ソウル・リーパー

山内真弓

一、起点

 自動ドアをくぐり外へ出ると、夕日が街を染め上げていた。

 日曜日の夕方。地方都市美影市の駅前通りは和やかな喧騒に包まれていた。渋滞で速度を出せずにゆるゆると進んでいく、自動車の隊列。茜色に眩しく輝くガラス張りの高層ビルたち。足早に通り過ぎる、それぞれの日常へと歩いてゆく人々。

 西日のまぶしさに目を細めながらそれらを眺め、暖かなもので胸を満たして、バイクを停めた駅のすぐ近くの駐輪場へと歩き出した。

 きれいに舗装された白いアスファルトの歩道は広々としていて、何人かの人が前方から横並びになってやってきても余裕を持ってすれ違える。緑化都市を掲げているこの街は、ケヤキ並木等様々な街路樹が通りのどこまでも続いていて、目に刺さる夕日の光を慎ましやかなものにしてくれている。

 駅が近づいてくると、ペデストリアンデッキに上がる階段が見えてきた。あの先では駅前のそこらかしこに根のように伸びていて、駅とその周辺の各商業ビルの二階部分を繋いでいる。ここを通れば、階段を上り下りする必要はあるが、歩行者信号に足を止められずに駐輪場まで行ける。駅のすぐそばの道路は人も車も交通量が多く、混雑しているので、できれば下はあまり通りたくはなかった。

 レンガ調の階段を上がると、目の前に美影駅が現れる。上は視界が高くなるので、建ち並ぶ高層建築物に隠れていた茜色と群青色の空が少しだけよく見えるようになる。

 新幹線と複数の在来線が走る御影駅は、とても大きい。何本もの線路を挟む東西の出入り口それぞれに、周辺の商業ビルに負けない規模の駅ビルがあるのだが、駅自体にもいくつものテナントが入っており、人の賑わいは絶えない。

 強めの風が吹いた。軽く火照ってきた身体の熱が持っていかれて心地よいが、春先もだいぶ過ぎたというのに、未だ身体の芯を凍えさせる冬の寒さも残している。これからこの風を切って走るのか。朝の暖かい太陽の光に惑わされずにもう少し厚手の上着にしておくべきだった。季節の変わり目の服選びは難しい。

 階段を下りて、ペデストリアンデッキの下を歩く。ここまで来ればいつもの駐輪場はすぐそこ。美影市に進学し引っ越してきてから、駅前に来る時は大抵ここに停める。何度も繰り返してきた歩みを、今日もまたなぞる。

 それは、目の前を歩く家族連れもきっと同じなのだろう。

 夫婦の間で一人の男の子が、左右の手をそれぞれ両親と繋ぎながら、あふれそうな元気を周囲に分け与えつつスキップしている。かわるがわる母と父に何事かせがむと、ふたりは仕方なさそうに、しかし頬のゆるみは抑えきれずに、男の子を引っ張って持ち上げ、大地を離れて空を駆ける解放感を教えていた。

 二回三回と高層ビルを跳び超えて都会の空を飛んだ男の子は、興奮冷めやらぬままに両親の手を離し駆け出していく。照れか分別か、急なアドリブは他の通行人の迷惑にはならず、両親を心配させない程度に短く終わったが。

 男の子が両親と、その背後にいるこちらへ振り返った。小さな体で、まだ形になっていないスキップをしながら、マンホールを足元に見つけると、嬉しそうに、踏み抜いてやると言わんばかりにジャンプした。

 おいおい、と父親が笑った。母親も危惧する素振りを見せてはいるが何も言わない。

 どこにでもありそうな日常の一コマ。異変は、そこに紛れるようにするりと、何食わぬ顔で襲い掛かってきた。

 聞こえてきたのは厚い金属のふたを踏みつける鈍い音ではなく、それが割れる高い音。男の子の履く運動靴がひどくゆっくりとマンホールの下に消える、のを見た。

 思考は無く、ただ反射だけでアスファルトの地面を蹴り、ダイビングタッチのような体勢で両腕を伸ばした。

 手指が男の子の両脇を掴んだ。男の子は、胸から下が地面に吸い込まれたみたいな状態で止まった。信じられないといった表情で、口を開けっぱなしにして僕を見返している。まったくもって同感だった。

 腹這いになった身を起こしながら慎重に男の子を持ち上げようとすると「す、すみません!ありがとうございます!」と父親が慌てながら反対側にまわって、一緒に持ち上げた。

 見た限りケガはなさそうだった。二人でそっと歩道に下ろすと、母親が血相を変えて「大丈夫⁉」と手で触れて、痛むところはないか確かめた。「うん……」と生返事をする男の子の背に手を回し「どうもありがとうございます。ほら、お兄ちゃんにお礼を言いなさい」と促させて、母親と一緒に頭を下げた。

「あ、いえ……」としか答えられなかった。起こったことも自分がとっさにとった行動も、あまりにも突然すぎた。本当にこんなことが?とまだどこかで現実を疑う自分がいる。

 ふたのないマンホールはまるで日常に潜む罠のようだった。近づいて覗いてみると、暗くて底は見えなかった。下水道だったのか排泄物の臭いが漂ってきた。コの字型のタラップが設置されていたが、不運にも男の子が向いていた方向とは逆の位置にあり、男の子の体格も考えると落下を食い止めるには役に立たなかっただろう。下水道ならば酸欠の危険もあるため、想像したくはないが、降りて行って助けるのは不可能なので見殺しにすることになっていたかもしれない。

 夫婦の間に人ひとり分のスペースがあったのが不幸中の幸いだった。あれがなければそもそも男の子の落下に気づきもしなかった。

 こちらにスマホのカメラを向けていた野次馬のひとりと目が合った。撮られたくなかったので目を合わせたままにしているとわかりやすく挙動不審になって、はじめからマンホールを撮るつもりでしたといわんばかりに下へ向けてシャッター音を何度も鳴らしだす。

 こんな人ばっかりだったら嫌だな、と思っていたが、行き交う人々は、日常に突如現れた異変に一時目を奪われることはあっても、足を止める者は極稀だった。

 前後から絶えずやってくる通行人が落ちないように、一家と協力してフェンス代わりをすることになった。通報は、すでに目撃者の何人かが電話をかけていたので必要はない。

 話が決まり、では、と穴の周りに立つと、男の子がきらきらした目をこちらへ向けているのに気がつく。それは、おもちゃ売り場でPVを流すモニターや、映画館などで見かけてきた特有の輝きで、まさかそれがこうして直に自分に向けられることがあるとは思ってもいなかったので、ちょっと動揺した。

「同じ人が出ないように、僕たちでしっかり守ろう」

 変に意識した結果やや演技じみたそれらしい言い方になってしまった。あまりのわざとらしさに恥ずかしくなってきたが、やはりというか効果はてきめんで男の子は「うん!」と元気よくうなずいて、危険に近づきすぎる人はいないか、使命感に満ちた表情で首を左右に動かして監視してくれるようになった。

 羞恥に熱くなった頬を冷たい風が撫でていくようになった頃、作業員の乗った白いワゴン車が到着した。忙しそうに小走りでバリケードフェンスを持ってきて設置していく男性の一人に「どうかしたんですか?」と訊くと「今日は急な仕事が何件も入ってきてね」と言ってまた小走りにワゴン車へと何かを取りに戻って行った。

 使命を終え、何度も頭を下げてくる夫婦と「ありがとう!」と手を振ってくる男の子に、手を振り会釈を返して別れると、背後から男の子の「かっこよかった!」と母親の「そうだね、ヒーローみたいだったね」という声が聴こえてきて、顔が真っ赤になった。

 変なことを言ったな、と足早に立ち去る。見上げれば、日が落ちていて空は薄暗い。スマートフォンで時間を確認して帰宅が遅くなったのに気づいて、歩きながら電話をかける。

「遅くなってごめん、今から帰るよ」

『それなら私が作るよ』

「え?いいって、帰ったら僕がやるから」

『そこから私が作るのを止められるかな?』

「いや……ええ……?」

『冗談だって。作ってるのは本当だけど。安全運転で帰ってきてね』

「うん、まあ……それじゃあ悪いけど」

 通話を切る。ままあることだが、強引に押し切られてしまった。安全運転でなるべく早く帰って、手伝うようにしよう。

 駅のすぐそばの駐輪場に着くと、停めていたバイクにまたがって、ズボンのポケットから出したキーを差して回しエンジンを掛ける。

 ヘルメットをかぶってバイクを道路まで押していると、さっきの男の子の歓声が聴こえてきた。そういえばもともと同じ方向へと歩いていたのだから、こうなるのは必然だった。

 開いていたシールドの隙間から笑顔を作って、手を振った。まるで憧れのヒーローに出会ったかのように男の子は顔を輝かせて大きく手を振り返してきた。

 夫婦が深々と頭を下げた。バイクから降りたほうがいいかな、と迷ったが、ここから更に会釈合戦になったら恥ずかしさに耐えきれなくなりそうだったので、またがったまま軽く頭を下げるだけにとどめておいた。シールドを閉じ、スロットルを絞りゆっくりとバイクを発進させる。

 バックミラーをちらと見ると、男の子はまだ手を振っていた。

 何かそれらしいハンドサインでもしてみせたら喜ぶかなと思ったが、さすがにやめておいた。いくらなんでも、今時去り際にそんなことをするのはちょっと、どうなんだろう。……という気がする。……やめておいて正解だったよな?

