんはその隣に椅子を置いて座った。

「今日の内容は大きく分けてふたつ。ひとつはここであの世界についての説明と、そこで使う武器と防具についての説明。もうひとつは、それが終わったら工房に移動して、武器と防具を選んでもらって、“むこう”に行って実地研修だ」

 右端に箇条書きでまとめられる。工房の箇所が楽しみで、つい何度も目を走らせた。

 五十里さんはホワイトボードの中心に一本の線を引いて、ふたつに区切った。

「世界は実はふたつある。ひとつは俺たちが暮らしている“こっち”の世界。もうひとつが、魔物が出る“むこう”の世界」

 左側に棒人間たち。右側に怪獣のようなものを描いた。

「なぜ向こうに魔物が出るのかというと、あっちには魂という物質があるからだ」

「たましい……」

 魂と聞いて、生命個々が持つものという曖昧なイメージが浮かんだが、五十里さんの口ぶりからするとそれとは別物のようだ。

「普通、魂と聞いてイメージするのとはちょっと違って、これは生物の想いに反応して、形にする性質がある。この前の奴、魔物はこれが原因で生まれる」

 他者を害する暗い快楽。先日のあの怪物、魔物のことを思い出す。

 人間が常に人格者でいられるとは、さすがにもう思っていない。誰にだって悪意や悪徳はあるものだ。しかし、それでも、あのような暗く下劣な欲望を、同じ町にいた誰かが過去に抱いていたのだという事実は、受け入れ難いものだった。

「魔物は大昔からいて、人間を襲っていた。しかし人間もやられっぱなしだったわけじゃなかった。力のある人たちが集まって、組織を作って対抗してきた」

 境界線のすぐ左、人々を守るように剣を持った棒人間たちが描かれる。

「最初は地域ごとや国ごとにやっていたが、インフラの発達とともに交流が広がっていって、いつしか全世界規模になった。そのあたりから知識や技術がひとつにまとめられていって、新しい技術が発明された」

 右側、つまり“むこう”に木が描かれた。葉の無い、幹と枝だけの木を。

「これはそのうちのひとつ“灰色の大樹”。通称は、短く“樹”と呼んでる。魂を吸収する機能がある。なんで作られたのかというと、魂を減らして、魔物を弱らせて、かつ数を減らすためだ。昔の“むこう”は魂でいっぱいで、今とは比べ物にならないくらい魔物が強くてやばかったらしい」

 怪獣の絵を頭部だけ残して消した。その上にもくもくと曲線を引いていって雲を描いた。

「ただ、全部ってわけにはいかなくて、どうしても取りこぼしというか漏れがある。それが時間をかけて少しずつ溜まっていって、あの“雲”になる。そして誰かの想いに触れて魔物になって、俺たちリーパーが倒すっていう流れだ」

 雲から頭部に向けて矢印。こちら側の剣を持った棒人間を消して、“むこう”側に新たに四人書き直した。ほとんど図形といっていい雑な絵だが手甲、銃、本と三人が手にしていた武器を持たせて。一人は無手なので僕か。

「で、元々“むこう”はいっぱいあった魂が霧みたいになってて何も見えない場所だったんだそうだが、地上から魂が消えたら、なんかあんな感じになったらしい。こっちに住んでる人間や生き物が見ている物を、“むこう”の空のずっと上にある魂が形にしているからなんだとか」

 話が壮大になってきたので、聞くというより遠くの景色を眺めているような感覚になってきた。

「自然物が白で、人工物が黒な理由もよくわかっていない。わかっているのは、元が白い物でも人が手を加えると黒になるってことくらいだ。たとえば木を切って、その木を木材に加工したら黒になる。白い土でも、加工してコンクリートにされたら黒になる、とかな。こういう話は興味があったら店長に訊いてみてくれ。詳しく教えてくれるから」

「はい」とクリーナーで絵を全て消す五十里さんにうなずいて、冷めかけていたコーヒーの残りを一気に飲んだ。

「これで“むこう”についてはだいたい話したかな。じゃあ次は……」

「次は魔物についてね」

 金城さんが立ち上がって、五十里さんの持っていたペンを指でつまみとって、優雅な手つきで押しのけた。

 押しのけられた側には椅子がなく、小宮さんも椅子を持っていく気配がなかったので、隣に置いてある椅子を持っていこうとした。が、席を立つより先に、なぜか五十里さんは壁に背を預けて腕組みをして、空気椅子の体勢をとってしまった。

「魔物が出現するパターンは大きく分けて三つ。ひとつめは“雲”が変化したもの。概要はさっき聞いた通り。だから補足を少し」

 よく通りどこか規範的な響きのある声質に、自然と背筋が伸びる。教職に向いていそうだな、と思った。

「ここの魔物が出るペースはだいたい二週間に一体くらい。発生頻度は、人口に比例して多くなる傾向があって、都内だと週一くらい。限界集落のような人の少ない場所だとほぼゼロ。あの“雲”は人の多いところが好きみたい」

 ホワイトボードに丁寧な字で『1,雲』と書いた。

「ふたつめは異界から発生するパターン。魔物って何日か経つと、元になった想いが少しずつ抜けていって崩れちゃうの。それが地面に浸み込んで、それがまた誰かの想いに触れて、土地ごと変化しちゃった場所のこと」

『2,異界』とその下に書かれた。

「異界になっちゃうと空から魂が供給され続けて長い間残るから対処が大変みたい。なくすには、出てくる魔物を何度も倒して小さくしていくしか方法がないんだって。……あ、私たちはここのことは気にしなくていいから。ここの魔物は強いから剪定局の管轄だし」

 知らない単語に疑問符を浮かべていると、五十里さんが「あ、やべ」と漏らすのが聞こえた。「忘れたな?」と言わんばかりに金城さんがちらと目配せした。

「私たちの雇用主。さっきこいつが言ってた、国同士で協力して新しい技術を発明したって人たち。つまり私たちは政府のアルバイトという雇用形態になるわけ」

 アルバイト、という聞き慣れた単語に現実に引き戻されかける。

「名前の由来は『人類のために“むこう”を剪定し整える』っていう理念から。アルバイトを雇っているのは、人材育成が目的。実力が認められたら試験を受けることができて、合格したらプロになれる」

「もっと上があったんですね」

「私たちなんてまだまだ。プロの人たちはもっと強い魔物を相手にしてるよ。ちなみに局なのは他のいろんな省庁と繋がりがあるから。話を戻すね」

 金城さんが凄味のある満面の笑みで五十里さんを威圧している。その迫力に思わず居住まいを正す。五十里さんは耐えきれなくなって、すっと首ごと目を逸らした。

「魔物と異界は、直接人を襲う以外にも害があって、こっち側の、近くにいる人の心を、元になった想いで塗り潰しちゃうの。その強さは魂が大きいほど深刻かつ広範囲になる」

 公園で、突如言い争いを始めていた保護者たち。もしかしたらあれが……。あの時、僕のような不審者の接近にも気がつけなくなるほど子供たちへの関心を失わせていたのが、魔物による影響なのだとしたら、それはあまりにも理不尽すぎる。

「ポジティブだろうとネガティブだろうと、どんな想いであっても洗脳には変わらない。それも知らず知らずのうちにね。極端な悪い事例だけど、『人を殺したい』って想いから生まれた魔物が出たら、その町で何件も傷害事件が起きた……なんてこともあったの。だから魔物は、出て来次第、なるべく早く、必ず倒さないといけない」

 知らず、机の上で組んでいた両手に力が入っていた。あのまま魔物を倒せずにいたら。最悪、異界になって残り続けていたら、どれだけの数の人があの欲望にさらされ、そしてそれに耐えきれていたか。他人の良心を疑うなんてひどく失礼な想像をしていると自分でも思う。だが、直接魔物の強大で圧倒的な魂に気圧された、あの恐ろしい経験が今でも拭いきれない。

 無茶をした甲斐はあった。起こるかもしれなかった悲劇を未然に防げたのだから。

「三つめは……」

 説明が一瞬途切れた。先のふたつより深刻な話になる予感がする。

「……人間が魔物になるパターン。理由はふたつあって、ひとつは長時間“むこう”に防具なしで居続けた場合。だいたい三日から一週間くらいで魔物になるっていわれてる。こっちのパターンはまずないんだけどね。最初に会ったときのこと覚えてる?防具を着ていない人って、遠くからでもどこにいるかわかるの。見回りは毎日何回もやってるから、これが原因で魔物になる人はほとんどいない」

『3,』とだけ書かれた。

「問題なのは、もう一つのほう。人為的に魔物にされた場合」

 言葉が出てこない。何か一言でも反応を返せればと探してみても、異物を頭にねじこまれたかのような感覚のせいで見つけられなかった。

「やったのは、リーパーに参加しなかった人たちと、リーパーを辞めた人たち。その中でも特に過激だった人たちが技術を盗んで人間を魔物にしてテロを起こした。方法は機密だから私たちアルバイトは知らない。……何十年も前のことだけどね。実行犯と首謀者はこっちでもいろいろやってて表向きはそっちの罪で捕まったんだって。今では海外で何年かに一件くらいで、日本だとここ二十年くらいは一件も確認されてないみたい」