 くだらないことを考えているうちにその姿はバックミラーに映らなくなって、異変は終わった。乗り慣れた車体の感覚と、通り慣れた街の風景が、さっきまで確かにあった非日常の現実味を薄れさせていく。



 キッチンは暖かく、フライパンの中の炒め物から醤油とバターの香りがした。

「ただいま」

「おかえり。このくらい気にしないで」

 無意識に謝罪のニュアンスを込めてしまっていたのか、やんわりとした口調で透子がフライパンから顔を上げて微笑んだ。自然と肩の力が抜けて、帰ってきたと実感する。

「それ、どうしたの?」

 透子に腹のあたりを指差された。言われて着ている物を見てみると、目立つほどではないがこすれた跡がいたるところについていた。ダイビングキャッチのときか。あの場では色々と余裕がなかったので気がつかなかったのだろう。

「子供がマンホールに落ちそうになったんだ」

 脱いであらためてみると、指摘されたこともあってか外出着としては不適切に思えてきた。残念だが、汚れても構わないときに着る服にするしかなさそうだ。

「それじゃあ、その子を助けて?」

「うん……とっさにキャッチして。自分でもびっくりしてるよ」

 クローゼットを開けて、他の衣服に触れない端のほうにかけた。大事に着られなかった罪悪感からスライド式のドアを閉めるのを少しだけためらう。

「どんなふうに?野球のあれみたいな感じ?」

「そうそう。あんな感じ」

 口にしてみると突拍子もない話だ。しかし透子の反応はやはりいつもどおりだった。

「すごいすごい!」と微塵も疑わず、まるで応援しているスポーツ選手の活躍を喜ぶかのように声を弾ませている。

「なんだか言ってて嘘っぽいけど」

「え?どうして?だって俊、本当のこと言ってるよ」

 事もなげにそう言って、フライパンのほうに向き直った。

 真木透子という女性は、初めて出会ったときからずっと、こういう人だった。僕の心の機微を常に正確に読み取る。単に僕自身がわかりやすい人間だからというだけでないことは過去の友人や同級生たちが証明してきている。彼らや彼女らに透子と同様のものを感じたことは一度もなかった。そして透子がこうした度を超えた察しの良さを見せるのは、僕とふたりきりでいる時だけだった。

 何故僕にだけ、と未だに思うことはある。自分はそれに対して釣り合いのとれたものを十分に返せているのか、とも。けれど、それも思春期の頃と比べれば、今では最早あってないような程度のうずきでしかなくなっている。これを絆と呼んでいいのか妥協と呼んでいいのかはわからない。わからないので、せめてそれに値する人間に近づけるよう、日々心掛けることを忘れないようにはしている。

 嬉しそうに木べらで炒め物を混ぜている透子の横顔があの一家と重なって、頬が赤くなってくる。目を逸らしながら、ラップにくるんで冷凍していた白米をレンジで温めて、インスタントの味噌汁を用意し、浅漬けのパックを開けて小鉢に盛り付けた。

 二人用のローテーブルを拭いてそれらを並べていると、透子が湯気の立つ大皿を持ってきて真ん中に置いた。鮭のちゃんちゃん焼きだ。ふっくら焼けた切り身の鮭と、キャベツとにんじんと玉ねぎとしめじを醤油とバターで炒めている。

 向かい合って座った透子と「いただきます」を言って箸を手にする。

「どう?」と訊かれた。いつもどおり、そうとしか言い様がなかったので「おいしい」と答えた。火の通り加減、味付けのバランスが絶妙で、自分が同じ物を作ってもこうはならない。

「それで、その子は大丈夫だったの?」

「ケガはなさそうだったよ」

「よかった。……落ちたってことは、ふたがなくなってたとか?」

「いや、それが……その子がジャンプして乗ったらふたが割れちゃったんだよ」

「そんなことってあるんだ……」

「直しに来た人が言っていたけど、今日似たようなことが他にもあったんだって。忙しそうにしてた。それで来るのにも時間がかかったみたい」

「そうだったんだ……たまたま重なっただけなんだと思うけど、なんだか怖いね」

「そうだね」とテレビのリモコンを手に取った。もしかしたら地方局のニュースで取り上げているかもしれない。

 予想は当たった。御影駅前でリポーターの女性とマンホールが交互に映され、もしかしたら危険があるかもしれないのでなるべくマンホールの上を歩くのはさけたほうがいいでしょう、と注意喚起をしていた。その後はスタジオで同様の事故がどこで起きたのかを地図上に示すと、どこかの建物の前に映像が切り替わり、和田聖という名の議員が『市民の安全な生活を守るため、調査して参ります』とやや高圧的にコメントすると、すぐにまたスタジオへと戻り、アナウンサーが次のニュースを読み上げ始めた。

「原因はまだよくわかってないみたいだね」

 相づちを打とうとしたが、『男子中学生 山で行方不明』のテロップに口をつぐんだ。

『下村さんは今日の昼過ぎ、家族で山に来ていたところ行方がわからなくなり……』

 上空から撮影した森林と捜索隊、集合写真から切り抜いたと思われる顔写真、インタビューに涙ぐんだ声で答える首から上は映されていない中年の女性。

 しばらく無言で透子と画面をじっと見つめる。アナウンサーが『さて、今日紹介するのは……』と先程までとは打って変わった明るい口調で市内に新しくできた店を紹介するコーナーに移り、あまりにもひどい温度差を感じて食卓に視線を戻した。

「なんだか嫌なことが続くね……」

「早く見つかるといいな」

「ね」と透子が返す。捜索は明日の早朝から行われる旨が読み上げられた。

 冷めてしまっていた残りを口に運んで食器を空にして、シンクに下げる。自分の食器を運んできた透子に「僕が洗うよ」とスポンジを手にすると、「じゃあお茶淹れてるね」とさっとシンクに割り込んで電気ケトルに水を入れていって沸かし、コンロ下の戸棚から茶缶を取り出した。

 軽く水で流しただけで目に見える汚れはほとんどなくなった食器を泡立てたスポンジでこする隣で、透子が急須に茶葉とお湯を注いでいる。ふちに彫刻が入ったお気に入りの木の盆に急須と湯呑みを乗せるとリビングへと歩いていった。肩まで伸ばしたまっすぐな髪と細いシルエットを目で追い、それが視界から消えると首も横へ向けて追いかける。

 透子が振り向いてにっこりと微笑んだ。止まっていた手を動かして、速やかかつ正確に終わらせた。

 リビングに戻り食事の時と同じ位置に座る。テーブルには僕用の藍色の布のコースターと透子用の朱色の布製のコースターが置いてあって、透子が急須から湯呑みに交互に緑茶を注ぎ終えると、その上に湯呑みが置かれた。

 熱い緑茶を慎重に少しずつすすって量を減らしていく。

「今週のジムは明日行っちゃわない?俊も講義ないし。終わったら駅前に行って新しいの買ってこようよ。足元には気をつけながら」

「いるかな?」

 足元が気がかりではあるが、かといってそれを理由に行き先の候補から外すのも大袈裟に思う。何より美影市の駅前は品揃えがとても良い。高校生の頃は、実家のある隣県から電車に乗って友人たちと服を買いに来ていたくらいだ。

「まだいると思うな。今の時期ならセールやってるはずだし、いいのが安く買えるかも」

「うん、そうだね。いろいろ見てみようか」

 話はまとまったといわんばかりに透子は湯呑みを傾けて飲み干し、盆に置くとすっくと立ち上がった。

「じゃあ、また明日」「明日はよろしく」「まかせて」

 湯呑み片手に玄関まで連れ立って歩く。透子が開けたドアを背中で押さえながら、隣の部屋に入っていくのを見送る。

「おやすみ」「おやすみ」

 ドアが静かに閉まった。ぬるくなった残りの緑茶を一息に飲み干して、同じくらい静かに、そっとドアを閉めた。



 シャワーで軽く汗を流した後、着替えてロビーのソファに座って透子を待つ。

 体育館に併設された、外装も内装も色褪せている公営のこのジム。平日の午前中だけあって利用者はほとんどいない。それを見越して人員が削減されているのか、受付には誰もいない。過去に呼び出しベルを鳴らしても奥の事務室からは何の反応もなかったので、こっそり覗いてみたところ無人だったということがあった。時折、疲れているのか心ここに在らずといった様子の施設内で働く人を見かけて色々と大丈夫なのかと心配になるが、料金が余所と比べて安く、真新しさに欠けているとはいえトレーニングマシンが一通り揃っていて環境は十分なので、美影市に引っ越してきてからはずっとここに通い続けている。

「お待たせ」

 さほど待つことなく、スポーツウェアから簡素な普段着に着替えて透子がやってくる。時間がかからないのは毎回のことなので、すぐに立てるよう待つ間は何もせずぼうっとするのが習慣になっていた。

「行こうか」

 ソファから立ち上がって、並んで外に出ると、満開になった桜が出迎えてくれた。来た時にすでに一度見ていても、逆順から見れば新鮮だし、やはりきれいだと思う。駐車場はちょっとした桜並木に囲まれている。ここの桜を見るのは今年で三年目になる。通い慣れた場所なので、美影市の桜といったら真っ先にここが頭に思い浮かぶ。

 大学生活も折り返しだ。来年もここの桜を見ているだろうが、その次の年はどこの桜を見ているのだろうか。

 見上げながら歩いていると、透子が笑いかけてくる。

「どうしたの?しんみりしちゃって」

「しんみりしてるってわかるなら、理由もわかるんじゃないかな」

「そこまではわからないよ。私のことを超能力者だと思ってない?なんとなく想像するしかできないって……すぐダメにしちゃってあの上着に悪いことしたなあとか、大学生活もあと半分だなあとか、やりたいことが決まらないなあとか」

 ひとつめもふたつめも正解。みっつめに至っては言われてからそういえばそんなことも考えた時があったなと思い出す始末。

「やりたいことか……。こっちに来ても特に何もないままだったな」

「すぐに見つかるよ」

「そっか。楽しみだな」

 駐車場に停めていたバイクからヘルメットを外してかぶる。もうひとつの半帽を透子が手にする様子がないので外して手渡そうとすると、うつむいて笑いをこらえていた。

「……何か?」「何でも」

 頭突きで背中を押されて早くバイクにまたがるようにと促されたので、半帽は頭の上に置いて先に乗った。すぐに後ろに人ひとり分の重みが加わって、腰に細い腕が優しく回される。エンジンを掛けて、バイクを発進させた。

 何が言いたいのかはもちろんわかる。しかし今まで、透子は根拠のない無責任な励ましをしたことは決してなかったし、先のことについて断言した時それは必ず実現してきた。だから即座に信じて、叶う前提で話を進めたとしても問題はない……はずだ。

 見つかるのだとすれば、果たしてそれはどんなことなのだろうか。

 半ばやけになって未来に思いを馳せていると、後の透子がまた可笑しそうにうつむいてヘルメット同士がコツ、と音を立てた。



 昨日と同じ駐輪場にバイクを停めて、近場から見ていこうと、まずは駅ビルのテナントから見て回ることになった。

「うーん」

 試着を重ねるごとに疲労で感情が無へと近づいていく。ジムにいたより長い時間をかけているが成果はかんばしくなかった。納得がいかないといった様子の透子をどう説得して切り上げようかと考え出すようになったあたり、確実に自分は飽きている。

「ここには良いのがなかったね。隣に行こうか」

「……もうこれでいいんじゃないかな?」

「だめ。よくない。ほら、脱いで戻して」

 こちらが試着に飽きているのは透子にも伝わっているはずだ。

 だが、だからといって何でも受け入れてくれるわけでもない。森林浴のような澄んだ空気の日々に慣れすぎて、そんな当たり前のことを忘れかけてきた頃に、透子はこうして揺るぎない強情さを発揮して思い出させてくれる。

「あ、ごめん。買いたい物があるから先に行っててくれる?」

「わかった」おそらく下着だろう。テナントを渡り歩いていた際、売り場に目を向けていたからきっとそうだ。いつもの笑顔にかすかな凄味を滲ませて、こちらの脇腹を手刀で何度も突いてきているから間違いない。

 退散して二階の出口から外、ペデストリアンデッキに出た。駅前一帯はこの歩道橋が張り巡らされているので、ここだけビルがなく、少しだけ空が開けている。解放感と、平日の日中だからか人通りがほとんどなく人目が気にならないので、少しだけ伸びをした。

 異変は、またしても何食わぬ顔で日常に紛れ込んできた。

 ふと視界の端に、白い煙のようなものが見えたのに気がつく。

 ベンチも兼ねた植え込みのあたりだ。人ひとり分あるかないかの小さな白い煙が、景色の一部分を白く消していた。周囲にこれといった白いものがないので、そこだけノイズとなって妙に目立つ。

 車の排ガス……ここは二階に相当する高さだから届くはずはない。誰かがお湯を流した……どう見ても水道はない。自然発生した霧か靄……こんな時間にこんな場所で?山のほうならまだわかるが、都心部の日中でも起こり得るものなのだろうか。

 珍しい現象ならカメラで撮っておこうかな、と思ったが、やめておいた。冷静になってあとで見返しても「だからどうした」としかならなさそうな、たいしてインパクトのない光景だったからだ。

 だから、せめて去り際に一度よく見ておくかとじっと見つめてみると──。

(なんだ?)

 白い煙に目の焦点を合わせていると、その先にありえないものが見えた。

 漆黒。ただ黒いだけの何かが、奥にある。

 光の加減でできた影か?いや違う。黒色の範囲が広すぎるし、黒色が濃すぎる。建物や看板、道路等何か他にも見える物があってもいいはずなのに、まるで塗り潰したかのように黒一色しか見えない。

 もっと、よく。

 ひとりでに足が動く。近づいていくごとに、すでに大きく見開いている両の瞳の縁が更に外へ外へと、世界を掴まんと手を伸ばすかのように広がっていく、不思議な感覚が。

 頭も冴えていく。雑然とした思考が払い落とされ、より明瞭なものへ。バイクに乗ってきれいな景色を目にしたときの感動と似ている。

 目の前まで来ていた白い煙へ、自然と右手をかざす。その先にある何かへ触れようと。

 掴んだ、と確信を得た。瞳と頭と右手で。捉えたそれを、ただ自分の方へと引き寄せる。

 白い煙がこちらへ漂ってきて、霧となって辺りを包み隠した。

 ゆっくりと、もう何歩か進む。背後の世界を振り切り、捨て去るかのように。

 霧が晴れた。そして、追い求めた先にあったものを露わにする。

 ──世界は、色彩を失っていた。

 周囲の建物や地面は黒一色に塗り潰されていた。距離感や、わずかな濃淡の違いで輪郭を捉えることはできるが、それでもどこに何があるのか把握しづらい。

 反対に、植え込みの低木、ペデストリアンデッキの手すりに飾られた花々、街路樹は白一色だった。

 まばらに行き交っていた人々は、今やどこにもいない。何度も左右に首を動かして確かめてみても、人の姿は一向に現れない。

 車のエンジン音。駅前の巨大スクリーン。信号機の音楽。カラスや鳩の鳴き声。人々のざわめき、靴が地面を踏み鳴らす音。ついさっきまで聞こえていた音は一切が途絶えて、世界は無音になっていた。

 ……水墨画を現実で再現したら、こうなるのかもしれない。

 空は灰色一色。雲がかかっているのかと思ったが、遠くなるほど白に近い薄い色になっているので、おそらくこれは空の色だ。その下に乱立する漆黒の高層ビル群は、まるで神々のための巨大な墓石のよう。

 形は同じだが、姿はまったく別の世界に、呆然と立ち尽くす。

 頭上を仰ぎ見る。何かがあると期待していなかったので、そこにあった異物、色彩を目にして心臓がとびあがった。

(あれは雲なのか?)