 何とも言い難い話だった。怯える必要はないが、かといって起きる確率がゼロというわけではない。今まで安全が続いたからといって、これからもそうだとは限らない。辞退したいとまではならないが、決心をいくらか鈍らせる程度には重みがある。

 自分と相手、両方を安心させるような笑みを金城さんは浮かべた。現実逃避かもしれないが、少し気が楽になる。クリーナーで自分の書いた字を消しながら「嫌な話だけど、一応覚えておいて。仕事とも関係あるから。あ、やってみるとわかるけど別に怖いことなんてないよ」とこちらを真っ直ぐに見ながら言った。

「魔物の話はこれでお終い。あとは給料体系と、この仕事を受けるか最終確認をしたら、武器と防具の説明に移るよ。ここまでで何か質問はある?」

「ちょっとしたことでもいいですか?」

「全然いいよ」

「あっちの世界が“むこう”と呼ばれているのは何か理由があるんですか?」

「昔はいろんなふうに呼ばれていたんだけど、宗教的な理由で他の国の呼び方に文句をつける人がいて揉めたから“むこう”で統一されたんだって。あと、そういうのって実際に言ってて大袈裟で恥ずかしかったからこういう当たり障りのない名前になったのもあったんじゃないかなって私は思ってる」

「魂と呼んでるのもそんな感じの理由ですか?」

「そうそう。でもこっちは揉めたからじゃなくて、自然と統一されていった結果だって聞いてる。続けているうちになんとなく『これが一番近いよね』ってなったみたい。私もやってて、ああそうだなって思うとき、あるよ。三上君も続けていればそのうちわかる……ってまだ決まったわけじゃないから言うのは早いか」

 形式上はまだそうなのだが、どうするかはあの日からすでに決まっている。笑顔を作って見せると、金城さんは伝わっているとうなずいた。

「今はこのくらいです」と言うと、「気になることがあったらいつでも訊いていいからね」と優しい新人教師のような笑みを見せて、話を本筋に戻した。

「給与は、シフト制の見回りと、魔物を倒しての出来高制。金額はだいたいこのくらい」

 ホワイトボードに書かれた数字は結構な額だった。

「多すぎませんか?」

「時給に換算するとかなりの額だけど、見回りは交代でやるし、魔物も出るのが月二回くらいだから、実際にもらってみるとそんなでもないんだけどね。でも実働時間は短いから本業のスキマ時間でやる分には割がいいよ」

「そうなんですか……」

 理解が深まり現実味を帯びていくのはいいことではあるのだが、そのたびに最初に感じた神秘性がごりごりと削れていくのを感じる。

「さて、これでおおよそに関しては終わり。この先は働く上で必要な説明だから、ここで最終確認するね。……どうかな?私たちと一緒に働いてくれる?」

「はい。僕も皆さんのようになりたいです」

 不安はある。だがそれ以上に、この仕事をやりたいという気持ちのほうが強かった。テロリストの話は想定外だったが、金城さんの口ぶりからするとそこまで気にする必要はなさそうだ。

「ん、よろしくね」「すぐなれるさ、よろしく」とふたりから歓迎の意が示された。

「えー、さて……」

 金城さんが凛とした表情になる。室内の雰囲気が引き締まった。

「三上俊。あなたはこれから魂を刈り取る者として、以後決して名声を求めることなく、陰となって人々を守ることを誓いますか?」

「誓います」

「では誓いの儀式を。スマートフォンを持ってこちらへ」

「え?」

「いいから」

 慌ててスマホを取り出して金城さんの前に立つ。差し出された金城さんのスマホに、こちらのスマホを近づける。アプリのインストールを承認するかどうかと画面に表示された。「承認」のつぶやきに従って承認の操作をすると、インストールは即座に完了した。

「あー、恥ずかしかった。何この儀式。別にいらないでしょこのやり取り」

「そんなことないだろ。こういうのは気持ちが大事なんだよ」とたしなめる五十里さんに同感だった。誰だか知らないがさっきの口上を考えた人とは仲良くなれそうな気がする。

「……まあいいや。これは仕事で使うアプリ。使い方は実地研修のときに教えるね。次はここでの最後の話。武器と防具について」

 ようやくだ。ここ数日間待ち焦がれていた時がとうとう訪れた。

 席に戻って金城さんの次の言葉を待つ。待ち遠しさは今が最高潮かもしれない。

 金城さんが耳のピアスを指差して見せた。

「魔物を倒した後、箱に魂が吸い込まれていたじゃない?あの箱の中に入っていたのがこの石。“むこう”に行くとこれが武器と防具に変わる」

 1ミリほどの小さな石だ。これにあの光の奔流がすべて入りきってしまうものなのか。

「新人には武器と防具が一個ずつ支給されるから、どんなのがいいか選んでほしいの。これから、どんな種類があるか説明するから、それを聞いて参考に……」

 目元をひくつかせた金城さんの視線を追うと、小宮さんが椅子に座ったまま、日向ぼっこをする猫のような穏やかな顔ですやすやと眠っていた。

「……莉緒」

 恐ろしく低い声で名前を呼ばれて小宮さんは「はっ⁉」飛び起きた。

「お……起きてますよ?」

 目を見開いて震えている。怯えた小動物じみた仕草と外見が合わさって、昔見た子供向けのアニメのキャラクターを思い出して懐かしい気持ちになった。笑顔のまま怒る金城さんに怯えきっている彼女には悪いが、ここまでわかりやすく慌てられる人がいるものなのかと純粋に感心するほどだった。居眠りを責める気になどまったくならないくらいに。

「なんで寝てたの?」

 小宮さんはまだこの状況をどうにか切り抜けられないものかと言い訳を探していたが、観念して椅子から立ち上がり深々と頭を下げた。

「すみませんつまらないと思って聞いてませんでした」

 金城さんは笑顔のまま無言でペンを差し出した。「いやあの」と逃げようとする小宮さんに押し付け「交代。武器と防具の、機能と種類ね」とだけ言って椅子に行儀よく座った。

 小宮さんはまだ何か言いたそうにしばらくペンと金城さんを交互に見ていたが、やがて諦めたようにため息をつくと、ホワイトボードの前に立った。考えをまとめているのか、少しの間「うーん」「えー」などと唸って、それから手を動かし始めた。

「武器は魔物を倒すためのものです。防具はパワードスーツ的なもので、着ていると運動を補助してくれて、魔物から攻撃されても高いところから落ちても全然痛くなくて、ケガもしなくなります」

 ホワイトボードに、あいだを開けて『武器』『防具』と丸っこい字で書いた。緊張して少し固くなってはいるが、はきはきとした声でしゃべっている。

 小宮さんはホワイトボードに手のひらをついて、ペンで手のふちをなぞった。

「防具はこのように全身を覆っていて隙間はないので安心してください。この薄い膜みたいなのが本体で、外見はただの飾りです。飾りといってもホログラムみたいなものではなく、ちゃんと形があって触れますが」

 あとに残った手袋の絵はすぐに消された。

「エネルギーは魂です。自分で攻撃したり、逆に魔物から攻撃を受けたり、能力……武器と防具にはそれぞれ、石に封印した魔物の魂にそった特殊能力がありまして、それを使っても減っていきます。完全になくなったら、壊れる……というより消えます。一時的にですけど。こっちにいれば自然に直ります。ちょっとずつ“むこう”から魂を補充しているみたいですよ。壊れてから完全な状態まで戻るには丸一日くらいかかります」

 口調がなめらかになってきた。目線もしっかりして講師らしくなってきている。

「武器の種類は五つ。ひとつめは近接武器。手で持って斬ったり叩いたりするやつ全部のことです。剣とか槍とか、ナックルとかメイスとか、盾とかいろいろあります。他の武器と違って、ただ振るだけなら魂を消費しないので持久力に優れているのが長所です。

 ふたつめは遠距離武器。こちらの怜奈先輩が銃を使っています。離れた位置から攻撃できるのが長所ですね。銃と比べて使いにくいということであまり人気はないですが、弓や投げたら自動で戻ってくる機能を搭載したブーメランなんかもあります。

 みっつめはギア。そっちの先輩が使っていたやつです。私はよくわかりませんが、車やバイクと同じ仕組みで走るそうです。地上を素早く移動しながら戦いたいならこれですね。先輩は打撃を強化するものを使っていますが、刃物を取り付けたタイプもありますよ。

 よっつめはウイング。空を飛びながら戦える武器です。大きく分けて羽と付け根の二つでできていて、付け根から羽を飛ばして攻撃します。空を飛べるのは楽しいですけど、扱いがかなり難しいので最初にこれを選ぶのはおすすめしません。もし使ってみたいなら“むこう”の感覚に慣れてからにしておくといいですよ。

 最後はバインダー。私が使っていたものです。多彩な魔法を放ちながら華麗に戦える素晴らしい武器ですので、ぜひご一考を。魔法を強化したり、魔法の石に代わって魂を消費したりする機能があります。これだけだと何もできなくて、それとは別に魔法用の石も一緒に取り付けないといけないのが難点ですが、たくさん石を付ければひとりでいくつもの魔法が使えるのがいいところです。本以外の形もありますが、本型だと開いたページの魔法が使いやすくなる機能があるので、選ぶならこれがいいかと」

 挙げていった名称を順番にホワイトボードに書いていく。

「武器については以上です。よろしければ防具の説明に移りますが」

 うなずいて先を促す。

「では防具について。防具は三種類あって、ヘヴィアーマー、ミドルアーマー、ライトアーマーと呼ばれています」

 すらすらとペンを走らせている。しゃべっているうちに緊張が解けたのか、かしこまった口調に今では明るさが添えられている。おそらくこれが小宮さんの素なのだろう。背伸びした微笑ましい愛くるしさを、遠慮なく見せてくれるようになった。

「特徴を説明しますね。まずはヘヴィから。名前のとおり重くて硬いです。硬いので魔物の攻撃にある程度耐えられますし、腕力や膂力を強化してくれます。近距離で魔物と戦いたい人向けですね。難点は、硬くしているので関節が少し動かしにくいことと、重いので素早く跳んだり走ったりはできないことです」

 銀の甲冑が疾駆する姿は圧巻だった。五十里さんがギアを選択していたのはそういった難点を解消するための意図もあってのことか。

「次はミドル。移動に特化した防具です。他の二つの防具も“むこう”で速く動けるようにはなるのですが、これは別物と言っていいくらいもっと速く動けます。ただ、人によっては速すぎて制御しきれなかったり、慣れるのに時間がかかったりします。その辺の物にぶつかっても防具はダメージを受けるので、気をつけてください。でも、使いこなせれば怜奈先輩みたいに高いビルにもひとっ飛びできてかっこいいですよ」

 最初に会った時の金城さんみたいに軽々と跳び回れたらどんな景色が見られるのか、とても興味を惹かれた。命を懸けて臨む戦いの場で用いる装備をそんな理由だけで選ぶのはどうなのかとは思うが、試してみたいという気持ちは抑えられない。

「最後はライトです。私が使っています。他の二つより強度がなくて、速く動けるようになるわけでもないですが、その分防具自体の魂の総量が多くて、武器に魂を分け与える機能があるのが特徴です。バインダーや銃なんかと相性がいいですね」

 小宮さんはペンを置いた。

「以上で説明は終わりです。何か質問があれば……」

 若干疲れた様子の小宮さんに、首を振った。疑問はなくはないが今すぐ訊きたいことでもないので、そのうちでいい。何より、今日の本題に早く移りたかった。

「よし、じゃあこのなかから武器と防具をひとつずつ選んでもらうことになるんだが、どうだ?これだ、ってのはあったか?」

 あれから微動だにせずにいた五十里さんが空気椅子から膝だけを動かして苦も無く立ち上がった。

「武器は決まりました」

「お、そうなのか。何にする?」

「鎌がいいです。両手で持つ大きな鎌が」

「鎌か。あるにはあるんだけどな……。しかも、ここの職人の自信作のやつ」

「何かあったんですか?」

「あったというか……。自信作ってことで当時すごい勧められて、うちで使えそうな人は皆試したんだが、鎌ってちょっと変わった形をしてるだろ?それで『使いにくい』ってなって、結局誰も使わなかったんだよ。それがかなり堪えたみたいでな。その作った職人が落ち込んで酒浸りになって、しばらく仕事が滞ったんだ。あれはひどかった」

「それは……大変でしたね」

「ああ、そうそう。選んでもしばらくは自由にチェンジできるから、合わないと思ったら遠慮なく言ってくれ」

「言いにくいんですが……」

「ははは。まあ、そのときは近くの居酒屋で奢ってやってくれ。適当に日本酒を飲ませて愚痴を聞いていればすぐに機嫌は直るから。あんまり時間を空けるといじけて愚痴が長くなって朝まで付き合わされるようになるから、なるべくすぐ誘うようにな。……よし、武器はこれでいいとして、防具はどうだ?」

「そっちはまだ決まってなくて。質問したいことがあるんですが、いいですか?」

「もちろん」

「皆さんは、よく、その……魔物と戦う日というのには参加しているんですか?」

「ああ、俺たちは基本的にいつも出てる」

「それなら、戦っていて『いたらいいな』と思った役割はありませんか?」

「そうだな……。近接武器だったら、よく動けるやつがいるといい」

「ならミドルにします。ちょうど興味があったので」

「決まりだな。じゃあ、行くか。どんなやつにするかは、何があるか訊いてみないとわからないからな」

 はい、と同意して椅子から立ち上がって、全員で部屋を出る。

「私は店で待ってる。やることないし」

「では私も」と小宮さんも金城さんについていった。

「工房はここの上にある。裏の階段から行こう」

 五十里さんと階段を上ろうとすると、初老の男性がポットとコーヒーカップを乗せた木製の盆を持ってカフェの出入り口からやってきた。

「これ、エリちゃんに持っていってもらっていいかな」

「はい」と五十里さんが受け取った。温かいコーヒーの香りがバックヤードに漂う。

 カウンター奥でコーヒーを淹れていた男性だった。いかにも喫茶店のマスターといったシャツとスラックス姿。丸眼鏡をかけ、グレーの髪を品良く固めており、落ち着きのある優しげな雰囲気の人物だ。

「初めまして。店長兼このあたりの管理者の高峰慶三です」

「三上俊です。今日からよろしくお願いします」

「私は大抵店にいるから、訊きたいことや相談したいことがあったらいつでも来てくれていいからね。それと、従業員割があるから、普通にお茶や食事にも是非来てね」

 年季を感じさせる温和な笑みで高峰さんは店へと戻っていった。

「あの人も魔物と戦うんですか?」

「いや、それは俺たちの仕事だ。店長は他の地域の管理者と連絡を取り合う中間管理職みたいなことをやってる。だから今日みたいに研修を代わりにやることもあるんだ。本当ならここで一番偉い店長がやるんだけど、あの人コーヒー淹れてるのが好きだから」

 五十里さんと静かなバックヤードの階段を上る。盆を持ったままでは上りづらいのではないかと思ったが、盆の上に乗った器はほとんど音を立てていない。五十里さんは体をまっすぐにしたまま、特に気にした様子もなくすいすいと階段を上っていく。

 階段を上り終えて廊下に出ると、見知らぬ男性に「やあ」と話しかけられた。

 五十里さんと適当な挨拶をして、「私も出前を頼んじゃおうかな」と冗談交じりに去っていくのを見送った。階段での会話が聞かれていなかったか少し心配になる。

「今の人は……知ってるんですか?」

「いいや、こっちのことは全然知らない。ただのカフェのバイトだと思ってるよ」

 にやりと笑う五十里さんに、口の端をつりあげて笑みを作って応じた。今の何気ないやり取りで、ここが秘密の組織なのだという実感が湧いてきた。

 目的地は階段の隣、すぐそこにあった。

『モノクローム』と書かれた小さなホワイトボードがついているドアを五十里さんはためらいなく開けて入っていった。「失礼します……」と断りを入れて続き、ドアを閉めた。

 その部屋は、いちテナントの裏側らしくまあまあ狭かった。重い茶色のアンティーク調の棚がいくつも壁に並んでいて、人が通るスペースはあまり確保されていない。

「エリさん。新人と、コーヒーです」

 部屋のもう一方、店内に繋がっているのであろう側のドア近くの机に向かっていた、散髪という概念を知らないかのように長々と伸びている赤みがかった金髪の女性が椅子に座ったままこちらを振り向いた。歳は少し上そうだ。

「ありがとう。ちょうど飲みたかったの」

 机に乗っていた物を手で払いのけるように片づけた。空いたスペースに五十里さんが盆を置き、カップをひっくり返してポットのコーヒーを注ぐ。「どうも」と礼を言い口に含む女性から、見ているのは失礼だなと視線をそらした。

 棚と同様のアンティーク調の大きな机には他に、いくつかの工具と、ノートパソコンがあった。ノートパソコンには何かペン型の機械が差してあって、どのような用途で使うのか興味を惹かれた。