 駅から少し北西の空に小さな雲みたいなものがあった。塗料で染められたみたいに紺一色をしている。色彩に乏しいこの世界において、その暗い青色はまるで、周囲から孤立して浮いているようにも、他にはない色を傲然と見せつけているかのようにも見える。

 雲と断言するのをためらう点は色以外にもうひとつあった。形だ。渦を巻いていて、中心にいくほど色が濃くなっていっている。

 落ち着きを取り戻しかけていた鼓動が、再び耳に聴こえてきた。さっきとは逆に、静かだった状態から少しずつ少しずつ脈打ちが強くなっていく。あの雲を見ていると、なぜか理由もないのに、品性下劣な輩と遭遇したかのような不快感と、そいつが信じがたい凶行に及んだのを、まるで直に目撃してしまったかのような、どす黒く腹で渦巻く怒りの感情が湧き上がってくる。どく、どく、と心臓が痛い。

(なんで、あれを見ていると……)

 たまらず前かがみになって、荒くなった息を必死に整える。怒りに頭がぐらつき、立っていられなくなって膝をつく。無意識に手のひらを出して、倒れることだけはなんとか防いだ。

 ゆっくりと呼吸をしながら、弱々しく、掻くように漆黒の地面を指でなぞる。なめらかなようでいてざらついてもいる、加工されたコンクリートの固い感触がした。

 しばらくそうしていると、動悸と、かっとなっていた頭が徐々に落ち着いてきた。周りが見えてくるようになると、だんだん膝が痛くなってきたのに気がついたので、またあの“雲”が視界に入らないよう目線をやや下にして立ち上がることにした。

 早くここから帰りたい。

 ため息が出た。わからないことばかりだった。急な体の変調。突然このような世界に迷い込んだのか、それとも世界が突然こうなったのか。疑問と推測をひとりで投げかけるばかりで答えは何一つとして返ってこない。

 透子とネットに尋ねようにも電波は届いていなかった。ダメ元で試してみたが、どちらにも繋がらない。カメラも起動してみたが真っ暗で何も映らない。

(あの“霧”があれば帰れるのかもしれないけど……)

 どういうわけか“霧”は消えていた。一度利用したらなくなってしまうものだったのだろうか。他にもないかと周囲を見渡してみるが、あの白い煙は見つからなかった。

 探そう。見つかる保証はなく、建物の中もひとつひとつ見て回るとなると気が遠くなるが、現状をどうにかするための手段はそのくらいしか思いつかない。

 だが、その前にもうひとつだけ試しておいてもいいだろう。

 深呼吸して、周囲には誰もいないけど人がいないか確認してから大きく息を吸って、両手をメガホンにして、腹の底から大きな声を――。

 音が聴こえた。バイクのエンジンをふかした、あの特有の鋭い駆動音が。「大丈夫だ」といわんばかりに。

 なるべく見ないようにしていた“雲”の方からだ。

 漆黒の高層ビル。そのうちのひとつの屋上に何かが現れた。

 遠くてよくわからないが、おそらく大きさは人間くらい。全身が銀色をしていた。

 銀色の何かが動きを見せた。目を凝らすと、片腕を大きく振っているようで、それで何かが人の形をしているのだとわかった。

 全身が銀色で人の形をしている?不信感と安堵感は半々。逃げ出すか接触するか迷ったが、まずは手を振り返して相手の反応を確かめることにした。

 両腕を大きく振りながらその場でぴょんぴょんとジャンプするようになった。見えている。確実にこちらを。ちょっとかわいい。

 コミュニケーションは成立した。ただ、それが捕食対象を油断させるための手段である可能性は、まだゼロではない。

 銀色の何者かは両腕を振るのをやめて「その場で待つように」という意味だと思われるジェスチャーをした。どうしようかと思っていると、最初に聴こえたあの鋭い駆動音を響かせて、なんとビルからビルの上を勢いよく飛び移りながら、高度を落としつつこちらへ近づいてくる。

「大丈夫なのか?」という疑念と「せっかく会えたのだから」と信じて楽になりたい気持ちがないまぜになって身体を固くし、後ずさりしようとする足をもつれさせる。

 どっちつかずを叱責するかのように、突如別の何者かが目の前に、軽やかに着地した。

 その人物はカウボーイ服を着ていた。全体的に茶色だが、バンダナやブーツ等、ところどころパーツが深めの緑色をしているのが特徴的だった。顔のほとんどをまくり上げたバンダナで覆い隠していて、大きくてやや切れ長の目しか見えない。モデルなのだろうかと思うほど細く均整のとれた体型をしている。

 手には木製のライフル。腰にリボルバーとショットガン、二つの銃をぶら下げている。文字通りに。不思議なことにホルスターの類はなく、銃と服の間にはわずかな隙間があり、浮いていながら、だというのにしっかりとくっついて固定されていた。

 銃。銃だ。銃がある。まさか、こちらに向けはしないだろうか?

「大丈夫大丈夫。撃ちませんから、大丈夫ですよ」

 慌てて両手を広げ、敵意がないことをアピールしてくる。耳にスッとよく通り、どことなく規範的な険のある、女性の声だった。

「あ……」とカウボーイ服の女性が空を見上げた。

 銀色の塊がいつの間にかすぐ目の前のビルの屋上まで近づいてきていて、そこからこちらへ向かって飛び降りていた。

 銀色の塊の正体は、西洋甲冑だった。外見に古臭さはまったくなく、息を呑むほど美しい。現代人がデザイン優先で制作した、戦いのための武具ではなく、人目を引くことを目的としたプロモーション用の展示物のような印象を与えてくる。

 違和感を覚えてよく見てみると、甲冑の両肩と両足、それぞれにタイヤのような車輪を取り付けた別の甲冑を上に取り付けていた。妙にずんぐりとしているように見えていたのは、甲冑の上から更に、駆動系が付いた別の甲冑を装着しているからだったのか。同じ銀色だったのでわかりにくかった。肩に取り付けられた車輪付きの甲冑からは、着ているものより二回りほど大きな指のない手甲が、ぶらりと垂らされている。

 弧を描いてこちらへ落下してくる銀の甲冑が、かなり近い位置に落ちることに気がついて、焦る。そもそもあんな高い所から飛び降りて平気なのか?衝撃を危惧して身構えようとしているとカウボーイ服の女性が間に入ってきて「大丈夫」と安心させるように肩をぽんと叩いてきた。

 銀の甲冑が片膝をついたかっこいいポーズで、ペデストリアンデッキにカシャンとまるで重さなど無いかのように小さな音を立てて着地した。不安になっていた自分が馬鹿みたいに見えてくるほどにあっさりとした結果だった。

「近すぎ。なに恐がらせてるの」

 叱責を受けて、銀色の甲冑を着た人物は「すまん!驚かせるつもりはなかったんだが……」と申し訳なさそうに何度も頭を下げてくる。明るさと人柄の良さを感じさせる男性の声だった。

 甲冑が自分に向かって頭を下げてくる珍妙な光景に困惑しつつ「いえ、大丈夫だったので……」となんとか返した。

 頭を下げあっていると、もうひとり、誰かが階段を上がってこちらへやってくるのが見えた。あの人物も先の二人のようにインパクトのある登場をするのだろうかと内心警戒するも、特に目立ったこともせず小走りに近づいてきて、そのまま無言でカウボーイ服の女性の後ろへ隠れるように並んだだけだった。

 先の二人よりずっと背が低い。金糸の装飾が施されたフード付きの白いローブを着ており、脇に大きな本を抱え、腰にレイピアをぶら下げている。フードを目深にかぶっていて、口元の小さな唇はわずかに見えるが、そこから上はわからない。

(コスプレみたい)

 三人が並ぶと、よりその印象が強くなる。統一感はなく、テレビで見たハロウィンみたいな光景だが、しかしあの映像に映っていた衣装とは比べ物にならないほど、彼らが着ているものは細部に至るまでが丁寧に作り込まれている。どれもおろしたての新品のように傷、汚れ、色落ちひとつなかったのが少し気になった。

「あー……」と気まずそうに甲冑の男性が前置きして「さっきは驚かせてすまなかった。安心してくれ。俺たちは君を元いた場所に帰すために来たんだ」

 力強く、それでいて険や棘を感じさせない声だ。

「帰れるんですか?」

「ああ、帰れる」

 銀色の甲冑を着た男がうなずく。マンガやアニメ、ゲームに出てきそうな見た目の甲冑と相まって、非常に頼もしい姿だった。主人公に颯爽と助けられる名も無い登場人物は、きっとこんな気持ちなのかもしれない。