「それはね、魔石にプログラミングした情報を送って、装備になるようにするための機器よ。……ああ、魔石っていうのは、倒した魔物を封じ込めた特別な石のこと」

 差さっていたペン型の機械を外して先端部を見せてくれた。何か爪で固定する台座になっていた。台の部分はレンズになっている。

「現代的なんですね」

「今はこれが魔法の呪文だから」

 女性は何度か口をつけたカップをソーサーに置いて立ち上がった。

「私はエリザベス・ガラード。エリって呼んでね。ようこそ新人くん、私の工房へ」

 職人と聞いて年配の人物を想像していた。内心意外に思いながら「三上俊です」と名乗り、「よろしくお願いします」と付け加えた。

「さて、早速だけど、装備は何にするかは決まった?」

「武器は決まりましたよ。あの鎌がいいそうです。で、防具は……」

「素敵!あれは私の自信作だからきっと気に入ると思うわ。よかったら、どうしてこの作品を選んでくれたのか教えてくれないかしら?」

 エリさんが目を輝かせて寄ってきた。これはもしチェンジしようにも言い出しにくい。

「先輩方に訊いてみたんです。足りないポジションはないかと。それで、動ける近接武器がいたらいいということだったので」

「クレバーな選び方ね。嫌いじゃないわ」

「あとリーパーと聞いて、それなら鎌かなと」

「わかる!私もそう思って――」

「そういうわけで武器は決まりましたが防具はまだなので、相性のいいやつを見繕ってやってください」

「ええ、わかったわ」と笑顔のままエリさんは机の引き出しを開けて、小さな透明のケースに収まった、とても小さな漆黒の石を取り出した。

「さっき動けるのがいいって言ってたよね。ならこれがいいと思う。ミドルアーマー。見た目も死神って感じの、真っ黒な皮の鎧。黒い影みたいなマントを出して、隠れる能力」

「では、それにします」

「なら、あとは入れ物を選んで完成ね」

「身に着ける物じゃないとだめなんですか?」

「体の一部だって思える物じゃないと形になってくれないの。それに石と台座だけだと小さすぎて失くしちゃうから。ちなみに道也くんは腕時計で、莉緒ちゃんはスマホケース」

 五十里さんが腕を上げて時計を見せてくれた。銀を基調にしていて、あの銀の甲冑をイメージしたのだと思われるベゼルが特徴的だった。

「あなたも時計にする?」

「アクセサリーは身に着ける習慣がないので、そうしておきます」

「デザインは任せて。表の仕事でもオーダーメイドで色々作ってるから、素的なものをご用意できるわ。使い手が気持ち良く仕事するためには良いデザインがあってこそだから、職人としてはそこもきっちり関わりたいの」

「どのくらいかかりますか?」

「早くて二、三ヵ月くらいかな。それまでは、悪いけど仮のもので我慢してね。今日はこれから“むこう”に行くのよね?急ぎで用意するから、できるまで下で待っててくれる?」

 エリさんが棚を開けて出したいくつかのサンプルのなかから無難なものを選んで、入ってきたときとは反対側のドアから工房を出た。カフェにバックヤード側から客として席に着くのはなんとなく気まずかった。

 表の仕事だと言っていたエリさんの店は、床を白。ショーケースを黒で統一した、“むこう”の景色を連想させる内装だった。現在客は誰もいない。ショーケースには値札が付いたアクセサリーや腕時計が収められている。……高い。壁にはオーダーメイドや修理を受け付けているとの旨の貼り紙があった。

『モノクローム』を出て、エレベーターに向かう。磨き抜かれた白い大理石調のタイル床は、天井からの蛍光灯の光をよく反射する。静かなバックヤード、落ち着いた雰囲気だったカフェと工房から出たばかりだと少々目がくらむが、買い物客の賑わいにまぎれているうちに気にならなくなっていき、エスカレーターに乗る頃にはもう忘れていた。

「そういえば、希望する装備が無かった場合はどうなるんですか?」

「今回みたいに在庫があったらすぐなんだけど、無い場合は取り寄せになるから二週間くらいは待つことになるな。人気のある能力だと何ヵ月も待たされたりする。魔石の性質との兼ね合いがあるから、合わない石で無理やり作っても弱いんだよな」

 在庫という単語で急速に現実感が押し寄せてきたので、努めて聞かなかったことにした。

「こういうのにも人気ってあるんですね」

「ああ。火とか雷とかビームとかが出るやつなんかが人気だ」

 とっさにそういった発想が出てこなかった自分に、歳を取ったなと痛感する。

「これから結構動くから」という五十里さんの言葉に従って、カフェで金城さんと小宮さんに合流して同じテーブルについてからは何も注文せず水を時折口に含みながら、他に客もいるその場に適した雑談をしていた。通っている大学(五十里さんと金城さんは美影工業大学。美影大だと言うと金城さんが「いいなー。私そこ第一志望だったんだ」と感心していた。小宮さんは今年高校受験があるそうで、今日来てもらったことを申し訳なく思ったが、金城さんに勉強を教えてもらっているので問題ないと断言していた)。運動経験はあるか(ジムを利用する習慣がある。五十里さん曰く、運動神経の良し悪しはかなり重要とのこと)。彼女はいるか(いないとだけ答える。金城さんが意外にも関心を見せて、さり気なさを装い気になる人はいないのかと何度も追及してきた。話題そらしも兼ねてふたりに指輪について訊くと、籍だけ入れている状態だとのこと)。カフェのメニュー(五十里さんは味と値段には満足しているが、全体的に量が足りない点が不満らしい。金城さんはサラダの野菜が新鮮で品目が多いところが気に入っていて、従業員割もあってよく来るのだそうだ。小宮さんもよく来て、季節のケーキやデザート、ドリンク類を頼むのらしい。以前は店内で勉強もしていたのだが今ではお断りになっているので、ドリンク片手に参考書を短時間読む程度になっているという。勉強お断りになった原因が自分と同校の生徒にあったことに憤っていた)。免許の有無(普通自動二輪と普通自動車を所持。五十里さんが特に強い興味を示した。二輪免許は取ろうと思っていたのだが教習所に行こうと思うたびに色々あって先送りにしてきた結果、就職活動が近づいていたので断念、と残念そうにしていた。僕が車を持っていないと知ると、できるだけ慣れていたほうがいいので自分の車を貸すから練習するといいと提案してくれた)。

「何か頼んでもよかったね」と金城さんが言い出した頃にエリさんが店内に現れて「お待たせ」と腕時計を差し出してきた。

 高揚と、四人が向けてくる視線に緊張しながら震える指で黒い人工革のバンドを左手に巻いて、手首のサイズに合った穴で留める。エリさんが手に持っていたので、銀色の金属フレームは肌に触れると温かかった。黒一色の文字盤に、銀色の針と数字。目の前にかざして、まだ見ぬ装備、そこに宿る力に思いを馳せる。



 先導してくれた五十里さんの白いミニバンの隣にバイクを停めた。外のざらついたアスファルトとは違って、地下駐車場のややすべすべしたコンクリートはキュッと音をたてる。

 助手席から金城さんが、後部席から小宮さんが出てくる。ミニバンの後部座席は二列あり、八人くらい乗れそうだ。バイクを見て金城さんは「へえ、いいね」と笑顔を浮かべ、小宮さんはその後ろから口を半開きにしてまじまじと眺めてくる。

 感想もそこそこに五十里さんのいる運転席側へ回る。両脇の壁の向きからするにそこは地下駐車場の角であるはずで、まだ“霧”が残っていて判然としない。ミニバンは“霧”を隠す形で停まっている。

「これから仕事の説明をするぞ」と言って五十里さんがスマートフォンを取り出し画面を見せてくる。さっき渡されたアプリを起動すると周辺のマップが表示された。画面を下にスワイプすると出てきた『現在地を共有』をタップし、『店長』を選ぶと「これで“むこう”に行く前にやっておくことは終わりだ」とポケットにしまう。

「上は多分全部消えていると思う。人通りの多い所だと早くて次の日、遅くても二、三日でなくなるんだ」

 実はすでに知っていた。さすがにひとりで“むこう”へ行くつもりはなかったが、待っているここ数日の間、落ち着けずにいたのであの公園を訪れてみたら“霧”がなくなっていた。

「もう三上は問題ないだろうけど、一応手順を確認しておこう」

 できたとはいっても、正式な手順はちゃんと確認しておきたかったのでありがたかった。

「最初に気をつけないといけないのは、人目があるかどうかだ。見えない人から見られていると“むこう”には行けない。見えない人からしたらここには何もないわけで、それが反映されているからなんだそうだ。人通りが多いと“霧”が早くなくなるのも、同じ理由だとさ」

 五十里さんが“霧”に近づき、手をつくようにかざす。

「まずは“霧”のすぐ近くに立つ。そして“霧”に目の焦点を合わせる」

“霧”と五十里さんが重なったのを感じ取れた。傍から見ていると、人間が壁に消えていくかのように見えて少し不安になる。

「そうしていると“霧”の先に“むこう”が見えてくるから、今度はそっちに焦点を合わせる。その際、手のひらを向けているとやりやすい」

 手をかかげたまま、五十里さんは“霧”の向こうへ消えていった。

 はじめて“むこう”へ迷い込んだ際の感覚とそう変わらない手順だった。逸脱した悪影響のあるやり方をしていたのではなかったとわかり、「大丈夫そう?」と特に疑う様子もなく訊いてくる金城さんに自信をもって「はい」と言えた。

 五十里さんと同じように“霧”の前に立ち、右手をかかげる。

 背後からの視線に多少緊張するも、眼前の“霧”に意識を向けて合わせると、そのわずかな心の乱れは真っ白に洗い流されていった。

“霧”の向こうに漆黒の空間が見えた。掴み取るように手を伸ばし、ゆっくりと“霧”をくぐり抜けていく。“霧”の作用か、ひどく頭が澄んでいる。その一方で、積み上げてきた記憶と人格が洗い落とされるような気がして、心の端にかすかな恐怖が染み出てきた。