 気持ちが楽になって、不安が和らいでいくのを感じた。まだそんなに時間は経っていないはずだが、どうやら自分でも思っていた以上に疲れていたようだ。

 よほど情けない表情をしていたのか、甲冑の男性が肩に手をぽんぽんと優しく叩いた。肩に触れる銀色の美しい手甲からは重みを感じなかった。最新技術のとても軽い合金で出来ているのだろうか。

「行こうか。こっちだ」

 そう言って歩き出した三人についていく。道中「あの、ここって一体何なんですか?」と訊くと、男性はこの世界のことを話してくれた。

「ここは俺たちが普段暮らしているのとは違う別の世界だ。例外はあるが、基本的にはあっちにあるものをそっくりそのまま反映した形をしている」

 すれ違いざまに真っ白になった街路樹のひとつを指でなぞると、瑞々しさは感じなかったが、乾いた樹皮の感触がした。漆黒の地面に一直線に並ぶ純白の樹々は壮観だった。

「大きな違いは、あの“雲”だ。あれは時間が経つと怪物に変化する。俺たちはそいつの相手をするのが仕事だ」

「怪物……」

 歩いていて、なぜか体が軽い。負荷という負荷をまったく感じないので妙に歩きやすい。ひょっとしたら全力疾走をしても息が上がらないかもしれない。

 空気の匂いがしない。顔や手に感じる微かな風が無いことにも気がつく。この世界を歩く感覚を一言で言い表すと『快適』だった。体の内外からもたらされるわずらわしさが一切ない。しかし感動はなかった。そんなことよりも今は、色彩と共に失われてしまった、普段は当たり前だと思っていた、時にはうっとうしいと嫌ってもいたものたちが、失くしてみて、いかに大切な存在であったかを痛感せずにはいられなかった。

「最近、駅前で事故が何件も起きてるのは知ってるか?あれはあの“雲”が原因なんだ。もう二、三日したら怪物になって、俺らが倒すから、それまではこの辺りにはなるべく近寄らないようにしたほうがいいと思う」

 先日のあの不自然な事故もそうだったのだろうか。

「……今は無理なんですか?」

「それができればいいんだが、今の状態ではどうしようもないんだ」

「すみません」

「謝らないでくれ。それは俺たちのセリフなんだから。……おっと、ここだ」

 五階建てくらいの小さなビルに着いた。外観からは特に何も見えない。

 ドアのないぽっかり空いた入り口に入っていく三人に続く。全てが漆黒の建物の中に入ってしまったら真っ黒で内部の判別がつかず歩けないのではないかと懸念していたが、内部は電灯も無く黒一色だけであるというのになぜか、各部屋の広さ、壁や階段の位置がくっきりとわかった。先を行く三人は当然それを知っていたのだろう。よどみなく淡々と歩を進めている。

 階段で三階まで上ると角のほうにあの白い煙が見えた。甲冑の男性はフロアを尻目にそちらへ向かう。

 黒一色だと四角形の筒にしか見えない、狭い通路を歩いていく。通路を進むごとに漂ってくる白い煙が濃くなっていった。

 通路はすぐに行き止まりになったが、かわりに横穴が二つ並んでいた。手前のほうに入っていった男に続くと、そこは白い煙が“霧”のように充満していて何も見えなかった。

 こんなところにあったのか。もし彼らの助力なしにひとりでこれを探し当てるとしたらどれだけ時間がかかっていただろう……。

「ここから帰ることができる。もしこのあと時間があって、希望するならさっきより詳しい説明ができるんだが、どうする?」

「気にはなるんですが、人を待たせているので……」

「なら、急がないとな。じゃあ都合のいい日に、この店に行ってこれを見せて、バイトの説明を聞きに来たと言ってくれ。それが暗号になってる」

 一瞬だったのでよく見えなかったが、甲冑の関節部分だっただろうか。そのあたりに手を突っ込み、一枚のカードを取り出した。『たかみね珈琲店』と書かれてある。この店の名前は知っていた。御影駅のすぐそばの高層ビルに入っているテナントのひとつだ。店の前を通ったことがあったが、そのときは設置されていたメニュー表の価格を見て、入るのを諦めて素通りしていた。

「俺たちはあと二、三日くらい忙しいから、来るのはそのあとにしてもらえると助かる。もしその間に気が変わったのなら、それは捨ててしまってくれて構わない。その場合は“霧”を見つけても意識しなければいい。そうしていれば、いずれ完全に見えなくなる」

「わかりました」

「俺からは以上だ。長々とした話を聞いてくれてありがとう。そろそろ帰ろうか」

「はい。……その、ありがとうございました」

 初対面の時に危害を加えられるのではないかと疑っていたのを謝ろうかと思ったが、そんなことを言っても彼らを困らせるだけだろう。思考のくだらない枝葉まで話すのは透子だけでいい。

「やり方はこっちに来た時と同じだ。あの“霧”に意識を集中させて、その向こうを見ようとする」

 言われた通りに“霧”を、その先を、自分へ引き寄せるように、強く、強く見据えた。

 その向こうに、ひどく懐かしい、色とりどりの景色が見える。

 喜びに自然と手を伸ばす。二度目だからか、掴むのは簡単だった。

 白い煙がこちらへ漂ってきて、“霧”となって辺りを包み隠した。

 ゆっくりと、もう何歩か進む。背後の色彩に乏しい世界を振り切って、捨て去るように。

 霧が晴れた。永遠かと思われた喪失の旅は終わり、切望していた日常が露わになった。



 隣のカウンター席に腰を下ろすと、透子は何も言わずテーブルの上に置いた両手に優しく手を重ねてきた。細くすべすべした指の感触が、ざわついていた心を静めてくれた。

「何があったの?」

「変な世界に行ってて、そこから帰れなくなってた」

 感情や思考は伝わっていても、さすがに透子本人が知らない物事は説明しなければ話が伝わらない。

「だからそんなに疲れてたんだね」

 水の入ったグラスがそっと目の前に置かれた。名残惜しかったので、左手はそのままに右手を乗り出してグラスを手にした。口をつけて傾ける。冷たい物が喉を流れていく感触。ほっと一息。

「大変だったよ。どうしていいかわからなくて。でも親切な人たちが来てくれて、おかげでこうして帰ってくることができて……それで、その人たちが言うにはあの世界では近いうちに怪物が出るみたいで、その影響で昨日みたいな事故が……」

 いや、待て。僕は一体何を言っているんだ?

「……そういう話を最近観たんだ」

「んー……そっちのほうがいいならもちろん合わせるよ。でも、それだとこれからも俊がひとりでずっと抱えたままになるから、私は嫌だな」

「いや、でもさ、こんなこと急に言われてもおかしいと思わない?」

「思わない。だって本当のことを言ってるから」

「それはそうなんだけど……」

 真木透子という女性は、初めて出会ったときからずっと、このような人物だった。しかし、それでも「変な世界に行ってきた」と言っても信じてもらえるというのは、今までの理解の範疇を超えてしまっているように思う。

 透子は何も言わず微笑んでいる。

 いつもの澄んだ笑顔。見つめ合っているうちに、自分は説得されている側なのだと気づかされる。それは本来、不必要な思考なのだと。いらない疑心に囚われて、シンプルなはずの事を複雑化させ、取り返しがつかなくなりかねない道を盲進しかけようとしていた自分を見つけて、恥ずかしくなってきた。

「……ごめん、変なことを言って。信じてくれて、ありがとう」

 結局これでいいんだ。冷静になってみれば、これまでずっとそうしてきたことを曲げてまでつき通すような嘘でもなかった。透子が信じてくれて、僕がただその事実を認めていれば、それで終わる程度の問題だった。

「どういたしまして。それより、ここセルフだから何か頼んできなよ」

「そうだね」と立ち上がってブレンドを注文してきた。透子と並んで座り、窓の外、太陽の日差しの下を歩く人々を晴れやかな気分で眺める。突然の、奇妙な世界での遭難は、こうして驚くほど都合よく解決してしまった。だが、彼らは気掛かりなことを言っていた。

「これ飲んだら、服見に行こうか」

「あ、もう買っておいたから」

 大きめの紙袋があると思っていたが、まさか僕の物だったとは。

「……じゃあ、他に行きたいところがなかったら帰ろうか」

「うん。見なくていいの?変なの買ったかもしれないよ?」

「思わないよ」

 空にしたカップを返却口に置くついでに紙袋を持とうとすると、やんわり拒否される。どんな下着を買ったんだろう、と身をひるがえすと、脇腹を細い指で何度も脇腹を突かれて、先を行くよう追いやられた。