 以前に“霧”を抜けたときにはなかった現象が起きた。

 左手首から光が発せられた。流星のごとく無数の小さな光点が走り、全身をなぞる。光点は光の線を跡として残していって、包み込み、身を守るもの、防具を編んだ。

 右手にも同じものが起こった。初めは糸に等しい細さだったが光は目に見えて太さを増していって、ちょうど手に馴染む太さの一本の棒の形になった。棒の先端ではまだ光の線が頻繁に行き交っている。形作るものは、横幅は細く、先が内に向かって曲がっていて、つまりこれは大鎌なのだと把握する。刃と思われる部分では執拗なまでに光が行き交い、濃密な跡を残している。それが意味するところ。これは、他者を害するための武器なのだと理解して、背筋が冷たくなった。

 すべては一瞬の出来事だった。

“霧”を抜ければ一連の出来事への驚きも“ここ”の雑念を払い落す空気に身を引き締められてすぐに霧散した。辺りを見回すと、広い漆黒の部屋のなかにいた。

 五十里さんが手を振っていた。銀色の甲冑をまとっているが、兜だけかぶっていない。

「いい感じだな」

“霧”を抜ける手際と、この姿両方を指しているのだとわかる。雑談をしてある程度気心を知れたからか、この世界が感覚を鋭敏にするからなのかはわからなかったが。

 光は、漆黒の革鎧と、鈍色の大鎌となっていた。右手を握ると革の手甲が鉄の棒をギュッと握り締めた。大鎌は想像していたよりずっと軽く、これなら子供でも楽に振れる。

 肩の後ろに、僕からの指示を待っている謎の器官がついていた。違和感からとっさに外れてはくれないものかと脳が拒絶をしてしまう。すると途端にそれは遠くへ行って小さくなってしまい、やがては消滅してしまうのではないかと危惧するくらいに存在を感じ取れなくなった。慌てて恐る恐る、遠い空に輝く星に手を伸ばすように追いかけると、幸いそれはすぐに見つかって、戻ってきてはくれないかと頼みながら掴むと、肩の後ろの元の位置に収まってくれた。

「そのくらいにしておこう。防具の能力の練習はまた今度な」

 新しい感覚に軽い吐き気とめまいを覚えた。いきなり余計なことをした。これからの研修に差し支えないといいが。

 金城さんと小宮さんが“霧”を抜けてやってきた。ふたりがフードを脱ぐような動作をすると、カウボーイハットは背中、口元を隠していたバンダナは首元へとするりと下りた。小宮さんがかぶっていたフードは、作り物めいたやや固い布の動きで脱げた。僕もああしたほうがいいのだろうか。

 頭部を見えない何かが覆い尽くしていることに気がつく。革鎧は首から下までで、首から上には何も目に映っていないというのに。空いている左手で顔を触ってみると、指先にまとう堅い革が、硬質な板状の物をなぞる感触が返ってきた。

「頭の部分は透明にすることができる。出したい、消したいと念じながらこうやって……」

 五十里さんがフードをかぶるような仕草をすると兜が現れ、逆に脱ぐような仕草をすると兜が消えた。瞬時に切り替わるため映像の中の出来事かと混乱しそうになる。

 消えるよう念じながら同じように左手で取り外す動作をしてみる。すると視界が若干明るくなった。何をかぶっているのかはわからないが、これで五十里さんたちにはこちらの顔が見えるようになったのだろう。

「防具は武器をくっつけることもできる。要領は同じで、それだと背中がいいだろうな」

 背中の鞘に剣をしまう感じで、刀身の側を下にして背に収めた。固定された感触がなかったので、ちゃんとついているか不安になって、触ったりつけたり外したりしてみる。

「行こうか」と歩き出した三人についていく。そういえば“こっち”の駐車場にはミニバンとバイクがない。真っ黒になっていると思っていたのに、と不思議がっていると「丸一日くらい置きっぱなしにしないと反映されないんだ」と五十里さんが教えてくれた。

 全面が黒く塗り潰された地下駐車場から公園に出た。灰色の空。純白の木々。漆黒のコンクリートとアスファルトの地面、周りを取り囲むビル群。相変わらず色彩に乏しいが、先程までと比べれば明るく開放感がある。

 先日の出来事を思い出して、自然と拳に力が入った。あのときにはなかった、戦いに加わるための資格を今は持っている。それをぶつける相手は、今はどこにもいないが。

「まず周辺に“雲”があるか確認する。とはいってもここだとビルが邪魔で遠くまで見えない」

 五十里さんはぐるりと周囲を見回し、そのなかで最も高いビルを指差した。

「だから、あそこに登る」

「階段でですか?」

「いや、直接だ」

 そう言ってにやりと笑う。

「さあ、実地研修だ。ここから、あのビルの屋上までジャンプして移動するんだ」

「いきなりですね……」

「もう始まっているし、これから何度も当たり前にやることだぞ。諦めて覚悟を決めようか」

 五十里さんの言うことはもっともだ。できなければ、仕事がこなせない。同じミドルアーマーの金城さんに手本を、という甘えた泣き言を飲み込んで、目標のビルを見据えた。

 二十階はありそうだ。とても一息に跳び乗れるとは思えないが、やってみなければここでいつまでも足踏みをし続けるだけだ。

「失敗して落ちても防具が代わりにダメージを受けてくれるからケガすることはない。慣れないうちは怖いけど、心配せずに、とにかくやってみよう」

 深呼吸をして。腰を低めに落とし、右足を後ろに摺って下げ、走り出す体勢をとった。

 目測を定める――遠くの屋上が少しはっきりと見えた。この体勢で首を上に曲げるのなんて初めてだ。角度が合っているかなんて当然わからない。

 両脚に力を込め、地面を強く踏みしめる。

 溜めた力を解き放ち、地面を強く蹴った。

 その結果実現した跳躍は、人間のそれを大きく超越したものだった。

 上昇は驚くほど滑らかだ。風の抵抗が一切無い。空気の壁による失速を受けなかった。

 視界が開け、灰色の空の割合が一気に増えた。眼下、あるいは周囲に広がる巨大な墓石の群、その数に圧倒される。

 勢いが失われ、ほんの一瞬中空にとどまる。そのときには、目標としていたビルの屋上を見下ろしていた。目まぐるしく次々と押し寄せてくる、ひどく現実感のない状況に、恐怖も戸惑いも追いついてこなかった。ただ自分がとても高い位置に浮いているという事実を認識するだけで頭の中がいっぱいだった。

 宙に浮いている状態では、できることはなにもない。落下していくままに任せ、近づいてくる屋上の床をただ眺める。地面に引っ張られる恐怖に総毛立ちそうになったあたりで屋上に足がついた。靴底の革が擦れてかすかにジャリと音を立てた。

 衝撃はなかった。痛みもない。小学生の頃、度胸試しで階段のどこまでの高さから飛び降りられるかを競い合ったときのほうがずっとすごい衝撃だったし、何より痛かった。

 肩の力が抜けて、心臓が激しい動悸をし始めた。

 動機が治まらないまま周囲を見渡す。このビルの屋上は人が利用するのを想定していないようで、目につくものはダクトと思われる太い角張った管と出入り口と思われる四角形の突起くらいだ。フェンスは取り付けられておらず、簡単に乗り越えられそうな塀がある程度。ここより多少背が高い墓石がまばらに散見されるが、どれも灰色の空を眺めるのを阻むほどではない。

 頭上を、余裕をもって何かが飛び越えていった。振り返ると金城さんが着地していて、こちらに向かって「上出来」と言わんばかりに親指を立てた。

 五十里さんと小宮さんはどうするのだろうと思っていると、下からギアの駆動音が聞こえだしたので、こんなに跳んだのかと高さに戦慄しながら顔を乗り出し覗き込んでみた。

 駆動音と共に、銀と白の点が壁面に沿って徐々に近づいてくる。壁も登れるのか。

 五十里さんは僕のすぐ隣、塀の上で直立して停まった。姿勢を変える動作はとっていない。ビルの壁面を地上と同様に両足の車輪で駆け登ってきていた。

 五十里さんの肩に乗っていた小宮さんがぴょんと降りる。高いところは怖いのか、背後を見ないようにして小走りで金城さんの元へと行った。

「一回で成功はすごいな。大抵は距離が足りなくて届かないか、ぶつかるかするんだが」

「たまたまですよ」と謙遜ではなく本心からそう答えた。「この防具はすごいですね」。

 身体には直接作用しない。運動の結果のみを増幅させるだけだった。なので、超人的な力を得たのだという陶酔感はなかった。器具を取り付けて行うスポーツをする感覚に近い。スキーやスノーボード、スケートをしていて自分そのものが超人であると本気で思い込む者はいない。誇るとすれば、自身の器具の取り扱いの技量になるだろう。

「慣れればもっと高く跳べるようになる。……うん、ここならよく見えるな。観測の仕事について説明するぞ」

 メモを取らなくて大丈夫だろうかと不安になったが、その場でぐるりと回って周囲を見渡した五十里さんからの説明は簡単なものだった。

「まずは迷い込んだ人の気配があるかどうか感じ取る」

「あの、それはどうすれば……」

「慣れだ。慣れればこの見える範囲どこにいてもわかるようになる。まあ、それまでは他の誰かと一緒に来ることになってるから心配するな。……そして次は空だ」

 五十里さんは一度目より少々雑にぐるりと周囲を見渡す。

「今は特に何もないよな?というわけで、レベルは0。以上」

「……それだけですか?」

「今日は、な。レベルは0以外に1から3まで段階があるんだけど、実物を見ながらのほうがわかりやすいから、今日はこの“雲”がひとつもない状態がレベル0だってことだけ覚えてくれればいい。あとは、戻って『0』とメッセージを送るだけだ」

 ということは、今日の研修はこれでもう終わりなのだろうか。

 五十里さんと目が合う。表情に出ていたようだ。口元を少し釣り上げて、笑った。

「ここからは自由時間だ。先輩が厳しくしごいてやるぞ」

「はい、よろしくお願いします!」

 しごく、といってもそれは物のたとえであって、ふざけることまではさすがに許されそうにない、それなりの緊張感は常に保たれつつも、終始賑やかかつ和やかな雰囲気で進行していった。

「まずは跳び回ることに慣れよう」と、金城さんと鬼ごっこをすることになった。

 同じ機動力に優れた防具を着ている相手を追いかけ、ついていく。単純だが、跳躍の工程ひとつひとつに慣れていないので、ただそれだけでも忙しないものだった。

 金城さんは、初めはこちらの着地を待ってから次のビルへと跳んでいっていたのだが、少し余裕が出てくると着地を待たずに次へ行ってしまうようになり、それもどうにかこなせるようになってくると、更に先行し常にビルひとつ間が開くようにして二つ分の処理が必要になるようにしていき、それにもまたどうにか追いつけるようになると次は二つ……と徐々に難易度を上げていく。金城さんの難易度設定は、工程を処理できるかできないかの際を突くのが実に巧みだった。それでいて、振り返ることなくこちらの出来栄えを見定めている。そこに彼女の積み上げてきた経験と実力を感じ、敬意を抱いた。

 目標を定め、跳躍に過不足ない力を算出し、実際にその通り正確に溜めて解き放つ。思考と反射を融合させる冷静さと、その一方で常人にはありえない宙を駆ける高揚感が内に滾る。冷たさと熱が同時に体内を廻り、かつてない充足感に満たされた。

 眼下に建ち並ぶビルの森はひとつとして同じ高さ、太さのものはない。上を向き挑むように跳ぶときもあれば、下を向き危険に飛び込むように跳ぶときもある。「失敗してもすぐ立て直すように」との五十里さんの言に従って、背の高いビルに跳躍の高さが届かなかったときは、壁面に取っ手になりそうな隙間や出っ張りを見つけて掴まって無理やりよじ登ったり(片手だけで苦も無くぶら下がることができた)、背の低いビルの上で殺しきれず体勢を崩したときは、勢いのまま手近な壁や床を蹴り飛ばして別なビルへ飛び移ったりするなど、なるべく動きを止めないよう意識して追いすがった。

 その後ろを、五十里さんがギアを唸らせて追いかけてくる。片側の肩と足の車輪でビルの壁面を真横に疾駆する場面も見られた。走行するためのビルが途切れれば器用に片足で蹴飛ばし、次のビルへと飛び移り、次々と後に轍を残していく。首に小宮さんが両足を巻き付けて掴まっており、魔法を当てる練習なのか変わった形の物があると手から鎖を飛ばしていた。二回ほど小宮さんの鎖が道也の視界を遮って目測を誤らせ、共に何やら罵り合いながら落下していっていたが、さすがというべきか復帰は早く、すぐに何事もなかったかのように背後に現れた。

 自然と笑みがこぼれる。ただただ楽しい時間だった。これだけでもリーパーになれて本当によかったと思える。面倒見の良い先輩たちと出会えたことに感謝し、報いるためにできるだけ早く戦力になれるよう努力しようと決意を固めた。

 一時間ほど遊ぶと金城さんは少しずつ速度を落としていき、やがて最初の公園に着地して足を止めた。

 その隣に着地して、息を整える。あれだけの運動の後だというのに、疲労感は驚くほど軽い。五十里さんがカシャンと軽い音を立てて、近くに着地するまでの間には平静に戻っていた程度だった。防具の力によるものなのか、この世界によるものなのか。以前にここを生身で走った際に一切疲れることなく体を動かし続けられたときのことを思い出して、両方なのだろうなと結論付ける。

「どうだ?楽しかったか?」

「はい、とても」

「余裕がありそうだから、もうひとつ覚えてもらうか。武器の解放の仕方だ」

「解放……」

 右腕を背に回して、取り付けたままだった大鎌を手にする。

「別の形に変身する機能だ。切り札みたいなものだな。武器そのものや能力が強くなるとか、形が変わって違う戦い方ができるようになる。それの場合は前者に特化してる」

 飾り気のない鈍色の刃をじっと見つめる。“こちら”に来たばかりのときには何とも思わなかったが、そう言われて意識して見ると、この奥に何かがある……ような気がする。

「やり方は“霧”を越えるのと同じ。意識を集中させて、その先にあるものを追いかけて、掴む」

 五十里さんも、金城さんも小宮さんも排して、手に握る鎌にだけ意識を合わせた。

 そこに一つの存在を、遠く、あるいは深く、に感じた。

 手を伸ばすように意識を近づけていく。しかし、初めてプールで潜水の練習をしたときみたいに、見えない力に引かれてどれだけ進もうとしても元いた位置に戻されてしまう。

 息をするのを忘れていた。慌てて鎌から意識を手放し、咳き込むように呼吸を再開する。

 頭の中にどっと疲労が押し寄せてきた。真剣に講義を聞いたあとと似ている。

「最初はそんなもんだ。慣れれば自然にできるようになる。それまでは練習だな。ただし無理はするなよ。今くらいの状態になったらその日は切り上げるように」

「はい、わかりました」

「しばらくは誰かと一緒じゃないと“こっち”に来てはいけないことになってる。安全面もあるけど、さっき言ったように慣れてないと迷い込んだ人がいるかどうかわからないからってのが一番の理由だな。あとでシフトの確認をしよう」

「わかりました。またよろしくお願いします」

「お疲れ様。戻るとするか」

「はい。今日はありがとうございました」

 先輩たちに丁寧に頭を下げた。

“霧”を抜けて地下駐車場へ戻ると、五十里さんに「帰る前に休憩していきな」と呼び止められた。遠慮しようとしたがすぐさま肩に手を回されて「思ってる以上に疲れてるから危ないぞ。それに、休むのも仕事のうちだ」と小宮さんがドアを開けて待っているミニバンに連れ込まれてしまった。

 車内は広々としていた。前列のシートを回転させて四人が向かい合って座れるようにしていた金城さんに「どうぞ」と手で促されて奥の位置に座る。隣に五十里さんが大きめのバッグを持ってきてどっかと座って「どれがいい?」と開いて見せてきた。バッグの中は小分けの袋に入った様々な種類の菓子類でいっぱいだった。

「“むこう”に行った後は何か食べたほうがいい。飲み物もあるから好きなのを取りな」

 車の中に小型冷蔵庫がある光景なんて初めて見た。バッグ同様色とりどりな中身から、無糖のコーヒーがあったので、誰かが飲むつもりじゃなかったことを祈りながら、それを選んだ。食べる物は、種類が多すぎて少し迷ったが、真っ黒な生地と真っ白なクリームが“むこう”の景色を連想させるクッキーサンドの小袋を取った。

 やたらと座り心地が良いシートに腰を下ろして飲むコーヒーはいつもより美味しく感じた。内装も落ち着いた雰囲気だったのですぐにリラックスできた。

 小さいサイズの袋のポテトチップスとチョコレート菓子を交互に食べている五十里さんを、チョコレート不使用のシリアルバーをかじりながら白い目で金城さんが見ている。小宮さんはミネラルウォーターを白い小さなプラスチックの容器に慎重に注いでいた。透明のプラスプーンで粉をカサカサ混ぜている姿に子供の頃の自分を重ねて懐かしんでいると、目が合った。すると小宮さんは無言で仕方なさそうに、混ぜ終わって完成したそれをクッキーに塗りたくってきた。そういう意味ではなかったのだけれど……。口にしてみると、ブドウ味で、ガトーショコラにベリーソースをかけた味に近く、存外悪くなかった。

「そうだ、アプリの初期設定をやっておこう」

 五十里さんの説明に従って名前と電話番号を登録していく。利用規約を確認するよう表示されたが「読まなくても問題ない」と言われたので目は通さずさっとスクロールした。

「これで登録完了。とりあえず全体チャットで挨拶しときな」

 とりあえず『今日からよろしくお願いします』と送信すると知らない人物から次々返信があった。黒田『おう』音川『こちらこそ。会える日を楽しみにしているよ』渡来『よろしく~』困惑していると五十里さんが「俺らの先輩。社会人だからいつもはいないんだ」と教えてくれた。連絡先リストをタップすると他にも何人か名前が載っていた。五十里さんたち以外にも人がいるのを失念していた。もう少し考えて打てばよかった。