 講義を聞きながら、時折昨日の出来事について考えていた。

 雲、怪物──影響。頭の片隅に引っ掛かり続けている。

 銀の甲冑を着た男性は、あと二、三日くらいであの“雲”が怪物になると言っていた。あれから変化はあったのか。あの一家に起きたような事故がまたどこかで起こっていないか。起こっていたとして、被害者は出ているのか。

 考えるごとに不安が募る。あれからニュースを何度もチェックしたがこれといった続報はなかった。それが拍車をかけている。何事もなかった証拠だと考えることはできるが、かといって本当にそうだと断言できるわけでもない。

 今日の講義はこれで終わりだ。それなら午後からは……。

「それじゃあ、これは」と板書していた教授がこちらを振り向き「どうしてだと思う?」目が合った。

「これ」も「どうして」も何を指しているのか見当がつかなかった。ノートは余白ばかりで、いつの間にか板書されていた内容はほとんどが消されていてわからない。

 質問を投げかけたのは、緊張感が緩んで私語をし始めた最後列の席の生徒を引き締める目的だったようだ。物思いにふけっていただけなのを誤解したのか「あれだけ真剣に聞いてくれていたのだからすぐに答えられるに違いない」と安心しきった表情をしている。

 真実を告げるのは心苦しかったが、はっきりと答えた。

「わかりません」

 隣に座っている透子が静かに笑うのがわかった。



「さっきは珍しいの見た」

 食堂で昼食後、どこか楽しそうにしている透子との、大学からの帰り道。

「今日は朝からそんな感じだね。昨日のこと、どうしてそんなに気になってるの?」

「……僕にできることは何かないかなって」

「ないんじゃない?その人たち武器を持ってたんでしょ?多分、そういうのを持ってないとだめなんじゃないかな。きっちり管理してそうだから、今から『ください』って頼んでもすぐ貰えるとは思えないし」

 昨夜から話を聞いてもらっていただけあって、透子の指摘はもっともだった。

「あの人たちは“むこう”で活動していた。だから、こっちでなら何かやれることがあるかもしれないと思って」

「一昨日みたいに?」

 自覚していなかったうぬぼれを見透かされて言葉に詰まる。

「私は反対。ケガするかもしれないし。それに、俊が好きで見てるやつだと、そう言って無茶して、人質にされたり、誰かが死んじゃう原因になったりしてるじゃない?」

「え?あ、うん……まあ、そうなんだけど……。それでもやっぱり何かしたいんだ」

 透子が小さくため息をついた。

「……それなら約束して。絶対に無事に帰ってくるって」

「わかった。約束する。本当にごめん」

「いいよ、黙ってひとりで行かれるより。こうやってちゃんと話せたんだから」

 寂しそうな微苦笑。記憶をたどっても見つからなかったその表情に、罪悪感を覚えた。

「はいはい。そんな顔しない」

 背中をぱしぱしと叩かれ、優しく導かれた先にはアパートの駐輪場に停めたバイクが。

「ありがとう。行ってくるよ」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 透子と別れてバイクを駐輪場から出してまたがり、ゆっくりと発進させる。離れていくアパートをバックミラーで振り返ると、まだ見送ってくれていた透子と目が合った。



 都心部に入るとすぐに残雪と見間違えそうになる程度の小さな白い煙が目についた。高層ビルが視界を覆うようになると、這うように地面を漂う白い煙がそこらじゅうに見られるようになっていった。

(多すぎる……)

 昨日の帰り道も辿ってみたが、やはり無かったはずの白い煙が今日はあった。

 道行く人は誰も目を向けることはない。

 駅前に建ち並ぶ高層ビルの間。白い煙を追うように片側三車線の道路を走って回っていると突然、昨日紺色の雲を見た時と同じ感覚が襲い掛かってきて、その不快感に思わずバイクを歩道に急停止させた。幸いそこは大きな市民公園のすぐそばだったので、一台のバイクが入り込んだところで誰も問題視しないだけの十分な広さがあった。

 浅く短い呼吸を何度も繰り返して息を整える。

 公園と歩道を区切る木々の間から“霧”が漏れ出ていた。確信と焦燥感を得て、邪魔にならないようなるべく公園の石垣に寄せてバイクを停め、入り口へと走る。

 ちょっとした林といっていい密度の木々に囲まれた、広い園内を入り口から見渡す。

 駅緑化都市を掲げる美影市の都心部には、こうした「都市の中の森林」をテーマに建設した広い公園が所々にある。ここはそのなかでも、モダンな石造りの床や階段、花壇、人工の滝のカーテンを設置するなどして外観に力を入れていて、そのためか平日であるにもかかわらずあちこちに利用者の姿が見られた。

 園内に入って確信と焦燥感はより深まった。

(霧が濃くなってる)

 最早白い煙などではなく霧といっていいそれが、木々を、草花を遮っている。人が歩く場所にはなぜかない。まるで植え込みや木々の間に潜み、獲物の動向を窺っているかのようで不気味だった。

 他の利用者は誰一人として霧に目を向けない。真っ白になった霧のむこうからたびたび聞こえる遊具で遊ぶ子供たちのけたたましい叫び声が不安を煽る。笑顔でまぶしそうに空を仰ぐ年配の人たちとすれ違う。あの人たちの目には空に暖かく輝く太陽が映っているのだろう。

 また同じ不快感が。今度は吐き気を催し、足が止まってしまうほど、ひどい。しかし、だからなのか、ぼんやりとではあるがその出所のようなものを感じ取ることもできた。

 それは、滝のカーテンの辺りから発せられていた。滝の下は川辺を再現した人工の池になっていて、そこでは小さな子供たちが遊んでいる。

 親たちは少し離れた位置のベンチに座って談笑している。人工池の水位は少し深めの水たまりといっていい程度で、子供たちの足首が浸かるかどうかといったところだ。多少離れていても問題はないと判断するのは自然だろう。一見すると話をするのに夢中になって子供たちを放っておいているかのようだが、よくよく見ると常に誰か一人は必ず滝のほうへ目を向けているようお互いに気を配り合っていた。

 周りの霧さえなければ、何ということのない、公園での憩いのワンシーンだ。呼吸を整えながら少しずつ吐き気を抑え、何か異変はないかと辺りを見回す。

 ふと、嘲り混じりの耳障りな声が聞こえた。

 すぐにそれに対して苛立ち交じりの声が返される。

 遠くて内容は聞き取れなかったが、声はベンチに座っている母親たちからだった。二人の女性が睨み合っていて、他の人たちは驚きと困惑でどうしたらいいかわからないといった様子でいる。今、誰も子供たちを見ていない。

 突然の険悪な雰囲気に僕も困惑していると、人工池のほうから少し大きめの水音が聞こえた。同時に、楽しそうだった子供たちの声が消えた。

 そちらへ振り向くと、男の子が一人、池の中で四つん這いの姿勢になっていた。周囲の他の子たちは凍り付いたように立ち尽くし、その子をただじっと見ている。

 水たまりに伏せているその男の子は、怯え、懇願するような表情で、周囲に立つ友達ひとりひとりの顔を見ていて――。

 考えるより先に体が動いた。

 靴のまま水たまりに入り、両手両膝をついている子の手を取って立たせようとする。しかしどういうわけか、右足は立たせることができたが、左足は動かせなかった。

 何故、と凝視すると、そこに“霧”を見た。水たまりの中、コンクリートで作られた地面。水底から這い出てくるように、徐々に濃さを増していく。

 手を握っている男の子は泣いていた。その左足にかかっている抵抗感。“霧”ではなく、その先にいる何かに。言葉を失っている他の子供たちも同様に“霧”の先にいる何者かに怯えている。

 潜む者の存在に気がつくと同時に何かが右足に触れた。

 複数の細く長い物が足首をなぞるように絡みついたと思うと、ぐっと締め付けられる。ぐちょり、とそれが湿っていて粘着質であることが右足を通して伝わってきて、未知の不快感と恐怖に身がすくむ。心臓の音に邪魔されながらどうにか下を向いて確かめると、それは人のものより大きな、青みがかった黒々とした指だった。