 コーヒーがなくなるまで、手に取った菓子の好みや思い出を語り合った。去り際、「もっと持っていけ」と、五十里さんと無言だったが心なしか楽しそうな小宮さんに、上着のポケットに矢継ぎ早に小袋を押し込まれた。パンパンに膨らんだ軽やかな重みを両肩に感じながら、バイクにまたがり地下駐車場を後にする。陽が傾いた紫色の空の下、身に受ける風はまだ冷たいが、未だ浮き立ったままの熱を持っていってくれて、丁度いい。



 玄関のドアを開けると煮込み料理の匂いがした。台所を覗くと、透子が鍋を火にかけていた。シンクの上にはカレールーの箱がある。

「おかえり。もうすぐできるから座ってていいよ」

「ありがとう。そうするよ」

 深めの大皿を食器棚から取り出し、もらってきた大量の菓子の小袋をあけた。

「どうしたの?そんなに」

「“むこう”に行った後は何か食べたほうがいいんだってさ」

「もうちょっと遅くする?」

「ううん。もうお腹空いてきた」

 五十里さんの言う通りだった。座布団に腰を下ろすと全身の力が抜けてまっすぐに座っていられず、後ろ手をつき天井を仰ぐことになった。軽く腹が鳴って、テーブルの上に置いた菓子の山につい手を出したくなる。見ないよう座布団を枕にして横になった。

「そんなに楽しかったんだ」

「いろいろと面白いことをやったよ。あと、いい人ばっかりだった」

 寝転んだまま、さっきよく見ていなかった規約に目を通す。

「似合ってるよ、それ」

「ありがとう。でもこれ仮のやつで、デザインは別に作ってくれてるんだって」

 アプリに通知がきた。金城さんからだ。ナビが自動で起動し目的地を示した。

 ここに魔物が出現したということだろうか。まだ先の話だと言っていたはずだが、なぜ……。目的地は、ここからさほど遠くない。

 起き上がると、疲れはさほど感じなくなっていた。

 今度は、あのときのようにはいかない。

「どうかした?」

「ごめん、ちょっと行ってくる」

「気をつけてね」と心配する透子にうなずいて、部屋を出た。



 その時が幸福かどうかは、失って、現在と比較して初めてわかる。

 それなりに長い人生のなかで、何度かそれを実感しては自分の成長を密かに喜んできたものだけれど。

 あの日、私は自分がいかに幸福な時間を過ごしていたか、痛いほど思い知らされた。そんなこと、わかりたくなかった。できれば知らないまま人生を終えたかった。

 あの日以来、家からは音が消えた。

 私が生活音すら極力出さないようにしているのも、ある。

 他人から恋人になって、恋人から夫になって、そして一人の男性に戻ったあの人にとってそれは、気に障ったか、あるいは格好の口実になったようで、今はもう家にすらいない。ぽろぽろと父親としての役目を放棄していく様に、かける言葉を見つけられない浅い付き合いしかできなかった私には、この現状は必然だった。

 テーブルの上に置かれた紙束。一秒遅れるごとに見つかる確率が低くなるのだと、慣れない文書作成ソフトでどうにか作り上げ、駅前で配らせてもらったそれらの効果は、今のところ、ない。

 ぼんやりと時計を眺める。いつもなら、そろそろ帰ってくるはずなのにと気を揉んでいる時間だった。

 部屋が暗い。春が訪れて長くなっていた日が落ちようとしていた。

 電気を点けないと。そう思っていても、椅子から立ち上がれない。

 静寂と家の外の音を、ただじっと聴く。

 不意にそれらを破る、家の門が開く金属のきしむ音が。心臓が痛いくらいに跳ねた。

 力強く地面の土を擦る音。どきりとするほど不必要に金網製の玄関マットを踏みつける音も聞こえた。こんな音を立てるのはただ一人。

 はじかれるように椅子から立ち上がる。

 玄関の戸を開ける音がした。急ぎ玄関へと向かう。疲労も諦観も覚め飛んでいた。

 いつものように、帰りが遅くなったことを叱責する気になどならなかった。

 開いた戸口から、外の電灯が玄関を照らしている。そして、そのすぐ外に見た。二本の太い棒のような、柱のようなものを。

 予想だにしていなかった来客に、どう応対していいかわからず立ち尽くす。

 物言わぬ二本の物体を凝視していると恐ろしいことに気がついた。テカテカしていてどことなく安っぽい黒色で、白いラインが縦に入っているそれには見覚えがあった。行方不明になった日に着ていたジャージ。視線を更に下へ下げると、それは靴を履いていた。見覚えのある、必要だと言われたので仕方なく自分が買ってきたあの運動靴を。

 体が震えている。戸口から見えるそれはつまり足であり、その上には収まりきらず見えていない上半身があるということで――五本の指が鴨居から現れて、掴んだ。身をかがめようとしているのか、両足がゆっくりと曲がって……。

 指のそばから、刈り込まれた髪がおそるおそる覗く。見間違えるはずがない。床屋に行くのを恥ずかしがるのでしょうがなく私がバリカンでやるいつもの髪型。逆さになった息子とやがて目が合い――なのに、現実を認められず、拒絶の叫び声を上げてしまった。



 ハンドルに取り付けたスマホのナビが示していたのは、古い住宅地だった。家ばかりで道路は入り組んでいて死角が多く、ドライブには適さないのでこの辺りにはほとんど来たことがない。急ぎすぎて魔物と戦う前に事故を起こしていては本末転倒なので、はやる気持ちを抑えながら、法定速度や一時停止を守りつつ走る。

 近くなってきたなと思った辺りで、どこからか強い悲しみの想いが溢れるのを感じた。それと、悲鳴が確かに。誰かが襲われたのか。進路を変更してそこへと向かう。

 薄汚れた赤い瓦の家の前でバイクを停めた。玄関の戸が開いている。悲鳴を聞きつけたのか近隣住民と思しき人たちがすでに何人かいて、目を見開きうわごとを呟いている中年の女性を介抱していた。

「あの子が……帰ってきたのに……」

 悲しみと、それ以上の後悔が占めている声だった。

 魔物の視線は感じなかった。周辺を見回すと“霧”がまるで足跡のように一直線に離れていく。バイクにまたがり直してその後を追う。

 少し離れた場所、小さな公園と小さな神社が並ぶそこで“霧”は特に濃くなっていた。バイクを停め、神社の裏手へ回って、人がいないのを確認すると“霧”へ手をかざした。

“霧”を抜けると、魔物はすぐ目の前を歩いていた。

 周囲の家々と同じくらいの背の高さの灰色の巨人だった。顔はない。粘土で人を象ったような簡素な姿かたちだ。電柱のような灰色だと思って見ていると、コンクリートでできているのだと気づく。アスファルトを踏みゆく固い音がそれを裏付けている。

 巨人の体は所々ひび割れを起こしていた。関節部が特にひどく、コンクリートの皮膚が割れ落ちていてその下にある何かが露出している。『中身』と判断していいであろうその何かは暗い色で、気体と粘液の中間のような茫洋とした質感をしている。あれが筋肉の役割を果たし、直立歩行を可能にしているようだ。

 魔物から少し離れた家屋の屋根に金城さんがいた。遠くから駆動音も。聞こえてくる位置の高さと、断続的な途切れ方から察するに、屋根の上を疾走してきている。

 同じ屋根の上に跳ぶと、ほぼ同時に肩に小宮さん乗せた五十里さんも着地した。全員が驚いた様子でこちらを見てくる。

「三上、どうして……」「ごめん、私が一斉送信しちゃったからだ」

「すみません、来なかったほうがよかったですか?」

「そういうわけじゃ……いや、そうだな。あれは、おそらく元人間の魔物だ」

 巨人が歩みを止めた。うなだれているのか、頭部が下へと傾く。何の想いも発さない。顔のないあの魔物が元人間なのだとしたら、一体今は何を見ていて、何を思っているのだろうか。

「前に店長が言っていた。人の手で魔物にされた場合、完全に魔物化するまではどっちの世界からも見えなくなるって」

「元に戻す方法はないんですか?」

「無い……ってさ。今のところ、倒して封印するしかないみたいだ」

 巨人に変化があった。両手で顔を覆い隠し、境遇を嘆くように背を丸めた。ごり……ごり……と音を立てて、強すぎる力で押し合う顔と手が削れていく。自傷行為はすぐに止まった。そして、己のすべてを解き放つかのように、両腕を大きく広げ、天を仰いだ。

 声はない。無言の咆哮だ。伝わってくる想いは、無情なる世界への嘆き。

 巨人が来た道を引き返しだした。誰かを求めている。それが誰なのかは、容易に察しがついた。

「まずいな。人を襲いかねない」

「どうする?」と訊く金城さんに、五十里さんはすぐに答えなかった。その表情は険しい。だが心の乱れは見て取れない。動揺や懊悩を飲み込み、力に変えることができる者特有の力強い目をしている。