 右足をつかむ力は驚くほど強い。抜け出そうと足を引こうとしても、ただその場で上半身をもがくだけに終わってしまう。

 手を繋いでいる男の子がじわじわと、本来ここにないはずの、どこか下へと引きずり込まれていく。助けを求めて何度もこちらを振り返る。

 その怯えた表情に、心から謝りたかった。自分に力がなかったことを。なすすべなく、そんな顔をさせてしまっていることを。

 あの“霧”の先にいる何かは恐ろしく強い力を持っている。阻止しようと抱き留めていても、男の子は一方的に引きずり込まれていく。最早どうしようもない。

 これだけの力があれば、一息に二人とも引きずり込んでしまうことだってできただろう。にもかかわらず“霧”の先にいる何者かは、時間をかけてじわじわと事に及んでいる。

 そこまで思考が巡って、ようやくその意図を理解する。

「ああ……そういうことか……」

 怒りが込み上げてきた。

 直に触れられたからか“霧”の向こうが少しだけ見えるようになってきた。どす黒い青色の人ならざる太さの腕。そして、あの色彩に乏しい世界で見上げた“雲”に感じた不快感、その正体を。

 愉しんでいるのだ。弱者を弄びながら、命を奪う行為を。

 だが、わかったところで、どれだけ怒りを奮い立たせたところで、力の差は覆せない。

 状況はどんどん悪くなっていく。何か手を打つなら、まだ身体が満足に動く今のうちだ。

 だがどうすれば、と逡巡するなかで一つの可能性に気がつく。

 すでに相手の腕は二本ともふさがっている。

 もちろん危険は考えられる。逆上させて状況が悪化するかもしれない。腕は二本だけではないかもしれない。まだ見えない他の部位で危害を加えてくるかもしれない。そもそも人の力では何の効果も無いかもしれない。

 それでも、その可能性に気づいてしまった以上、試さずにこのまま“霧”の向こうのどこかへ連れて行かせるわけになんていかなかった。

 掴まれたままの右足に力を入れ、足元を確認してしっかりと踏ん張る。

 無事な左足を擦りながら近づけ、目測を誤らないよう狙いを定める。

 これから何をするのか察した男の子が勢いよく顔を上げた。

「大丈夫」

 怯えていると思ったのだが、反応は予想外のものだった。

 震える両手で、弱々しくではあるが、こちらを外に押し出そうとした。

(この子はわかっているんだ。狙われているのが自分だけだって)

 裏付けるように、僕の右足から手が離れた。そして“霧”の向こうに、その手が男の子のほうへ向けて伸ばされるのをはっきりと見た。

 今にも泣きだしそうな瞳の中に、見逃してしまいそうなほど微かなものだったが、怯えだけでなく、この役に立てなかった身を案じる強い光があった。

 それで覚悟が決まった。

 左足を膝ごと振り上げて、一気に男の子の足を掴む手を思い切り踏みつけた。

 幸いなことにその下はまだ底なし沼ではなく、固いコンクリートの上で細い肉の塊を押し潰す感触が返ってきた。芯にひびが入ったような手ごたえもあった。

 その途端、男の子の足にかかっていた拘束がなくなる。考えるより早く、放り投げるように池の外へ連れ出した。

「早く離れて!」

 我に返った周囲の子供たちが水を飛び散らせながら逃げ出す。最後尾に続こうとしたが、両足を凄まじい速さで掴まれ動けなくなった。

 怒りに震えて両足を掴んでいるそれに、感謝の念を抱いた。

 よほどの屈辱だったようだ。今やこちらに執心しているとはっきりと感じ取れる。

 想定を大きく超える、底の浅い愚物。侮蔑の念はなく、ただ相手がそのような性根であったことにただただ安堵していた。

 強い力で、少しずつ両足が引きずり込まれていく。たまらず体勢を崩し、膝と手を地面について四つん這いの体勢になってしまう。

 数回引かれると靴が地面をこすらなくなった。両足が水中に浮き、下に引っ張られる。

 驚いて足元を振り向く。コンクリートの地面ではなく、深く暗い水底があった。

 溺死、という単語が頭をよぎったそのとき、水底越しにくぐもった爆発音が聞こえた。水中に爆発が起こり、泡と水流が吹き荒れる。

 両足を掴む手に、強い衝撃が突き刺さる感触が伝わってきた。

 一体何が?と思っていると、両足をつかむ手が離れた。疑問はあるがせっかくのチャンスを逃すわけにはいかない。水たまりのような浅い人工池から、はたから見ればさぞ滑稽に映っているであろう勢いで必死に転がり出る。

 日の光に温められていた地面に尻をついて、肩で息をする。残っていた恐怖が少しずつ抜けていく。

 滝のカーテン周辺から“霧”が消え、近くの林へ逃げるように去って行った。

 子供たちは無事だ。呆然としているが、ケガは見当たらない。

 よかった、と安堵して立ち上がり──滝のほうから、まだ視線を感じた。

 すぐに消えるはずだと期待していたが、視線に込められた想いは強まっていく一方だ。それはつまり、この事態が未だ最悪の状況に向かって進行したままだということと、彼らがあれを仕留めそこなったのだということを意味している。

 走り出す。“霧”を追いかけて。

 林の中、誰もいない場所で立ち止まる。やはりそこは特に“霧”が濃い。

(急がないと間に合わなくなる)

 目の前の、木々の間を漂う“霧”に視点を定め、意識を集中させる。

 音が消えた。周囲から切り離されてひとりになったのだとわかる。両の瞳の縁が広がり、雑多な思考が削ぎ落されて頭の中がクリアになっていく。

 無意識に右手を伸ばしていた。

 掴み、手繰り寄せるごとに“霧”が辺りを深く覆い隠す。真っ白な木々と土がはっきり見えたと同時に、駆け抜ける。

 吹く風のように “霧”が晴れた。真っ白な土を強く踏んでブレーキを掛ける。

 探していた人物はすぐ背後にいた。こちらを見て驚いているので、もしかしたら彼らの目の前にいきなり現れた形になったのかもしれない。

 謝りかけて、今はそんな場合ではなかったと思い直す。

「今そこで怪物に襲われました。あれが昨日言っていたやつなんですか?」

「ああ、そうだ。わざわざこっちまで来たってことは何か話があるのか?」

 銀の甲冑を着た男にうなずく。

「あれはまだ僕を狙っています。だから僕が囮になって引きつけるので倒してください」

 三人は返答に窮しているようだった。即座に却下しなかったということは、対処に苦慮している証だ。そのまま畳みかけた。

「あれは臆病な性格で、多分水か地面に潜って逃げるから、ずっと倒せないでいるんですよね?今のうちに、他の人が狙われる前に対処したほうがいいと思います」

 痛いところを突かれたのか、ひるんだのがわかった。失礼なことを言っていると内心申し訳なく思いつつ、頭を下げた。

「お願いします。あれを放っておきたくないんです」

「……わかった」

「本気?」とカウボーイ服を着た女性が否定的なニュアンスを含んだ声を上げた。白いローブを着た人も何か言いたげにしている。

「危険なのはわかってる。……だがこれ以上話しているわけにはいかない。ヤツに逃げられるわけにもいかない」

 カウボーイ服の女性はまだ若干不満気だったが、白いローブを着た人と顔を見合わせて互いにうなずいた。気持ちを切り替えた、はっきりとした声で「どういう作戦でいく?」と手に下げていたライフルを肩に担ぎ直した。



 警戒されないように、ということでひとり先行し林を抜け出て滝の前で待機している。モダンな落ち着いた雰囲気だった石造りの水辺は漆黒に染まっていた。こっちでは水が流れておらず、水音がなく静まり返っている。滝とは呼べそうにない。

 広場になっているこの辺りは木々やビル等の視界を遮る物がないので雲一つない灰色の空がよく見える。怪物が潜んでいるのも納得な陰鬱な空の下に、ひとりで立つ。

 深く息を吸って、そして吐き出す。

 この世界に来る際の、瞳の縁が外へと広がっていくあの感覚。その使い方が今なんとなくわかってきた。

 手の届かないものへ手を伸ばすように。理解の及ばないものを理解しようとするように。

 それは想いだ。叶わない願いを、しかし叶えるのだと諦めない、決意の想い。

 だから強く、意識の手を伸ばしていく。あの怪物の好きにはさせない。必ずここで終わりにするために。

 最初は彼らから教えられていたおおまかな方向にぼんやりとした気配を感じ取れるだけだったが、掴むごとに、空間に広がっていたそれが徐々に収束していき、最後には点として捉えることができた。

 やはり、この場を去ろうとしていた。異変に気がついた保護者たちが子供を連れて帰っているのだろう。じわりじわりと移動している。

 僕の発言を信じて林で待機している三人に詫びた。

(すみません。狙われているのは僕じゃないんです)

 靴底で石畳をこすって、わざと大きな足音を立てながら後を追う。

 動きが止まった。足音が聞こえたようだ。

 気配が向きを変えて近づいてくる。気がついていない振りをしてそのまま歩き続けた。

(よかった……)