「局の人を待っていたら被害が出るかもしれない。俺たちでやるぞ」

 気が進まないがやむを得ないといった様子で金城さんと小宮さんが武器を構える。それでも所作に迷いが見えないのは積み上げてきた経験によるものか。

「三上、お前は……」

「僕も戦います」

「……そうか、わかった。ただし、攻撃を受けて防具に何か異常を感じたらすぐ離れろ」

 信頼からではなく、動き出した魔物への対応を優先したからの判断なのは明らかだった。しかしそれで十分だ。信頼はこれから得ていけばいいのだから。

 三人が消していた頭装備をかぶった。戦闘態勢。それに倣って頭部を手でなぞる。

「俺が引きつける。三上はヤツの後ろにいるようにして、いけそうだったら斬ってみろ」

 そう言って金城さんと小宮さんに目配せした。慣れていない自分に合わせるよう示し合わせてくれている。申し訳ないと思う一方で、この程度で及び腰になっていてはこの先が思いやられるとも思う。

(役に立たないと)

 両手で鎌の長い柄を強く握る。両脚で地面を踏みしめ、いつでも、どの方向へでも跳べるよう構える。

 五十里さんのギアが唸りを上げ、魔物へと一直線に走る。まだ魔物は五十里さんを敵と認識しておらず、音にただ振り向いただけで――その頭部で爆発が起こった。側面の家屋の屋根の上に移動していた金城さんがいつの間にか大砲を構えていた。

 どこか作り物めいた爆発の煙が薄れると、頭部に多少の衝撃を受けてよろけただけの魔物の姿が確認できた。直撃した箇所には爆発の痕が。傷やヒビまでには至っていない。

 瞳の無い顔で金城さんを睨む隙をついて、五十里さんは揺らいでいる膝に正拳突きを打ち込んだ。コンクリートのかけらが少量飛び散り魔物が膝をつき、動きが止まる。

 今が攻撃のチャンスか。鎌を手にした状態では練習していなかったので一つの動作ごとにワンテンポずつまごつきながら、魔物の背後に跳んで回り込む。魔物は五十里さんと睨み合っていたので気づかれることはなかった。

 狙うのは関節部だ。ひび割れがひどく中身が露出している。固い皮膚に鎌の刃は通りそうにない。だが弾力性を感じるあそこならば、おそらくは。切断できれば戦いに大きく貢献できるし、できなくても最低限どのような攻撃が効果的か掴む糸口くらいにはなる。

 鎌を振りかぶり、魔物の膝に狙いを定める。構えるタイミングも振るタイミングもわからないので何もかもその場の思いつきで。

 地面を蹴って大きくジャンプ。着地と同時に叩き割るように振り下ろそう。ちゃんと当たるといいけど。

(……帰りたがっている?)

 中身に焦点を合わせていたことで魔物の想いを感じ取れた。

 想いを遂げようとするのを何故邪魔するのか。それは、前回遭遇した魔物と同じ方向性だった。しかし、その質は真逆といっていい。あれはとても理解を示す気になどなれない怒りや憤慨だったが、彼は悲しみや絶望を根底に抱えている。

 ニュースに出ていた彼の顔写真が思い出された。

 気づけば、鎌を振り下ろすことなく、地面に足がついていた。

「三上!来るぞ!」

 眼前の彼が、ふたりまとめて薙ぎ払おうと上半身をひねりながら両の腕を横に振るった。避けることなどできない。足がうまく動かせなかった。死を予感させる巨大な質量と速度。だが痛みはなく、ぽかんとしているあいだに自分はただ宙を浮き、漆黒のブロック塀にぶつかって崩し、土の上を何度か転がって、真っ白な地面に倒れていた。

 すぐに両手をついて起き上がる。鎌を取り落とした。どこに、と探すも先に見つかったのはこちらに追撃しようと走ってくる彼の姿だった。

 危機を感じて近くの屋根の上に跳ぼうとしたが、魔物のほうが速い。また当たる。

 鋭い駆動音が響いた。五十里さんが彼の真横まで距離を詰め、追い越し、あいだに割って入ろうとしている。情けないが、助かった――いや、駄目だ。

 フェイクだった。彼は五十里さんの動きを読んでいた。五十里さんからは見えていない反対側の腕を振り上げ、上から叩き潰そうとしている。

 声を上げようとした。が、五十里さんは視線だけで気づいてくれた。両腕を縦にがっちりと合わせて盾にした。

 受けるつもりだと思ったが、五十里さんの動きはその予測を上回った。からかうようにふかしてバックし、攻撃を誘ってかわした。五十里さんのギアが唸りをあげる。あげ続ける。そして、ひときわ大きな駆動音と共に高速の正拳突きが、攻撃を外して体勢を崩した彼の胴体に打ち込まれた。

 巨体が一瞬宙に浮いて、仰向けに地面に倒れた。コンクリートの皮膚は砕けてはいないが、陥没しひび割れていた。痛むのか、指の無い両手でそこをごりごりと押さえている。

 何本もの鎖が倒れている彼に覆いかぶさるように襲い掛かり、巻きついていった。暴力的に鳴る鎖の不協和音が止むと、彼は地面に磔にされていた。

 身をよじりガヂャガヂャと鎖を鳴らす彼の上に五十里さんが乗った。鎖が数本切れた。阻止するかのように五十里さんは拳を彼の顔面に振り下ろした。

 一撃ごとに彼の身が震え、動きが止まる。回を重ねるごとに再開される抵抗と、彼が放つ想いは弱まっていった。

 何度目かの打撃で彼の顔が完全に砕けた。五十里さんは何も言わずに彼から下りた。

 屋根の上に立つ金城さんが彼を見下ろしながら大砲を構える。

 轟音がとどろき、鉛色の砲弾が彼の頭部を潰し、破壊し、爆発によって粉々にした。彼の体から立ち上がる力が失われ、この世界の一部となったかのように沈黙する。拘束していた鎖が解かれていく。金城さんの手にする大砲が光になって形を変えライフルに戻った。

 五十里さんが甲冑の下から箱を取り出した。

「……封印するんですか?」

 責める声色にならないよう細心の注意を払いながら訊いた。

「このままにしておくと、こいつの魂がここに浸み込んでしまうからな」

「そんなに悪いものだったとは思えませんでしたが……」

 五十里さんはかぶりを振った。

「どんなに良い想いであっても、必ずしも好い形で表れるとは限らないんだ。幸運か不運かは選べない。ただ想いに反応するだけだ。生きている人間のことなんて考えずに」

 動かなくなった彼に箱をかざした。全身が白に近い灰色の光に包まれ、やがて光の塊になったそれは光の筋の奔流となって箱へ吸い込まれていく。

 それでも、せめて想いが届いたら。彼が帰ろうとしていた先、彼の家へと、願わずにはいられなかった。

 それは他の皆も同じだった。



 入院を固辞して帰宅した。一秒でも遅れたら今度こそ間に合わない。そんな気がした。

 玄関先にはもう誰も立っていない。親切に閉めてくれた近所の人には悪いが、余計なお世話だったと急ぎカギを開ける。

 家に入ると、ここ数日私が作り上げてきた沈黙があるだけだった。……靴はなかった。

 一体何を期待していたのか。動悸と共に希望が少しずつ静まっていく。

 リビングの椅子に崩れ落ちるように腰を下ろす。何も変わっていない。騒ぎで途切れていた、認めがたいが最早受け入れざるを得ない日常を、惰性と諦観から再開させた。

 あれは何だったのか。医者は疲労とストレスによるものだと言っていたが、それにしてははっきりとした実感があった。それとも、幻覚とはそういうものなのだろうか。

 全身がだるい。椅子から立ち上がれそうにない。もう今日はいい。目を閉じて、疲労感に身をゆだねた。眠りはすぐに訪れ、意識が薄れていく。

 目の前に誰かが立っている。

 今起きなければいけない気がして、意識を繋いだ。眠りを中断させられた苛立ちはない。この部屋のなかのすべてが肌で感じ取れそうなくらいに穏やかだった。

 体が動かない。これが金縛りというものか。

「遅く……なって……ごめん」

 そういえば、何の影響か、中学校に上がってからは憎まれ口しかきかなかったな。

「いいの、そんなこと」

 揺れる想いが伝わってくる。返事が返ってくると思っていなかったのか、それとも自分が怒るとでも思っていたのか。そんなつもりは一度としてなかったのだけれど……。もっと言い方に気を配っていればよかったと今更になって悔やむ。

「ただ……いま」

 ずっと言いたかったことをようやく言えた。そんな涙ぐんだ声だった。

「おかえりなさい」

 気配が消えた。体が動くようになる。

 そこには誰もいない。

 だけど夢ではない。夢なら、覚めているはずだから。

「偉いね。帰ってきて……」

 いなくなっても、ちゃんと帰ってこられた。

 最後に面と向かって褒めたのはいつだったか。思い返せば、優しくない母親だった。小さかったの頃のように頭でも撫でてあげようかと思って、しかしそれはもう叶わないのだとやっと認めることができて、涙が止まらなくなった。

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