 最大の懸念が片付いた。これで、ここに来た目的は果たせたといっていい。

 見えない何かが足元までやって来た。地面に何か変化が起きようとしている。打ち合わせ通り、それを感じ取ると同時に身をひるがえして走り出した。

 やはり風の壁を感じない。空気の摩擦が無く、驚くほど軽やかに疾走できる。どこまでも、息が上がることなく走れそうだ。

 だが、そうはいかなかった。

 暗く重苦しい悪寒。抗い様のない、悪意に満ちた圧力が覆いかぶさってきて、足が震えて動かなくなり、前のめりに倒れてしまう。

(これは……そうか、向こうだって同じことができるか)

 意識の手を伸ばし、世界を掴み取る。同じとはいえ、まさかこのような影響をもたらすことができるとは。許しがたいと思っていたはずのあの暗い欲望に平伏し、発散される様をただ眺めているのが当然のような、脱力感に沈みつつある。

 背後から水音が上がった。続いて、粘り気のある重いものがコンクリートを叩く音が。

 どうにか振り返ると、地面から一本の腕が生え、手のひらをついているのが見えた。黒々とした青色で、人よりずっと大きな手。指は細長く、付け根に水かきがついている。

 ぐっと腕に力が込められ、黒い水飛沫と共に上半身がせり出してきた。

 青黒いぬらぬらした皮膚で、顔にはクチバシと、焼き魚を彷彿とさせる濁りきった白一色の両目。鳥類じみた人型の怪物は、黒目がないにもかかわらず確かにこちらをじっと見ている。

 クチバシが開いた。のこぎりのような歯のあいだから、よだれと、体色よりやや青に近い色の長い舌が垂れる。甲高く、楽しみを邪魔された不快感を表明する叫び声をあげて、右腕を大きく振り上げた。黒い水飛沫が飛び散り、下水道の臭いがした。

 金属輪の鈴鳴りが聴こえた。長い鎖が飛んできて巨人の腕に巻き付き、動きを止める。

 鎖がどこから来たのか目で追うと、白いローブを着た人が大きな本を開いて左手に持っていて、鎖は右の手のひらから伸び出ていた。

「大丈夫?立てる?」

 すぐ隣に着地したカウボーイ服の女性が、こちらの腕を細い肩に引っかけて助け起こしてくれた。透子よりも細い腕なのだが、力があって安定している。その体勢で、前へ。足がうまく動かせないが、できる限り素早く怪物と距離をとる。

 鋭い駆動音が響く。銀の甲冑を着た男が、両足のかかとについた車輪を目にもとまらぬ速さで回転させて、地面を滑るようにしてこちらへ移動してくる。

 白いローブを着た人の前で止まると、鎖が、銀の甲冑の両肩にぐるぐる巻き付いていく。二度三度ときつく締めて固定されているのを確かめ、男が綱引きよろしく怪物と繋がった一本の鎖を握りしめると、両足の車輪が唸りを上げた。

 怪物は抵抗していたが、銀の甲冑がバックする力のほうが強かったため、少しずつ水中に隠れていた下半身を露わにされていく。

 一連の流れの確認で、彼らは戦闘に至るまでの最終段階を「引きずり出す」と表現していた。具体的な方法については、触れている余裕がなかったのでそのときは割愛されていたが、実際に目の当たりにするとなるほどそうだとしかいいようがない。

 水揚げされた怪物の全長は、銀の甲冑を着た男の倍以上はあった。下半身も露出したことで、下水のような悪臭がよりひどくなった。

 クチバシを裂けそうなくらい開けて、叫ぶ。獣じみているが、甲高く、鳥に近い鳴き声だ。伝わってくるのは、怒りというより癇癪だった。冷静さを失ったその姿を目の当たりにしたら、なぜだか不思議と恐怖は薄れて冷静になっていった。

 銀の甲冑の男は動じない。自身に巻き付けていた鎖をほどいて、これから戦いを始める者が上着を投げ捨てるように、放り投げた。

「ここを動かないで」

 十分に距離をとれたと判断したのか、カウボーイ服の女性が身を離した。まだ少し足がふらつくが立つことはできる。それを確認すると、腰に下げていたライフルを構え、怪物に照準を合わせた。

 怪物を縛る鎖がピンと張って音を立てた。戦意を見せつけてきた敵に気圧されたのか、なんと怪物はクチバシを閉じ、後ずさろうとしていた。

 後に下がれないとわかって次にとった行動は、事態を打開するために目の前の敵と戦うのではなく、腕力で鎖を引き千切って拘束から脱出するのでもなかった。この場で唯一戦う力を持たない生身の人間に襲い掛かることだった。

 人ひとりなど簡単に押し潰せそうな巨大な人型の獣が一直線にこちらへ向かってくる。

 銀の甲冑の男はそれを読んでいた。

 一際鋭い駆動音と共に瞬時に加速した銀の甲冑が、無防備な巨人の腹に全身の勢いを乗せた右の拳を打ち込み、大きく吹き飛ばした。拳には、あの二回りほど大きな指のない手甲を装着していた。

 急発進し、回り込みながら急加速した勢いを乗せていただけでは説明のつかない威力だった。甲冑の上にまとっている、駆動系の付いたもう一つの別の甲冑には何か別の仕掛けもあって、それが今の打撃を強めていたのだろう。

 転げる身を起こそうとして地面についた怪物の腕を、銀の甲冑の拳が叩き折った。距離を詰めるのが速い。静止していた状態から一瞬で攻撃に移った。両足の車輪の加速を利用した、生身の人間には不可能な素早い足さばきが成せる技だ。

 甲冑の両足の車輪は地上において縦横無尽かつ疾風迅雷の動きを可能にしていて、実戦の目まぐるしく変わる状況の中、盾としても矛としても機能していた。敵と真正面から相対する。それがあの男の役割なのだと理解した。

 折れた腕をかばい、理不尽に振るわれた暴力の痛みにあえぐ怪物に、更なる追撃が加えられた。巻き付いていた鎖が突如高熱を持って赤く灼け、皮膚を焼く。ひどい臭いがした。何の前触れもなく起こった高熱に驚き必死にもがくも痛みで力が入らないのか、甲高い叫び声を断続的に上げながら鎖をじゃりじゃりと鳴らすだけに終わる。

「撃つよ。耳をふさいで」

 落雷に似た発砲音。怪物の右足から紺色の光が飛び散って、体勢を保てなくなり膝立ちになった。もう一度発砲音。今度は左足を撃ち抜いた。怪物がぐらりと前のめりに倒れる。

 カウボーイ服の女性がライフルのレバーを起こして戻し、頭部に照準を合わせた。

 三度目の発砲音はこれまでよりずっと大きく、威力もそれに相応しいものだった。貫通だけでは済まず、怪物の顔面を半分以上、クチバシごと抉り取った。

 四つん這いになっていた怪物が崩れ落ちる。ぴくりとも動かない。起き上がることは、もうなさそうだ。

 鎖がローブを着た人の手元へと巻き取られていく。汚水じみた体液が付着しているのを見て、ちょっと嫌そうにしながら。

 いつの間にか固くなっていた肩の力を抜いて、大きく息を吐いた。

 動かなくなった怪物からは今は何も感じない。最後の頭部への銃撃が、怪物の存在を形作り、動かしていた重要な部分を撃ち砕いていたのをあの瞬間確かに見た。

「これで終わりだ」

 銀の甲冑の男が、安心させるようにそう言って、甲冑の下から(やはり見間違いではない。手が甲冑をすり抜けている)マッチ箱のような小さな灰色の木の箱を取り出した。

 箱を手のひらに乗せ、倒れ伏した怪物へとかざした。すると怪物の体が紺色の光に包まれていき、やがて全身を光の塊に変える。そこから光の筋が無数に溢れ出て、奔流となって、木箱へ吸い込まれていった。

「手伝ってくれて助かった」

 甲冑の下に箱をしまった。

「こいつらは魔物って呼ばれてる。俺たちが住んでる世界に干渉してきて、ほとんどの人たちには奴らの姿が見えない」

「魔物……」

「そうだ。そして俺たちリーパーは、その魔物を狩るのが仕事」

 霧が晴れるように、自分の人生が開けた気がした。

 灰色の空の下に燦然と立つ彼らに、さようならは言いたくなかった。やはり、いつだって透子は正しい。やりたいことは、今はっきりと見つかった。

「その仕事って、僕にもできますか?」

 兜の下、表情は見えないのに、男が破顔したのがわかった。

「新しい仲間は、いつだって歓迎してる」

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